2017年11月23日木曜日

ドミノ

今年度最後のローテーションで受け持ったクラスでは、遅刻がかなり多かった。
通常は、9時に授業が始まる。が、8時半頃から教室や廊下でうろうろしていたり、菓子パンを食べている学生がいる。早いねえ、などと声をかけながら、授業の準備をする。早く来る学生さんは、遠距離通学であることが多い。片道1時間半から2時間半、という程度である。乗り継ぎが多くなると、ちょっとした遅れで、その次の電車、その次の路線での乗り換えが、ドミノ倒しのように遅れる。最初の列車の5分遅れが、最後に乗る電車では10分20分の遅れになってしまうからだ。たいていはその遅れを見込んで、早めに乗る、という知恵がつく。徒歩圏内に下宿している学生が8時半から来ていることなど皆無である。
ほとんどの学生は、9時すれすれに滑り込む。走ってきて息が上がっていたりする。9時に授業が始まるので、少し前に来て、授業の準備をするなどない。滑り込んで、ばたばたと席に着き、周りに話しかけながら、鞄の中からノートを取り出し、何かを床に落っことして探し、他人の足下に潜り込んでいたりする。授業準備万端になるのは、5分から10分先である。さて9時というのは、授業開始なのか、授業のための集合時間なのか、よく分からなくなってきた。
さて、ここ数年、都心の鉄道会社では、安全に配慮してか、ちょっとした「安全確認」で、よく電車が遅延する。時間通り、が日本の鉄道の特徴と言われてきたが、時間厳守で事故が起きてからは、安全第一になってきたようだ。それはそれで、まあ悪いことではないはずだ。ただ、最近はけっこう頻繁なので、逆に前倒しで計算して、早めの電車に乗るようになった。何事も、時間ギリギリ、というのは、やはり「ぎりぎり」だからである。
話は戻って、授業の遅刻だが、電車の遅延というのが「免罪符」だと思っている学生が多い。そのため、9時を過ぎて滑り込んでくる学生さんは、鉄道会社の遅延証明書など渡しに来る。ぎりぎりに攻めようとするから、ちょっとした遅延で遅刻になる。もう1−2本早い電車に乗って、20分前に着くようにすれば、10分の遅延でも余裕の到着なのに、である。しかし最後のクラスは、そういった学習能力のない学生が多いらしく、毎朝のように遅延証明書を持ち込む学生がいた。3週間18回の授業で始業時に教室にいることがなく、来ても毎回遅延証明書付きである。
聞けば専攻は建築。将来大工と仕事することになったら大変である。朝9時に大工仕事をお願いしたら、職人はたいてい8時半にはやってきて、車の中で待機していたりする。お仕事となったら、遅刻癖は治るのだろうか。

2017年11月22日水曜日

ココロ

勤務校での授業は、10月いっぱいで概ね一段落する。学生さんの方は、という意味である。
教える方は、といえば、提出物のチェック、授業成果の採点、という仕事が待っている。
「脱落者を出さない」というのが勤務校のモットー、教務課からお達しが来るので、おいそれと脱落者、つまり「不可」がつけられない今日この頃である。あの手この手で、単位取得に必要なものがそれなりに揃うようにしなくてはならない。出席日数、課題の出来、だけではなく、ノートやレポート、平常点、授業への参加や発言の程度、などなど、点数をつけれられそうなモノをあれこれと揃えたりする。
一番分かりやすいのは「出席日数」である。2/3以上の出席で課題提出、あるいは定期試験受験の資格がある、というシステムである。つまり1/3の欠席でアウト。だから、どの学生も、授業半分ほどで「出席日数が課題提出の条件である」とアナウンスすると、「自分の授業出席数は足りているのか」と質問に来る。いやいや、大人なんだから、自分がいつどこにいるのか、くらいは自己管理の範疇だろう、と思うのだが。
「出席日数が足りている」だけでは単位は出ない。単に、課題を提出できる権利が発生する、程度の話である。もっとも、単位を取得するための第一関門としては目に見えて明らかな条件である。授業に興味がない学生でも、単位取得には興味があるようなので、とりあえず授業に来る、というタイプの学生が出現する。出席を採ったらトンズラする、授業中は爆睡する、授業中にトイレに立つ、トイレに行ったらしばらく帰ってこない、もちろん授業中にスマホいじりなどする、という手合いである。「出席」していても、ココロここにあらず、なので「出席」している状況なのか、というのは大いに疑問である。
出席簿を見返しながら、この学生のココロの出席は授業ではなく、どこにあったのだろうかと、しばし考えたりする。

2017年11月15日水曜日

刷り込み

こういった「刷り込み」されたBGMというのは、運動会以外にもいろいろある。小学校によって曲目は違うのだろうが、朝礼の集合、休み時間の開始、昼食時、お掃除の始まりと終わり、下校時刻などなど、ことあるごとに音楽がかかる。著作権の関係があるのかもしれないが、たいていはクラシック音楽というジャンルだった。最近はもう少し今日的なポピュラーなものも使われているようだ。鑑賞の時間ではないので、作曲者が誰かとか、指揮者が誰か、など関係なく、「合図」として利用する。おかげで「別れのワルツ」が聞こえてくると、夕方だなあ、帰らなくっちゃ、と一瞬思ってしまう。条件反射である。
映画を作るときは、このような「刷り込み」音楽というのをよく使う。街中の風景で、小さく「クシコスポスト」を入れると、秋の運動会シーズン、という印象になる。雑木林の風景に、小さく「夕焼け小焼け」を入れると、近くに小学校があって下校時刻なんだなあ、という感じになる。
一般に流布している楽曲というのは、聞いている人それぞれに「先入観」がある。家庭の居間の映像に、小さい音で「天国と地獄」を入れると、「近くの小学校で運動会をやっている」と感じる人と、「テレビがついていて、コマーシャルをやっている」と感じる人がいる。作り手の側から言えば、状況として、後者ではなく前者を感じさせたいのであれば、「天国と地獄」だけではなく、他の曲もあわせる、などの配慮が必要になる。
ただ、大学生くらいだと、得てしてそんな配慮などしない。自分の持っているイメージでBGMを選ぶ。授業内の課題制作で、毎年数人は、胸キュンな青春ドラマをつくる。「ほんわか」なシーンに、女子学生が合わせたがるのは、オルゴール音楽である。曲目はいろいろあるのだが、ともかく「オルゴール」、なのである。私にとっては歯医者の待合室でかかっているのが、この手のオルゴール音楽である。オルゴール音楽が流れてくると、どうしても「歯医者の待合室にいて治療の順番待ちをしているビミョーな気分」になる。講評中にキュンとしているのは、胸ではなく、歯、である。