2017年3月15日水曜日

簡単


さて、撮影される子どもの方も慣れたもので、親が見ているとやたらにっこりとカメラ目線である。ほほえましい風景、なのかもしれない。
しかしそれは、子どもにとって「欲しい画像」なのかどうか、はまた別問題だったりする。
授業始めのきっかけに、運動会のビデオ、という話をしている。親御さんは、運動会の様子を撮影している。親にとっては、どんな子どもであっても可愛いものである。徒競走でビリになっても、リレーで頭から転んで大泣きしても、玉入れの時にエキサイトしたクラスメートに張り倒されていても、列に並んで順番を待っているときに鼻をほじくっていても、隣の子どもに肘鉄を食らわしていても、である。
本人にとってはそれが人生最大の汚点、になるかもしれない。今までは、撮影した画像は、自分の内で楽しむもの、であった。現在は、即座にSNSにアップロードされ、全世界に広がってしまう。子どもが親を訴えた、というニュースが、ちょっと前にあった。
まあ、親としては悪気はないのだろうが、「簡単」なのでついぽちっと、という感じだろうか。

2017年3月14日火曜日

探す


美術館で開催される講座の映像記録をしている。
記録しているのは、美術館、なので、いわゆる造形的な講座やセミナー、といったものである。いまどきのコトバで言えば「ワークショップ」というものである。コトバの定義については、この際置いておくが。
さて、コースのいくつかは、子ども向けのものだ。通常行うものだと、小学生から上が募集対象である。
25年、考えてみれば四半世紀も関わってきたのだが、その間の「小学生」は、いつの間にか大人になっていたり、お母さんになったりした。担当している学芸員と、時折、感動している。
手伝い始めた最初の頃、お母さんたちは時々コンパクトカメラで子どもたちのスナップを撮影していた。数年経つと、ビデオカメラを持ち込む人が出てきて、その後コンパクトデジカメ、デジタル一眼、デジタルビデオカメラ、携帯電話、いまやスマホやタブレットである。毎度毎度、子どもを撮影する、というモチベーションには、びっくりさせられる。ともあれ、それが日本のカメラやフィルムの「写真産業」、「映像産業」を支えるものではあるのだが。
ともあれ、カメラと称する機器を持ち込んでいる親は、「撮るぞー」という気合いが、それなりにあった。学芸会や運動会の撮影風景は以前にも何度か書いたことがある。最近はスマホなので、気合いがない。良い意味でさりげない、悪い意味で習い性である。「とりあえず撮っとくか」モードである。
友人のスマホもそうなのだが、やたら写真を撮る。スマホのメモリーは写真データでいっぱいである。ではそれを良く見直すか、と言えばそんなこともなく、ダカラと言って見直さないものを整理するか、と言えばそんなこともない。あのときの写真は−、と見せてくれようとするときには、あれこれと探し始めてしばらーく、いやもっとしばらーく、待たされる。「いつか見るかもしれないからメモリーから削除しない」モードである。
ああだから、アプリケーション上で「顔認識」やら「イベント認識」なんかの機能がついてくるわけである。

2017年3月8日水曜日

事実


閑話休題。新聞の読み比べであった。
あまたくるレポートを読んでいて感じるのは、良くも悪くも、素直な人が多いんだなあ、ということだ。新聞を丁寧に読んではいる。ただし、記事をかなり信用している気配があるのも気になる。
ベタな例だが、2007年に「あるある大事典」というテレビ番組で信憑性が問題になった。それ以前からも、番組で「ダイエットに納豆が効く」という放送があれば、翌日のスーパーから納豆が品切れになる、という社会現象も起きていた。あれあれ、メディアの伝えていることを鵜呑みにしてしまうんだなあ、くわばらくわばら、と思った。
もちろん、新聞も同様である。新聞では主観的な記述をない交ぜにして、あたかも「客観的事実」であるような書き方をすることがある。特に、あれ新聞、とは言わないが、社会的認知度も高く、販売部数も多く、インテリ層がよく読む、という新聞でも、である。新聞側としては、世論を応援している、という自負があるかもしれないが、むしろ世論を形成しているような印象すらある。
まあ、日本人は素直だから、つい納豆を買いに走ってしまうのだろう。こういう国民性だから、インターネットの情報にも踊らされてしまう。だからこういうこともよく起こる。用心用心。

2017年3月7日火曜日

多面性


ものごとにはすべからく多面性がある。見る側面によって、それは異なって見える。もちろんそれは人間でも同様で、成績はよろしくないが人間性がすばらしくよろしいひともいる。先生にとっては「おそろしく劣等生」、妹にとっては「すばらしく頼れる兄ちゃん」である。たとえば、成績というラベルだけでは、人間は判断できない。
ただ、学生さんにとっては、「成績」だけが人間評価の基準になってしまうことがある。何が何でも成績、になってしまうから、カンニングだったり、他人をおとしめたり、してしまう。もっと多面性が評価されたり、発揮できたりする社会であればいいのになあ、と思う。

2017年3月6日月曜日

真実


通信教育課程では、数年かけて単位を修得する学生が多いので、課題の内容をおいそれとは変えられない。数年かけて様子を見ながら、根回しをせねばならない。
たまたま、担当している専任教員が変わったことと、資格取得の取得条件が変わったこともあって、受け持っている科目の一つは来年度、つまり4月から課題変更である。
さて、現在の課題は、マスメディアである新聞の読み比べ、といったものだ。一紙しか新聞を購読しない、というご家庭が国内では大多数である。いまや新聞すら購読しない家庭もあったりはするのだが。まあともあれ、数紙を並べて読む経験がないと、新聞とはかくも違うものかということはわからない。
そんな感じのレポートなのだが、学生の文章に意外に多いのは、「マスメディアは真実を伝えるべき」といった内容である。 

そういったことを考えてしまうのは、ある意味でとても危ないことでもある。伝えるべき真実とは何なのか、それを考えずに、新聞は真実を伝えている、はずだと思ってしまうからだ。
かつて新聞がスクープと称した記事が、実は誤報であったり、ガセであったりしたこともあった。喉元過ぎれば、ではないが、そういったことを覚えてはいないのかもしれない。真実を伝えているはず、という前提でものごとを受け取るようでは、トランプ流に言えばフェイクニュースをそのまま受けとってしまうことにもなる。
報道記事を書くときに気をつけろ、と言われたことがある。事件にはそれに関わった人の数だけ真実がある、ということだ。ある人にとってはそれは「正しい」ことだが、他の人にとっては「正しくない」こともある。戦時下のメディアがそうであったように、である。
2013年に行われた新聞広告クリエーティブコンテストの最優秀賞である。
こういった作品が「新しく」評価されること自体が、実は危ういのではないかと思う。

2017年3月3日金曜日

隙間


そんなことを考えていたら、新聞で「就活解禁」の見出しを見かけてしまった。
さて、私の母親はせっかちなので、浪人するよりは入れた学校に通って卒業、という主義である。私は幸い浪人せずに済んだが、全部落ちていたらどうなっていただろうかと思うことがある。
しかし、通った学校では、1浪2浪は当たり前だった。二つ年上でも同級生、仲良く「ちゃん」づけで遊ぶ仲になる。
長じて思うのは、長い人生なんだから、1年2年はどうってことないかな、ということだ。
新学期に時折見かけるのは、「大学って入ってみたら、想像と違ってた」と感じている1年生だ。「入れたところに行きなさい」作戦なのか、事前のリサーチ不足なのかはわからない。でも浮かぬ顔をして授業に「出てるだけ」では、むしろ人生の無駄になっているような気がする。
就活している学生さんを見て思うのは、卒業と同時に会社に通い、と「隙間なし」の人生計画だ。無駄のない人生計画に見えるが、反面打たれ弱いのではないか。「会社に入ってみたら、想像と違ってた」ことにはならないだろうか。大学は4年ほど辛抱すれば卒業できるかもしれないが、会社ではそうは言えないだろう。だから真面目な人ほど「違ってた」けど「頑張って」しまうのである。「燃え尽き症候群」になりやすいのではないかと心配してしまう。
人生挫折を経験して知ることもあるだろうし、卒業して1年じっくり人生計画を立てるのもいいだろうし。就活、などとあおられなくても、のんびりやれるようになるといいのに、と思う。

2017年3月2日木曜日

年度末

毎年、年度末はやってくる。学校の場合は、新年明けが年度末である。大学の場合は、ほぼ12月から1月半ばまでに授業や試験が終わる。重なるように卒業制作展と審査があって、その後は入試、というのが通学課程の年度末である。もう片方でやっているのは通信教育で、こちらの方は入学考査は書類審査だし、秋入学というのもある。通学課程ほどではないにせよ、それなりに年度末である。私はこちらでは、レポート担当、赤ペン先生である。通信課程の年度末レポート締め切りは2月末日。2月初めからぼちぼち「駆け込み提出」というのが増えてくる。「とりあえず」ビール、ではなく提出、である。