2014年8月31日日曜日

大型

友人から手紙が来た。ご主人が会社勤めをお辞めになったので「初ボーナスなしの夏」をお過ごしの様子である。

私で言えば20年ほどボーナスなし。同居人で言えばここ4-5年ほどボーナスなしだが、その前から「ボーナスはすべて自分の小遣い」になっているので、奥様には関係がない。新聞やテレビのニュースで「ボーナス」の話題があっても、縁はない。
まあこういうもの、と思っていれば何と言うことはない。勤めていた頃を思い出せば、ボーナスは「棚からぼたもち」みたいなものだったので、旅行やら機材やらと使っていたような気がする。
ボーナスがない生活で、何が違うか、と言えば、「大型消費」が少なくなったような気がする。ボーナスで冷蔵庫を買い替えるかー、と言っていたのが、なくなるわけだ。冷蔵庫買い替えるかー、カメラ買い替えようかー、と思ったら、毎月こつこつと「冷蔵庫用貯金」「カメラ貯金」である。急な支出はあっても、急な収入はないのである。

ないならない、といことは、そのうち慣れるものである。7月と12月をあてにしなくなるだけで、サラリーマン以外はそんなものである。農家も漁師もボーナスはない。日本国民が全員「ボーナスをもらう」ものではないのだが、と新聞を見ながら考えてみたりするようになる。

2014年8月30日土曜日

お茶代

母の生家は大きな家だったそうなので、庭師や大工など、たいてい何かしら職人さんが出入りしていたそうである。
家には古い皿のセットがあった。有田とか九谷とかのブランドものではなく、ちょいと大衆的な染め付けのつくりである。普段使いのものとは違うのだが、ハレの日や、お客用というレベルではない。何の用途かと聞くと、職人さん用だったのだそうだ。
おやつやお昼は、もちろん仕事場である「うち」でとることになる。戦前の話なので、コンビニも弁当屋もない。飲み物はもちろん、十時三時のおやつ、お昼に副菜くらいは出しており、そのためのお皿だった。

実家でリフォームした時は、リフォーム屋が手配をしていたのだが、お茶もお菓子も「ノーサンキュー」で、その分請求書に上乗せされていた。まあ、ドライ、と言えばドライなのだが。

2014年8月29日金曜日

和風

自宅の屋根を塗り替えることになった。下地を板金屋が作業し終わったら、塗装屋がやってくる。

意外にお若い塗装屋さんである。以前にも外壁塗装をお願いした。塗装中が、3月、大地震があった。幸いけがはなかったものの、鉄道が止まったおかげで、道路が大渋滞、当日の帰宅は深夜になったらしい。次の日からも、道路事情で到着の時刻が読めない、来てもガソリンが補給できないので帰れない、などといろいろあった。

作業中は、お茶とお菓子など用意するが、設計事務所から注文があった。「出来れば和菓子」。なぜかといえば、塗装屋さんのご実家はケーキ屋さんなのだそうである。小さい頃から洋菓子で育ったので、もう充足しているらしい。

そう言ってもらえれば、こちらは気楽に大福やらどら焼きやらを用意するのである。

2014年8月28日木曜日

レース

自宅の屋根を塗り替えることになった。鋼板ばりなので、多少さびやらなにやら不具合もあり、板金屋をお願いした。

建築業界は何やら今年に入ってから忙しい、そうである。1月頃からほかの部分も含めて打ち合わせを始めたのだが、3月一杯は消費税値上げ前の注文殺到だったらしく、人の手配がついても建材の在庫がなかったり、建材の手配がついたら今度は人手が足りなかったりして、やっとこさ作業を始めたのは5月に入ろうかという頃だった。
そんな頃に、屋根も塗り替えるかー、という話になり、いろいろと段取りがついたらお盆休み、それが済んだら暑すぎて作業にならず、その後の今週は雨続きで外の作業は延期中である。

家を設計した事務所に、いろいろとアフターケアもお願いしている。個人事務所なので、いろいろな作業はあちこちの個人業者さんを集めてくれる。お茶を出しがてら少し話もする。意外なご趣味もあったりして、いろいろと面白かったりする。板金屋さんは、毎年「ママチャリレース」に出ているんだそうである。ママチャリという一般自転車で、サーキットをまわるレースなのだそうだ。その手の面白い「レース」があれば、遠路はるばる行ってしまう人らしい。屋根の上で作業する体力は、そのレースで遺憾なく発揮されているのだろう。

2014年8月20日水曜日

充電中

学生さんがスマホを持って学校に来るようになったのは、いつ頃からだったろうか。

ポケベル、PHS、ガラケーと、学生さんが常備する電子ガジェットはずいぶんと変わってきた。
それまでの「ガジェット」と違うのは、スマホの電池は持ちが悪い、ということである。

講義室はたいてい、後ろの方から席が埋まる、というのが多かったが、最近は「壁側から埋まる」のである。学食もたいていは、窓側の眺めのいい席から埋まるのに、最近は壁沿いの端っこの薄暗い席から埋まる。なぜかと言えば、そこにコンセントがあるからだ。
着席するやいなや、鞄から充電用のケーブルやらコネクタを取り出し、コンセントとスマホをつないで机の上、というのがよく見る風景である。授業中はスマホはしまってくださいねーと言わなくてはならない。それでも授業中にぴろぴろと脳天気な着信音が鳴ったり、机が突然音をたてて震えていたりする。

授業の後は教室で忘れ物を確認するのだが、充電用のケーブルがコンセントにさしたまま忘れ去られていたりすることがある。時には引き続き充電中のスマホさえ置いてある。うーむこれは、満充電までこのままにしておいてください、というサインなのか、盗んでOKというサインなのか。

2014年8月18日月曜日

ぜんまい

もっとも、映像系の機材はもともと最初から「電気駆動」であったわけではない。

学生時代に使っていた16ミリフィルムのムービーカメラは、「ぜんまい」を巻いて駆動していた。ぜんまいをいっぱいに巻いてシャッターボタンを押すと、「ジー」と言いながらモーターが回り、撮影する。ゼンマイの最後の方はだんだんスピードが遅くなってくる。いっぱいに巻いて27秒、だから実際に定速度で撮影できるのは20-25秒ほど、という「お約束」がある。それでフィクション映画を撮るわけだから、カット割りをかなり考えておかなくてはならない。長回しは「なし」、だった。

35ミリのフィルムカメラは、基本的には「メカニカル」だった。内部露出計とファインダー内部の計器視認用だけに電池を使う、というものである。
私が使っていたカメラは、その後の世代で、シャッターは電子制御になっていた。だから、電池が切れたら、シャッタースピード1/250secだけはメカニカルで動きます、と言う仕掛けがあった。ロケに行って電池が切れたり、電池の補充が出来ないところで撮影することを想定した機構だろう。その上位機種は「戦場カメラマン御用達」だった。

そういう機械を扱っていた世代から言えば、今の「映像」系の機械は全部「電動式」である。バッテリーがなければ、一切動かない。デジタルカメラなど、光学式のファインダーもなかったりするので、レンズの視野すら確認できない。

便利なんだか、不便なんだか。

2014年8月17日日曜日

メモリー

電池と言えば。

いまや映像系の機材の多くは「電動式」である。
私が電子映像、といったものに手を染め始めた頃は、カメラ用、ビデオデッキ用、モニターディスプレイ用、もちろん別録り用のマイク、マイクミキサー、テープデッキ、照明が必要なら照明用と、それぞれに「バッテリー」が必要だった。当然のように、「汎用バッテリー」などはない。メーカーも製造時期もそれぞればらばらである。ロケに行って、カメラ用のバッテリーを忘れた、などという失敗もした。


当時はニッケルカドミウム電池、というのが主流で、これがまた重い。しかも、他に選びようがない。軽量とか、材料違い、などあり得ない。
この種類の電池は「メモリー」というのが癖である。中途半端に充放電を繰り返すと容量が減る、といういやな癖がある。例えば、容量40パーセントくらいで、補充のために充電を始めたとする。電池君は、充電を始めた時点を「ゼロパーセント」と「メモリー」するので、次回は容量40パーセントで「もう電気はありませーん。ゼロパーセントでーす」と宣言するようになる。
高級な充電器には「放電装置」というのがついていて、全部の電気を放電してから充電する賢い機能がついていた。ところがこの「放電」にはえらく時間がかかるので、駆動時間90分のバッテリーの放電と充電に一晩かかったりした。
それでもだんだん使用頻度に従って容量はへたってくるので、数年で交換である。現在のように機種変更が頻繁ではなかったが、一代の機械に数回のバッテリー入れ替え、そして本体ごと買い換え、という感じで使っていた。

民生機は機種変更が頻繁になったので、バッテリーがへたる前にカメラを買い換えるようになった。そのうち、リチウム電池が使われるようになった。同じ要領で格段に小型軽量化できる。メモリーしないので、途中で「継ぎ足し充電」ができる。ありがたいことである。

2014年8月14日木曜日

学習

近所の車が買い換えると、かなりの確率で「ハイブリッド」車がやってくる。

以前と違って、ハイブリッド車も選択肢が増えたようだ。よーく見ると「ハイブリッド」というエンブレムがついていたりする。
増えたなあという間に、PHVというのも出てきた。近所のディーラーには「充電スタンド」があったり、最寄りの国立大学の駐車場にも「充電スタンド付き」のスペースが2台分あったりする。近所にもPHVが1台いて、夜はケーブルつないで路駐である。ガソリンと違って、ケーブルつなぎっぱなしで放置状態なので、何となく間の抜けた風景に見える。

実家は「新しもの」好きなので、プリウスも初代の時に飛びついて購入した。初トヨタ車な実家では、「値引きをしない」というセールス方法にびっくりしていた。
遠出の仕事が多い妹は、「ガソリンを入れ忘れるわー♪」と、省燃費を堪能していた。
そこそこ走ってしまったので、3年目の車検の時に、「要電池交換」とお知らせが来た。

まあ、当然である。普通にガソリン車のバッテリーだって数年で交換する。
問題は値段だ。交換が2-30万円ではきかない見積もりがやってきた。省燃費などチャラである。
購入したときに「サービスパック」というオプションに入っていて、それには「電池交換一回無料」というサービスがついていた。ついていなかったら、どうなっていただろうか。
その後の何回目かの車検で、そろそろ電池交換が、と言われる前に、車を入れ替えていた。今度はホンダのハイブリッドである。学習しない人たちである。

2014年8月11日月曜日

段階露光

夏である。

今は皮膚がん発生の恐れがあって紫外線は浴びない、というのが通説であるようだが、子どもの頃は夏休みにどれだけ「まっくろ」になったか、というのが「元気」のバロメーターだったりした。

海に行って海水浴、というのが日焼けの定番である。
ちょっと違うなーと思ったのは、中学に上がった頃である。中学校にはプールがないので、常に「体操服」である。屋外の授業でも、体操服を着て「焼ける」。服の下はそうそう焼けない。靴の中など全く焼けない。風呂に入ると、足の先と服のところは焼けずに残っているわけだ。いわゆる「土方焼け」というのだと、後から知った。
その状態で海水浴、をすると、遠目には「ビミョー」な状態である。白っぽい肌の上に水着、手足は黒いが、足先は真っ白、である。全体的に同じトーンに焼けずに、写真で言えば「引き延ばし」の作業の時の「段階露光」テストな状態である。白、グレー、黒、という感じでグラデーションになる。

恥ずかしい(いや、かっこ悪い)ので、水着の上に「超日焼け防止」と称して大きめのTシャツ、磯遊び用のズックかサンダル着用、という格好でいたこともある。

スキー好きの人だと、顔の下半分だけがやけに黒い、という状況で焼けたりする。まあそれが全身版、ということである。
同居人に一緒になってから、つきあって船に乗った。走っているときは座っているわけで、前半分、上半分しか焼けない。つまり、脚の前側と後ろ側、膝の上と下では濃度が違う。もっと段階が増えてしまった。海であっても、船の上は土方焼けである。

2014年8月10日日曜日

冷え

実習生は「大学生」である。であるから、学生さんのまま、実習にやってくる。

一方、実習する施設は「学校」ではない。社会教育施設、というやつなのだが、もちろん一般公開して営業している施設である。
「受け入れ」る側の方もいろいろと都合があるので、実習したい学生を無条件には受け入れられない。
10年以上前のことだが、実習生の数が比較的多い年度があった。

そもそも、学芸員資格をとりたい学生で、美術館に来る「実習生」のほとんどは、なぜか女子学生である。これが考古系や理科系なら男子学生比率は上がるのかもしれないが。
…というわけで、夏休みの展示期間中は、実習生であるところの女子学生が、出入りすることになった。
一番最初に注意したのは、「タンクトップ禁止、ミュール禁止、ヘソ出し尻出し禁止」である。大学内での私服でそのまま美術館にやってくる学生が目立つ。学生の反応はこうだ。

「大丈夫です。私、冷え性ではないですから」。

確かに美術館は作品保存のために夏でもエアコンを入れる。人間様の過ごしやすい温湿度とは違い、やや「涼しすぎる」。いやいや、違うのである。TPOというのが必要なのである。

2014年8月9日土曜日

分野

実習、といっても、数週間で数単位、でしかない。
教育実習ほどシビアに内容が絞ってあるわけではない。実習をする「博物館相当施設」によって、内容がずいぶんと違う。

実習して学習した分野の博物館に学芸員として就職、することは、ものすごくレアなケースだと思われる。だから、自分の専攻分野と教員の専攻分野と興味のある専攻分野と、ちょっとずつベクトルが違う、という現象が現れる。

私は美術館で仕事をしていたので、学芸員という資格でもとるか、というスタンスだったのだが、資格を取った大学の「実習」は、とても広く浅く設定されていた。額縁のかけ方ーワイヤー金具の扱い方とか、古文書の修復ー和紙の虫食い補修とか、複写とか物撮りの方法とか、展示物固定用のテグスの結び方、などである。美術館に帰って速攻役に立つもの、ではなかった。
他にも資格取得経験者の話を聞いていると、夏に数週間かけて「わらじを編む」とか、土器の修復とか、壁紙のレタッチとか、掛け軸の巻き上げ方とか、いろいろである。

いずれにしても、「広く浅く」なので、まあかじってみたか、という状態で終わってしまう。

長じてみれば、分野外の作業はなかなかお目にかかることはないので、がっつりと作業することがあれば面白いと思うのだが。

2014年8月8日金曜日

実習

学校では夏休みがある。
夏休みは美術館で写真撮影記録の作業をしている。
毎年のように、美術館で作業しているのだが、同時期に「学芸員実習生」というのが相席する。

学芸員、というのは、大学で発行する資格の一つだ。美術館とか博物館に学芸員という名前の研究職として就職するときに必須の資格である。
横文字で言えば「キュレーター」、ひところ「流行」になった「横文字」商売のひとつである。

教員免状も同様なのだが、学芸員資格というのも、大学で「養成コース」を受講して、数単位の実習作業をする。
いろいろな大学で免状を出しているのだが、免状クリアのための授業の科目や設定はそれぞれの大学で少しずつ違う。

学芸員「実習」という科目があるのだが、学校によって「内部の施設」か、外部の施設で実習するかが違う。私が資格を取った学校は、基本的に有無を言わさず、全部学内の施設で実習をすることになっていた。学内の「博物館相当施設」である。

学校によって、これがずいぶん差がある。
考古学も「博物館」だし、美術館も「博物館」。科学技術館も「博物館」である。実習に来た日には、有無を言わさず実習する羽目になる。博物館で考古学をやりたいのに、なぜか額縁展示の実習をしたり、現代美術をやりたいのに『古文書の修復」が課題だったり、西洋美術をやりたいのに「縄文土器の修復」が課題だったりする。しかもそれが数時間の実習なので、「ものになる」はずはなく、単なる経験でしかない。私が受講した授業のひとつは「複写」だったりしたので、先生のサポートに回ってがっつり照明セットを組んだりしてしまった。先生にしても、社会人が来るような授業はやりにくいだろうなあ、と思いながら、レフ板の調整をしたりしていた。

さて、美術館の夏は、いろいろな大学から「実習生」がやってくる。学生さんは自分の大学、自分の事情しか知らないので、いろいろと話を聞いていると面白い。

2014年8月4日月曜日

匂い

OB会という活動は、基本的には「ボランティア」である。

地方支部の活動の中心になっているオジサンたちは、お若い人の参加を熱望している。オジサンたちは、それぞれいいおトシである。
まあ60-70くらいまでは現役の社会人であるから、そうそうOB会という「お遊び」もしにくいのかもしれない。もちろん、それ以前の年齢であれば、「ばりばり」な社会人であるから、もっと「お遊び」はしにくいものである。
だから、地方支部のオジサンたちの言う「若い人」というのは、どの世代のことを言っているのか分からないことがある。

ときどき、気になるのは「若い人に実働してもらって」などと、オジサンたちが言うことだ。
「若い人に活動を譲る」わけではなく、肉体労働の担い手として熱望しているのである。
これは傍目で見て、ちょっと理解しがたい。自分で遊ぶのなら、自分で動かなくてはならない。ふんぞり返って遊ぶのであれば、働き手は「ボランティア」ではなく、雇わねばならない。

こういう「匂い」のする支部には、若い人は一旦参加しても居着かないものだ。

見返りのないところには、「若い人」は特に来ないものである。

2014年8月3日日曜日

群れ

勤務校のOB会は、小さな地方支部の集まりである。

地方支部では、各府県の卒業生に連絡をとって懇親会やグループ展などのイベントをやったりしている。もちろん、まんべんなく全国で活動しているわけではなくて、卒業生が少なかったりして「休眠」状態のところもいくつかあったりする。
総括しているところの本部は、卒業生から会費を集めて、名簿の整理や会報の発行をしていたりする。地方支部には、活動人員と活動内容に合わせて、卒業生から集めた「同窓会費」から、活動費を分配する。

私が「幹事さん」をやり始めた10年以上前から、地方支部の人からよく言われる「お悩み」がある。たぶん今もあまり変わっていないだろう。
最も多いのは、若い人の参加が少ない、ということだ。
年間700人以上も卒業生を出しているのに、地方支部の活動には全く参加しない、というのが、60-70歳の卒業生には納得できないらしい。大昔は学生数が少なかったので、こじんまりとした学校で、上下左右顔を知っていたりした。だからこそ、卒業生になっても「群れやすい」のであって、卒業生が多くなればお互いを知る機会もなく、群れる必要性も感じなくなる。
もうひとつの理由は、個人情報保護法である。以前は、例えば卒業して北海道に住む人をピックアップした名簿をつくって、地方支部の事務局に送った。事務局では、展覧会や懇親会のお誘いのお葉書を発送するわけだ。それがきっかけになって、年齢や専攻の違う先輩と顔見知りになる、といったことで活動に繋がった。今は、卒業生の住所を教えることが出来ない。作戦却下である。
他にも理由がある。専攻によっては「展覧会など縁が無い」業界や職種もあるわけで、グループ展が活動の中心だと、美術系以外の卒業生は参加しにくかったりする。


たいがいの人は「損得勘定」を考える。私のような「美術系でない」「個人的な美術作品をあまりつくらない」「展覧会の展示形態に向かない」「群れるのは嫌い」だったりすると、はなからOB会の活動など眼中には入らないかもしれない。

2014年8月2日土曜日

行脚の結果

出身大学のOB会の「幹事さん」というボランティアを10年ほどやっていた。今は無事に任期終了、外野である。

学校は美術系としてはそこそこ歴史がある。そもそも美術系の学校などほとんどなかった時代なので、全国各地から学生が来る。
当初は「父兄会」みたいなかたちで始まった団体だが、そのうち卒業生だけが集まる会になり、一般的な「同窓会」になった。
美術系の卒業生が群れると何をやるか、と言えば展覧会である。ひとりで画廊を借りるよりも、数名で借りた方が安上がり、まあそれが出発点であるにせよ、今や全国各地に支部のある団体である。

全国各地、というのがミソである。北海道から沖縄、海外にも今はいくつか支部がある。支部は数名から数十名の団体である。群れて何をやるか、と言えば展覧会か飲み会である。他の美術系の大学では全国に支部がある、というのはあまりない。勤務校の場合、2代目理事長が受験生を集めるために全国各地を卒業生を訪ねて行脚して、学校名を周知するためのご協力をお願いした、というのが発端の任意団体である。
そのうち卒業生が増えて、ある程度の大きさになってくると、それなりに組織的に動くことになる。一方で、東京にある大学を卒業しても就職のためにUターンだのIターンだのするOBは少なく、地方支部の幹事さんは高齢化していく。美術学校の卒業生など協調性に乏しいく、群れることは好きではないのが多い。

まあ、そういう小さな「地方支部」を束ねたOB会、というのが、出身大学のOB会組織である。弱小学校世襲の2代目理事長の行脚の結果である。

2014年8月1日金曜日

古顔

勤務校では、事務方でも例外ではなく、一時期の雇用緩和によって「正規職員」以外の比率が上がった。いつのまにか数年契約の嘱託職員が増えている。たぶんいくつかの採用方法があるのだろうが、一般的な企業のような「正採用」が少ないように見える。
難点は、事務方の「顔」がずいぶんと短期間で変わってしまうことだ。

大学に通い続けていると、何となく古顔の職員と顔なじみになることが多い。1年に1度か2度、廊下ですれ違ったりすることもある。
古顔の職員、というのは、終身雇用制だったりするので、定年までは学内の部署を回り持ちしている。専任の教員の定年は70なのだが、職員は60くらい、だんだん「古顔の顔なじみ」は少なくなっていく。
しかし入れ替わりに「新顔の顔なじみ」が増えるか、といえばそんなことはなく、顔と名前が一致した頃に「契約が切れたので嘱託をやめる」人が増える。
単なる事務作業だけではなく、ある程度長いスパンで考えるようなプロジェクトまで「嘱託職員」が一部を担っていたりするのは、どうなんだろうか、と眺めたりする。古顔で保守的でがちがちにカタイ、というのはイヤだが、数年ごとに人員一新でリスタート、というシステムが良いのかどうか。それはもっと長いスパンで答えが出てくることなのだろう。