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2020年6月16日火曜日

西北

自動車の運転中はよくラジオを聞いている。先日の放送の話題は「ドライブ用の音楽」についてである。どんなシチュエーションで、どんな音楽を聴いていて、どんなエピソードがあるか、などというオーディエンスのリクエストと投稿を読んでいた。人それぞれに、いろいろな音楽を聴いている。そんなキーワードで思い出すのはY先生だ。
2000年代初頭、乗っていたのは当時でもクラシックなベンツ、既にかなり貫禄ある雰囲気である。ある日「駅まで送ってやろう」と言われて同乗させてもらった。走りだすなり、先生はオーディオのスイッチを入れる。いきおい「みーやーこーのせーいほーく」。スピーカーから大きな音量で流れた。「おお、悪い、いつも一人だからボリュームが大きくって」、とスイッチを操作する先生。音楽は引き続き早稲田応援歌メドレーである。よく見てみたら「早稲田大学オリジナル」なカセットだった。早稲田大学出身、根っからの早稲田ファンな先生である。毎朝、毎夕、これを流して学校を往復しておられたようだ。

2016年12月22日木曜日

名物

私が学生の頃、ご推薦されたのは「生物学」である。教授が授業中に突然歌い出すので、「歌う生物学」というサブタイトルで、学生の間では人気だった。人気なので受講生が多く、アナログな時代なので出席などつける方が大変だから、出席は「甘い」。でも面白いので、いつも講義室は満員である。私が受講した年の試験は、白紙を配られた。試験問題は教室内で「学内の植物の細密画」である。
開講時間の制約のため選択できなかったが、ほかにもいくつか「名物授業」があった。
学内のサークルにまでなってしまった科目もあった。サークル名は「経済ゼミ」。
OBがよく潜り込んでいて、なぜか数代にわたる元学生と学生が一緒に授業を聞いていた科目もある。
あまりにも先生の熱が入って、授業は面白いのだが、授業時間終了後も「終わらない」のもあった。続きは近所の喫茶店、それから居酒屋へなだれ込む、というエンドレス方式だ。今では考えられないが。

2016年10月11日火曜日

台風

9月、10月の授業が面倒臭いのは、台風のせいである。
午前6時に多摩東部地域に暴風警報が出ていると、午前中の授業は休講である。
代替日は設定されない。
つまり、台風が来れば休講、その日の授業はシワヨセしてやれ、ということである。

担当しているのは実習授業なので、当然のように、4日の作業が3日間、ということになる。そりゃ学生も大変である。小学生のように、お休みだバンザーイ、などと言っている場合ではない。

ところが私が学生だったウン十年前は、転校による休講はなかった。もちろんいまどきの学生さんのように全員がスマホか携帯持ち、いつでもどこでも連絡が取れるわけではなく、下宿学生も電話持ちが少なかったので、学校に来る以外ない、という状況ではあった。
おかげで、台風が来ようが、槍が降ろうが、風で傘が吹き飛ばされても、学校に来るしかない。
電車に乗ったら途中で止まり、私鉄を乗り継いでバスに乗って学校に向かった。もう既に授業は始まっており、そうとう遅刻である。バスの中でイライラしていたら、学校の手前でバスが止まった。運転手が振り向いてアナウンスする。「道が冠水しているので、バスが止められないので別経路を通ります」。バス停のある学校の前を通らず、別の道で素通りである。
最寄りのバス停で下りたのだが、そうとう水が上がっている。授業は既に終盤、これから行ってもなあ、という状況である。ずぶ濡れの上、膝上まで水に浸かり、そろそろと歩く。あああ、もう授業終了時刻である。何のためにここまで来たのだろうか。
結局学校に着いて、学食でコーヒーを飲んで帰った。

2016年1月11日月曜日

業界

もちろん好きなことだから、数年は「若い」がゆえの体力と根性で乗り切ることができる。会社側としてはこうやって若い人を淘汰していくことで業績を伸ばしているという側面もある。

ファミコン世代以降の学生は「ゲーム業界志望」というのが多かった。自分が身近で楽しんだ世界なので、作り手に回りたいと思うのだろう。当時のゲームメーカーは、毎年多くの学生を新卒で雇用していた。油絵や彫刻などはもとより、一般文系や理系、デザインやプログラミングなどとは全く関係のないジャンルの学生も雇用されていた。
とあるメーカーに就職した卒業生である。家庭用ゲームだけではなく、アーケードゲームなども作っていたメーカーに就職した。最初の仕事はどの新入社員も「外回り営業」である。そこである程度の実績ができると次のステップへの権利が得られる。新しいゲームの企画である。採用されたら、市販化するための企画として採用される。営業をしながら、週に10本企画を提出、数ヶ月以内に採用されなければならない。企画が採用されれば、晴れて「制作側」である。採用されなければ、永久外回り営業である。採用されるのは、年に何本か、ということだった。作りたいと入ったのだから、作れなければ、会社にいる意味を見いだせない。採用されないことが見えてくると、いまどきの人は、意外とさっさと辞めてしまう。メーカーは翌年、新たな社員を雇用する、というサイクルである。
辞めたときには、既に「新卒」ではないので、就職したければ、中途採用してくれる企業を探すことになる。ゲーム業界では「若さが命」のようなところがあり、中途採用はそれなりの経験やキャリアがなければ難しい。外回り営業だけではキャリアにはならない。
そうやって、2カ所目は、全く異なった業種や職種で飯を食う、ということになる。

私などの世代は「喫茶店のマスター」が定番だった。田舎に帰って家業を継ぐ、という友人もいた。いまどきの人はどうかというと、数年前に卒業した知人の娘は、油絵学科卒業大手ゲーム会社就職翌年退職現在ホームヘルパー。20代半ば過ぎ、早くも人生経験豊富である。 

2016年1月5日火曜日

墓と言えば、である。
祖父母に連れ歩いてもらっていたこともあり、墓参りは苦にならないタイプである。たいていは、墓参りの後の余録、どこかに寄ったりすることの方が楽しかったりした、ということもある。
祖父母の家の墓は染井の都営墓地である。明治の頃に墓地を開設されてすぐに借りていたらしい。借りた当時の図面が残っていて、100坪超と自宅の地所より広い。昭和の初期に親戚に分けたりなどして、私が通うようになってからはほぼ半分以下になっていた。それでも30坪くらいはあり、大きな桜の木が2本あった。地名に由来するソメイヨシノである。遠くからも見えるほど大きなきだったが、ソメイヨシノは短命な樹木である。大きな枝が折れ、根で墓石が傾き始め、ある年台風でかなり痛んでしまった。桜の木を「始末」せざるを得ず、まあよい機会なので、と墓石を整理してひとつにまとめ、数坪の地所にした。

祖母の納骨はカトリックだったので神父さんに来てもらった。豪放磊落な神父さんで、祖母がいたく「ファン」だった。学生時代は授業に行かずに映画館に入り浸りだったことや、はす向かいに二葉亭四迷の墓があって四迷の話を、待ち時間にしてくれたことを思い出す。

2015年9月6日日曜日

試験休み

二学期の期末試験が終われば試験休みである。

公立に進学した隣近所の友人が、新学期の始まりを楽しんでいる頃、こちらは「おやすみ」になる。夏休みを取り戻すほどの長期ではないにせよ、観光客のいなくなった海岸や、夏休みの子供が全くいない映画館など、ちょっと「平日おさぼり」な気分である。

考えてみると、三学期制だと、のべつ試験があるような気がする。ほぼ1ヶ月おきに試験がある、という計算だ。一方で、二学期制だと試験は少ないが試験範囲が大きくなる。成績落下のダメージは、試験の回数が少ないとリベンジしにくいような気がする。

どちらが良いのかは、生徒によってそれぞれだろう。ただ、二学期制の名残なのか、自分の中では夏休みに思いっきり「遊ぶ」ことに、ちょっと罪悪感を今でも感じてしまう。 

2015年9月5日土曜日

学期の始まり

8月の終わりに急に涼しくなってしまい、夏の終わりの名残惜しさなど感じる前に、室内に干されている洗濯物の多さに、ちょっと調子の狂ってしまう9月の初めである。

勤務校は1日が新学期である。なんと、小学校の新学期と同じなのかと思っていたら、都内の小学校では25日始まり、というところがあった。そういえば、横浜に住んでいる甥っ子の学校もそうであった。
「二学期制」である。

三学期制だと、長期休暇が区切りになる。終業式に通信簿をもらって休暇に入る、というスタイルである。私は中学校から私学に入ったのだが、そちらは二学期制であった。
一番違うのは「夏休みに遊べない」ことである。学期半ばには中間試験、学期末には期末試験がある。前期だと、中間試験が6月、期末試験が9月。だから、中間試験後、期末試験までの授業日数が少ない。しかし、試験範囲がその間だけ、というわけではなく、4月から9月までの授業内容が期末試験には盛り込まれる。夏休みは、4月からの復習、中間試験の挽回に励まねばならない。宿題、というのはあまり記憶にないが、ひたすら復習、というのがトラウマである。その頃の学習といえば、有無を言わさず「丸暗記」である。先生御用達の教科書の虎の巻「赤本」を書店でお取り寄せ購入、教科書の解説を、暑い中、ひたすら暗記するのが、「学習」である。

今考えると、学習としては「不毛」なもののように思える。試験のために暗記しているのであって、試験が終われば暗記内容は「用がない」。忘れるものの方が多いだろう。そういえばそんなことも覚えたかな、というのが「記憶」である。年を経た今、本をまるまる1冊暗記などという芸当はできないので、若さゆえの学習方法ではあるのだろうが。 

2015年6月20日土曜日

変換

今時の学生さんは、デジタル世代、と言われている。メディアではよく「デジタルネーティブ」といった言い方をしているようだ。

そんなデジタルネーティブな世代と風潮に対応してか、「デジタル教科書」を開発中という話題が、新聞に出てくるようになった。

マルチメディア、という言葉が出てきたのが、20年以上前になるだろうか。当時、プレゼンテーションや配布資料用に、マクロメディアのソフトを使って、オーサリングツールを使ったデータを作っていたことがある。動画や静止画、テキスト資料も組み込んだもので、CD-Rに焼いて配布した。shockwaveという無料配布ツールで閲覧するもので、当時のHTMLでは組み込めないファイルやデータを扱えるものだった。ああ、こういうのがあれば、教科書としてはいいなあと思ったものだった。

作成後10年もしないうちに、マクロメディアという会社は買収によって消滅した。作成ツールも開発中止になり、閲覧ツールも開発中止、新しいOSに対応できないので、事実上消滅した。もちろん、作成した資料は、今では閲覧できない。配布したCD-Rはすでに現在のPC環境では再生できない。後日の資料にと残しておいたディスクは廃棄処分にするしかない。同じものを見ようとするなら、作成時に集めた資料を現在閲覧できるファイルに再構成することになる。しかし、同じように再生できるとも限らない。
当時のファイルが今でも「使用可能」かどうか、あるいは現在使われているファイルに「変換可能」かどうか、ということでもある。

デジタル教科書も同じこと、数年は使えるかもしれない。しかし、その数年後も全く「電子業界標準」が同じであるとは限らない。コンテンツのアップデートだけではなく、再生環境や作成プログラムの検証も毎年のように必要になる。現状の印刷物よりも、もっとスピードが要求される作業になる一方で、ツールやハードウェアの都合による再製作も必要になる。それは「使い回し」ができない作業であることの方が多い。

そこまで文科省が「面倒見る」、と言えるのだろうか。

2015年6月15日月曜日

回す

今時の学生さんは、デジタル世代、と言われている。メディアではよく「デジタルネーティブ」といった言い方をしているようだ。

実家には旧式のダイヤル式黒電話がまだ健在である。姪の友達が電話を借りて、電話がかからない、と言われたことがあった。丸い穴に指をつっこんだだけで、回さないのである。そうだよねえ、今時の電話はみんなデジタルな「プッシュホン」、ボタンを「押す」わけで、回しはしないのである。

そういえば、テレビのチャンネルも「回す」ものではなくなって久しい。カーラジオだって、ボタン選局でダイヤルを回して放送局を探すこともなくなった。ガスコンロだって、ダイヤルを回して火力調節するのではなく、レバーだったりボタンになったりした。電子レンジもテンキーで動作時間を打ち込み、チーン、ではなくぴー、という電子音で終了である。カーエアコンも、今使っているのは「オートエアコン」なので、ボタンで温度設定である。

デジタルとは回さないもの、らしい。

2015年4月15日水曜日

テーマ

現在は、背広は紳士服屋で大量に吊るされて売られている。サイズの合いそうなものを選んで、微調整してもらう程度で購入である。

今はほとんど見かけなくなったが、私が子どもの頃は町にたいてい「テーラー」というのがあった。洋服の仕立て屋さんである。採寸して、オーダーして、仮縫いが出来上がったら連絡が来る。仮縫いを試着して、仕上がり具合の詳細を打ち合わせて、本縫いにかかってもらう。
手間もお金もかかるものだった。その一方で、好みに合わせていろいろなオーダーができる。ボタンの色や形、位置など、選ばせてくれる。

研究室でお世話になった先生は、銀座の某有名「テーラー」でお誂えである。まあ、基準体型ではない「寸法」の持ち主ではあったのだが。
さて、背広にはオーダーするときにそれぞれの「テーマ」があった。お気に入りは「マフィアスーツ」。黒地に銀の細いピンストライプの入った生地でダブル、裏地は真紅である。もちろん好きな映画はコッポラの「ゴッドファーザー」である。他にも、何気ないグレーのスーツだが、裏地は派手なプリント柄で「江戸っ子なスーツ」。好きな色が「紫」だったので、裏地がその色だと「紫の君のスーツ」。裏地に凝るのがお好きだった。

すでにあの世の人なのだが、向こうではどんなスーツを誂えているのだろう。

2015年4月14日火曜日

天引き

両親が青春真っ只中の昭和30年前後は、「吊るし」つまり、レディーメードの洋服はあまり売っていなかった。
洋服は「テーラー」で、「オーダー」するものだったのである。

父親は就職したときには数ヶ月学ランで通っていた。職場が給料天引きで「背広貯金」をしてくれて、ある程度貯まったら背広を購入して出社だったらしい。
婦人服の方ももちろん「オーダー」である。だから服と同じ生地でバッグや帽子、靴なども誂える、というスタイルもあった。
洋服、には、帽子、が「セット」である。この服にはこの帽子、という組み合わせが決まっていた。丸い帽子箱がたくさん洋服ダンスの上に積んであった。

今は昔、である。

2014年11月18日火曜日

記名

よーく話を聞いてみると、同居人が靴を間違えてしまったのはこれが初めて、というわけではないらしい。

以前もこの季節だったそうだ。
小学校の展覧会を2カ所はしごした。2カ所目で帰ろうと思ったが、自分の靴がない。誰か間違って履いて帰ったのではないかと大騒ぎをしたそうだ。携帯電話のなかった時代である。学内の客と先生に確認したが、全員間違えてはいない。結局最後の客が帰るまで待つことになった。間違えて帰った客が、あわてて返しにくるかもしれないからだ。しかしぽつねんと玄関に残っていたのは他人の靴、結局それを履いてきたのではないか、とようやく思い当たり、最初に出向いた学校に電話をした。最初の学校では「誰かが自分の靴を履いて帰った」という先生がいたらしかった。先生は予備の靴でお帰りになったので、「誰のものか分からない靴が1足残っている」という状態だったらしい。電話でやり取りすると、どうも自分の靴らしい。

結局、1校目を出て、2校目で靴を脱いでも、他人の靴だとはわからなかったわけだ。

教訓:自分の靴には名前を付ける。

2014年11月2日日曜日

消耗品

何を学習するにせよ、「道具」とか「材料」が、手近にあることは大切である。それによってインスパイアされることもたくさんあるからだ。

機材がデジタルになっていく、という過渡期にいた身としては、機材がどんどん「道具」ではなく、「消耗品」になっていくことが気になったりする。

ひところ、映像を学ぶ学生さんにビデオカメラ購入をノルマにしたことがあった。今よりも、まだまだモデルチェンジのサイクルが長いとはいえ、1年のときに購入したカメラで卒業制作が出来るようなクオリティが高い機材は、得てして1年のときにかなり奮発して買った高額なカメラだった。中の中、くらいのアベレージ程度の機材は、3年生くらいでもう少しクオリティの高いカメラに買い替えたくなる。結局、上級学年の貸し出し用にハイクオリティなカメラを購入するようになり、次第に下の学年にも貸し出すようになってきた。デジタル機材は「自前で購入」するものではなくなってきた。

現在の研究室の貸し出し機材の倉庫は、そんな感じで、そこそこ高額な機材が並ぶ。学生さんは基本的に機材を借りて作業をするようになった。

2014年11月1日土曜日

セコハン

最近の大学では、入学と同時にノートパソコン支給、というのも聞くようになってきた。

以前に見学しに行ったことのあるカナダの美術系のカレッジでは、10年以上前からその作戦をとっていて、コンピュータを使った作業は自分のパソコンでやる方針だった。
勤務校でもいくつかの専攻では、入学と同時にパソコン、デジタル一眼レフカメラなどが「お約束」として購入するようになっている。学生の間では、macbookと一眼レフを持っているのは○○学科専攻学生、というように、「目印」になっているようだ。

以前にも書いたが、私が学生の頃は、一眼レフカメラと暗室用具一式が購入必須だった。午後8時半全学消灯のロックアウト制度の残る大学内の工房では、徹夜の写真暗室作業が出来ないからだ。作業は基本的に自宅でやれるようにということだった。
カメラを自前にするのは、「自分の目玉」になるからだ。始終手に持っていれば、使い方も慣れてくるし、シャッターを切る機会も多くなる。
もちろん、写真専門に学習を続ける学生さんばかりではないので、ひととおりの授業が終われば、さっさと機材を処分する学生もいる。そういう学生と、下の学年の学生さんとで、「セコハンマーケット」が成立していた。新品一式が20万円前後だが、セコハンだと半額くらいになる。中には、2代目3代目と継続して使われる機材もあって、セコハンどころではなくサードハンドやフォースハンドになっていたりする。


フィルムの業界と言うのは、技術革新が早いと言うわけではない。新しくなっても、ケミカルとか光学とかの部分的なものなので、大枠の作業自体はあまり変わらなかった。だから、「代々の学生さんに渡って行った機材」というのがあったりした。もちろん、実家の親父さんやオジさんの趣味が「写真」という学生もいて、分不相応に高価なカメラだったり、えらくクラシックな引き延ばし機を使っていたりするのもいた。

2014年10月31日金曜日

分割払い

デジタルな機材の代表と言えば、コンピュータである。
手近にあっていつも触れるようになって、やっと慣れ、使えるようになるものである。

20年近く前のことである。
コンピュータグラフィックス、というのがまだまだ手の届かない時代である。どうしてもそれをやってみたい学生さんがいて、1年生のときに機材の購入を企てた。パソコン、ディスプレイ、入出力装置一式である。一括ではもちろん買えない。安い乗用車並みのお値段である。ローンを組んだ。卒業制作までそれで制作しようと、アルバイト代をつぎ込む予定で4年ローンである。その頃のそういった機材は、学生さんにとってももちろん「高嶺の花」である。クラスの中でも話題になって、数名がいつも彼のアパートに入り浸りになっていた。

しかし悲しいかな、技術進歩は早いものである。翌年には新型モデルが発売になり、次の年には性能倍増のモデルが半額で発売された。3年後はその倍増である。
購入した学生さんは、4年生になったときには既に型落ち、爆遅の機材で作業するはめになった。ローン中なので転売も出来ない。泣く泣く、学校の機材と自宅とをピストン往復しながら作業していた。

教訓。デジタル機材はローンで買わない。4年後には機材の状況は激変する。

2014年7月30日水曜日

訂正

個人情報保護法、というのが出来た。同居人の勤務校は小学校だったので、ずいぶんナーバスだった。
電話連絡網も、個人情報保護、と言う名のもとに、結局一斉同報メールシステムに変わった。クラスの名簿も発行しにくくなったので、同窓会のお知らせ一つ出すのも大変である。もちろん先生の個人的な住所なども知らせなくなったので、同居人にあてた子どもさんからの年賀状は減少した。

保護法以前は、クラス名簿はあって当たり前、という世界だった。どこで知ったんだろう、と思うようなダイレクトメールが届いていた。高校受験の時期になると進学塾、大学受験の頃になると予備校、20歳になると呉服屋さん、大学卒業の頃になると就職活動情報誌、お年頃になると結婚式場のご案内である。そのうちきっと「お墓」まで来るんだろうなあと笑っていた。ダイレクトメールというのは、たいてい右から左にゴミ箱に入るだけだ。

同居人はバツイチだったので、ずいぶん長い間、元奥様宛のダイレクトメールが来ていた。宝石、毛皮、呉服、海外ファッションブランド、とずいぶんとお派手なものが多かった。いなくなったという情報は「訂正」されず、延々と「昔の」名簿でダイレクトメールが送られてくるのである。こういうのはどこに訂正を申し入れれば良いのだろうか。


同居人には、いなくなった子どもがいた。これもその後10年ほどは届いていたのではないだろうか。振り袖のダイレクトメールが来たときは、今はこんなお年頃なんだねえと、思い返したようだった。


住所の公開などナーバスになっている今日この頃、そういったことはもうないのだろうか。

2014年7月29日火曜日

作戦

そうこうしているうちに、同居人の勤務先は文科省の実験校だったこともあって、今にして思えば、割合早めに学校は「インターネットで連絡網」という作戦に出た。ちょっと大規模なメーリングリスト、というわけである。
小学校からは、何年生だけ、どのクラスだけ、全児童向けなどという選択で、一斉同報するのである。電話連絡網と違って、タイムラグがない。
ところがこれも、実際に使い物になるまでに半年や1年はかかっていたような気がする。

メール、と言っても、ご家庭の電話回線につないだパソコンだったり、携帯電話のキャリアメールだったりといろいろなものがある。働いている人は、おうちのパソコンのメールを見るのは、夜帰ってきてからで、超特急緊急連絡には間に合わない。あるキャリアのメールは、送受信できる文字数に制限があり、本文に入る前の文章しかメールで配信されなかったりした。もちろんキャリアメールでは添付ファイルは見られない。全部テキスト起こしである。
個人情報保護が話題になっていた頃である。メールアドレスが外部に漏れてはいけないので、個人情報は持ち出し不可、つまり送る方は、学校からしか送信できない仕組みだったので、「朝6時の気象警報で休校が決まる」ような連絡だと、朝5時半頃学校にいて、気象警報を見てから「本日は休校になりました」と発信しなくてはならない。担当の先生は「休校」ではなく、嵐の中の登校である。

いろいろなご家庭のケースがあったり、不具合を少しずつ修整したり、あるいは世間的な使用方法や技術、ハードウェアの使い方やスペックも少しずつ変わったりした。変化の早さは、ここ数年のことである。

2014年7月28日月曜日

連絡

それから幾星霜。
20年ほど経つうちに、大都市圏では核家族化が進み、共稼ぎのおうちが増えた。
留守番電話という文明の利器が開発され、電話連絡網は人間相手ではなく留守番電話相手に伝言することが多くなる。
留守番電話の難点は、「伝言承りました」だけであり、そのおうちのひとが「聞いたよ」という確証が持てないことである。

同居人は小学校の先生歴が長いのだが、このあたりの過渡期を「先生」として過ごしていたわけだ。

いつの時代であっても「連絡」は大切で、必要、だが、難しいものである。

そのうち「携帯電話」というものが普及し、電話連絡網では二つ三つの電話番号が並ぶようになった。
お仕事中はコレ、プライベートにはコレ、とひとりでいくつかの携帯電話を使いこなすお母さんもいた。伝言を送る方は、時間を見て電話番号を選ばねばならない。お仕事中に電話をしたら「次の人の電話番号が分からないので、次の人に回しておいてください」などと言われ、保護者会で話題になったことがあるらしい。結局、専業主婦で家にいる人が、かなりの人数に電話することになるからだ。

「ご連絡」というものは、いろいろと難しいものである。

2014年7月27日日曜日

伝言

通信教育系の会社から個人情報が漏れていた、というのが、先日はニュースになっていた。
「個人情報保護法」あたりから、なんとなく世間様は、別のベクトルに向かっているような気がする。

母は私学の小学校だったのだが、入学の条件が「自宅に電話がある」ことだったそうだ。太平洋戦争前後のころである。
私の世代だと、小学校時代には、大都市圏のクラスでは、ほぼ8-9割方に固定電話が普及していた世代である。核家族化が始まってしばらくの世代なので、サラリーマンの奥様は専業主婦が多かった。もちろん三世代同居、というおうちもそこそこあったし、商店街の近くだとご商売なのでいつも誰か家にいる、というわけだ。だから小学校には「電話連絡網」というのがあった。固定電話がないご家庭は、近くのおうちから「伝令」にいくのである。
台風前日とか、天気の怪しい運動会前日とかに、「明日の行事は延期です。授業の支度をしてきてください」などというのがまわってくる。担任からクラスの代表に連絡が行くと、枝分かれしたツリー構造に従って、電話で伝言ゲーム、である。間違ったら大変なので、お互いに復唱し、最後の人は「回りました」という確認をクラス代表にコールバックする。まだ留守番電話などない時代だ。

2014年7月14日月曜日

勢い

教員と学生の懇親会での「勢い」発言など、まだかわいいものである。

私が学生の頃は、それこそ勢い余って無礼講と化し、誰かが脱ぎ始め、裸踊りをし始める。男子よりも酒豪な女子も多い。つぶれた男子を介抱したり、つぶれた先生を介抱したり送っていった。
あまりの騒ぎに、本学学生お出入り禁止と叫んだ居酒屋もある。壁をぶち抜かれ、階段からぞろぞろと学生が転げ落ち、床が抜けたた。お詫びにその学生を担当していた教授が、自らの作品を贈呈した、という話があったりした。ちゃんとした絵描きの先生である。号何十万円、である。

若気の至り、というやつなのだろうが、同居人の学生時代は、体育会系のサークル所属だったので、もっと凄い逸話があった。
飲み屋の壁を壊した、床を踏み抜いた、階段を壊した、看板を壊した、塀を壊した、近道しようと他人の敷地に入って横切ろうとしたら犬に追いかけられた、打ち上げで胴上げをして天井をぶち抜いた、先輩の結婚披露宴で新婚夫婦の寝室にみんなでなだれこんだ、酔っぱらって帰ってベッドに倒れ込んだがそこは隣の家の寝室だった……。

今聞くとフィクションみたいな感じがする。ほんとなんだろうか。
ちなみに、作品を贈呈された居酒屋では、先生の絵が廊下に飾ってあったそうだ。売り飛ばしはしなかったんだねえ、というのが後日談だ。その居酒屋も、現在は廃業していて、存在しない。今は昔、である。