2012年12月30日日曜日

出世払い


美術学校だから、なのか、ということはさておき、貧乏学生の多かった学校のようなので、その手の思い出話にはことかかない。

美術学校なので、金持ちの裕福なご子弟が、大挙して入学するわけではない。
2代目の理事長は、父親から受け継いだ学校なので、まあ本人の好むと好まざるに関わらず、学校経営をすることになったそうである。2代目は、出身校も専攻分野も美術とは全く関係はなかったのだが、それなりに父親から受け継いだものがあったとみえて、学校も学生もそれなりにお好きだったようである。
貧乏で学費も払えない、と言う学生に、出世払いと称して、卒業制作の作品を「買い取って」いたという話がある。卒業して出世したら、その作品を売却して元を取るよ、といった感じだったそうである。学校経営もあまり「上がり」がいいものではないのに、である。
その後、2代目は、当時としては「早く」に亡くなってしまった。未亡人は、売れもしない学生の絵がいっぱいあるのよ、とよく笑っていた。

2代目の後は、世襲ではなく、理事会から選出された、創立者の家系や親族ではない人だった。未亡人は学校経営からは関係がなくなったわけで、学校の方に出てこられることは少なくなった。元理事長夫人という肩書きで、学校行事に出ることも少なくなり、その後しばらくして亡くなった。ご親族は学校経営の「表」に出てくることはなくなった。

その「売れもしない絵」はどうなっているのかと、卒業制作の時期になるとよく思い出す。

2012年12月29日土曜日

関心事


美術学校だから、なのか、ということはさておき、男子学生の多かった学校のようなので、その手の思い出話にはことかかない。

人間、本質的なことはあまり変わらないもので、爺さんが集まって思い出話、という段になると、結局とどのつまり、こういった方向になってしまうのである。

爺さんたちに学生時代の思い出話、というのを聞くと、授業や校舎や先生の癖や学園祭とかのハナシから始まることが多い。そのうち、誰がモテたとか、誰があのモデルさんを好きだったとか、どのモデルさんに気に入られていたか、という話に盛り上がるグループもいれば、もう少しきわどいハナシで盛り上がってしまうグループもあった。
当時のモデルさんを誘って、スケッチ旅行というのを先生が企画した。モデルさんを含めて、そのクラスの学生が連れ立って1-2泊の小旅行、というものである。
教室から出て、風光明媚、郊外のいい風景の中で、モデルさんをスケッチ、な企画のハズである。
当時の学生が、その話で思い出すのは、風景でも描いた絵画でもなく、モデルさんの和服の裾をじーっと注視していた先生のマナザシであった。和服のモデルさんだけにズロースではないはずだー、というので爺さんたちは大盛り上がりである。

今は昔ではある。

2012年12月27日木曜日

本質


美術学校だから、なのか、ということはさておき、貧乏学生、特に男子が多いと、それなりの話題も多くなる。

モデルさんが妙齢の女子だったりすると、それだけでモデルさんはモテモテである。休憩時間の記念撮影とか(当時のカメラの高額さと、フィルムのコストを考えると、今時のちょいとスマホでワンショット、というのとはワケが違う)、モデルさんにスケッチを贈るとか、いろいろとあったりする。モデルさんにもお気に入りの学生というのがいたりした。
話を聞いている元学生は、私から見ればいいトシの爺さんである。そんな爺さんたちがよってたかって、あいつがモテた、どうしてモテた、なんでモテた、とか、モテ自慢だったりモテやっかみだったりする。あのモデルさんはかわいかった、このモデルさんはぽっちゃりでよかった、とか昔のモデルさんの品定めの会だったりする。当時のモデルさんも、今やいいトシの婆さんになっているだろうが。

ニンゲンの本質というのは、トシをとっても変わりはないものであった。

2012年12月26日水曜日

半分

美術学校だから、なのか、ということはさておき、男子学生の多かった学校のようなので、その手の思い出話にはことかかない。

美術学校なので、人体デッサンとか素描とかというのも、当然課題になる。
もちろん「生」のニンゲンがモデルである。

男子学生が多かったようなので、女性モデルさんとはお互いにそれなりに気を遣ったのだろうが、卒業生に写真を拝借したりすると、モデルさんと校庭で記念撮影、とかツーショット、とかいうのがときどき出てくる。私の頃の「モデルさん」というのは、もう少し近寄りがたい雰囲気だったので、そういった写真が出てくると意外に思うことがある。
当の写真の主は、その頃のモデルさんのエピソードなどご披露してくれたりする。いわく、お茶をした、とか、中庭でお昼を一緒に食べた、とかいったもので、かわいらしいものだ。
時に、モデルさんと郊外にスケッチに行った、という積極的な学生もいたりした。もちろん、スケッチどころではなくデートが目的、貧乏でない「お坊っちゃん」な学生の場合である。

誘ったのは当の本人だと言う。聞いている時点でもうすでにいいトシの爺さんなので、「話半分」で聞いていたりはするのだが。

2012年12月25日火曜日

革靴

美術学校だから、なのか、ということはさておき、貧乏学生の多かった学校のようなので、その手の思い出話にはことかかない。

前述したように、たいていの学生は、貧乏な故に、雨靴を所有していないので、雨の日は高下駄、だったそうである。

その中に、雨の日でも革靴で登校する洒落者の学生がいた、というのが話に良く出てくる。それがK君で、というのがその話の締めなのだが、当のK君は我々世代の講師であった。
そんな話を聞いた後に、その先生に会うと、つい「雨の日の泥にまみれた革靴」を思い出してしまう。

でも、我々世代の講師であったK先生も、とても「おしゃれ」であったので、若い自分からそうだったのかとつい納得してしまった。すでに退職されているのだが、いまでもおしゃれな爺さんであるに違いない。

2012年12月24日月曜日

セコハン

美術学校だから、なのか、ということはさておき、貧乏学生の多かった学校のようなので、その手の思い出話にはことかかない。

創立当時の学校は、東京の郊外にあった。元は、創立を画策した何人かが、借りた地所のようだ。戦前のことなので、当時はまわりは畑だらけ、駅からはぬかるんだ道を通って学校に通ったそうである。
当は、靴というのは高価だったので、学生はたいてい下駄で登校したのだそうである。
校舎というのも払い下げ、つまりセコハンだったので、安普請。だから高下駄で雨の日に登校し、うかつに勢いよく足を踏み出すと床が抜けたそうである。
学生も貧乏なら、学校も貧乏だったのである。
抜けた床、雨漏り、すきま風、はものともせず、当時の学生はお絵かきに励んだのである。
現在学校はもう少し郊外に引っ越したが、環境などを鑑みると、ずいぶんと違うものである。今や通年24時間フルエアコン、ロスナイ換気、トイレは間接照明、ウォシュレット、消毒液設置、トイレットペーパーは常備、手洗いは自動で出水する。今は昔、である。 

2012年12月23日日曜日

思い出話

ひところ、OB会の仕事を手伝っていたので、かなり先輩の話を聞くことが時々あった。現在創立してから80年ほどになるので、最初の頃の卒業生は既に物故者が多くなっている。

まあ、元来が「美術学校」である。歴史的な資料とか文献とかを整理し始めたのはここ2−30年のことになる。データがアナログであったり、担当者でなければ分からない、ということもあったりして、大先輩の思い出話もなかば「話半分」なのかもしれない。年をとると、面白い話は尾ひれがついたりして、デフォルメされがちである。

戦前の「美術学校」ということもあって、もちろん学生は男子が多く、女子学生はあまりいない。昔も今も変わらないのは、卒業後の進路があまり「よろしくない」ように見えることで、だから「美術学校に通う」のはかなり勇気のいることだった、と言う大先輩もいた。隣近所、同年齢の男子は、いわゆる六大学とか、商業学校に通っていたりするのに、うちの息子は「美術」なんて、というわけである。拝み倒して美術学校に通わせてもらっている先輩は、その条件が「美術学校に通っていることを世間に知られないこと」だったそうだ。風呂敷で厳重にくるまれた絵の具箱を抱えて電車に乗り、絵の具が衣類についていないか十二分にチェックしてから下校する。
もちろん、美術学校に通うんだったら勘当だーという家もあったそうで、当然のように勘当され、生活費を稼ぎ学費を稼ぎ絵の具代を稼ぐという、苦学生もいたようだ。

芸術系の学生が貧乏なのは、いずこも、今も昔も、似たり寄ったり、かもしれない。 

2012年12月21日金曜日

寄り道

海外でビジネスをしている友人には、どこのユニバーシティの、カレッジをはあそことここを出て、どこでドクターを取得して、といった「学歴」だったりするのがいる。合間にどこかに就職したり、研修したり、社会活動をしていたりする。カレッジも、同じような領域ではなくて、全く違った学業ジャンルだったりすることがある。
学校を出る、ということが、そもそも日本のように「就職予備校」ではないんだなあという気がした。

同居人も、大学は商科でマーケティングをやって、商社に就職して外為の仕事してから退職、教員養成所に入って免状取り直して小学校教員、その間に通信教育で美術教員の免状取得、勤務校は公立私立国立を渡り歩き、その間に小学校教員免状をバージョンアップ、図工を担当しながら大学院で心理学専攻したのは50代、定年退職前に任意退職、いまは大学の非常勤をいくつか、と今の学生さんには考えられないほど紆余曲折な遍歴である。
退職金と年金を考えると、日本ではこういった「寄り道」な人生はとても採算に合わない。日本では終身雇用で大学新卒で同じ企業(しかも大きな会社である)にべったりとしがみついた方が「お得」なように出来ている。ステップアップするにはそれなりの「ところ」に就職したり、役職に就いたり、ということが必要なように出来ている。
同居人の人生は充実していたかもしれないが、老後の資金はほとんど確保できない。転職が多いと年金の申請もやたらめんどくさいのだが、割に合わないほど額が少ない。働いている年数に違いはないのに、である。

社会構造そのものが変わらなければ、結局「いい終身雇用の就職先を確保するにはそれなりの大学」「それなりの大学に行くにはそれなりの高等学校」「その高等学校に行くにはその中学」という図式になってしまう。学校はそもそも就職予備校でしかなく、勉強するところではないのかもしれない。

2012年12月18日火曜日

女子率

景気が悪くなると、芸術系の学校の入学志望男子が激減する。
筆記試験が入学考査のウェイトとして大きくなると、どうしても高得点を取るのは現役女子になる。男子は「就職しなくてもやりたいことをやりたい」捨て身のタイプだったりするが、女子の場合は「大手企業に就職」というのが進学の第一条件にはならないことが多い。「ゲージュツをやるなら」と応援されるタイプが多かったりする。
かくして、景気が悪くなると、現役女子率がとても高くなる。

男子の方も草食化しているのかもしれないが、女子が多くなると、ガテン系がむしゃら系肉体系バンカラ系男子が激減する。かくして、全体に線の細い感じの男子学生さんが増えてくる。
まあそれも世の流れであるから、こちとらまわってきたクラスで授業をするまでである。

教えていて男女のどっちがいいか、と問われることがある。それは男女ではなく、それまでの育ち方とか経験値で決まってくるような気がする。結局そこから、学習意欲も好奇心も出てくるような気がするからだ。

2012年12月17日月曜日

それなり

景気が悪くなると、芸術系の学校の入学志望男子が激減する。大学の就職先のリストには、東証一部上場の大企業の名前が少ない。世間様一般の「安泰就職先」は、芸術系出身では縁がない。
だから、「大学を卒業して、いい会社に就職」を目指す男子保護者は、「いい会社に就職」できそうな大学に出資、つまり学費を出すのである。

この時期の大学受験ご相談などの様子をきいていると、あの学校のデザイン科の方が就職がよさそう、などという話が出てくる。
確かに、「就職がよさそう」に見える資料であったりする。
たとえば、就職率80パーセント、などと資料に大きく文字が躍っていたりする。それは、就職を希望する学生の8割が就職できると言うことである。しかし、全学生が就職を希望するわけではない。
たとえば、全学生の6割が就職を希望したとして、その8割が就職できた、つまり全体の4割8分が就職する、という図式である。たとえばの例で言えば、あとの半分以上は何か。「進学希望」が最近は多い。私の頃と違って、大学院卒業にも求人は来るし、大学院も募集が増えたので、モラトリアム継続はかなり楽な選択である。次に多いのは「フリーランス」希望で、よく言えば「作家生活」、悪く言えば「ぷう」である。
もうひとつの落とし穴は、就職率は卒業時の数字である、ということである。卒業してからの離職や転職は、大学の資料として数字には出てこない。就職できた4割8分が、2年後3年後に同じ職場にいるとは限らない。4割8分よりも、もう少し分が悪くなってくるケースも考えられる。

こういった学校に、就職するために行くのは少し早計かと思うことがあったりする。父兄の皆様、ごめんなさい。でもだからこそ、美術学校出身の学生は最初から多くを望まないし、それなりに生き抜く術を身につけるのである。

2012年12月16日日曜日

制度

ようよう今年度も通学課程の方の授業は終了した。学生さんの方は期末試験さえ終われば春休みである。

そんな時期になると学内はにわかに慌ただしくなる。
廊下のあちこちに「公募推薦制入試試験会場」だの、「大学院入学検定作品搬入会場」だのという立て看板が、あちこちに出没する。
私が学生の頃には、実技系の大学に推薦などありようもなかったが、少子化のアオリか入学生の確保か、昨今は推薦入試にセンター入試利用、いろいろな制度があったりして、よくわからない。
ついでにわからないのは、学科専攻ごとに入学検定をしているのに、同一大学内の他学科専攻を併願できる、という制度である。さすがに油絵学科と彫刻学科は併願できるスケジュールにはしないようだが、傍目には違いがよく見えない学科専攻ほど併願しやすいスケジュールに組まれていたりする。
もっとわからないのは、そうやって学科専攻ごとに入学したにも関わらず、3年次に転科転入が出来る制度があったりすることだ。もちろん大学院に進学するときも同様で、違う専攻分野から大学院の入学検定を受けたりするのである。3年で他の専攻に移動できるならそれまでの学習成果は何だったのかと不思議に思ったり、そうなら一般的な文学部のように1−2年は教養課程で十把一絡げ、3年次からは専攻授業だけに集中、という制度にした方がわかりやすいような気がする。

いろいろと学校の方も経営には腐心しているんだなあと、この時期になるとよく思う。

2012年12月15日土曜日

単価

ようよう今年度も通学課程の方の授業は終了した。学生さんの方はあと補習と期末試験さえ終われば春休みである。

勘定してみると、大学生というのは休みが多い。勤務校では半期13回くらいが授業のノルマである。試験を入れて合計28週が1年分である。1年が52週なので、半分とは言わないが、かなりが「休み」なのである。
まあ「休み」が欲しいから大学生になるんだと我々の時分は言っていたものだったけれど、社会人になって振り返ってみれば優雅なものである。
ひっくり返して考えてみれば、年間の授業料は12で割ってお月謝いくら、ではなく、28で割って週単位で考えないと割が合わない。1週間のうち、授業を何コマとっているのか勘定すると、90分の授業がいくら、1単位がいくら、というのが割り出せる。

遅刻や無断欠席、アルバイトでくたびれて授業中熟睡、という学生には、授業単価計算をさせてみる。アルバイトに行くよりも、親が払う授業料が「高い」こともある。

今の学生さんは、真面目なのか、幼いのか、「アルバイトが忙しくって」などということを遅刻や欠席の言い訳にするようなことはなくなったが。

2012年12月12日水曜日

パンク

男子学生の「はじけかた」には、いろいろなパターンがある。学校に入って、サークル活動や交友関係で、ずいぶんと「身なり」が変わることがある。

以前受け持っていた学生は、入学時はごく普通の男子学生だった。入ったサークルは音楽系、当然のようにバンド活動に熱が入る。熱が入ると、放課後のコンサートだの、学園祭でのパフォーマンスだのと、いろいろと活動の予定が組まれる。当然のように外見も変わってくる。
彼の場合は、パンクロックだった。
ロングのカーリーヘアー、革ジャン革パン、安全ピン、チェーンが腰からじゃらじゃら、である。
まあそれなりにえらいよねえ、と思ったのは、夏でも同じ革ジャン革パン安全ピン、だったからだ。汗をだらだら流しながら(もちろん冷房もない)、実習である。2年に上がっても、3年になっても同様である。それなりに、身体を賭けて、熱中症も厭わず、パンクロックに傾倒しているのだと思われた。

学生も4年になると就職活動というのがある。その頃は、就職も売り手市場で、結構大きな会社から募集がたくさん出ていた。彼は自分の道を行くのかと思いきや、親に言われたので就職する、と言う。数日後、見慣れない学生が教室に混ざっている。ショートヘア、リクルートスーツ、ビジネスバッグを抱えてきた。普通の「就活」学生である。大手の広告代理店の就職説明会から帰って授業に出たパンクな彼、であった。

パンクななりで説明会に行ったら、それはそれですごいと思っていたし、そういう学生を採用する会社こそすごいよねえ、と研究室では話題にしていたのだった。
彼にとっての「パンク」とか「ロック」は、あっさりと「就職」に負けてしまったのだった。

2012年12月11日火曜日

コスト

以前受け持っていた学生で、ちょっと小柄な男子学生がいた。

地方出身の浪人組である。こういった学生は、浪人時代をどこで過ごすのかによって、ずいぶんと気質が変わることがある。
彼の場合は、都心の予備校で下宿浪人、つまり朝から晩まで予備校漬けである。地方出身の素朴な学生は、都心の水で磨かれ(?)たりなどして、悪いことも少し覚えたり、親元を離れて解放感からかやってみたいことをやってみようとしたりする。ただし、浪人時代はそれなりに目の前に目標がぶらさがっていたりするので、そうそう羽目は外せない。だから入学したらとたんに「はじける」ことがある。

彼の場合の「はじけかた」は、ヘアスタイルだった。
朴訥な典型的地方出身者だったのだが、5月になったら、彼のあたまは「金色」になった。
おお、大胆だなあと思っていたら、6月になったらピンク色になっていた。
ほおお、派手だなあと思っていたら、7月になってオレンジ色になった。
いやあ夏らしく、元気のいい色だなあと思って、9月の新学期にはメタリックなシルバーで登校してきた。
彼は毎月のように髪の色を変えてきた。派手な色は、教室内でもよく目立つ。欠席するととてもよく目立つ。
「おお、今日は紫色が見えないねえ」。

学年末になり、春休み間際に会った彼の頭は、ツートンカラーだった。頭頂部だけ黒くて、毛先側は黄緑色、しかもばさばさに乾燥しているのか枝毛だらけである。おお、新しい作戦だねえ、と声をかけると、彼はもじもじしている。どうも、もう髪を染めるための小遣いが「手元不如意」のようであった。

ヘアファッションには、それなりにコストがかかっていたのである。

2012年12月10日月曜日

研究の成果

勤務校には、私が学生の頃から、なぜか肥満学生とか、どよーんとした雰囲気の男子学生は、あまりいない。特に最近は「きれい」な感じの男子学生さんも多い。

以前受け持っていた男子学生で、いつもそれなりに「ファッションを決めてきた!」という気合いのあるのがいた。
美術系の学校なので、とんがった系とか、アバンギャルド風のファッションな男子学生はそれなりにいた。全身黒ずくめだったり、金髪ロングヘヤーで革パン革ジャンのパンクファッションとか、服は安全ピンだらけ、あるいはやたらカラフルな布を巻き付けていたり、鉄下駄で腰から手拭いを下げていたり、とつぜん和服で授業に現れたり、というのを見受けることはあった。
ところが、彼の場合すこーしフェーズが違う。美術学校っぽくないのが、彼風なのかなあ、と思っていたら、同級生の女子がこっそりと耳打ちしてくれた。彼のアパートの部屋の片隅には、読み古した「メンズノンノ」とか「メンズクラブ」のバックナンバーががどーんと山のように積んであったらしい。彼は彼なりに研究してああなっているので、大きな目で見てください、と言われてしまった。

女子学生の観察眼は鋭かったりするのである。
しかしそれにつけても、学習の方向性が違うような気はするが。

2012年12月9日日曜日

向かう先

勤務校の近所にはいくつかの私立の学校がある。

幼稚園は送迎があるから除外するとして、小学生から大学生まで、同じ駅を利用する。
高校までは始業時間が早いので、あまりニアミスすることはないのだが、大学は始業時間が似たり寄ったりなので同じような時間に学生の利用が集中する。

一昔前、女子学生はそのなりでどこの学生なのかが分かった。
まあ世間的に「普通の女子学生」だと思われるのは、保育系の短大へ向かう。
ときどきブランドもののハンドバッグを持っていたり、ヒールのついた革靴を履いていたりするが、どちらかと言えば本を抱えた素朴なタイプも、女子大学へ向かう。
やたらガテン系か、なりふりかまっていないか、とんがっているのは、こっちの学校へ向かう。

最近はと言えば、あまり違いが見えないかなあ、という気がする。それなりにこぎれいな格好をしていて、特徴がない、というところだろうか。駅を眺めていて、何となく物足りない気がすることがある。

2012年12月7日金曜日

手袋

都心にある美術系の学校は、短大と言うこともあって、学内は女子学生しかいない。

こちらとて、肉体制作系のコースがあるので、学期末に遊びに行くと、つなぎの学女子生がうろうろしている。勤務校と違うのは、髪の毛をバンダナなどで包んでいたり、カラフルなズックを履いていたりすることだ。ちょっとびっくりしたのは、たいていの学生が手袋をしている。ゴム、軍手、ニトリルなど、素材は様々である。勤務校では素手で作業する学生が多いので、ほおお、と思った。

授業が終了した放課後、こちらも訪問先の先生とお茶話などして、帰宅しようかと校舎を出る。すぐ脇を、きれいなお姉さんたちが「さよーならー」と駆けていく。ロングヘア、大きなイヤリング、流行の服、ストッキングにハイヒール、爪はきれいなマニキュア、である。そちらの先生が、すかさず解説してくれた。
その学校では、学生ロッカーには、制作用お着替え一式が常備で、学生は登校後、アタマから足の先まで着替えるのだそうである。

都心の学生は、きれいな格好で登下校、あるいは遊んで帰るのである。昼間の手袋は、マニキュアをした白い手をキープするためのものだった。

2012年12月6日木曜日

つなぎ

勤務校は、東京と言えども郊外にある。
学生のいくばくかは、親元から離れてアパート住まいである。学期末の制作などが立て込んでくると、徒歩や自転車で通学できる圏内の学生は、朝起きてつなぎ、食事もつなぎ、そのままつなぎで帰宅する。寝るときだけつなぎではなかったりする生活が、しばらく続く。
親元から通学している圏内の学生は、帰宅が遅くなると、近所のアパート住まいの友人のトコロへ転がり込んだりする。電車通いなら、学校へ来てつなぎに着替えるのだが、近所の友人宅にいる間は心置きなくつなぎ生活になる。

女子学生であっても例外ではなく、肉体制作系の学生さんはこういう状態になることがある。
社会人になってしまえば、指先が染料で染まったり、爪の間にインクが入って真っ黒になっていたり、ほっぺたにペンキをつけたりすることなど、あまりなくなる。
傍目から見れば、「オンナ捨ててる」ように見えるかもしれないが、こちらから見ればそれなりに一生懸命でほほえましい。
がんばれよーと、ドリンク剤など差し入れたりするのである。

2012年12月5日水曜日

作業着

そろそろ学期末になると、本気モードで作業する学生が増えてくる。つまりなりふりかまわず、作業着で学内をうろうろするようになる。

私が学生の頃は、学内の学生のなりで学科専攻が分かるようになっていた。
カラフルでキタナイつなぎ→油絵系
モノクロでキタナイつなぎ、安全靴→彫刻系
ちょっときれいめなつなぎ、または白衣、エプロン、脱ぎ履きしやすい靴→日本画系
学内の画材店では扱っていないつなぎ、工房ごとに色が違ったりする→インダストリアル、クラフト系
なりふりかまわない→グラフィック系
きれいめファッショナブル系→シニック、ディスプレイ系
とんがったファッショナブル系→ファッションデザイン系
一般女子大生かと見まごう→理論系とか編集系
一時、一般女子大生御用達の流行雑誌からまるまるコピーしたようななりの学生が出現、みんなで見に行ったことがある。ストレートロングヘア、化粧ばっちり、マニキュアばっちり、流行でブランドものの服と持ち物、肌色のストッキング、ハイヒール。ある意味で、彼女はしばらく、全学生の注目の的だった。

翻って現在は、と言えば、あまり顕著な違いが見えなくなってきているかなあ、という気がする。
作業と言っても、コンピュータの前でキーボードを叩くだけでは、作業着は不要である。理論系、編集系、情報系、最近はデザイン系もそういった傾向である。
誰もがそれなりな格好なので、振り返って見たくなるほど「とんがった」格好はいないし、それなりにブランドものの鞄やらアクセサリーやらを持っていたりする。平均化したということなのかもしれない。

2012年12月3日月曜日

中止

しばらく前に、富士フイルムが映画用のフィルム製造を中止、というのが新聞記事になっていた。

一般的な映画と言えばフィルムサイズは35mmである。
最初の映画、と言われているのは、1800年代末にフランスのリュミエール兄弟の発表したものだ。彼らが使ったのも同じ帯状のフィルムである。そもそも、静止画の写真がフィルムの上に定着できたから成立した発明である。こういった技術の開発初期というのは、さまざまな技術や発明が同時期にいくつかの地域で行われたりする。今のように情報がとびかったりしないし、国が違えば技術は開発に対する考え方も違っていて、実のところ誰が「映画の発明者」か、というのは曖昧である。
ともあれ、「帯状のフィルムに静止画が連続的に撮影、定着され」たものを「透過光によって拡大投影する」ものが「映画」と呼ばれている。その時期から、映像の記録はフィルムの上に行われていたわけだ。
テレビ、という電子映像を電波によって配信する技術が出てきた。それまでは、テレビ番組といえど、フィルムを使って記録していた。そのため、「生放送」というのも多く、記録に残っていない名番組、というのが多い。こんどはそれを電気的に記録することを考えるようになる。それが「ビデオ」という電子映像のことである。
当初はアナログ方式で記録されていたビデオだが、デジタル記録になり、テープがファイルとして記録できるようになった。技術の進歩は早く、ついていく方は大変だったりする。
一般ユーザー向けの動画記録が「デジタル」になっても、フィルムを使った映画やCMの撮影はそれなりに続けられていた。撮影や上映の機械特性による表現は、デジタルのそれとは似ているようで違う。フィルムの方は定着された画像を手の中に入れてみることが出来るが、デジタルを含めた電子映像はメディアそのものを眺めても画像は見えない。再生する機器やディスプレイが必要だ。

製造中止は、時の流れと思わなくてはならないが、手の中から何かがこぼれ落ちてしまいそうな気がする。

2012年12月2日日曜日

顔色

10年以上前の話になるが、カラー写真のプリント機材を授業で導入するにあたって、スタッフが何人かでメーカーに研修に行ったことがある。
こういうことは、ごくたまにあったりする。機械の運転とか、維持管理の研修に行ったり、技術者に来てもらったりする。

カラープリントの研修は、フィルムメーカーのラボで行われた。手ぶらでいいですよ、と言われたので、エプロンと手拭いくらいが持参品である。
ラボで研修用にネガが用意され、そのプリントの実習である。引き伸ばし機のコントロールと、現像機の取り扱い、現像液の扱い方、なんかをやりながら、最終的に「きちんとしたプリントを出す」ということだった。
渡されたネガは中判で、「結婚式の記念写真」が数パターン。学校は美術系なのでどちらかというとアートな写真はよく見るが、いわゆる写真館の写真はあまり我々の目には入らない。新鮮である。一方で、手焼きで大きく伸ばすようなカラープリントは、こういった写真が大きなマーケットである、ということなのだろう。
色のコントロールをいろいろつけながらテストプリントを出して、最終的に大きな1枚を出す。もちろん数名で研修に行っているので、出来たプリントはそれぞれに違ってくる。面白かったのは、「結婚式」が研修のネタだった理由だ。白いドレスはあくまでも白く、打ち掛けの赤は鮮やかに赤く、しかも花嫁さんの顔色はすばらしくいい顔色にならなくてはならない。微妙である。ドレスを白くしようとすると、嫁さんの顔色が青みがかってきたりする。打ち掛けを赤くすると、綿帽子が白くなくなる、といった具合である。嫁さんの顔色も、数名いれば、すこしずつ違う。焼いている最中は結果が見えないので、現像機から出てきて一喜一憂である。こういった写真だと「正解」があるので、伸ばしの技術に対するジャッジがしやすい、というのもサンプルネガの選択理由だ。

普段、アートとして写真をやっている先生が、花嫁写真を伸ばしているのも、少し不思議な風景だったりした。

2012年12月1日土曜日

カラー

今や写真と言えばデジタルで、まあ普通に「カラー」なのである。暗室作業の伴うアナログ写真の基本は「モノクロ」で、カラーはその次の作業だった。

モノクロの作業では、単色光のコントロールでプリントをつくる。カラーの場合は、フィルターで光に色をつけながら作業をするので、やることはその4倍くらいある感じだ。
白か黒か、というのは単純な物差しだが、カラーになるとRGBというフィルターで光に色をつける。Rだけを強くしても思い通りの色にならないなら、GとBのフィルターを弱くする、といった具合である。もう一つめんどくさいのは、プリントに出てくる色はCMYで考えると言うことだ。
小学校の頃に、赤青黄色が三原色、と教えられるのだが、実際はそうではなく、光の三原色がRGB、色材の三原色がCMY、というのである。加法混色、減法混色という言い方を色彩学では習う。映像のブラウン管やディスプレーなどはRGBで微調整を行う(本当はもう少し細かい設定があるが割愛)し、印刷物の色のコントロールはCMYというインクの色で決めていく(本当はKとか特色とか、ほかにもいろいろとテクニックがあったりするが割愛)。カラー写真のプリントは、RGBでCMYの色をコントロールしなくてはならないから、二重にめんどくさい。4倍どころではなく20倍くらい面倒な感じだ。

デジタルで写真の作業をしている学生が、よくディスプレイ上の色とプリントアウトした色が合わない、といった愚痴を言っている。それはディスプレイがRGBで、プリンタはCMYKでアウトプットしているからだ。高校以下ではこういった色彩の原理はあまり詳しく教えていないようなので、いきなり厳密なカラー管理をしようとしてパニックになっていたりする。

アナログもデジタルも、カラーはめんどくさいのである。

2012年11月29日木曜日

精進

今や写真と言えばデジタルで、シャッターを押すことさえ出来れば大丈夫、な時代になった。ありがたいのかありがたくないのかはよく分からない。

アナログな方は、光学やら化学やらの賜物、という感じが強かった。どちらかと言えば、理科の実験風なのが暗室作業である。暗室作業が好きになるタイプは、整理好きだったりデータ取り好きだったりする。勘、とか、雰囲気、だけでは作業は思い通りの結果にならないからだ。
美術学校の授業なので、最終的には1枚のプリントを仕上げる、ことが目標である。しかし、何年かに1人は暗室作業の「作業」だけに没頭するタイプがいた。
データをやたら細かくとって、テストプリントをかなり厳密にとり、プリントの技術は完璧、だったりする。修整無し、レタッチなしで、このクオリティはすごいよねえ、という出来だ。しかし撮影されているものは、とってもしょぼかったりするのである。もう少し、せめて構図を考えた方が、とか、背景にこれが映り込んでいなければ、とかいった具合である。
一方同じクラスの学生に、撮影した写真はいいのだが、もう少し暗室技術があればなあ、というのもいたりする。足して2で割れればいいのに、と思わせるクラスもあった。

デジタルの作業だと、こんな感じではなく、コンピュータのディスプレイの上でうんうんとうなっていたりする。この「すごいクオリティ」は、本人の作業ではなく、コンピュータとか周辺機器、アプリケーションの性能とか能力によるところが大きかったりする。「精進のし甲斐」があまり見えないような気がする。

2012年11月28日水曜日

使い勝手

写真用の暗室というのは、特殊な内装である。

勤務校には、何カ所かの写真用の暗室やスタジオがある。管理、利用するセクションが違う。そもそも実習用の施設は授業の管理母体が設備を用意することになっていた。そこで授業をする教員が中心になって、設備を決めたり、運用管理をするようになった。だから、違うセクションで、全く違った、しかし同じような授業があったりするのである。

暗室やらスタジオは、オーダーで内装を決めていくものだ。使用する人間が中心になって仕様を決めていく。だから、隣の校舎にある、違う学科の写真暗室の仕様は、こっちの校舎とは全く違う、という状況になった。あっちの暗室は温度管理用に製氷庫が設置されているが、こっちは恒温槽を使っている、あっちのフィルム現像はリール式だが、こっちはベルト式、といった具合である。
使う人によって、それぞれの「使い勝手」があって、「基本的な仕様」の基準というのが存在しない。もちろん「暗室内装専門業者」というのもないので、手元の業者と作業をすりあわせていくしかない。

かくして、キャンパス内に仕様の違う暗室やスタジオがいくつもある、という状況になった。アナログな作業というのは、けっこう面倒なのであった。

2012年11月27日火曜日

完全

どんな職業でもそうだと思うのだが、一般の人が考える「基準」と、仕事として考える「基準」が違うことがときどきある。

10年以上前になるのだが、新校舎に写真用の暗室をつくることになった。教室の配当は教務課から割り当てられ、なんとそれが2階の南側の教室になった。
建物外観はミラーガラス張りのおしゃれな建物である。この建物は基本設計が最初に出来て、かなりフレームが決まったところで、教室の配当が決まった。暗室の配当はかなり後で決まったので、この位置になってしまった、というわけだ。すでに外観が決まっているので、内装工事で暗室にするわけだ。
写真、をやったことのある人なら分かるだろうが、暗室をつくるのは大変なのである。

内装工事の打ち合わせの時に「完全暗室」を要求した。真っ暗でなければ、フィルム現像の作業は出来ないからだ。請負業者から仕上がったので見に来てくれと言われ、行ってみたらびっくりだった。窓をコンパネで「ふさいで」いるだけである。窓枠や扉の隙間から光線が漏れている。フィルムどころか、印画紙も危うい。「ぴかぴかに明るい」のだった。
内装業者は、天井照明を消せば、ほら暗いですよねー、と自慢げである。我々には、全く、暗くない。

その後、いやがる業者の作業中に押しかけ、窓に遮光フィルムを入れたり、コンパネを補強したり、暗幕を追加注文したりした。やっと「真っ暗」になったのは、授業開始寸前である。
写真をやっている方から言えば、昼間に完全暗室をつくるのは大変である。個人的には暗室作業は夜間になるし、昼間使う暗室は地下に作った方が遮光はらくちんである。南側になったのは不運だったのかもしれない。

2012年11月25日日曜日

立場

考えてみれば、私が学生の頃は、校舎は冷暖房完備ではなかったし、校舎内禁煙という状況でもなかった。
お堅い方のミッションスクールから現役で大学に行ったので、もちろんまわりの浪人経験済みの学生はとうに成人式を過ぎている。酒もタバコもオッケー、で、びっくりである。

教室の中には、学食の厨房で使ったとおぼしき、大きなケチャップやソースの缶が置いてあって、それが「灰皿」である。机も床もタバコの焼け焦げだらけ、狭い教室の壁はもとは白かったのだろうが薄い茶色である。まあさすがに授業中にタバコを吸う学生はいなかったが、休み時間や放課後は当然のようにタバコタイムである。

2年のある授業の講師は初日に、コーヒーの入ったマグカップを持ってやってきて、授業開始後いきなりタバコに火をつけた。いわく「俺は教える側で大人なのでタバコを吸うし、飲み物も持ち込むが、君たちは学ぶ側で俺とは立場が違うので、タバコを吸ったり飲食をしてはならない」。講師はくわえタバコで学生の作品を見てチェックをしたりしていた。途中で切れたタバコの買い出しや、コーヒーのお代わりを学生は言いつかった。こっちも息抜きがてら近所の酒屋にショートホープを買いに行った。
ある日、個人の作業チェックで時間がかかっていて、教室の隅で待ちくたびれた学生がタバコに火をつけた。講師はそれに気付くと、作業を中断してその学生のところに行って、教室から追い出した。会話は聞こえなかったが、学生の方も、抵抗せず出て行ったので、自分の非を知っていた、というところだろう。立場、というのは、簡単には越えられないものである、と知った。あるいは、授業中にタバコを吸いたければ教える側になるということだ、とも思った。

その頃は、そんなもんだと考えていたし、別に不満もなかったが、今だったらパワハラとかアカハラで問題になるのだろうなあ。

2012年11月24日土曜日

なう

初夏になってくると、メディアは水分補給を声高に叫ぶようになってくる。熱中症の予防である。
それはそれで構わないのだが、ところ構わず水分補給という習慣は、ときどきいかがなものかと感じることがある。

数十年前にアメリカのハイスクールに行ったとき、コカコーラの缶を机の上に置いて授業を受けている生徒がいて、びっくりしたことがある。こちとらがちがちのミッションスクールの女子学生で、食欲制御がけっこうやかましかったからだ(飲食物の持ち込みは弁当以外不可。また、早弁とか間食、下校時の買い食いは、ばれるとけっこう、いやかなりまずかった)。

今や大学の授業では、コーラの缶どころではなく、ペットボトルやら500mlくらいのジュースの紙パックにストローをさして、机の上に置いていたりする。授業をするこっち側は、3時間しゃべりっぱなしだったり、実習中は学生の間を走り回っていたりで、水を飲むヒマもない。授業を受けている方は、紙パックからストローでリンゴジュースをちょいちょいと飲みながら、あるいは下手をするとおやつを食べながら授業を受けていたりする。

ずいぶん以前から、学生は「ながら族」であると言われていた。教壇の上はテレビのようなもので、お客さんはポップコーンを食べながら視聴する、というスタイルである。最近はもっとエスカレートしていて、私語雑談は当たり前、携帯電話やスマホで誰かとメールやらLINEやらでやりとりしている。「授業なう」などと誰かにつぶやく前に、ノートをとってほしいものである。

2012年11月23日金曜日

無意識

ペットボトルというものが世間に出現してからどのくらいになるだろうか。缶ジュースは飲みきらなければならないもの、であったが、飲みかけに蓋をして後で続きを飲むということは、とても画期的に思えた。当時、大人は水筒を持ち運ぶ習慣もあまりなかったので、ことさらである。
ペットボトルを持ち運ぶ、という習慣が一般的になってくると、気になるのはTPOである。

特に夏になると「水分補給」を声高にメディアが叫ぶようになったので、大人も子供もペットボトルや水筒を持ち運ぶようになった。いまどきの小学生は、毎日水筒持参である。「いつでもどこでも水分補給」は健康のためにはよいと言われるようになってから、人はのどの渇きを我慢することなく、ペットボトルで水分補給である。無意識にペットボトルを取り出して飲む、のである。
だから、大学の図書館の閲覧室、美術館のロビーや展示室なんかで、ペットボトルを取り出して飲もうとしている人を見たときは、目を疑った。本人的には、のどが渇く—ペットボトルを取り出す—飲む、という行動が無意識に行われていて、悪気はないのだろうが。

習慣とか無意識とかいうのに、ときどきびっくりさせられるのである。

2012年11月16日金曜日

混線


映像系の授業をしているので、出来上がった作品を見るのは「上映」というかたちになる。上映できる教室というのはたいていいろいろな設備があらかじめ組み込まれていたりする。よく授業で使う教室にはワイヤレスマイクの設備が入っている。
ワイヤレス、というのは無線であるから、使っている周波数が同じだと違う教室の音声を拾ってしまったりする。
講評をしているのに、英語の授業やらフランス語の授業やらがかすかに聞こえたりする。他の授業の講評が混ざってしまったりすると、学生ではなく私のアタマの中がワープしてしまう。

講評で使っている校舎には、ビデオ収録実習のスタジオが入っている。いわゆるテレビ局のスタジオのようなものである。そこの実習と講評が重なった日に、スタジオの音声が飛び込んできたことがある。
「はーい、1カメさーん、下手の方へカメラ振ってじわじわズームしてくださーい。わかりますかあー」。
音声はかすかに、だが聞こえてくる。おー、3年生の実習中かなあ。

教室で聞いているとディレクターの指示もいまいちまどろっこしい。まあ学生だからこんなものか。
「おーい、1カメ、聞こえてるー?」
「……」
「分かったら返事してえー」
「……」
「あーあーあー、間に合わない、2カメ、急いでカバーしてー」

1カメはなぜかぼーっとしていたようである。悲痛なディレクターの叫びに、思わず教室で学生さんと聞き入ってしまった。
実習中にぼーっとすると、いけないのである。先輩の悪い見本である。

2012年11月12日月曜日

スピーカー


担当している授業は、進行上「講評」というのがある。映像系の作品をつくっているので、「講評」と言えば上映会のようなセッティングである。
教室は、プロジェクターがあって大きなスクリーンとディスプレイがある。いまどきのそういった教室は、機械があらかじめ教室に組み込まれている。機材がラックに入って、教卓上のボタンで操作する。教卓の引き出しを開けるとさまざまな「リモコン」があって、それぞれの機械の操作が細かくできたりする。

教室の拡声装置といえば「マイク」である。
私が学生の頃は、教室のマイクと言えばワイアード、長い電線を引きずりながら先生は教壇を右往左往しながら話をして、ときどきけつまずいたり線を踏んづけたりしていた。いまどきはワイアレスなので、現在使っている教卓の引き出しにもワイヤレスのマイクが何セットか入っている。マイクが用意されている、ということはそこそこの広さの教室であると施設準備側が認識しているわけで、ワイヤレスになると教室内をうろうろできて都合が良かったりする。ただ、困るのが「混線」である。

私自身は、講評ではいろいろ資料を眺めたり、メモを取ったり、教室内を右往左往したりするので両手を使う必要があるし、面倒くさいので「マイク使用しない派」である。しかし他の先生方の中には、声が小さいと認識していたりされる人がいて、いくら小さなゼミ室でも「マイク使用したい派」の人がいたりする。
私の教室ではマイクを使わないのだが、なぜかときどきスピーカーから声が聞こえてくることがある。ちょっと明確には聞き取れないが日本語、会話ではなくスピーチ風、力説ではなくて原稿棒読み風だったりする。こっちの話が佳境にかかろうというのに、スピーカーからはぼそぼそと「……そういうわけなので、……この作家の日常的な嗜好が反映されており、……この場所における空間の許容性というのは……」。こっちのモチベーションが、ぼきっと音を立てて折れたりする。

便利になったかも知れない教室の設備であるが、困ることもときどきある。

2012年11月9日金曜日

音の効果


小学校の「先生」業というのは、声が大きくなるのが職業的な性癖である。
小学校で、わんわんと蜂のように騒いでいる子どもたちには、それより大きな声でなければ聞こえない。音のマスキング効果である。「静かにしなさーい」とお上品に声をかけるくらいでは効果がない。「○△×!」と放送禁止用語を地球の中心に向かって叫ぶくらいでなくては、子どもたちは気がつかない。音のカクテルパーティー効果である。

同居人に、以前の同僚、小学校の現役教員から電話がかかってくる。
2階で電話をしているのに、1階に同居人の声が響いてくる。大きな声だと様子を見に行くと、電話口の声がこちらまで聞こえてくる。耳から受話器を少し離しているだけで、内容が筒抜けである。内容はと言えば、まあ世間話である。大声で叫ぶような内容ではないのである。

電話が終わった。同居人は「あいつ、耳が遠くなったみたいだ」。どうしてか、と言えば「耳が遠くなると声が大きくなるっていうだろ、何もそんなに大きな声で話さなくてもいいのに」。

うーん、何か違うような気がする。

2012年11月4日日曜日

一段落


学園祭が終わると、在学生の方は一段落、するかのように見える。
しかし、4年生には卒業制作、院2年生には修了制作、というのがある。
学期末に「卒業制作展示」で、作品を発表、採点されて、学生生活はおしまいである。

年末は学内も世間様もお休みなので、いつも通りのスケジュールというわけにはいかない。外注を含んだ作業の場合は、年内にかなりハードなスケジュールを組むことがある。
最終的には展示をすることになるので、学生で係を決めていろいろと準備をする。設営や後片付けの準備と段取り、目録やDMの用意と発送、当日の監視員、会場と作品の記録とパッケージ、これらも当該学生が担当する。自分の作品もやらなきゃならないので、かなり大変なお仕事である。しかし、そうやって歴代の卒業生も作業をしてきたのだから、やってやれないわけはない、という理由で毎年仕事が割り振られていく。
もちろん学生にとっては初めての作業なので、五里霧中である。だからその学年担当の研究室スタッフはそちらの指導も忙しい。
以前にも書いたが、私の場合は正月はほぼ返上に近かった。
それと相前後して学期末の試験、大学院の入試と続き、それが終わると大学は一気に入学試験モードになる。入試業務は1ヶ月と半分くらい、それが終わると卒業判定とか入学のためのもろもろの手続きとか準備とかがあったりして、大学の舞台裏というのは授業以外のことがとても多い。

私は現在非常勤なので、授業だけに出ているわけで、12月で授業が終われば、長い春休み状態である。

2012年11月3日土曜日

伝統

秋は学園祭のシーズンである。
2週間ほど教える側は「お休み」なのだが、学生さんはそれぞれお忙しいのである。

平たく言えばお祭り騒ぎなのだが、それなりに「伝統的な」のがあったりする。
男子体育会系のサークルがやっている「ゲイバー」、ふんどしモヒカン彫刻科男子の「おとこ御輿」などというのが、双璧である。芸術系といえど、4-50年前はほとんど男子ばっかり、しかもバンカラな校風だったのだが、今や女子率7割になっても「伝統」は存続している。偉すぎる。

こういうことは真面目にやっていたりするので、つい「沈没」しちゃうんだろうなあ。

2012年11月2日金曜日

お祭り騒ぎ


秋は学園祭のシーズンである。
2週間ほど教える側は「お休み」なのだが、学生さんはそれぞれお忙しいのである。

美術学校の学園祭なので、当然、文系や理系の大学とは様相が違う。
他の学校であれば、美術系なら教室で展覧会、というのがまあ平均的なパターンである。
私が学生の頃は、キャンパスが広くて空き地が多く、そこに「模擬店」がたくさん出来るのが、学園祭の風景だった。一般の大学のように、テントに折りたたみ机とベンチ、どころではない。突如、簡易だが屋根付き木造の2階建てが出現していたりする。
大がかりなイベントも多く、毎年恒例なのはファッションショー、各種パレード、デモンストレーション、御輿行列などなど。酔っ払いも多く、学校周辺はおまわりさんが巡回、鳴り物も多く近所迷惑な祭りである。

今は、学生側も管理を厳しくしているので、以前ほど「破天荒」なことはないだろう。が、学生時代の無茶なことほど、楽しく思い出されたりするのである。

2012年11月1日木曜日

求人


秋は学園祭のシーズンである。
2週間ほど教える側は「お休み」なのだが、学生さんはそれぞれお忙しいのである。

学園祭期間中の構内の管理要員は、当該年度の学園祭実行委員会が組織している。それなりにさまざまな仕事があって、人を割り振らなくてはならない。
私が学生の頃は、サークルから何人警備に、何人が介護に、といったように「ノルマ」があった。現在の学園祭は、サークルと言うよりも個人とか数名のグループで登録して参加する方式のようなので、そういったノルマ制が機能しないのだろう。夏休み前後から学内のあちこちに「学園祭警備員大募集!」といった貼り紙が出没する。

しばらく前の研究室助手が、学生と話をしていたら「管理要員が集まらなくて」という愚痴を聞かされたらしい。まあ、ペイもなく、自分のやりたい仕事ではないだろうからなあ、というのである。助手は「やりたい仕事にすれば」とアドバイスしたらしい。コスプレである。介護班は白衣のセクシーナースの衣装を用意する、あるいは自前歓迎にすればどうか。

大当たりだったらしい。
「やりたい」と思わせることが、求人のツボである。

2012年10月31日水曜日

課外活動


秋は学園祭のシーズンである。
勤務している学校は、学園祭を中心に2週間ほど授業はお休みである。学校としてはコレを「課外活動」と考えているらしい。

学校には、いわゆる「学生自治会」というものがない。学園紛争のなごり、である。紛争のあげくに、学生自治会は解散し、以後学生の自主的な学内自治というのはなくなった。
しかし、学園祭はベツモノである。学生自治会がないので、当該年度の学園祭のために「芸術祭実行委員会」というのを、学生が自主的に組織する。学事予定に入っている学園祭周辺の2週間の学内管理は、「芸術祭実行委員会」が担当する。その間、学校の事務局側は学内管理を学生に移管する、というかたちになっている。

学内管理を移管されるとなると、管理要員は学生が請け負うことになる。もちろん学園祭当日に向かっての教室配分とかイベント、スケジュールの調整はもちろん、学園祭当日は喧嘩を仲裁する警備とか、怪我人と酔っ払いを看護する看護とか、学内の交通整理とか、いろいろである。

学園祭直前の授業は、学生のモチベーションが「準備」に持っていかれてしまう。出席率は低下、出てきても上の空である。学園祭終了後は、燃え尽き症候群なのか、学校に来なくなる(「沈没」と称する)学生もちらほら出る。そういう学生は、ときどき留年してしまう。たかが学園祭、どころではないのが美術学校である。

2012年10月29日月曜日

正解


同居人が小学校で図工の授業をしていた頃、「おうちから古新聞を持って来てください」とアナウンスしていた。新聞を購読しないご家庭もあったり、忘れてくる子どももいるわけだから、保険の意味もあって、同居人はときどき「ご家庭にある古新聞」を持参する。

新聞というのは、ニュースだけが掲載されているわけではなく、テレビ欄もあれば家庭欄もあり、スポーツ欄もあれば社会面もある。
大掃除やら引っ越しで、古い古い新聞が出てきて、つい「読み」ふけってしまうのは、人間の性である。それは子どもとて同じなので、難しい漢字は読めないながらも、読める字だけ拾って読んでみたりする。だから、子どもが使うことを考えたら、駅売りスポーツ紙などはあまりよろしくはなかろう。

今日も先生はご家庭にある古新聞を配布して粘土細工である。
「先生」
と作業中の子どもから手が上がる。
何かなーと、同居人は近くへ寄る。
「この答え、違ってます」

子どもの机の上に広げられた新聞にはクロスワードがあった。
同居人は時々新聞でクロスワードを楽しんだりするのである。

2012年10月27日土曜日

わさび


ちょいと昔は、よく「ご町内の皆様、古新聞、古雑誌がございましたら」とスピーカーから呼びかける軽トラックが住宅街を流していた。バネばかりで重さを量って、トイレットペーパーとか落とし紙なんかをくれた。
今時は、自治体が資源回収と称して、古新聞、古雑誌、なんかを持っていく。
まあたいていのご家庭には「古新聞、古雑誌」というのがある、のだった。

同居人が小学校で図工の授業をしていた頃、養生のためによく「おうちから古新聞を持って来てください」とアナウンスしていた。が、「うちは新聞をとってません」という子どもがちらほら出現するようになった。忘れてくる子どももいるわけだから、保険の意味もあって、同居人はときどき「ご家庭にある古新聞」を持参する。

ある日の授業は、古新聞を広げて粘土細工である。
「先生、古新聞ください」
先生は子どもに、実家から持っていった「古新聞」を渡す。
子どもは自分の机で、もらった古新聞を広げる。
子どもから手が上がる。同居人は「何ですか-」と聞く。
「新聞を広げたら、わさびの袋がはさまってましたー」

同居人の実家では鍋料理の場合、新聞を広げてカセットコンロをのせる、という「テーブル養生」をしていた。薬味やら調味料やらこぼしたり、小さなゴミが出たりしたら、そのまま畳んでしまう、という作戦である。

だから、自分の家の古新聞で作業をするのが望ましい。

2012年10月25日木曜日


学生さんと世間話をしていると、ときどき「あれ?」と思うことがある。
ここ5年ほど「あれ?」なのは、世間様のニュースの入手方法である。

活字離れと言われるようになってしばらくたつので、新聞は読まなくなったろうなあと言うのは想像に難くない。
まあ美術系の学生さんだと、世間様と隔絶しているところで生きていると言えるのかもしれないが。下宿住まいだと、新聞は購読しないケースが多い、というのも昨今の景気事情なら分からないでもない。

ではテレビかと言えば、いまどきの学生さんはそれも見ない。テレビのニュースの信頼性とか速報性とか、そうこう言う以前に、テレビは見ないんです、という学生も増えた。テレビという機械が下宿になかったりすると、インターネットで動画サイトを見る、ということが増えたようである。
もちろんラジオ、といった世代でもない。以前は受験勉強に深夜放送、といった風情だったが、それすらない。

インターネット、というのが今時の学生さんの「世間を知る術」だったりするようである。
ポータルサイトのニュースやトピックスの見出し、というのが彼らにとっての「ニュース」だったりするようだ。新聞記事を読んで、というと、インターネット上の新聞社の記事をプリントアウトしてくる。もちろん新聞という紙媒体ならではのレイアウトとか、書体とか、見出しの工夫とか、そういったものは飛んでしまい、テキスト情報だけになってしまう。それは「新聞記事」とは言えないだろう、と思うのだが、学生さんはすましたもので「新聞社のサイトの情報=新聞記事」と考えていたりする。

何かちょっと違うような気がするのだが。

2012年10月23日火曜日

許容量


同居人は小学校勤めが長かった。お昼は当然、子どもたちと同じ給食である。

小学校に遊びに行くと、まあ飲み物でも、と控え室に招き入れられる。お茶とかコーヒーではなく、冷蔵庫にたくさん入っている「給食の残り」の牛乳だったりしたことがあった。
給食で配布する牛乳が紙パックになったので、瓶を返却する必要がなくなり、子どもが残した未開封の牛乳がいくばくか保存してあった。配布当日に廃棄処分にするには、賞味期限がまだしばらくあるのでもったいない、という感じである。しかし、欠席がいたり、アレルギーの子どもがいたり、寒い日には食指が動かないらしく、毎日何個かが残ることで毎週何十個という数になるのだそうだ。
先生がそれぞれのクラスで、毎日残った牛乳を飲んだ日には、1日1リットル以上になったりする。むしろ健康的ではないだろうなあと思った。

以後、廃棄処分すれすれの紙パックの牛乳は我が家にやってくることがしばらく続いた。うちでも大人二人、1日に飲める量は限られている。牛乳は、カッテージチーズに化けた。

2012年10月22日月曜日

いつでも


同居人は小学校勤めが長かった。お昼は子どもたちと同じ給食である。

私の世代が子どもの時は、お昼はコッペパンにおかず(和洋中あり)、低学年の頃は脱脂粉乳、転校してからは瓶牛乳が定番だった。今のお子様たちはアレルギーも多いらしく、担任の先生は新学期に保護者からの聞き取り調査をしている。アレルギー症状のある子どもや、食べられる食材の少ない子どもは、別途お弁当を自宅から持参、ということになるらしい。これはこれで大変である。

変わらないのは牛乳で、今は瓶ではなく紙パックで配布である。おかずが和風だろうが、中華だろうが、牛乳は必須である。これも不思議な制度だとときどき思う。煮魚に牛乳、肉豆腐に牛乳、酢豚に牛乳、である。ミスマッチと栄養価とどちらがいいか、という選択で牛乳なのだろうが、大人になってみてみると不思議な組み合わせである。

小学校の現場では、これが「当然」、どの先生も当たり前な表情で鯖の竜田揚げと牛乳を同じトレーにのせている。考えてみれば、不思議な光景だと思うのだが。

2012年10月21日日曜日

生野菜


同居人は小学校勤めが長かった。お昼は子どもたちと同じ給食である。

しばらく前の話になるが、給食メニューが激変した時期があった。0157の時の話である。貝割れ大根か、と騒がれ、結局給食メニューから生っぽいお野菜がなくなった。野菜はひたすら、煮るとか焼くとか茹でるとか、といった感じになったそうである。突如、給食メニューからカラフルな食材がなくなり、地味ーな色合いになったそうである。

こういったニュースがあると、回れ右で前へならえ、のような対応をするのがお役所である。結局貝割れ大根ではなかったのかもしれないが、給食メニューに生野菜は、かなり長い間、復活しなかったそうである。

2012年10月20日土曜日

遅い

同居人は小学校勤めが長かった。
食べるのが早いのは職業病だと、つきあいはじめて、しばらくしてから知った。

一方私は筋金入りの「食べることが遅い」質である。
幼稚園では一人居残りで昼を食べる羽目になり、小学校でも教室の片隅で食べ終わるまで居残りである。トラウマである。
同居人の行っている保育園では、「ごちそうさま」が三回ほどあって、食べ終わらない子どもはその都度席替えしながら、教室の片隅に集めるようにしているそうである。

自分としては、自宅ではあまり「早食い」の人がいなかったり、酒飲みとつきあっての食事なので、割り方のんびりと食事をする方だったのだと、今では思う。
集合生活では何かと人と同じペースが強要されがちだったりする。管理上の問題からして、食べるスピードはその後のスケジュールを左右する。こと食事に関しては、「食べ終わる」ことの方がベースになっているので、「食べ終わる」までは解放されない、という方法が多い。定時で食事を強制終了されるのであったら、また違ったトラウマになったのかもしれない。
おかげさまで、物心つくまで、食事が楽しいと思わなくなってしまったし、給食も周りを見回してスピードを考えて、よく残して注意された。今でも「とりあえずカロリー取れればいいか」と考えがちだったりする。

居残り食事は今でもトラウマである。今ではあまり給食のような時間制限付きの食事形態はとらないように心がけたりはするのだが、やっぱり同居人と食事していると「せわしない」感じがぬぐえない。

2012年10月19日金曜日

職業病


同居人は小学校勤めが長かった。お昼は子どもたちと同じ給食メニューである。

昔も今も給食当番というのはあるようで、配膳やらお給仕やらは子どもたちが順繰りにお当番をする。
ところが先生の方はクラスに一人、毎日給食当番のようなもので、配膳とお給仕、後片付けも、子どもたちも一緒である。
クラスの中の誰よりも遅く食べ始め、誰より早く食べ終わり、後片付けにかからなくてはならない。小学校の担任の先生の早食いは、職業柄致し方ないが職業病である。

同居人の同僚と食事にでも行ったときは、とても大変だった。誰もが食べ物が来ると、一心不乱に「かきこむ」のである。お食事中に会話を楽しむ、といった風情ではない。お相伴している「小学校の先生以外」の私は常に、「食べるのが遅い」状態である。

小学校の近くの飲食店で、とても食べるのが早い人を見つけると、「先生かしらん」と考えてしまう。

2012年10月17日水曜日

経木


さて。

切り身が見えても、魚の顔が分からない、というのは今時のお母さんでも似たり寄ったりかもしれない。
日本の家庭では従前から和食が中心で、とはよく言われることである。
ではさぞやおうちのお母さんは魚のさばき方が上手だったのだろうと思ったのだが、祖母は魚をさばくことはなかったのだそうである。

朝方、魚屋の小僧が経木の束を持って裏口にやってくる。経木にはその魚屋が仕入れた魚が書いてある。一家の主婦は経木を眺めて、刺身にしようか煮付けにしようかと考える。小僧と料理方法を相談の上、「じゃあサワラを煮付けにして、鰹を刺身にして」といって小僧を帰す。夕方には、小僧が煮付け用に下ごしらえしたサワラと、刺身にした鰹を持ってくる、といった段取りだったそうである。
青物屋は、野菜を担いでやってきて、その日のおかずの様子を相談しながら、野菜を置いていく、菓子屋も午前中に経木を持って来て注文された当日のお茶菓子を当該の時間に持ってくる、豆腐屋のラッパが聞こえたら鍋を持って豆腐を買いに行く、といった日常だったらしい。
主婦は買い物に出かけなくて、いつも家にどんといる、というような風景だったそうである。冷蔵庫もない時代であり、その日の食材はその日に買わないとならない。
そんな家の台所はかなり広くて、床の下はすべて収納、味噌や梅干しなどさまざまな物が入った甕、いろいろな色の一升瓶が並んでいた。
出入りの青物屋の小僧さんを祖父がかわいがっていた。知多半島のメロン農家に婿入りして、その後ずっとメロンを送ってくれていた。

もちろん日本の家庭が同じような生活であったわけではなく、もちろんその時分にも「働いているお母さん」というのも実はたくさんいて、そういった家庭ではそれなりの営み方があったはずである。

裸電球の照らしている、光った木の床の台所を横目に見ながら、掘り炬燵で食事の出来るのを祖父と待っているのが、秋冬の楽しみでもあった。

2012年10月16日火曜日

解剖


小学校の授業内容というのは、時が過ぎるとずいぶんと変わったりするものである。

我々の世代だと、理科で「解剖」というのがあった。
しばらく前の世代だとカエルだったりしたようだが、私の世代では「鯉」だった。
ばたばたと暴れる鯉の頭を金槌で叩いて気絶させ、作業が始まる。お命を頂戴してしまうと、心臓が動いているところを見られない。叩き損なうと鯉は俎ではなく机から脱走する。大騒ぎである。

まあ考えてみれば残酷な話なので、昨今の小学校ではあまり解剖実習はやらない、という話を聞いたことがある。
まあやってみてなんぼの話だから、やらないよりはやったほうがまし、というので同居人がしばらく勤めていた小学校では解剖実習を決行することになったらしい。

早朝、業者が小学校に到着、トロ箱が理科室に搬入された。
トロ箱の中身はとれとれの「鯖」。業者は魚屋である。金槌で叩く手間はないだろうが、何か違うような気がした。

2012年10月15日月曜日

豆電球


小学校の授業内容というのは、時が過ぎるとずいぶんと変わったりするものである。
同居人がやっている授業の内容など聞いていると、浦島太郎になったような気になることがある。

我々が子どもの頃の理科の授業の実験では、乾電池に銅線をつないで豆電球を光らせて、直列並列などとやっていたりした。現在は豆電球が入手しにくいのでLED電球を使うそうだが、こちらだとつなぎ方が逆だと光らないし、電圧で光り方が弱くはならない。教えることは全くベツモノになったりする。

しばらく前のニュースで、小学校の家庭科の調理実習で食中毒、というのがあった。原因はポテトサラダに使ったジャガイモの芽が取り切れていなかったそうである。これはまた調理以前の問題かもしれない。家庭科の先生は家事のベテランというわけでもなかったりするし、ポテトサラダなど総菜屋で買う習慣だったのかもしれない。
そういえば、家庭内の調理週間もずいぶん変わっているようで、現在お魚はスーパーで「切り身のパック」を見ているお子さんが多く、そのため「切り身」と「丸物=お魚の全身」との照合図鑑、というのを雑誌の特集で見たことがあった。切り身なら「鮭」に見えるが、顔を見ても「鮭」には見えないお子さんが多いそうである。

いろいろと時が過ぎると、学校で教えることもいろいろと増えてしまって大変である。

2012年10月13日土曜日

調整


学校のカリキュラムには「選択」という科目がある。
専攻科目や学校によってずいぶん違うのだろうし、文化系理科系実技系でも選択できる「幅」というのもさまざまである。
選択授業というのは、学生にとって「嬉しい」ものに見えるようだが、準備する方は大変である。
私が授業をしているのは「実技系」なので、ことさらである。

学生の方は毎年入れ替わる。前年度と同じ資質や嗜好を持つ学生さんが来るとは限らない。前年度は大入り満員なクラスが、翌年は減少、数年後に閑古鳥、もう少し数年後は希望者ゼロ、というケースがあったりする。希望者に応じてクラスを増やしたり、エキストラのクラスを増設したり、あるいは廃止したり、といったことは、カルチャースクールや私塾ではないので、大学では基本的にはしない。希望者ゼロなら、今年度休講、来年度調整期間、希望者がほとんどいなければ数年間休講して、その間にカリキュラムの変更調整をしたりする。専攻科目内の授業との調整、学内各機関との調整と忙しくなる。
あるいは、学生にとっては、選択したい授業がない、というケースもある。選択したくはないが単位のためには何か「取る」必要はある。カリキュラムを組む側は、消極的選択のための「受け皿」も考えたりしなくてはならない。

「選択肢が多い」ことが、入学希望者を引きつけるマジックワードだったりするのだろう。「さまざまな授業が希望に応じて受けられます」という文句が、学校案内には大きく入っていたりする。学生さんを見ていると、選択は個人の趣味嗜好を反映してはいるが、長期的な学習計画に沿ったものではないと感じることがある。好きな科目だけを受けていて、本来の学習目的を失わないか、時々心配したりする。

2012年10月11日木曜日

苦手


学校のカリキュラムには「選択」という科目がある。
私が担当しているのは実技科目なので、講義ばかりではなく、とにかく働く、という作業が続く。
美術学校の学生は得てして、講義は苦手だが、ガテン系なら大丈夫、なはずなのだが、ここ数年様子が違うのに驚くことがある。

美術学校の受験にはたいがい「実技科目」というのがあった。美術系ならデッサンは必須、デザイン系なら平面構成も必須である。美術予備校のご指導は、デッサンやデザインの成績と志望大学の志望科目とのすりあわせである。
ところがここしばらく、美術学校の入学試験に実技科目が必須ではないコースがいくつか出現している。デッサンや構成などの実技試験の代わりに、論文や簡単な描画テストといったものである。
受験生から見ると、受験用のデッサンやデザインの勉強は、高校美術の習得とは違ったベクトルなので、別途予備校やら受験教室やらの受講が必要だ。ところがそれがないとなれば、高校の勉強だけで受験して合格することも出来るわけだ。
かくして、「美術学校に来たが、デッサンを描いたことがない」あるいは、「美術学校に通いながら絵を描くことが苦手」な学生が続出する。
そうなると、なぜか撮影の実習で、「建物の壁面は垂直にしないといけませんよー」とか、「人物の顔を撮影するときは、顔の向きに余白を多く取るんですよ-」とか、デッサンの初歩みたいな話をしなくてはならないのである。

彼らにとって「作品をつくる」こととは、答案用紙のマス目を埋めることだったりするのである。あげくに「私、デッサンやったことがないんです」が免罪符である。ガテン系よりも、講義を聞いて、レポートを書くことの方が得意そうである。

いやいや、世間様は概ね「美術学校出身なんだから、絵は描けるもんだ」と思っていたりするんだけどねえ。

2012年10月10日水曜日

篩(ふるい)


学校のカリキュラムには「選択」という科目がある。
専攻科目や学校によってずいぶん違うのだろうし、文化系理科系実技系でも選択できる「幅」というのもさまざまである。
選択授業というのは、学生にとって「嬉しい」ものに見えるようだが、準備する方は大変である。
私が授業をしているのは「実技系」なので、ことさらである。

毎年受講希望者が多い「人気科目」というのがあったりする。機械を使った実技科目では、無制限には受け入れられない。機械の数には制限があり、一度に受講できる人数は限られる。多いからと言って、じゃあ別の期間に同じ授業をするか、といった発想が私塾やカルチャースクールではあったりする。しかし、大学ではそうはいかない。カリキュラムは学内で絶妙に使用教室や機材を調整していたり、文科省に届け出る認可があったりするので、どたんばで変更というのがほとんどない。事前に告知したスケジュールと科目通りに敢行せねばならない。だから、希望者が多い科目は、どうしても篩(ふるい)を考えなくてはならない。

じゃんけん、あみだくじ、抽選、受講希望者内の話し合い、前年度の成績評価や素行をもとに研究室がダメ出し、いろいろとやってみたが、いずれにせよ「受講できない」場合は、他の授業を受けることになる。まあたいていは、心機一転、頑張ってくれたりするのだが、最近の学生さんはいつまでもへこんでいたりする。やる気満々だったりするとなおさらだ。

同じ専攻科目内の選択でも難しいので、先日言ったような「専攻科目横断の選択実技科目」は、受ける方も受けさせる方も、もっと難しい。

2012年10月9日火曜日

選択


学校のカリキュラムというのは、ときどき「選択」というのがある。
いくつかの科目が並んでいて、好きなのを登録しなさい、というものだ。
基本的に講義科目などは「選択必修」という方式で、たくさんの講座の中からいくつかの科目をとって単位を充当する、という方法である。選択する授業数が少なければあまり受講人数の浮き沈みはない。年度によって、受講者数が200人弱、翌年は15人、というのはあまりない(と言うか、聞いたことがない)。
ところが実技科目の場合は、少し勝手が違う。作業をするスペースや機材の関係で、受講できる人数が限られてくる。人数の調整をするために、事務方がいろいろと作業していて、最終的には受け入れ人数ちょうど、という名簿が回ってくる。

担当している実技授業に「選択」な授業がある。学内のさまざまな学科の1年生が選択できるようになっている。実写映像系の基礎学習的な科目なのだが、油絵の学生や彫刻の学生がやってくる。美術学校なので、実技であれば何となく楽しく過ごせる、というのが通例だった。考えることは苦手だがガテン系は大丈夫、なのが美術学校のいいところだった。

ところが、えらくテンションの低い学生がいたクラスがあった。何をやっても、その学生のモチベーションが上がらない。後で聞くと、そもそも希望していた授業科目ではなかったそうである。

受け入れ人数の調整というのは、こういうところでデメリットが出る。学生は4月に第5,第6志望までの科目を書類で提出し、事務方が調整する。件の学生は第5志望だったそうである。むしろ、「志望しない」ほうのカテゴライズである。これじゃモチベーションは上がらないだろうなあ、と同情した。その学生がいわゆる「競争率の高い」授業ばかりを希望したりすると、このような悲しいケースになったりする。

2012年10月8日月曜日

そば屋


世の中狭いので、誰がどこにいて、何を見聞きしているか分からない。

電車通学だった中学校では、電車内のマナーをしつこく注意された。制服を着ていると、どこの学生か分かるので、マナーの悪いのがいると、当該学校に「ご注意」のご連絡が来る。そんなことのないように、としつこく注意された。ひとりだけが悪くても、制服を着ていれば「代表」のようなもの、学生全員が「悪い」ように見えるからである。

実家の家訓に「大学の近所のそば屋で呑むな」というのがあった。
曾祖父は大学で教えていたそうなので、その頃の話である。勤務先の近所で飲食店に入ると、誰に出会うか分からない。特に学校の近くであれば学生さんや同僚に出会ってしまう可能性大である。
「あの先生は天丼と盛りだった」くらいを学生に目撃されるだけならまだいいが、アルコールが入ってしまうと、クチが滑ってしまうかもしれない。私が学校に残って勤務を初めてなるほどなあ、と思った。
会社の近所の居酒屋で上司の悪口、というのは定番だが、これとて誰がどこで聞いているか分からない。小中学校の先生は声が大きいので、ことに飲食店でもよく分かったりする。教頭や校長の話、今日の授業の話、生徒の話など、同じ空間なら筒抜けである。保護者が聞いたらどうするんだろう、という話題すらあったりする。
最近の大衆居酒屋だと、ご父兄の飲み会、というのもある。お母さんたちが集まって、PTA総会分科会のようである。これもアルコールが入り、声が大きくなると、「なんとか先生」の噂話に花が咲いていたりするのがよく聞こえる。

世の中狭いのである。誰かが聞いているかもしれない。

2012年10月6日土曜日

ばったり


同居人と近くのピザ屋でちょいとワインなど飲んでいた。
しばらくすると遅番のアルバイトが入ってきた。顔を見て、あれっ、担当しているクラスの受講生である。あちらもややあって気付いた様子。えええーっと言いながら、お給仕してくれる。こちとら顔は笑っているが、食欲激減である。

同居人の場合、小学校で教えていたので、長じてばったり、というのもあるそうである。駅でばったり、くらいならまだいいのだろうが、同居人は「あまりに疲れがたまっていたので飛び込んだ駅前マッサージ店」で担当してくれた兄ちゃんが、いきなり「お久しぶりです先生!」。小学校以来なので10年ぶりか、よく見ると見覚えのある顔、という状態らしい。先生の方は大人だから、10年経ってもあまり風体は変わらない。思わず思い出話に花が咲いたそうである。料金分もんでもらったのだろうか。

助手だった知人は、夜中のコンビニでばったり、だったそうである。夜中にちょいと食料を買いに言ったら、担当学生がレジにいた。会計しながら「あのー、明日提出の課題なんですけど」。おでんでお酒でも、と出かけた買い物が、思わぬ人生相談となったそうである。

先生業をやっていると、こういうことがよくある。世の中は狭い、とよく言う。どこで誰に会うか分からない。くわばら、くわばら。

2012年10月2日火曜日

クロスオーバー


勤務校の新学期は9月早々に始まった。
同居人の行っている大学はもう少し遅いスタートである。
学校によって学期の始まりや終わりの時期はずいぶん違う。

例によって夏休みは、前期中の講座の採点とか、後期の授業の仕込みとかで、暑いというのに、「休み」という感じはしない。
合間に同居人は保育園に出かけている。
私の家や周辺の友人に「保育園」に行ったことのある人はいなかったので、「保育園に夏休みはない」というのは、びっくりだった。
同居人の通っている保育園は、夏は保育士さんたちも入れ替わりで休みを取るようで、臨時保育士が来るらしい。いつもと勝手が違うので、作業がやりにくいようである。子どもの方も、いつも見ない顔がクラスにちらほら。話を聞くと、夏休み中の臨時預かり、というのがあるそうだ。普段は幼稚園通いだが、夏休みは保育園に通う、というケースらしい。

幼稚園は文科省の管轄、保育園は厚生省の管轄で、働く方で言えば労働環境、子ども側から言えば学習や保育の環境はずいぶん違うのだそうである。預ける親から見れば、役所の管轄は関係ないだろうから、さまざまなニーズが発生するし、園の方もそれに併せて営業をする。幼稚園の時間外保育、保育園の幼児教育に力を入れてアピールする施設もある。
すでに現場はクロスオーバーしようといているのだが、役所はなかなかそうならないのは世の常である。

2012年10月1日月曜日

間違い


新学期も始まった。
勤務校は9月早々に始まったが、同居人の方はそれよりも遅いスタートである。
学期のスタートは、それぞれ学校によって違う。秋の学期は特に学園祭があったりして、どの学校もハンパに「休講」な期間があったりする。

今学期も、同居人の方は毎度のように授業終了後、受講生のコメントカードというのを集める。150人超の講座なので、当該授業中に出席を取るのは至難の業だからだ。それを集計するのが私の作業で、というのは前にも書いた。

9月初回の授業で、名簿に名前の見当たらない生徒が4-5人いた。はてな、である。大学からまわってくる受講者名簿に漏れがあったりするのかもしれない。4月の受講登録後、登録講座を変更したのかも知れない。
あわてて、同居人に、事務局に名簿の確認をしてもらうよう依頼する。
返事が来たのが数日後。名簿の確認にはそんなに時間がかかるのかしらんと思いつつ、回答を聞く。
どうやらその4-5人はすべて別講座の受講生であった。その講座の講師は、いつもの「とってもよく似た」先生であった。

やっぱり、背が低くて、小太りで、丸顔で、眼鏡で、短髪、チョビ髭なオジサンたちは、あくまでも間違われる。
講座名も講師名も講座内容も全く違うのに、なぜだろう。

2012年9月28日金曜日

表層


勤務校は東京都、とは言え、ちょっと郊外である。中央線から私鉄に乗り換え、駅から歩いて15-20分、というのがスタンダードなアクセスである。
当然のように、地方出身の新入生が通学し始めの頃の感想に「地方のうちより田舎」というのがある。
東京は都会、というのはかなり大きな先入観で、ちょいと考えてみただけでも、檜原村から八丈島まで東京都内なのである。

担当している授業科目のうち、ひとつは東京をフィールドワークして、その結果をまとめるものだ。
たいがいの学生は、東京と言えば、ビル、繁華街、雑踏、ビジネスマンというステレオタイプなイメージを持っている。それは実はメディアによって刷り込まれたイメージであったりする。自分の目ではなく、メディアを通した情報を自分のものだと思っていることに危機感を持つことも、織り込まれたテーマである。
丁寧にフィールドワーク、つまり観察を続けていると、自分なりの発見があったり、今まで見えないものが見えてきたりする。しかしそれが出来ない学生がぼちぼちといる。「情報を消費する」という言い方になるのだが、メディアの伝えた情報を確認するだけになってしまう。

結局、表層しか見えない、ということなのだが、情報の発信者になるとか、企画をする側に回るのであれば、常に「裏を読む」作業をすることになる。人が見ない/見つけていないことを発見して、それを他者に再提示することになる。

2012年9月26日水曜日

往復


勤務校は東京都、とは言え、ちょっと郊外である。中央線が東京都区部を抜けて数駅、私鉄に乗り換え、駅から歩いて15-20分、というのがスタンダードなアクセスである。
当然のように、地方出身の新入生が通学し始めの頃の感想に「地方のうちより田舎」というのがある。
東京は都会、というのはかなり大きな先入観で、ちょいと考えてみただけでも、檜原村から八丈島まで東京都内なのである。

美術学校というところに通っている学生さんは、さだめし美術館や博物館、ギャラリー巡りにいそしんでいる、と一般の人は思いがちである。勤務校に限れば、そんな学生さんが大多数というわけではない。新宿や渋谷に出るだけで「電車賃が高い」と思うのが多いようで、当然のようにアパートと学校の往復だけに終始する。自分で盛り場に遊びに行く学生も減った。展覧会も、授業でノルマにしない限り行かなかったりする。「今週トーハクで…」と話し始めたら、「トーハクって何ですかあ」と聞いてきた学生もいたりした。インターネットの時代でもあり、「ネトゲ」に漬かっている学生もいたりする。

学生さんはよく遊ぶ、というのがちょいと上の世代の「一般的な認識」である。美術学校に限って言えば、良くも悪くも「遊んでいない」。

美術というのは「自分の表現」を追及するものだが、それだけでは追及できないことが多い。社会情勢や、時代の機微などというものが、作品のテーマであったり、表現の動機になったりする。学生さんの視点が外に向かない、というのは、なぜだろう。彼らの関心は、自分とインターネット上にある情報だけなのだろうか。

2012年9月23日日曜日

物件


勤務校は東京都、とは言え、ちょっと郊外である。中央線から私鉄に乗り換え、駅から歩いて15-20分、というのがスタンダードなアクセスである。
当然のように、地方出身の新入生が通学し始めの頃の感想に「地方のうちより田舎」というのがある。
東京が都会、というのはかなり大きな先入観で、ちょいと考えてみただけでも、檜原村から八丈島まで東京都内なのである。

地方出身者はたいてい近所にアパートを借りて住む。以前は女子寮があったり、果てしなく「下宿屋」に近いアパートがあったりした。
ふーん、と思って学校の近辺を眺めると、風呂屋の煙突が見当たらない。つまり銭湯がない。そのため間借りするには「風呂必須」である。協同であれ、占有であれ、あるいは後付け押し入れ改造風という風情のものであれ、何らかの「風呂」があった。そのため、東京の都心の学生向けのアパートよりも割高な家賃で、六畳一間きり、などという物件は少なかった。たまーに出るそんな物件を「安い!」と飛びついてしまうと、2キロ以上離れた地域の銭湯に通わなくてはならなくなる。自転車で行き帰りすれば、風呂屋に行ったのかサイクリングに行ったのかわからないし、雨でも降れば直行するバスがないのでタクシーで帰らなくてはならない。

なぜか、と言えば、このあたりには下水道がなかったからである。
考えてみると、勤務校にはプールがない。夏の夕立で、校門前の道路は冠水する。台風の時に、校舎の半地下が水浸しになったこともある。

市内の下水道が整備されたのは卒業してずいぶん経ってからだった。銭湯はもう斜陽産業なので新規開店はなかった。そのかわり、というのかどうかわからないが、10年ほど前に掘削した「天然温泉」が近所に開業した。「温泉料金」では、銭湯の代用にはならない。相変わらず近所の学生向けアパートは「風呂付き」である。

2012年9月20日木曜日

ラジオ


郊外に住んでいると、車をよく運転することになる。たいがいは、運転しながらラジオを聞いている。景色を眺めながら、コトバを聞き、頭に抽象的なイメージを描くのは、ニンゲンならではのお楽しみである。
ところが、昨今は番組内容がずいぶんと変わってきたなあと思うことが思うことがある。「詳しいことはウェブでリンクをクリックして下さい」などというアナウンサーのリードである。ラジオのリスナーはみんなパソコン片手に聴取しているはずだ、というのだろうか。運転中に聞いているリスナーにそれは無理である。
もっとひどいのは、某公共放送で、リスナーに写真を投稿してもらい、その写真について女性アナウンサーがコメントしているのである。
「あーこれはすごいですよねえ」「いままでにない風景ですねえ」「面白いと思いますよ」。
ラジオオンリーなリスナーにはちんぷんかんぶんである。アナウンサーのボキャブラリー以前に、ラジオ番組で写真を投稿というアイディア自体が何かなあ、と言う気がする。

メディアミックスというコトバがある。ただ、こういったラジオ番組の制作にとって、インターネットの情報発信とグロスでしか発信できないのであれば、ラジオ番組という形態が果たしていいのだろうか、という気がする。新しい聴取方法を模索してリスナーを少しでも増やしたい、という意気込みしか感じられない。パソコンやスマホ片手でなければ楽しめないのはラジオ番組、と言えるのかしら。
もっと怒るのは、先端メディアについていけないシニア世代である。インターネットすら使っていないその世代にとって、ラジオならずとも「詳しい情報はウェブで」「ウェブでショッピングならお買い得」「ご予約はウェブから」などというリードすら「排他的」なのである。だからといって今さらインターネットを使いこなせるとは限らないし、老い先短く、そんな気もあまりないので、なおさら「排他的」に聞こえるのである。インターネットを使えない世代は損をしろ、とその世代には聞こえるらしい。

そんなこんなもあって、授業ではメディアの特質を理解した上で、それに出来ないことはそのメディアで表現することに固執しない、というのをルールにしている。制作したビデオの続きはウェブで、はあり得ないというのが、課題の前提である。

2012年9月18日火曜日

アンケート


同居人の大学の方は、前期の授業が終わってしばらくすると「アンケートの結果」が送られてくる。
授業の最終日に大学は受講生に授業感想などアンケートをとって、その集計結果を知らせてくれるのである。当方の勤務校も似たようなアンケートをとっているが、結果が配信されるのは授業が終わってしばらくたってからである。
同居人の方ですごいのは、自由記述になっている学生の感想やら意見やら要望に「お答えしてください」という文言付きで結果が配信されることである。

このテのアンケートは、大学が内部で作業しているのではなく、集計を外注している様子で、当方の勤務校はやたら分厚い前年度の「アンケート結果」のファイルとデータディスクが、新学期にどーんと講師室のテーブルの上にのっけられていたりする。
先生によってはアンケートの結果を眺めて一喜一憂していたりするようであるが、そもそも、一喜一憂のために予算はたいてアンケートをとっているわけではあるまい。アンケートの結果から何をしろ、という指針も支持もなく、ただ結果を送られてもなあ、という気がする。満足度90パーセント以下で講師料は5割引、と言われたらどうしようかと、一瞬考えたりはするのだが。

「授業は分かりやすく進められましたか」「課題について十分な説明がありましたか」「学習の指導は十分に行われましたか」などという質問項目は、大学生の授業で聞くことなんだろうか。そんなものは授業に出席している学生の顔を見れば分かりそうなものである。
むしろ「全日程遅刻せずに出席しましたか」「授業中に居眠りやおしゃべりをしませんでしたか」「授業の準備は自分で確実に行いましたか」「宿題は忘れずにきちんとやってきましたか」「授業中に携帯やスマホで遊んでいたり、内職など授業科目以外のことをやっていませんでしたか」などという項目をクリアしてから、教員や授業を評価して欲しいものである。そういった学生に「授業はわかりにくかった」などと言われたくはなない。こっちは学生以上に欠席遅刻には気をつけ、しゃべりっぱなしで居眠りや内職などできないのである。それ以上に授業の準備は大変である。授業時間の2倍3倍はあたりまえ、数ヶ月かけて資料をぼちぼち揃えていたりするのである。片手間に教えているわけではない。

しかし、「お答えしてください」というチェックのついた「不満足でした」そうな意見には、小心者だけについ「ごめんなさい」と言ってしまいそうである。

2012年9月16日日曜日

ビラ


立て看板はなくなったが、それなりにサークル勧誘だの、イベントのお誘いだのと言う告知事項は学内にはたくさんあって、現在はビラをあちこちに貼るのが定番である。
コピーという文明の機器も身近なものになり、学生はコンピューターでちょいちょいと見栄えのいい写真入りのフライヤーを作成なさる。

学内のあちこちに貼りまくられたので、事務局は「学生用の掲示板」というのを設置した。まあここならいくら貼ってもOKという場所である。だが、当然のようにこういったところよりも、告知に効果的なところに学生はビラを貼りたい訳で、だからやはりトイレだの自販機付近だの階段の手すりだのエレベーター内だの、学内のあちこちにビラは貼られる。
あまり貼られると景観的にはよろしくないので、当然のようにいくばくかは「剥がされる」ことになる。剥がすのは勤務校の場合、お掃除のオジサンやオバサンの役目のようである。朝早く、学生の来ない時間が「剥がし」時である。学生のいる時分であれば、トラブルになりかねない。オジサンたちは金属製のヘラを片手に、ていねいにビラを読む。基本的に「募集時期超過」「告知イベント日時終了」は剥がしている。そうではないものは、ひどく美観を損ねるものではないとか、業務上不都合とか、消防法上危険、とみなされなければ後回しである。

学生さんは貼るばっかりで、剥がさないのである。

2012年9月14日金曜日

立て看板


大学構内ではあちこちにポスターだのビラだのが貼ってある。

一昔前だと「立て看板」というのがあった。
材木屋からベニヤ板と垂木を買ってきて大工仕事、最後にベニヤにペンキやアクリル絵の具で絵を描く、というやつである。
「劇団なんとか本日初日!」というのもあれば、「体育研究室主催夏の水泳教室参加者募集」というのもあったりして、大きいのでまあまあ目立つ。
むしろ大判コピーなんかの方が高いので、せっせとアクリル絵の具で立て看板を塗り替えたりして使い回したりしていた。

そんなのが、学内になくなってから何年になるだろうか。学内のあちこちにおかれていた自転車や、放置されていた学生の課題作品なんかが一掃されて、一見きれいにはなったけれど、なんだか大学っぽくないなあと思ったりする。大学というのは雑然として活気があるように見えたものである。

2012年9月12日水曜日

撃沈


公立小学校にエアコン整備、という話が出たときも、なんだか本末転倒で、これなら夏休みなど設けずに、涼しい教室でお勉強三昧、のほうがいいのではないかと思った。
気候と、季節、カレンダー、というのは、なかなか一致しないものである。

だから、始業第1日に来ていない学生がいると「あれ?」と思うのである。
こんなに暑いのだから、まだまだ夏休み、と思っているのではなかろうか。

私が助手の頃に、やはり始業日にやってこない学生がいた。数日経っても、学校に姿を見せない。
夏休みは学生が「沈没」してしまうケースが多い。その間に授業や大学よりも楽しいことを見つければ、そちらに行ってしまう。
研究室の助手が大慌てで連絡をとったら、「沖縄のバイト先で居心地が良すぎてそのまま現地に居続け」ていたり、「夏山登山にはまってしまい、ガイド修行中」とか、「丁稚奉公のつもりで通ったデザイン事務所で、継続勤務を懇願され、働くことになってしまった」、つまりまあ、人生の方向を変えたのでまあよろしく、というケースもあった。
件の学生もそのクチかと思っていたら、数週間後にやっと「授業が始まっているんだけど」と連絡がついたときの返事が、「え???」であった。暑いのでまだまだ夏休み中と思っていて、学事予定を確認し損なっていた、もう始業していたなんて……というのである。

慌てて授業に来なさい、とお尻をたたいて、追加課題など先生に要請して無事授業にカムバックさせたのだが、まあのんびりした時代だったということではある。

2012年9月11日火曜日

始業


勤務校は、年間二期制である。

私の通っていた中学高校も二期制だった。4月から9月、10月から3月、という区切りである。だからして、前期末の試験は9月末、夏休みは試験勉強にいそしむようになっており、満喫した、という感じはしなかった。
大学に入ってからの二期制はすこしずれていて、4月から7月、9月から1月、という区切りだった。夏休みはまるまる2ヶ月何しようか、という状態である。もちろん「夏休みの宿題」を課す科目もあったりするのだが、中学高校の試験勉強と比べれば楽しいものである。
ここ数年は、少子化に伴う受験期間の見直しが影響しているのか、後期は9月から12月、という区切りになった。まあ、以前は1月に1-2週の授業があって試験だったから、何となく間合いの悪いスケジューリングのように見えたので、カレンダーから見れば「おさまりのいい」予定表が組まれている。
問題は、だからといって、授業日数が減っているわけではなく、12月に終わらせるために、9月の始業が早くなったということだろう。昨年は関東大震災のこともあって、学事予定はずれていたのだが、今年の始業は9月3日、公立小学校並みである。しかも残暑も厳しく、屋外の実習を考えると暑いことこのうえない。できれば最高気温30度以下になったところで始業、という制度もほしいところである。晴天の南側教室で授業をすれば、温室状態なので、エアコンはフル回転である。環境に優しいとは言えないような気もするが、学事予定はそんなことは関係ないのである。

2012年9月9日日曜日

ニアミス


知人が、同じ大学の違う学科に入学したのは4月のことだった。
あちらは同じ大学だから、構内で出会うこともあるだろうと思っていたようだが、「意外にも」なかなか会いませんねえ、などという話を、7月になってから伝え聞いた。

とてつもなく小さい学校、というわけではなし、そこそこの人数もいることだし、お互い授業にいそしんでいるわけであるから、そうそう会うものでもないだろう。

そもそも、私の学生の頃とはずいぶんと学校の状況も変わっている。
以前は授業が終わると居場所がないので、構内のあちこちでごろごろしていた。その学生の定位置、というのがあった。昼休みにはだいたいあそこのベンチのアタリ、でつかまえることができた。建物が増え、教室も増えた。学生の居場所がたくさん増えたので、教室や工房内が「定位置」になりつつある。
冬はともあれ、夏になると教室内は暑いので、廊下に机を出して、バケツに水を入れ、足を突っ込んでミーティングしていたりした。教室で授業であっても、窓やドアは開けっ放し、網戸無し、蚊遣りを焚きながら、話し込んでいた。今や、冷暖房完備になった。冷暖房効率のために教室は窓も開けない「密室」、建物は完璧な「箱」である。外から授業が見えないし、開けっ放しの教室もない。学生は授業が終わるとすぐに学食へ行って、涼みながらお弁当である。

ニアミスの機会が格段に減っているのである。

2012年8月26日日曜日


助手として勤務していた時分、夏休みには写真の授業の夏合宿、というのがあった。
ノルマではなく有志で、先生と一緒に、清里にある学校のセミナーハウスで2-3泊遊ぼう、などという軽いものだった。今は、いろいろと手続きが煩雑になったりして、あまり実施されないようで残念であるが。

現地集合、現地解散、お決まりは朝食前のご挨拶と、みんなで夕食を食べることくらい、である。学生の都合もあって初日だけ参加とか、お泊まり無し、などというのもいたが、大イベントはやはりバーベキューに肝試し、というところである。

肝試しは、そういったことが好きな学生が、事前に仕込んだり、ルートを決めたりして準備する。途中に出るお化けなどもいろいろ工夫する。まあ、楽しいイベントである。

バーベキューは施設内の屋外コンロを借りるのだが、食材などの準備は自前である。先生の自家用車で近所のスーパーへ肉や野菜の買い出しに行って、学生が分担して下準備をする。
途中で、ご飯用の米がないことに気付いた。
「お米、誰か買ってきてる?」
肉やたれやキャベツに没頭して、誰もご飯粒は気にしていなかった。あわてて学生に米を買って、仕込まないと夕食に間に合わないヨー、と注意する。
元気よく、はーい、買いに行きマースと返事をする学生がいた。じゃーよろしくーと、送り出す。
2-30分でお米買い出し部隊が帰着。しかし手ぶらである。
「重たいので配達頼んじゃいました。すぐに来るそうです」
領収書の金額がびっくりするほど高い。学生は最高級の魚沼産コシヒカリを購入してしまったのだろうか。しかしそれにしたって高すぎる。
しばしの後やってきた米屋の軽トラックから降ろされたのは、やけにでかい米袋である。
まいどー、と帰ったあとで、眺めると、コシヒカリではなかったが、米は20kgである。
当日のバーベキューの参加人数は20名。買い出しに行った学生は、1人あたま1kgで米を購入してきたのである。

お母さんのお手伝いをしたり、自炊をしている学生を買い出しにやるべきだった。
もちろん炊いたのは、2kg程度、残りはセミナーハウスの食堂に買い取ってもらった。

2012年8月11日土曜日

定年後


通学生にとっての夏休み、通信教育課程では学内を使って「スクーリング」をしている。
普段は郵便や小包で課題やレポートをやりとりしているのだが、いくつかの単位は、教室に出向いて実技をして取得する、というシステムになっている。
地方に在住しているが、美術を学校で学びたかったり、教員資格を取りたい、といった人が「学生さん」だったりする。10年ほど前に短大から4年生になったので、堂々「学士」の資格も取れるわけである。
スクーリングは、入学年齢不問、入学選抜試験もないので、さまざまな学生さんがいる。教室やアトリエでは、先生より年齢は上、といった学生さんもいる。通学の方では、学生さんの年齢はほぼ横並びなので、新鮮な風景でもある。
私が大学に勤務していた時分に、父が定年になった。退職者のOB会や、学校の同窓会では、「定年したら何をするのか」というのがその世代の話題だったようで、ある日そんな会から帰った父が言った。
「会社で同期の○○くんが、お前の学校の通信教育課程にいるらしいぞ」。
父の勤務していた会社は金融系、お堅い商売である。○○くんは定年退職後、趣味に生きようと思い、昔志した絵画の道を歩もうと思ったそうである。まず、学校に通おうと思うのがお堅い商売していた人らしいなあ、と思ったが。

数日後、父の友人の受講している授業の終了を待ち構えて、挨拶に行った。その頃は、学内の冷房設備はほとんどなくて、暑い構内だったが、汗を拭き拭き、大きなカンバスを抱えているオジサンは、とても楽しそうだった。


通学している学生は夏休み、こちらも当然夏休みなので、学生や学校ネタはお休み。
ところが、学校には通信教育課程というのがあって、こちらは夏休みは通学生が来ない校舎を使って、スクーリングという面接授業中。施設の方はフル稼働である。
通っている学校の通信教育課程というのは、ずいぶん前からあって、1951年というから、年季のいったものである。
私が学生の頃から、夏休みは私物を持って帰るようにと、教務課があちこちに貼り紙をしていた。夏休み中は、全く別の学生が、全く別の授業をしたりするのである。通学生の試験が終わるとすぐ、学生のアルバイトを動員して、学内の模様替えである。8月終わり頃にはスクーリングも終わるので、通学生のための現状復帰である。
もちろんそれに合わせた商売というのもあって、学校周辺の安アパートでは、「夏期休暇中の又貸し」というのがあった。まあ家財道具が少なかった頃で、貧乏学生だし、8月分の家賃はただになるし、というものである。盗られて困るようなものがない男子学生でそういうアパートに入居したのがいた。9月に戻ってきたら、むしろ備蓄食料が増えてた、などという話もあった。
学校に通うのに車を使っている学生は、周辺の民間駐車場を借りていたが、こちらも「夏期休暇中の又貸し」制度あり、というのがあった。
今は、学生の所持品もたくさん増えた一方、車を持つ学生が減っていたりして、スクーリング学生相手の商売というのも、ずいぶんと様変わりしたのではないかしらん。

2012年7月30日月曜日

私にも


現在、「学校」というところで教えられている「映像」系の授業では、多かれ少なかれ「機械」による作業が伴うことが多い。機械や技術の上に成立している表現でもあり、その依存度はとても高い。

逆を言えば、「機械を扱うことが出来れば表現が出来る」と誤解されやすい分野でもある。
木彫で言えば、鑿が扱えなければ、彫刻は出来ない。丸太と鑿だけでは、彫刻は出来ない。

映像という分野では、中学高校でリテラシーを教えられていないので、表現としては多くの人にとって未知の分野である。なぜ未知なのか、と当人に問えば、「カメラや編集システムなどが手元にないから」であり、それさえあればテレビや映画館で見ているような表現が手に入ると誤解している傾向が強い。
中学高校の授業やワークショップなどで、簡単な映像制作、アニメーションなどの実習をやっているケースを散見するが、「機械を使った表現」に特化しているものが多く、リテラシーまでは踏み込まない。基礎教育の中では、「表現する」ことと同じくらい、「読むこと」や「解析、分析すること」が大切であるはずなのに、とよく思う。英語や日本語、漢文や古文は、文法から入るのに、こと映像表現という分野で言えば、文法抜きに表現に一足飛びである。絵画や彫刻と言ったプリミティブな表現ではなく、機械を使った表現手段を使うことでコワイのは、そういう作業であってもアラが見えないことが多い、ということでもある。なぜなら、その作業を見る方もリテラシーをあまり考慮しないからである。

丸太からかたちを彫り出すのは、それなりに体力と時間が必要である。
しかし機械を介在させる表現の場合、それは機械が担うことになる。だから、いくら体力や時間を使ってもそれは直接映像上には見えない。10分間の短編映画をつくるのに、17年、25年かかっている、というものがあったりする。しかし、その時間の蓄積はオーディエンスには直接は伝わらない。だから、カメラが手に入れば、すぐに自分にも写せます、という「扇千景状態」である。機械を触っていれば、表現したような気になっている、というのがコワイ。大切なことは、機械を扱えることではなく、それによって何を伝えるか、といったことであるはずだ。

スマホで写真を撮影するのに必要な技術は、シャッターボタンを押すことだけである。露出、感度(電子映像ではゲイン)、ピント、被写界深度、ホワイトバランスは、むしろコントロールできない。だから、機械が表現しているのか、自分が表現しているのかという境界線がどんどん曖昧になりつつある。

中学高校の「映像系」の授業実践を見るたびに、何かむずがゆく感じる今日この頃でもある。

2012年7月29日日曜日

コピー


コンピュータで作業していて、もうひとつ面倒くさいのは、ソフトウェア、というものである。
コンピュータはハード、機械だから、単体では動作しない。ソフトウェアを組み込んで、さまざまな作業をする。

デジタル時代になって、アナログと一番違うのは「コピー」とか「オリジナル」といった概念だろう。デジタルでは、コピーしても劣化しないので、同じものがいくつも出来る。
一方で、ソフトウェアというのは、開発に元手がかかるので、それなりのお値段になる。しかしそのものは、「ファイル」でしかなく、コピーも簡単だ。だから、著作権法に違反していると頭の片隅で考えながら、ソフトウェアをコピーして使うという人が多くいた。
そもそも価格設定が妥当なものか、という判断材料はユーザーにはない。ハードにはお金をかけても、無形のデータであるソフトウェアにお金をかけない、といった傾向があった。
インターネットが普及して、それぞれのコンピュータがネットワークで常時監視されるようになると、高額なソフトウェアの使用状況はどこからか監視されていて、同じライセンスを同時に使えないようなシステムも出来た。

ユーザーとソフトウェアのメーカーとは、常にいたちごっこや知恵比べをしているようだ。
そうは言っても、人間正直なのが一番である。基本的には「ずる」をせずに、きちんと開発の対価を払う、というのが枕を高くして眠れる要因ではある。財布には痛いが。

2012年7月28日土曜日

ローン


動画を扱うメディアが、フィルムからビデオに代わるのに何年かかっただろうか。しかしそれよりも早いのは、コンピュータをとりまくものの開発スピードである。
こちらは、もっと早いので、学校現場などちょいとゆるめに時間が過ぎているようなところにいると、あっという間に取り残されていく。

20年近く前のことになるが、学生が1年生の終わり頃に、一発奮起してパソコンを購入した。周辺機器やソフトも含めて70万円以上になっただろうか。彼としては一生の仕事の元手になったと感じることが出来たのだろう、4年ほど、つまり48回ローンで返済計画を立てた。
届いた大きなパソコンで、意気揚々とコンピュータグラフィックの自主製作を始めた。

一般的に、うちの学生さんはあまり「金持ち」ではないし、その頃はあまり「アカデミックディスカウント」という制度もなく、もちろん「下取り」というマーケットもなかった。
彼が3年になった頃には新型が出て、メモリは半額、4年になった頃にはもっと新型が出て、卒業制作の頃にはずいぶんと「型落ち」になった。同じ性能のマシンが、四半分ほどの値段になり、大きさも半分ほどになったが、ローンはまだまだ残っていた。

以来学生さんには、早いうちに自分のマシンをローンで買わないように、が教訓である。

2012年7月27日金曜日

ランニングコスト


メディアが代わることは、現場で言えば技術的な問題であったりするが、やや「いたしかたない」面がある。好みで言えば、「それはいや」という表現者がいれば、幾多の面倒くさいことが増えていくだけの話である。作業のコストや手間が大幅に増えることになるのだが、それに値するものだと作り手が考えるのであれば、えっちらおっちらと乗り越えるだけの話だ。

一方、学校の現場ではそうはいかない。こちらはどちらかと言えば、「伝統技術保存」ではなく、将来性を見込む技術を取り入れるからである。一気に、というわけではなかったが、そろりそろりと、数年内に、それとなくメディアが代わっていきつつある。今や研究室の20歳代のスタッフは、8ミリや16ミリの映写機を見たことがなかったりする。いわんや操作をも、である。
フィルムがビデオになって何が良いか、と言えば、ランニングコストである。初期設備の投資はかかるが、メディアにかかるコストは格段に安くなる。だから、学生の作品でも40分とか60分のドラマがどーんと出てくる。

作品の出来としてはともかく、それだけ長いものも作れるのは、電子メディアならでは、である。しかし、長いから良いものである、とは限らない。実際には短編をつくる方がはるかに難しかったりするのである。

2012年7月26日木曜日

シャッター音


現在、「学校」というところで教えられている「映像」系の授業では、多かれ少なかれ「機械」による作業が伴うことが多い。機械や技術の上に成立している表現でもあり、その依存度はとても高い。しかも、技術的な開発がとても早い。

私が学生だった頃は、実写で映像系の表現、と言えば、もちろんメディアはフィルムである。16ミリフィルムはネガなので、撮影したら、現像して、焼き付けなければならない。最終的に作品にするには、ネガを編集し、初号焼き付けをとり、その後現像所で焼き付けの指定をする。その後に上がったフィルムが「第1号」である。撮影する(フィルム代+現像代+ラッシュ代)×本数、出来上がる作品の(初号焼き付け代×長さ+指定焼き付け×長さ)合計料金が必要である。その他に、白味黒味素抜けカウントリーダーなどの作業用消耗品にあたるフィルム、作品用のリールやケースも購入する。もちろんこれは画像だけの話で、音声を制作するのであれば、また別途費用がかかる。
短編映画であっても、メディアにかかる費用に百万単位は必要である。当然学生さんを始め、アマチュアでは「長編」など思いもよらない。シャッターを押せば、「じゃー」というシャッター音と共に、1万円札が上からばらばらと落ちていく、という感覚である。
撮影後、最終的にオーディエンスの前に出せるものを実際に見るまでに、いくばくかの時間もかかる。あがりを想定しながらの作業は、素人には五里霧中、玄人には経験がものを言う世界でもある。

現在は、逆にフィルムのメディアでは授業が成立しなくなってきた。需要が減ってきたこともあり、フィルムの生産が減り、従ってフィルムの種類も減って選択肢が狭くなった。現像所が軒並み撤退しつつあり、以前は中1日で出来た作業が中3日くらいかかるようになった。そうなると、もっと授業では電子メディアを多用するようになり、フィルムのマーケットはもっと狭くなる、という循環に陥る。

2012年7月25日水曜日

追う


さて。
現在、「学校」というところで教えられている「映像」系の授業では、多かれ少なかれ「機械」による作業が伴うことが多い。機械や技術の上に成立している表現でもあり、その依存度はとても高い。しかも、技術的な開発がとても早い。

仕事の関係で、中世の古典技法などひもとく機会があった。1400年頃、イタリアの絵画技法書である。テンペラ画とかフレスコ画、といった技術である。この時代だと、絵描きさんは一人でお仕事をするのではなく、「工房」を持っていて、たくさんの職人さんやお弟子さんとの協同作業をしていたのである。
まあ、お弟子さんになるにはいろいろと動機だとか目的だとかがあるだろうが、まず最初にやるべきことは「自分の道具をつくる」ことであり、描画の練習をしながら道具や絵の具をつくることであったりする。画材屋さんというのが出現するまでは、道具や材料などをつくることは「工房」の仕事である。絵画に繋がる技術はすべて「工房」の中に入っている。
一方で、機械を通して表現するものは、表現者が機械を開発する、というわけにはいかない。表現者が機械の開発を促すこともあれば、開発された機械によって表現を試みる、ということもある。

機械の開発には高い専門性が伴うので、使い手の「創意工夫」だけでは追いつかないこともたくさんある。お互いのニーズを埋め合わせようとして作業しているわけでもない。

技術面が分離されて開発されると、そのスピードはとても速くなる。油絵が開発され、ポピュラーになるのに数十年単位でじっくりと浸透していっただろうが、ネガフィルムがデジタルメディアにとって代わるのに数十年はかからなかった。

表現を追及しているのか、技術を追っているのか、分からなくなる時すらある。

2012年7月24日火曜日

GPS


携帯電話のなかったころ、人を捕まえるにはあちこちに電話をしまくらねばならなかった。

研究室のO先生は、顔の広い人で、用事もたくさん抱えている人だった。

朝、研究室に電話がかかってくる。
「あー、おれおれ、今、正門の守衛室から電話してまーす」。
ところが、待てど暮らせど、研究室には来ない。守衛室からここまでものの5分も歩けば十分だが、既に20分を過ぎている。次の授業の打ち合わせなどせねばならないのに、と守衛室へ電話をする。
「あのー、おれおれ先生は、研究室に向かわれたのでしょうか」
守衛のオジサンは冷静にお返事してくれる。
「あー、研究室のある方じゃなくて、事務局の方へ向かわれましたけど」

研究室には先生のご指導を待つ学生さんもやってくる。業者から緊急の問い合わせも入ってくる。
お約束の時間まであと15分、それまでに打ち合わせをせねばならない。
先生の行き先を想定して、あちこちに電話をする。
「教務課でしょうか。おれおれ先生はそちらにおられるでしょうか」
「あー、ちょっと前までおられたんですが」
手遅れである。次に行きそうなのはどこだろう。
「施設課でしょうか。おれおれ先生はそちらにおられるでしょうか」
「あー、今さっき出て行かれましたが」
そば屋の出前である。こうなったら先手を取らねば。
「経理課でしょうか。おれおれ先生はそちらにおられるでしょうか」
「えー、今日は見えてないようですが」
うーむ、今日はお金の話はないのかもしれない。
「図書館でしょうか。おれおれ先生はそちらにおられるでしょうか」
「いいえ、見えてません」
しかし、ここで妥協してはいけない。構内のルートとしては次はあそこの研究室に寄るかもしれない。違う研究室にいくつか電話をかけまくる。いつも同じルートを通るとは限らないので、油断が出来ない。

まあ、たいてい「おっす」と言いながら涼しい顔で、しばらく後にやってくる。まったく予想しなかった研究室でお茶をご馳走になっていたりする。
学生との約束は、ちょっとすっとんでいて、授業の打ち合わせはヒトコトで「あとはよろしく」だったりする。

研究室内に大きな構内地図があり、先生の現在地に赤ランプが点滅している、というのが当時のスタッフの夢だった。今は携帯電話があるので、先生の居場所はすぐに知れているのだろうか。

2012年7月22日日曜日

なまもの


なまもの、というのでよく思い出すネタがある。

田舎のおばあちゃんから、小さなトロ箱(発泡スチロールの箱)がクール宅急便で届いた。ガムテープで封がしてあり、赤いマジックで「生物注意」と書いてある。
受け取ったお嬢ちゃんは
「おばあちゃんから何か届いたヨー」
とお母さんである嫁さんに知らせる。嫁さんは2階でお掃除中である。
「なまものちゅういって書いてあるヨー」。
「なまものだからクール便で届いたのよ、冷蔵庫のチルド室に入れておいてちょうだい」
嫁さんはお嬢ちゃんに言いつける。お嬢ちゃんはトロ箱のまま冷蔵庫に突っ込む。
差出人の息子である旦那がご帰宅。
「今日はおばあちゃんからご馳走が届いたみたいなのよ、見てくれる?」
食事の支度中の嫁さんに言われて、どれどれ、と冷蔵庫を開ける。
「これだヨー」とお嬢ちゃんがトロ箱を指さす。
どれどれ、と旦那とお嬢ちゃんはガムテープを景気よく剥がす。

中に入っていたのは虫かご、もう寒くって瀕死の状態のスズムシだった。

生物注意=なまものちゅうい、ではなく、いきものちゅうい、だったのである。
教訓:トロ箱が届いたら、まず開ける。

2012年7月20日金曜日

いきもの


いきもの、なまもの、天気は、自由にならない、とは学生時代によく言われたことである。
被写体として、人間以外の生きもの、天気に左右される撮影計画は、なるべく避けろ、と言われた。

当時習っていたのは、日活で映画監督をしていた人で、製作の苦労談など時折聞いた。
『豚と軍艦』の助監に入っていて、豚のシーンで苦労したことを聞かされた。

その後、日活という会社がロマンポルノ製作に舵を切った。製作費は当時、1本5より上にはならない数百万。安く仕上げるには、準備も撮影も編集も早く済ませる、キャストもスタッフも人件費を抑えることが肝要である。撮影は1日いくらの勘定だからである。そんな状態で脚本家はシナリオに「部屋を開けたら真っ黒い蝿の群れが」という文を書いてきたらしい。低予算の映画なのに、準備は恐ろしく大変だったのよ、とその後見学に連れて行ってもらったスタジオのスタッフから聞かされた。蝿を集めるのに費用はかけられない、だからみんなで手分けして夜な夜な蝿を捕獲していたらしい。

黒澤明の天気待ち、というのは有名な話である。晴れるまで待とうホトトギス、とは待つことに費用がかからない人が言うことである。スタッフキャストもエキストラも、待つ間にアゴアシマクラの経費はかかる。機材はレンタルだから、もちろん動いていなくても経費はかかる。黒澤監督だからこそ、会社は待っていても1日数百万円の費用を出すのであって、新米監督やポルノなどではそんな悠長なことは言えない。

映画を見ていて、いきものを使うシーンを見る都度、豚と蝿の話を思い出す。

2012年7月19日木曜日

金魚


授業が終わって研究室に戻ると、テーブルの上に小さな金魚鉢があった。直径10センチくらいの小さな丸い金魚鉢、ひとすじの水草と、赤い小さな金魚が入っていて、パッケージに入った「金魚の餌」が並べてある。
学生の課題制作で、ドラマの撮影に使うのだという。明日も使うので、夜はスタジオではなく研究室にお預かり、とあいなったようである。

翌朝、授業のために研究室へ行く。数名のスタッフが、くだんの金魚鉢をのぞいて、うなっている。
「うーむ」。
明らかに金魚は昇天されていた。
確かにこんな小さな金魚鉢だし、大丈夫かなあと思ったのだった。スタッフが夜帰りがけに見ると、ぱくぱくしていたので、餌をまいて帰った、らしい。
うーむ、そのぱくぱくは、空腹を訴えていたわけではなく、酸素不足だったのでは。

その日の撮影がどうなったのか気にはなるのだが、昇天した金魚さんも気になる。
映像制作では、なまもの、いきもの、天気は自由にならないから、とよく言われたものである。
何か舞台裏を見てしまって申し訳ない気になってしまった。

2012年7月18日水曜日


太ももをがっぷり犬に咬まれても、妹に「トラウマ」という言葉は存在しない。犬は好きなのである。

彼女が二つか三つの、ご幼少のみぎり、庭の池で溺れかけたことがある。鯉がいたりするのだが、子どもの膝丈くらいの深さの池があった。茂みに囲まれているので、縁石は苔むしていてよく滑った。案の定、妹は滑って転んで池の中なのだが、なぜかうつぶせに池の中に落ちてばたばた手足を動かしていて、自分の足で立とうとしない。びっくりした私の悲鳴で祖母と母が家から飛び出して、妹をすくいとった。

げぼげぼと咳き込んだりしていたのだが、これもトラウマとなることなく、今やスイミングプールに足繁く通っている妹である。

妹に「トラウマ」という意識は決してないのではないか、と勘繰っている今日この頃の、トラウマだらけの姉である。

2012年7月16日月曜日


友人が、医者への通院途中に犬に咬まれてしまったそうである。
動物に咬まれると、いろいろと狂犬病だの破傷風だの検査が必要で、消毒しておしまい、というわけにはいかない。
大けがではなかったことを祈るばかりで、いろいろと思い出すことがあった。

妹が小学校に上がる前の年齢だったろうか、近所に散歩に来ていた犬に咬まれたことがある。太ももをがっぷり、という感じで、慌てて駆けつけた母親が妹を抱え、私には留守番を言いつけて、どこかへ走っていった。
子供心に、ずいぶんと経ってから帰ってきた妹は、でっかい絆創膏を貼り付けていた。

それからまた年月が過ぎて、私も分別がつくようになった頃、あのときは大変だったねえ、という話になった。
母親は妹を抱えて交番に駆け込んだらしい。様子を聞いたおまわりさんは、獣医さんに連れて行ってくれたらしい。妹は犬猫病院で絆創膏を貼られて帰ってきた、らしい。

もう少し経って、私がもうちょっと分別がつくようになった頃、あのときはどうだったのかねえ、という話になった。
母親は実はパニックになっていて、駆け込んだ交番のおまわりさんもとっさのことで慌てていたらしい。もしかしたら、妹が犬を咬んだと勘違いしたのかも知れないし、狂犬病は獣医さんで治してくれると思ったのかも知れない。でも獣医さんは慌てず騒がず消毒して絆創膏を貼ってくれたのだそうである。

犬に咬まれたことで犬嫌いになったということはよく聞くが、そんなことはなく犬好きな妹である。

2012年7月15日日曜日

不審者


新宿までバス15分というところから、東京と埼玉の県境の郊外へ引っ越して10年ちょっとになる。

引っ越した年の秋、回覧板がやけに頻繁に回ってきた。不審者出現につき注意しましょう、などという文面である。不審者が出現するたびに、状況が回覧されるのである。

不審者は、ものを取ったりしないようだが、庭になっている柿を食べたようである。縁側に柿のへたとタネが残っていた。
不審者は、ものを取ったりしないようだが、庭履き用のサンダルをあちらこちらへと散らかしていたらしい。
不審者は、ものを取ったりしないようだが、花壇に踏み込んだらしい。

うーむ、ホームレスが夜中にうろうろしている、あるいは空き巣が下見している、という図なのだろうか。
警察にパトロール強化のお願いをした、という文書も入るようになった。

その数週間後、毎月恒例の回覧板が回ってきた。中にこんな文書があった。
「不審者のお知らせについて」
まあ結局のところ、ホームレスや空き巣がうろうろしていたわけではなく、どうもタヌキの仕業だったらしい。どこかの家の庭で遊んでいるところを、何度か目撃されたようである。

郊外のニュータウンらしいお騒がせ、ではある。

2012年7月14日土曜日

たぬき


新宿までバス15分というところから、東京と埼玉の県境の郊外へ引っ越して10年ちょっとになる。
生まれは名古屋だが、新宿育ちの同居人にとって「郊外暮らし」は初めてのことだそうなので、生活環境についてのリアクションがいちいち「都会人」らしかった。

近くに大きな寺があり、その周囲には「動物注意」の道路標識がある。描かれているのは狸の絵である。
夕方に、駅まで迎えに行った帰り道、20メートルほど向こうを狸がゆっくり道路横断中であった。のんびりしている郊外では、生きものものんびりしたものである。

そこは「タヌキ通り」と命名された。

2012年7月13日金曜日

きつね


新宿までバス15分というところから、東京と埼玉の県境の郊外へ引っ越して10年ちょっとになる。
生まれは名古屋だが、新宿育ちの同居人にとって「郊外暮らし」は初めてのことだそうなので、生活環境についてのリアクションがいちいち「都会人」らしかった。

早朝、駅まで車で送った時に、100メートルほど向こうの方を黄色い動物が横切っていった。猫にしちゃあ大きいなあ、と同居人は感じ入っていた。
そうだろう、しっぽがふかふかで、胴体ほどの長さである。それはキツネ、と教えてあげた。

帰りがけに横目で見ると、すぐ近くに小さなお稲荷さんの祠があった。

2012年7月12日木曜日

もぐら


新宿までバス15分というところから、東京と埼玉の県境の郊外へ引っ越して10年ちょっとになる。
生まれは名古屋だが、新宿育ちの同居人にとって「郊外暮らし」は初めてのことだそうなので、生活環境についてのリアクションがいちいち「都会人」らしかった。

歩いて5分ほどのところに、米軍の通信基地、というのがある。基地と言っても、軍用トラックやヘリが始終出入りしているわけでも無し、近所に兵隊さんたちがうろうろしているわけでもなし、だだっ広い原っぱに、ヘリポートと簡易型象の檻、といった風情の設備があるだけである。
引っ越したのは春先で、原っぱに土の塊がそこらじゅうに盛り上がっている。同居人はそれがなんだか分からなかったようで、夜中に誰かが土を掘り返しているのかと思っていたそうだ。誰が何のために掘り返しているんだろう、などとぶつぶつと言っているので、あれはもぐらなんだけど、と教えた。
新宿の真ん中には、さすがにもぐらは出ないのだろう。

以来その基地沿いの通りは、同居人と私の間で「モグラ通り」と命名された。

2012年7月9日月曜日


そんなわけで、母親が育った家には、書生さんというのが何人かいたのである。

戦争中、母の家は空襲で焼け出された人を収容することになった。空き部屋に、書生さん以外にも居候を抱えることになった。
当時住んでいた本郷の家はそれなりの大きさだったようなので、それなりのおうちの人が居候にやってきたらしい。中には「じいや付き」の御曹司もいたりして、にわか下宿屋となったそうである。
下宿屋だからと言って、誰もが食費を払ってくれるわけではないし、戦時戦後のこととて食料がふんだんにあるわけではない。「じいや付き」も含めて、若い人は、しじゅうお腹が空いているわけである。

家の庭には大きな木があって、フクロウがよくやってきた。フクロウ、と聞いて絵本や物語を思い出す、といったご時世ではない。雀より大きい=食いでがある=今夜のおかず、である。数日かけて「フクロウ捕獲作戦」をみんなで考えて、捕獲にいそしんでいたのだそうである。

結局、捕獲することは出来なかったらしい。「フクロウ」という鳥が話題に出ると、みんなでフクロウを追いかけ回した昔話を、母から聞く。捕獲していたら、いったいどんな料理になっていたのだろうか。

2012年7月8日日曜日

ソース


そんなわけで、母親が育った家には、曾祖父の教え子、つまり書生さんというのが何人かいたそうである。まあ、地方から出てきた秀才、といった風情だったのだろう。

曾祖父の奥さん、つまり曾祖母というのも東京女子高等師範出身、わりかたしゃきしゃきと、物言いのはっきりしたタイプであったそうだ。
母、つまり曾祖父の孫は難しそうな宿題を持ち帰ると、曾祖母に相談して、書生さんに代筆をお願いした、ということが何度かあったらしい。教員の孫としてあり得ない、と思ったが、曾祖母の持論は違っていて、勉強するのはいつでも出来るし、学校の思うとおりに宿題をやっても本来の「勉強」とは違うのだから、誰がやっても構わない、ということだったらしい。

そんなふうに、宿題をやってくれたかもしれない書生さんのひとりとは、彼が亡くなるまで付かず離れず、親子ぐるみ孫ぐるみで、つきあいがあった。彼は卒業後母校の教員になったのだが、遊びに来ると「単なるオモロイオジサン」でしかない。何を研究しているのオジサンか、と母に聞くと「代用ソース」と答えが返ってきた。

長じて調べると彼は応用化学の教授で、戦時中は専攻を生かして食材を研究開発していたのだそうである。おかげで私の中では「応用化学=代用ソース」が直結してしまった。本当は、それだけが研究対象ではないのだろうが、申し訳ないことである。

2012年7月6日金曜日

価格


大学にはもちろん、講義科目もある。

のだが、美術学校のメインは実技授業であるので、一介の講義科目の非常勤講師には手当もサポートも多すぎる、ということはない。
実技の科目なら、出席や採点の集計、教務とのやりとりは、専攻科目の担当職員がまかなうところなのだろうが、講義科目はそうはいかない。いくら人数が多くても、出席のカウントやら採点の集計も含めて諸々の事務雑務は講師の仕事になってくる。
次回の授業の仕込みに約1日、授業後の採点に半日、その集計に2時間とかかる。講師料は講義90分に対する価格設定なので、準備集計まで含めて時間単価を計算すると、とっても割が合わない。

それでも授業をするのはなぜか、と言うことにはなるのだろうか。
曾祖父が某大学の教員を要請されたときは、「給料は出せないけどよろしく」ということだったと言う。今やマンモス大学だが、戦前はそんなバンカラ、ボランティア精神よろしいところであったらしい。金勘定で、授業をするのも受けるのも義務的な今日とは違うような気がする。

今や金回りのいい大学のようであるが、その昔のボランティア精神はまだ生きているのだろうか。

2012年7月4日水曜日

受講料


大学生にはもちろん、講義科目もある。

しかし美術大学の学生さんにとって「本命」は実技授業である。が、講義科目もある程度の単位を取得しなくてはめでたく卒業、というわけにはいかない。
本命の実技が忙しくなって、講義科目がおろそかになり、そのため卒業制作は優秀、就職も内定だったのに、1年次必修の英語が取れていなくて、卒業も就職もチャラ、というケースが時々あったりする。
だから、実技が忙しくない低学年のうちに、講義科目は取れるだけ取っておくというのが、まあ普通の学生の単位取得作戦であったりする。単位取得は個人の管理なので、実技を見る研究室では「英語の単位が足りない」などと注意はしない。
それでも毎年性懲りもなく英語を落としてしまい、4年になっても英語を1年生と同じ教室で受講、なんていう学生もいたりする。

同居人の通っている大学では、昨年度から再履修に科目受講料が別途課せられるようになった。先の学生さんなんかのケースだと、同じ授業に対して3回エキストラの授業料を払う、ということになる。
こういった経済的な枷で再履修が減るのか、と言えば、完璧には減らない。授業料は保護者が払うもので、懐が痛いのは学生ではないからである。だから、同居人が学校から出席問い合わせを受けるときは、教務経由保護者の問い合わせ、というのもある。再履修の授業料を払ったが、うちの子は真面目にやっているだろうか、といった趣である。

それは、教務経由ではなく、保護者と学生の会話だったりするような気がするのだが。

2012年7月3日火曜日

選択


大学にはもちろん、講義科目もある。
受講生が多ければ、出席やテストなどの管理もそれなりに大変である。

でも出席しなくても単位が取れる、というわけにはいかないので、先生の方もいろいろと知恵を絞る。
アナログ時代の出席簿回し、という方法では、人数が多くて、いつ出席簿が回るか分からない、という授業もあった。あるいは、毎回ではなく、講義期間中ランダムに出席を取る授業もあった。出席はロシアンルーレットに近いものになる。もちろん、真面目に毎回出席しているのなら、なんら問題はないのだが。

昔語りに聞いた話で、よその大学の話だが、かなりのマンモス講義の運営である。
数百人という受講生なので、普段の出席はあまりとらない(というより、とれない)。そのおかげで、普段の講義を聴きに来る学生の数倍の学生がテストを受験しに来る。
テストの試験監督は、講義をしている先生ではなく、教務の人だったりする。テストの準備をして、鐘が鳴ったら私語は厳禁である。
テストの第一問。
「この授業の講師の顔写真を下記から選べ」。
「下記」には似たり寄ったりなオジサンの顔写真がずらりと並んでいる。

第一問が不正解なら問題なく不可である。
まあ、実際には私の通っているような小さな単科大学ではあり得ない問題ではある。

2012年7月2日月曜日

出席


大学にはもちろん、講義科目もある。
当然のように出席をとり、集計する。同居人の講義は150名ほどだが、毎週の作業はそれなりに大変である。
学生数が多い大学だと、もっと大人数の授業もあるだろうが、どうやってこなしているんだろうと時々授業の運営の方が気になったりする。講義の内容とか、単位取得の安易さとか、学生側の情報はよく聞くが、そっち側の情報はなかなか聞くことがない。

私の学生時代はアナログもいいところなので、授業中に出席簿がまわってきた。仲良しのお友だちの分も○をつければ代返である。まあ正確な出席者を割り出せるわけはないというのは、先生側もわかってやっていたはずなので、「完璧に捨てた人」をあぶり出すくらいの効果しかなかったのかもしれない。
他には、「出席カード」を配付し、記名して集める、というスタイルもあった。1枚ずつ、というのに、数枚がめておいて、来週再来週の分は友だちに言付ける、という裏技を見つけた学生がいたせいで、配付するカードは毎週色違いになった。

同居人の大学の最近の学生証はIDカードと言って、電子的な情報も組み込まれるようになったので、講義の入室時にカードリーダーに読み込ませて集計、というハイテク出席管理装置も導入されているそうである。それとて、サボる学生が学生証を出席者に預けておけば代返OKなので、完璧に出席者だけをカウントできるわけではないらしい。

まあ、出席するかどうかは学生の自主性であるし、出席しなければこなせないテストやレポートであれば当然単位は取れないので、ここいらへんが先生の腕の見せどころでもあるのだろう。両者の攻防は永遠の課題でもある。

2012年7月1日日曜日

西


そんな「失踪事件」があったねえ、と昔語りになりかけた、それから5-6年以上経った頃だったろうか。
件の失踪者を見かけた、という元学生が現れた。
社会人になって、夏休みに旅行した波照間島で、どうも見たことのある人がいる。呼び止めて話をすると、失踪した助手だったのだそうである。

元学生は、失踪者が担当していたクラスの学生だった。1年生だったので失踪するまで数ヶ月、しかしあまりにも強烈な「失踪」だったので、学生たちにとってはショックだったのだそうである。前日も普段通りで、何一つ変わったことが見受けられなかったので、その前日のイメージのまま、彼の頭には焼き付いていたらしい。
当の失踪者は、普段通り学校に行こうとして、自転車にまたがって道に出たら、正面に富士山があって、吸い寄せられるように西に走り始めてしまった、らしい。
それで西の果ての波照間島まで、海を越えてたどり着いてしまい、現地で生活し始めてしまった、らしい。

真っ黒に日焼けして、でもちょっと内気そうな笑い顔のままで、その後、家族に会い、学校にあいさつをしに来たそうである。そして、そのまますぐに波照間島に帰っていったのだそうである。

失踪の真相は、あまりにもきれいな富士山、だったらしい。

2012年6月30日土曜日

ママチャリ


本格的なロードでなくても、貧乏学生の交通手段はセコハンのママチャリというのが定番である。
先輩からもらったり、買い受けたり、というケースもあるが、たいてい学校の近くの自転車屋には「中古 3000円」などという紙が貼ってあるのが並んでいたりする。

研究室に勤務していた頃、別の研究室の助手が行方不明になったことがあった。
ある日助手が無断欠勤した。1-2日なら、まあ具合が悪くてアパートで寝ているのかもと、鷹揚なのが美術学校の常である。しかし2-3日しても本人の連絡はない。無断欠勤の初日の朝、普段通り、自分のアパートからママチャリで学校へ向かったのを、近所の人が見ていたりした。しかし学校には着いていない。交通事故かもと、学校はあちこちに連絡したり、通学途中で行き倒れか誘拐事件かと、ひととき学内で噂になった。警察へ手配したり、ご家族が上京してきたりと、しばらく当該の研究室は忙しかった。彼の担当していた学年も、しばらくは落ち着かない日々を過ごしていたようだった。
結局数ヶ月しても、本人の音沙汰はなく、何となく休職扱いになり、年度が替わって、空席に新しい助手が着任した。
その後残った彼の在任期間中は、どうしたのだろうかねえ、と、時折話に出るくらいになった。

日々の忙しいことにかまけている間に、それとなく彼の痕跡は学内から消えていくようだった。

2012年6月29日金曜日

すね


10年以上も前の学生なのだが、自転車少年がいた。

ある朝早くに学校へ行ったら、ある男子学生が、ロードレース風のなりをして、廊下を歩いていた。ヘルメット、ぴっちりしたシャツに短パン、自転車靴。クリートカバーを忘れたのか、爪先でカッチャカッチャと音をさせて歩いている。
あまりにも美術大学にそぐわない風景なので、思わず「おおっ」と叫んだら、相手の男子学生もこっちに気付いて、えへへ、と笑った。話を聞いたら、ここ数ヶ月はそのなりで実家のある川崎から自転車通学なのだそうである。1時間半は走るので、たいてい早く来て、体育館でシャワー、着替え、授業、という作戦であるらしい。

本格的だねえ、と言ったら、にこにこ顔で「そうなんですよお。ほら」。
と、「本格的に」すね毛まで剃っていることを自慢してくれたのであった。

2012年6月28日木曜日

遅延証明書


授業に遅刻した場合、交通機関の遅延であれば証明書を持って来てね、というのが私の授業のお約束である。

高校までに電車通学の経験がないと、遅延証明書のもらい方が分からない、という場合がある。だから遅れた電車を降りた駅で証明書をもらいなさい、などと、交通機関の使い方まで教えることになる。
JRから私鉄に乗り換えてくる場合、遅れたのはJRだけなら、遅延証明書はJRで発行するので、私鉄では遅延証明書は出してくれない。もちろんバスは交通事情から言って定刻通りというのは請け合わないから、遅延証明書は発行しない。
にも関わらず、新学期開始後2ヶ月経っても、「バスは遅延証明書を発行してくれないんでしょうか」と私に聞く猛者もいる。
昨日の猛者は、「JRが遅れました。私鉄に乗り換えて、そこの駅からバスを使ったんですが、バスの運転手がJRの遅延証明書を出してくれなくて」。

東京の交通事情に相当不案内なのか、交通機関は全部同じ経営だと思っているのだろうか。決して海外留学生というわけではないし、首都圏の出身者であったりするのだが。

2012年6月27日水曜日

根回し


4年生で選択した授業は、自宅作業ではなく工房作業が多かった。機材は工房にあるわけだから、自然と学内にいることになる。当時はロックアウトと言って、夜8時半には構内の電気が強制的に切れる。だから、作業は8時半には終了しなくてはならない。逆算して朝は9時前にやってきて、工房の解錠を待つようになる。

のべつ学内でうろうろしていると、たいてい朝早い当番の守衛のオジサンと、授業開始前に校内清掃をしているお掃除のオバサンと顔見知りになる。そのうち、顔パス、今日も大変だねえ、オバサンもお疲れさまでーす、などと声をかけるようになる。

卒業してすぐに研究室に勤務するようになったので、やはり朝は早くから、夜はロックアウトまで学生さんの作業につきあう羽目になった。守衛のオジサンには、勤務することになったのでよろしくお願いします、みたいな挨拶回りが定番である。
6月になったある日、廊下で出会ったお掃除のオバサンに、「今年も大変ねえ」と言われた。あまり何も考えずに、「今年も頑張りまーす」などと返事をしていた。
翌年の5月頃になった頃だろうか、やはりお掃除のオバサンに「今年も大変ねえ」と声をかけられた。その時もあまり何も考えずに「今年も頑張りまーす」などと返事をした。翌週同じオバサンに「ホントに今年こそ頑張って卒業してね」と声をかけられた。

しかし思い返してみると、お掃除のオバサンたちには、ご挨拶回りなど「根回し」はなかったのである。
きっと留年していたと思われていたのだろう。
翌年、同じオバサンには合わなかったので、清掃会社の配属替えとか勤務時間の変更などがあったのだろう。誤解を解く機会がなかったのが残念ではあった。

2012年6月25日月曜日

ハク


私が学生の頃は、留年している学生が今と比べると多かったような気がする。

1クラス40名弱くらいなのだが、2年生に上がれないのが4-5名と1割くらい、同時に2年生に上がると3年生に上がれなかった学生が数名残っていた。
実習中心でカリキュラムを組んでいる学校なので実習の単位取得が少なければ、学年を上がることは出来ない。3年くらいになると、落ちてきた人、落ちた人なども入り乱れ、4年の卒業時は一緒のクラスなのにあまり顔を知らない人もいたりする。入学時には一緒だったのに、卒業時には2学年くらい学年が下がっていたりする。
もちろん家庭の事情なんかもあったのだろうが、計画的に留年している強者もいた。卒業自体が「ハク」になるわけでもない業界なら、スキルをみっちりつけて、さっさと社会人、というのも選択肢の1つである。

翻って、現在は留年する学生がとても少なくなった。留年が多いと、学校経営上よろしくないのかもしれないが、とにかく研究室のスタッフが、こまめに学生のお尻をたたいている。
一方の学生の方も、しっかり出席して課題をこなす、そつのないのが多くなったような気がする。出席はしているのだが、授業中は寝てるし、実習に集中しているわけでもなく、グループワークでは他人の足をひっぱりまくる。しかし「出席は足りているでしょうか」「単位は大丈夫でしょうか」「優が欲しいんですが、どうすればいいでしょうか」などということは質問しに来る。単位のために授業に来ているのかと思わず問い返したくなることすらある。

単位が取れたからと言って、ご立派なアーティストになれるわけではない、と思うんだけれどねえ。

2012年6月23日土曜日

本質


ことほどさように、技術や文化、ハードウェアの切り替わり、というのは、その本質ではなく、利用者のニーズに依るところが大きいものである。

インターネットも、サービス開始から遍く普及していたわけではない。何かきっかけかと言えば、今でも時折「不正請求」の名前でニュースに出てくる「アダルトサイト」が出始めた頃ではなかったかという気がする。

結局のところ、「ピンク」なものは、不要不急であるが、潜在的なニーズがある。
レンタルビデオ以降、それは「個人」が「個室」で楽しむものになり、他者と共有するものではなくなった。
街にあった映画館や、ポルノ専門の上映館がなくなった。しかしだからといって、ニーズがないわけではない。どのような手段で個人にピンポイントに届けられるか、ということだったのである。

その手の情報を得るために、出費と努力を惜しまない人が多い。機械の規格は変わっていくのだが、人間の本質は変わらないと言うことだろう。

2012年6月22日金曜日

規格


映像系の作業をしていると、どうしても「機械」とつきあうことになる。
学生の頃は、動画、と言えばフィルムだったのだが、それがビデオになり、デジタルビデオになった。

最初に買ったビデオデッキはベータという規格のカセットを使用しているもので、ソニーのもの、当時は据え置きで、リモコンがケーブルで繋がっていたりした。メーカーの想定する主たる使用目的は「エアチェック」、つまり放送されている番組の録画である。
ほどなく、他のメーカーからVHSという規格のカセットを使う機械が販売された。ソニーとは違って国民的大メーカー、当然のように機械の値段を安くして「ぶつけて」くる。
その後数年は、一般家庭のシェアが次第に「安い機械」に食われつつあったが、ベータも音質や画質の良さでなかなかシェアがゼロにはならない。

一気に崩れたのが「レンタルビデオ」という商売の台頭である。
映画をビデオに収めたものを、一泊いくらで貸すもので、当初は同じタイトルの映画がベータとVHSで棚に並べられていた。大人が考えることは、まあどこでも誰でも同じようなもので、映画を家に持って帰れるのなら、ひとりでこっそり「ピンク映画」、である。こちらはなぜか圧倒的にVHSテープの使用が多かった。商売としてはハードの価格が安い方が、総体としての出費削減、売り上げ倍増である。レンタルにしろ、セル(販売される)にしろ、エッチなものを見るのは「VHS」でなければならない。見るためにはVHSのデッキを購入しなくてはならない。
というわけで、あっという間に世間はVHSビデオ一辺倒になってしまったのである。

同じ幅の磁気テープを使用しているのだが、パテント料を払いたくなくて新しい規格を作り出す、というのが、オーディオ、ビデオ関連メーカーの常である。それが普及するためには、何らかのニーズがいる。娯楽やエンターテインメントの業界では、それは文化や伝統、品質とかクオリティ、オリジナリティではなく、「ピンク」なもの、だったりするのである。

2012年6月21日木曜日

お知らせ


ちょいと郊外の小さな市に引っ越すと、都心とは違う環境なことがいくつかある。そのうちのひとつが「防災無線」というものだ。
昼間、家で授業の準備をしていると、突如どこからか拡声器で声が聞こえてくる。
「本日、午前10時、光化学スモッグ注意報が発令されました」。

何だろうと思い、注意して市内を歩いていたりすると、拡声器の設置された鉄塔が何カ所かにあることに気付く。
「ただいまの放送は新座市役所からのお知らせでした」。
ということで、市役所が拡声器で放送しているようである。東京の都心ではないことである。
もっと地方へ行くと、各戸に有線放送のスピーカーが配付されたりしているのだが、現在の居住地では間延びしたアナウンスの「無線」である。

そんな防災無線だが、一番多い放送内容は「迷い人のお知らせ」である。
「本日、午後2時頃、年齢は76歳、男性が迷い人になりました。特徴は 身長は160センチくらい、大柄で白髪交じりの短髪。服装は桃色の防水ウェア、黒色ズボン、サンダルを着用しています。お見かけの方は警察署まで至急ご連絡をお願いします。ただいまの放送は新座市役所からのお知らせでした」。
防災ではなく、捜索無線である。
高齢化社会を反映してか、迷子ではなく迷い人なのである。しかも週に数回は放送される。

一応、「防災」なので、耳を澄ますが、「迷い人」なので話半分で聞く癖がついてしまった。本来の目的で使われたときに困るなあ、と思ったりする。
しかしまともに聞いていると、160センチくらいの大柄って、どういう体型だろうかと考えてしまう。ビヤ樽体型ってことなんだろうか。

2012年6月18日月曜日

不安


映像系の実習ではグループやチームで作業をすることが多い。なぜかというと、一人では手が足りないとか、目が届かないとか、そういった物理的な理由である。つまり作業の内容を見ながら、仕事を適宜分担することで、スムーズに作業が進む、はずなのである。

ビデオで撮影作業だと、カメラをのぞいて撮影する人以外に、カチンコや役者への伝達などするアシスタントの人、後ろから車や自転車が来ないか見張る人、通りがかりの人を止めたり通したりする交通整理など、いろいろ細かい作業がある。当然、カメラマンはファインダーだけをのぞいているので、後ろから自転車がやってきてもわからないし、突然通行人がレンズの前を横切ってNGを連発する羽目になる。カメラマンだけが撮影をしているわけではない、のである。

にもかかわらず、学生さんの作業を見ていると、「全員カメラマン」状態になっていることがある。役者以外が小さなカメラのモニターに群がっている。誰も、後ろから来る人間に気を遣わない。学内だとむしろ通行人の方が気を遣っていて、掃除のオジサンがほうきを抱えて「通ってください」と言われるのを待っていたりする。
全員カメラマンになる必要はないよと注意しておくと、カメラマン以外はそばのベンチでぼーっとしていたり、スマホをいじっていたりする。下手をするとちょっと離れたところで、おやつを食べていたりする。

数年前から、こういった「ぼー」状態の学生さんが増えた。いや10年以上前から、「指示待ち症候群」というタイプの学生は多かった。以前は「何をすればいいのかなー」という顔をしていたのだが、最近は「ぼー」である。
カメラマンの気持ちになって、本人の出来ない仕事を手伝うように、と注意するのだが、「人の気持ちになる」こと自体が難しくなっているのかもしれない。おうちで日曜大工や料理のお手伝いをしたり、年寄りとつきあった経験がないのだろう。やはり「おこ様」は家庭の中では「偉い」ので、人を気遣うこともないのかもしれない。

撮影現場で「ぼー」としている学生を眺めていると、なぜか「老後の不安」というコトバが脳裏をよぎる今日この頃である。

2012年6月17日日曜日

デッサン力

水平垂直と言われたのが何となく頭の片隅に残っていたりしたのだが、考えてみると私の時分、デザインとは手作業であった。
烏口やロットリングでコンマ1ミリの30センチの墨線を数ミリ間隔でストライプにするとか、ケント紙を30センチ長さ数ミリ幅で切り刻むとか、印画紙の表層の部分だけ数ミリ四方ではぎ取るとか、コンピュータでDTP作業をやる現在では信じられないような「修業」があったのである。
まあデッサンも「美術修業」のうちなので、まあ黙々と描くしかない。これが将来何の役に立つかなど思いもしなかったのだが、意外に便利なのである。

例えば、ギャラリーの展示である。
同居人が、額縁を吊す。あちらは「よしオッケー」な顔をしているが、こちらは何かむずがゆく感じていたりする。メジャーを持って来てはかってもらうと、額縁の左右の高さがコンマ5センチほど違っていたりすることがよくある。水平定規やメジャーを出す前に、あらかたの作業の目処はつけられる。正確に作業を終了するために、最終的には必要ではあるが。

例えば、ケーキの分割である。
仲間内で大きなケーキを切り分けるときに、人数分平等に分割しなくてはならない。ロールケーキ5等分とか、ショートケーキ7等分なんかの分割は、特に微妙なので要注意である。これが平等に分けられるのが「デッサン力」の見せ所だったりする。私自身はあまりデッサンの出来がよろしい方ではなかったので、平等に切り分けられる自信がいつもある、というわけではないが。

人生修業は、いつ、何の役に立つか分からないものなのである。

2012年6月16日土曜日

垂直

研究室に勤務していた頃、先生の机を拭いて、先生宛の郵便物を揃えて机の上に並べておくのが、朝の行事であった。
主任教授はもちろんデザイナーさんなので、室内にはポスターが飾ってあり、机の上の小物はしゃれたものが多かった。

ある朝、出校した主任教授が机の上を見るなり、今日の当番が誰か、と言われた。何か粗相があったのかと見に行くと、机の上のものが並んでいない、と言われる。それなりに並んでいるようではあるが、先生にとっては机の上に水平垂直をきちんと合わせておくことが「並んでいる」ということなのであった。その日の当番は、机の上を拭いて、郵便物など「適当」に置いたらしい。斜めになっていた。
その日の当番には、口うるさい親父に見えたのかもしれない。しかし、それなりに年季の入ったオジサンから言われると何となく説得力があった。

その日の先生のお小言は、デザイナーであれば、水平垂直を常に考えなくてはならない、というものであった。その時分は、版下作業というものがあり、写植や図版を台紙に貼り込むのがデザイナーさんのお仕事でもあった。写植を斜めに貼ったりしてはならないのである。

2012年6月15日金曜日

傾き加減

デッサンをしていると培われる、と言われているのが、構図やフレーミングのセンス、光と影のバランス感覚、なんかである。石膏デッサンでは、当然すぎることであまり言われないが、静物デッサンだと静物が台の上に鎮座ましましているか、などということを細かく注意される。りんごが机にめり込んでいたり、皿に埋まったように見えてはいけないのである。もちろん、リンゴを置いてあるので、机の天板は水平であることは暗黙の了解事項である。天板を斜めに描いてしまうと、リンゴは転げ落ちてしまうからである。

ところが、ビデオカメラで撮影する初心者は水平垂直に対してかなり無頓着である。デッサンを勉強していた学生でも、平気でピサの斜塔よりも斜めな室内といった風情の絵を撮影してくる。
「なんでこんなに床が斜めなのか」と学生に問うてみると、
「不安な気持ちを表してみました」という返事だったりする。
確かに、床が斜めなのは平衡感覚には悪いかもしれない。
「いえ、主人公が将来について不安に思っているんです」。

うーむ、過去について不安があると、床が垂直になるのだろうか。

2012年6月14日木曜日

美術室

たいてい高校の美術室には石膏像が並んでいたりする。卒業アルバムなんかで見る美術部の活動と言えば、定番は石膏デッサンをしている写真である。

石膏像にもいろいろとグレードがあって、値段は同じではない。同じ像であっても製造しているメーカーによって値段が違っていたりする。同じメーカーでも型がくたびれてくると、エッジが甘いのが出来上がり、それは多少安くなるのである。
大学受験の勉強で描かされる石膏像は、胸像より大きいものが多いので、それなりなお値段になる。インテリアにするにはちょいと大きなサイズでもある。たいていの学生にとっては高額なので、自分で購入など思いもよらない。しかも、受験用にはさまざまな像を「練習」しておかなくてはならない。であるから、予備校でひたすらさまざまな像をデッサンする。

同居人は、美術を通信教育で習っていたので、そこそこデッサンには苦労をしたらしい。初めて家に行ったときは、本棚の上にどーんと、エッジの甘い「あばたのビーナス」が鎮座ましましていた。どうもその頃、通信教育の講座の方針で、首像を買わせて、自宅で何枚も描かせていたようである。うーむ、首と言えども実物大、人間の首よりも大きいし、台座もある。しかし、通信教育を終了しても毎日あばたのビーナスを描くか、と言えばそうでもないご様子。

結局、同居人の引っ越しをきっかけに、知り合いの勤務する学校の美術室にビーナスさんもお引っ越しいただいた。
こういうわけで、同居人の石膏は、美術室に並ぶことになったのであった。

2012年6月13日水曜日

品切れ中

美術学校を受験するためには、デッサンが必須だった。木炭や鉛筆でひがな石膏像を黙々と描くのが「おきまり」である。定番はアグリッパとかパジャントとかモリエールとかミケランジェロとかマルスとかラオコーンとか、その他いろいろである。
受験する大学にしかない石膏像というのがあって、それが試験に出る可能性が高いというガセネタが伝わり、ひところやけに「馬頭」ばっかり描いていた時期があった。

受験予備校に置いてある石膏像はそれなりに気をつかって保存してあった。埃をかぶらないように、日頃はビニール袋がかかっていて、素手で触ることは厳禁だった。描いていると、ついでこぼこを感触で確かめたくなったりするのだが、予備校のデッサンは「目だけで描け」というのが合い言葉でもあった。
高校の美術室にあるのは、そんなに管理が厳重ではない。先生のいないときにそーっとプル-タスの肩などなでたりした。

美術学校に行けば石膏は教材室にごろごろ、美術資料図書館のエントランスにはやたら大きな石膏像がごろごろ、もう描き放題である。専攻はデザインだったので、入学後は石膏デッサンとは縁遠くなってしまったが。

ある日、学校の画材屋の店先に「ガチャガチャ」が設置された。
カプセルに入っているのは石膏像のミニチュアである。ヘルメス、メヂチ、アリアス、セントジョセフ、ジョルジョなんかである。おおっと思ってウケルのは、美大受験石膏像デッサン出身者だけなのでは、と思うし、受験デッサントラウマでそんなものもう見たくない、という学生が多いのではと思ったが、杞憂であった。

それなりに売れ行きがいいらしく「品切れ中」が多いのである。

2012年6月12日火曜日

日本画をやっているアトリエは、板張りか畳敷き、膠を扱うので電気コンロと、保管用の冷蔵庫が必須である。
こういう道具が揃っていれば、人間やることは決まっていて、何かとかこつけてメシを作る。

違う学校だが日本画専攻の友人は、鍋料理が定番だったそうである。牡蠣と味噌で土手鍋を、師匠と囲んで美術談義である。
染色をやっている工房は、お湯を使ったり煮たりするので、大きなガスコンロと寸胴鍋が工房の備品である。年末の締めに、大きな寸胴鍋でおしるこ(染色用ではなく、しるこ用の鍋が別に保管してあるらしい)を煮るそうである。
陶磁の工房も、窯に火を入れるときは、徹夜になることがある。まあ非常時の待機だから、作業的にやることはあまりない。だからやることは決まっていて、待機している研究室で飲み食いである。
そんな火をあつかう工芸学科総出の「鞴(ふいご)祭り」というイベントでは、ここ数年子豚の丸焼きが定番だという。学生と話していると、鞴の意味は分からないが、丸焼きと言えばあのイベントと思い出す。
もうすでに、料理がメインである。

同じ釜のメシ、と言うが、美術学校では同じ鍋、だったりするのである。

2012年6月11日月曜日

リターン・キー

私の両親の場合は、「つくる」ものは「手にとって触れる」以上に「使える」ものの方がありがたい、という認識があって、デザインだの映像だのといった作業をしていると、母親にはよく「使えるものはつくらないのねえ」と言われた。母親にとって、テキスタイルとか陶磁などの工房の作品は生活に「使える」ものだが、デザインの授業のプレゼンや写真の引き伸ばしは、生活には「使えない」のである。
まあ、そうは言っても、好きでやっている作業なのだから、インクまみれだろうが、酢酸くさくなろうが、なりふりかまわなくなろうが、作業はする。
学生にとっては、「仕事の証明」でもあるし、みんなでよれよれしていれば怖くない、という状況にもなる。
そんなこともあって、なりを見れば専攻分野のだいたいのアタリがついた。

翻って今日、学生さんのなりは、均質化してきれいになった。汚れているわけではないから、それだけでは専攻分野があまり分からなくなった。肉体労働系の作業が少なくなったということでもあるのだろう。彫刻の学生だって、コンピュータで3次元のオブジェをつくってプレゼン、という時代である。彼らにとって「つくる」とは、コンピュータのリターン・キーを押すことだったりする。指先を染料で染めたり、絆創膏だらけになったり、薬品臭が髪から抜けない、などという状況は、別世界の出来事なのかもしれない。

現実的にはそういう社会になっていくのかもしれないが、それで忘れてしまうものは何もないのだろうかと、時々不安になることがある。

2012年6月10日日曜日

手の中

通っている大学では、3年次の転科編入制度、というのがある。2年次を終わった時点で、違う学科の3年生に編入できる。だから、極端な例で言えば、油絵学科に入学したが、卒業時は彫刻学科、というケースになる。
じゃあ彫刻学科の2年次までの授業はどうなる、といった論議はあるにせよ、最短経路で進路変更が出来る、というのは、学生にとってはありがたいことだったりする。身も蓋もない言い方をすれば、「とりあえず入ってしまえばこっちのもの」といったところである。

担当していた映像系の学生で、3年次に工芸デザインに転科を希望した学生がいた。そこそこセンスのいい学生で、将来有望と見なされていたので、何人かの先生は少しびっくりしたことがあった。まあ、本人がそういうのだから、それが一番いいことにちがいない。転科の理由は何か、と聞いたときに返ってきた答えは、「手の中に入るもの、自分の手で触れるものをつくりたい」だった。

映像や写真の作業では、常に相手は「虚像」である。触れるもの、手の中に入るもの、手触りのあるもの、には決してならない。

彼にとって「つくる」ということの意識の中に、「手」というものがあるんだなあと、再認識したことがあった。

2012年6月9日土曜日

指先

勤務していた研究室には印刷工房があって、卒業制作になると活版やリトグラフ、シルクスクリーンなど版画の制作がよく行われていた。

使っているのが油性のインクなので、ちょっとやそっとではなかなか落ちない。胴体の方はつなぎを着たり、髪はバンダナでまとめたりするのだが、ゴム手袋で版を触るわけにはいかない。素手で作業をするので、爪の間にまでインクが入り込み、こびりつく。工房にはピンク色の強力な工業用石けんが常備されているのだが、易々とは落ちない。無理矢理、洗おうとすれば油落ちがいいだけに手荒れでぼろぼろ、結局作業期間中は真っ黒い指先で過ごすことになる。
クラスのアイドルとおぼしき、可憐な女子学生だったりするのだが、指先だけはインクで真っ黒、などという状態になる。
もちろん、染色の専攻であれば指先は虹色、写真であれば指先は真っ黄色で何となく酢酸くさい、という状態だし、油絵の学生なら全身から使っている油の匂いがするし、日本画の学生なら何となく生臭い(これは膠)、陶磁の専攻なら何となく土埃な匂い。これでは他の大学の男子と合コンなんか出来ないよねえ、というのが4年生後半の女子の合い言葉だったりした。

美術学校で、「つくる」ことと、汚れたり臭かったりすることは、ある程度同じことだったりした。「つくる」ことは肉体労働、ということだったのである。

2012年6月8日金曜日

ぼーぼー

きょうび、キャンパスを歩いていると、昔と違ってこぎれいになったなあと思う。

オープンキャンバスに向けて学内清掃に力が入る。相前後して、植木屋が手入れに毎日のようにやってくる。
構内は広いというわけではないが、まあそれなりに植え込みなんかがあって、植木などある。キャンパスが出来て40年ほど、それなりに木は大きくなっているから、庭木のお手入れ、といったグレードではない。クレーンやらはしご車みたいなものまでやってくる。高所作業車で、3階にも届こうかという松の木の枯れ葉を丁寧に、数日かけてむしっているオジサンもいる。
どのくらいコストがかかっているのかは分からないが、おかげでキャンパス内は草ぼーぼー、という様相にはならない。

そんなことを考えながら、たまによその国立系の大学構内を歩くと、ひたすら草ぼーぼーで怪しげなエリアがあったりして、「歴史」も感じてしまったりする。喩えるなら、身なりに気を遣わないガリ勉君という風情である。
ずいぶん以前に、東大医学部あたりで白骨死体を発見、というニュースがあった。病院の患者さんが行き倒れた、ということだったが、白骨化するまで気付かれないところがすごい。構内が果てしなく広いのか、と言えばそうではないので、草ぼーぼーで気付かれなかった、植木屋も清掃業者もそこには立ち入らなかった、ということでは、と勘ぐりたくなる。

学内清掃にいそしんでいる業者さんと植木屋さんを眺めながら、ここでは白骨化する前に見つけてくれるに違いないと安心してみたりもする。

2012年6月7日木曜日

好感度

きょうび、キャンパスを歩いていると、昔と違って「普通の大学」っぽい感じだなあと思うようになった。

私が入学した頃は学内に立て看板がごろごろ、あちこちに自転車がランダムに駐輪して、ロッカーの上には彫塑の課題の木彫りの足首、階段の裏の薄暗がりにはこれまた彫塑の課題のコンクリのシイタケ、廊下には作品の巨大パネルが立てかけてあったが埃まみれで何年ここにあるのかという風情、壁には所狭しとサークル勧誘、上映会、コンパ、ゼミ勧誘、などなどのビラが貼ってあった。トイレは言わずとしれた「落書き」にサークル勧誘のビラ、用を足すのか落書きを眺めるために入るのか、といった個室もあった。学内は、ひっくりかえしたおもちゃ箱のようなところだった。

消防のご指導もあるのだろうが、今や立て看板はなし、ビラも指定掲示板があり、ロッカー周辺に荷物の散乱はなし、廊下におきっぱなしの作品はなし、トイレはきれいになり洋式温水洗浄機能付きで殺菌消毒用の薬品常備、壁はタイルだから落書きしにくいし、自転車は指定駐輪場以外の駐輪は禁止。なんともこぎれいな環境である。
それに輪をかけているのが、オープンキャンパスというイベントで、受験予定者や関係者、もちろんご父兄ご家族が自由に学内の授業を見られるという販促活動である。それに向けて学内清掃業者は力を入れて清掃しているのだが、「保護者対策」に感じることもある。つまり、きれいなキャンパスはご父兄の好感度が高く、特にトイレの衛生陶器と機器の充実度、それに清潔度はお母様の評価絶大、受験に結びつきやすいのだそうである。

「ハコモノ行政」ではなく「ハコモノ教育」に見えるからむしろ敬遠されるのでは、と思うのだが、それはこちらの「勘繰り」かもしれない。

2012年6月6日水曜日

ストッキング

きょうび、キャンパスを歩いていると、昔と違って「普通の大学」っぽい感じだなあと思うようになった。

短大が併設されていたこともあって、その当時から女子率は高かったのだが、景気が悪くなってそれがもっと高くなった。担当しているクラスでは、男子率は2割ほど。男子モテモテ、なのかと思えば、女子が「ツヨイ」のは世間と同じで、実習ではあれこれとアゴで女子に指図されていたりする。

一番違うのは服装だろうか。
コンピュータが教育現場に導入されて20年弱、学生はあまり汚れなくなった。
ハイヒールにストッキング、短パンかミニスカートなどという格好は、私の時代には考えられなかった。
教室の机や椅子は成形合板、へりがささくれていて、すぐにひっかかって伝線する。学食の椅子はプラスチックのバリが出ていたり、金属ねじの錆がうつったりする。下手なところに座れば、絵の具やおがくずがついてきたりする。植え込みには、毛虫がいたりするし、学内をうろうろしている猫は虫を養っていたりする。もちろん実習授業では、絵の具や薬品も工具も使う。うっかりすると穴まで空いて、ストッキングはぼろぼろである。

学校は制作すれば、だが制作していなくても、「汚れる」ところだったのである。

2012年6月5日火曜日

邂逅

学内を歩いていると、事務局の職員と時々邂逅する。

助手として働いていると、業務柄、職員とやりとりすることが多い。その後私は助手の任を解かれたので、直接職員と交渉することは、ほとんどなくなった。
おたがいウン十年、同じキャンパスで過ごしていたりするのだが、相手は事務職員なので毎年異動があったり、こちとら非常勤なので授業だけ行って帰る状態なので、すごく久し振り、ということもある。
まあ懐かしいねえ、などとしばし昔話などする。久し振りであればあるほど、タイムスリップな感じである。

大学職員というのは、事務方である。美術とは違うジャンルの業務である。私の頃は卒業生が事務職員として就職、というケースがほとんどなかった。だから、一般大学の卒業生、野球部出身、とか、応援団出身、などという、別世界の人が入ってきた。当然、習慣も常識も全く違うので、お互いあたふた、という状況も何度かあった。その一方で、早期退職者も多く、いつの間にかいなくなって、という人も何人かいた。

先日邂逅した職員は、学生の庶務係、みたいなセクションにいた人だ。学生生活相談全般一手引き受けといった部署で、問題学生の相談も担当である。私が助手になった頃の問題学生の何人かは宗教がらみのトラブルだった。アヤシイ新興宗教に引きずり込まれて、全生活と有り金を注ぎ込む、といったケースだ。その部署の職員に相談し、何人かの教員とプロジェクトチームをつくって、洗脳された学生を救出してもらったこともあった。
現在、似たような状況の問題学生は、宗教ではなくネットゲームである。寝食を惜しんで、小遣い生活費を注ぎ込み、引きこもるのである。

学生の「問題」も時代によって変わるもんだねえ、というのが立ち話のオチではあった。

2012年6月4日月曜日

OFFの音

映像は、画像で伝える情報が8割以上、あとは音声で何かを伝えようとする。
意外に音声の伝える情報はあなどれないのである。

画面の中に音源が見えるときに聞こえる音を「ONの音」、画面の中に音源は見えないが聞こえる音を「OFFの音」と言う。R・マリー・シェーファーという現代音楽家の書いた本「サウンド・エデュケーション」中に、耳を澄まして音を拾う、といった課題がある。やってみるとわかるのだが、耳で拾える音は音源の見えない音が意外に多い。エアコンや壁の向こうの音、背後の音など、生活や日常の音で、あまり「認識」していない音も多い。

林を撮影した画像に、カッコウをかぶせるか、ドバトの鳴き声をかぶせるかで、その場所は山の中にも感じるし、人里近くにも感じる。小学校の校庭でも小さく踏切の遮断機の音を入れると、線路の近く、飛行機の音をかぶせると飛行場のルート、大きな飛行機や軍用機の音をかぶせると基地の近く、というように感じる。人混みの雑踏でも、飛び交う言語が違えば、違う国に感じるし、商店から流れる音楽で時代を感じさせることも出来る。
音声は環境や状況など、目立たないけれど非情に重要なバックグラウンドを伝えていたりする。

音声を伴う映像は、ことほどかように上手に「嘘をつく」。その方法はさまざまで、特に音は人の意図を感じさせないことが多い。

2012年6月3日日曜日

子猫

映像は、画像で伝える情報が8割以上、あとは音声で何かを伝えようとする。
だから、映り込んだ画像が勝負になる。

ワークショップなどで、子どもにカメラを渡して何かを撮影してもらうと、思いもかけない画像を持ってくるので面白いことがある。通りのこちらから向こう側を、かなり広角で撮影してきたりする。取材場所の商店街の様子を俯瞰するような、大人っぽい構図だったりしてびっくりすることがあった。
「おお、商店街の様子を撮影してきたんだね、面白いねえ」。
などとスタッフが褒めたりする。しかし、当の本人は不服そうな顔をする。
「商店街の様子がよくわかるよねえ。お店がたくさんあるんだねえ」。
スタッフがしきりに子どもを持ち上げる。当の本人は相変わらずふくれている。そこで助け船を出す。
「うーん、じゃあ何をみんなに見せたかったのかしら」。
本人は広ーい画角の手前、小さく映り込むゴミ箱の下にうずくまる子猫を指さす。
画面の中のほんの小さな一部分である。ピントも露出も合っていないし、画面の中央に入っているわけでもない。
子どもは、商店街の様子を見せたかったわけではなく、道ばたの小さな猫を見せたかったのである。

彼が見ているもの、撮影した画角、提示されたフレーム、伝えたいもの、伝えたものは、必ずしも一致しない。
人は見たいものだけを見るのだが、それを提示する技術を、最初は持たない。自分の視野を提示すれば、誰もが自分の見ているものを見るだろうと思っている。しかしフレーミングされ、撮影されたものは、情報が均質化してしまう。だから、見せたいものを的確に見せるためには、いくばくかの技術が必要である。

同じことは美術学校の学生さんでも同じである。携帯電話で写真を撮影し慣れていながら、なぜか、彼らは撮影された画像の中で、自分が見たものだけが伝わると思っている。なぜなのだろうか。

2012年6月2日土曜日

スリッパ

映像は、画像で伝える情報が8割以上、あとは音声で何かを伝えようとする。
見えないものや聞こえないことは、伝えられない、というのが基本である。

逆に言えば、画像に映り込んでいなければ、情報は伝わらない、ということである。

それを逆手にとっているのが、時代劇である。
山の中を黄門様ご一行が、次の宿場に向かっている。
山の向こうに鉄塔や高圧線は見えず、空にはヘリコプターや米軍の飛行機は飛んでこず、だれかのふところから携帯電話の呼び出し音も聞こえず、振り返った八兵衛は老眼鏡をかけていたりしない。
しかし、黄門様の背中は着物の裾を端折るために洗濯ばさみがついていたり、まわりにはレフ板を持つ助手さんが数人いたり、頭の上には集音用のマイクがぶるさがったり、しているのである。
ローカル局の地域ニュースのアナウンサーは、バストサイズでしか収録しないところも多い。背広にネクタイ、と言う画像だが、ニュース原稿の机の下、下半身はジャージ、裸足でスリッパを突っかけていたりする、こともある。

見えていることがすべて、な映像では、見えなければ何をやってもいい、という免罪符をも持っていたりするのである。その外側を想像するのはオーディエンスの勝手、である。たいていの場合、ネクタイを締めているのに、ジャージにスリッパ、ということを想像しないだけなのである。

2012年6月1日金曜日

絶世の美女

映像は、画像で伝える情報が8割以上、あとは音声で何かを伝えようとする。
見えないものや聞こえないことは、伝えられない、というのが基本である。

だから無理か、と言えばそうではなくて、それは表現のモチベーションになっている。「愛」は、それそのものは見えないから、男女とか親子などの関わりを描くことで「愛」を感じさせるようにしているわけである。

ビデオカメラを構える初心者がすぐに忘れてしまうのが、このことである。自分が感じていることが、そのまま映像として定着すると思っていたりする。
前主任教授がよく言っていたのは「絶世の美女」撮影作戦である。ディレクターに「絶世の美女を撮影してこい」と言われたらどうする? という質問である。
15年前は外国人の映画スターの名前がよく出ていた。ニコール・キッドマン、シャロン・ストーン、ジュリア・ロバーツとかが挙げられた。
10年前くらいからは日本人の女優さんである。宮崎あおい、蒼井優、仲間由紀恵、小雪、なんかが挙がる。
5年ほど前からぼちぼち「絶世の美女」というのが通じなくなった。「街を歩いてきれいなお姉さんを撮影します」。
最近は親孝行な男子がいて「お母さん撮影します」。「絶世の美女」がお母さんとは。それでびっくりしていたら、その後「うちのおばあちゃん」という婆さん孝行な男子もいた。二度びっくりである。

前教授が20年前に想定していたのは、クレオパトラ楊貴妃ヘレネだったのだろう。今日生存している人物ではないので、被写体としては無効、というのが当時の正解である。
絶世の美女が、街で声をかける程度なら、「絶世」とは言えない。今の学生さんにとっては「世」がたくさんあるものらしい。で、最近の正解は、「君にとってはお母さんは絶世の美女かもしれないが、他人にとっては絶世の美女ではないと言われる恐れが大」、あるいは「君にとっては絶世の美女かもしれないが、他人にとっては単に君のお母さんにしか見えない」ということになっている。

さて、「絶世の美女なおばあさん」とは、どんな人だろう。

2012年5月31日木曜日

すりこみ

メディアの伝えていることをそのまま信じることがあぶない、というのがメディア・リテラシー教育の基本である。

まあ、教育の原点としては、国によって様々な側面もあるだろうが、映像を専門分野としてやっているとしみじみ感じるのは、プロパガンダ、である。
授業では、レニー・リーフェンシュタールの「意思の勝利」などの映画をサンプルで見せたりする。ナチスが様々なメディアをプロパガンダに使ったというのは世界史ではよく言われるが、実際に映画を見ると、よくできてるなあと思うのである。撮影のサイズ、アングル、ポジション、編集、音声、どれをあわせても、団結してヒットラーと共に歩むぞーという民意の気合いに充ち満ちている。
レニー・リーフェンシュタールが意図的に構成したことはもちろんだが、それが「芸術のため」だったか「ナチスのため」だったのかは、本人にしか明言できないし、それは作品からは証明できない。

メディアを鵜呑みにすることで危険なのは、政治的なイデオロギーを「すりこまれる」、ということでもある。

2012年5月30日水曜日

ラーメン

平たく言えば、メディアの伝えていることを鵜呑みにするな、というのがメディア・リテラシー教育の基本である。

これが学生さんと話していると、なぜかこんな会話になることがある。
ふとしたはずみに、こんな話が学生さんから出る。
「東京といえば、ラーメン屋さんが多いじゃないですか」。
え?。そうなの?。
「だって、テレビでよく東京のラーメン屋を取り上げているじゃないですか」。

テレビの伝えていることを、鵜呑み丸呑み棒呑み状態である。
自分の生活範囲や、正確な統計情報はさておいて、テレビの情報を受け売りしている。
電話帳で調べると、東京ではラーメン屋とそば屋がどっこい、寿司屋はもっと多い。
人口あたりにすると、東京よりも東北の方が多かったりする。
東京都内では、地域的にもばらつきがあって、基本的に高齢者人口が多ければラーメン屋は少ない傾向がある。

メディアの伝えていることをそのまま信じることがあぶない、というのがメディア・リテラシー教育の基本である。

東京はそんなにラーメン屋さんだらけではないのよ。

2012年5月29日火曜日

納豆

担当している授業の一つは「メディアについて考える」といった趣旨のものである。その中で、学生に「メディア・リテラシーについて考える」という課題を出している。

現在、日本の義務教育では「メディア・リテラシー」というものを、はっきりとは取り上げていない。
まあ、メディア・リテラシーというのも、かなり広範囲なものの考え方であったり、その取り組みはさまざまだったりする。
アメリカやカナダでは、マスメディアの構成の方法を扱う教育事例がよく知られている。つまり、「メディアはすべて構成されたもの」であることを教育する。どんな映像や音声でも、誰か人の手を経て加工される。現実がそのままオーディエンスに届くわけではない、というものである。要するに、メディアの伝えているものを鵜呑みにするな、と言うことでもある。

テレビの情報バラエティー番組では、健康関連の情報がよく扱われる。前日に「健康には納豆」という放映があれば、翌日の小売店の店頭から納豆がなくなる、という現象がおきる。これなど典型的な例で、その類の情報は実はガセだったこともある。テレビの伝えていることが「ホント」とは限らない、というのが教訓である。

まあそれでも人はメディアの伝えていることを信用するから、テレビショッピングというのが流行るようになっているわけである。