2014年6月30日月曜日

つくる

美術学校、というところは、ものをつくることから始まる。

…と、思っていた。頭脳労働があまり得意でなくても、手足が動く、という労働方法はあるわけで、どちらかと言えば「肉体担当」になるかもしれない。経験値が上がってくれば、それによって頭脳労働、というのも自ずと備わってくるものだ。
しかし中には、頭脳労働が得意であっても、クリエイティブには向かない、というタイプの人もいる。

以前にも書いたことがあるが、最近の学生は美術系の実技を受験しなくても合格できるような入試制度になった。
一般高校を卒業し、美術予備校に通った経験がないと、「つくる」ことに慣れていないことがある。「参考作品」を見たがったり、「高評価」の作品を見たがったり、あるいはどうすれば「高評価」になるのかを知りたがったりする。つくる、ということは、模範解答をなぞることではない。参考作品は、手法やプロセス、課題についてのアプローチを学ぶことに関しての「参考」にはなるかもしれない。ただ、アイディアのソースを得るためであれば、二番煎じになってしまうので、見ない方が良い、というのが私の授業でのスタンスだ。

今年の学生で気になるのは「何を作っていいのか分からない」と公言するのが、何人かいることだ。つくることが好き、というところから始まっているのであれば、とりあえず闇雲に動いてみる、という方法があったりするものだ。まあたいがいは、「どうしたらいいんでしょう」と問われれば、「つくりたいものはどんなものか」という問いで返したりする。そういう問答をしばらくやっていくうちに、好きなものの方向性や、やりたいことが見えてきたりするものだ。ところが最近の何人かは、「何をつくりたいのか」と問えば、「わからない」。「つくりたいものはあるのか」と言えばそれも「ない」。二言目には、「次は、どうしたらいいでしょう」「その後は、何をしたらいいでしょう」と、根掘り葉掘り聞いてくる。

うーむ、そんなことをしていると、それは私の作品になってしまうではないか。

2014年6月29日日曜日

カウント

私の授業では、電車の遅延で遅刻したなら、遅延証明書を提出、というのをルールにしている。
電車で通学した経験のない学生もいるので、初日に遅延証明書のもらい方、など伝授する。
遅延証明書のない遅刻は、ノーカウントである。

それでもなおかつ「すいません遅刻しました」と後からやってくる学生がいる。遅延証明書など持っていないので、ノーカウントであることはお互いに分かっているはずなのだが、それでも一応、申告する訳である。涙ぐましい。社会の現場では、一応、など意味がないこともある。

今年はなおかつ、電車が遅れて遅刻しました、とスマホを私の目の前にかざす学生がいた。おお、最近の遅延証明書は電子証明になったのか、と思ったら、単なるインターネットで公開されている「路線遅延情報」である。遅れた電車に乗っていた証明にはならないので、もちろんノーカウントである。

授業が半ばを過ぎると、「私の出席状況は大丈夫でしょうか」と聞きにくる学生が増える。これも謎である。
自分が出席したか、欠席したのか、カウントできない自己管理と言うのは大学生としてはいかがなものか。カレンダーとか手帖とか、いまどきだとスマホのカレンダーとかいろいろあるだろう。授業中にこっそりと「授業なう」などとツイートしたり、ラインでやりとしている学生も多いのに、授業に出てるもんねー、出席なう、などと記録は残せないのだろうか。
そもそも、学則では、授業回数何回のうち、出席何回で単位取得権利を得る、というのがある。遅刻は何分まで、遅刻何回で欠席1回扱い、など、学校ごとにいろいろ決まりがある。今の学生さんは「まじめ」なようなのだが、そういった規則を熟読して、何回のうち授業がさぼれるかを勘定し、シラバスと授業スケジュールをつきあわせて、さぼりスケジュールを考えたりしないのだろうか。

今日も渡された遅延証明書を見ながら、出席をカウントしている先生である。

2014年6月28日土曜日

遅延証明

なぜかは知らないが、「遅延証明書」という語句検索で、このブログがよくヒットする、らしい。
遅延証明書、というのが、インターネット社会の住人には、耳慣れないキーワードなのかもしれない。

私の授業では基本的に遅刻はなし。遅れてきても、遅刻扱いにはしない。欠席である。
交通機関が遅れたのであれば、遅延証明書を持参すれば、遅刻扱い、というのをルールにしている。
電車通学をしたことがない学生も時々いるので、授業初日に遅延証明書のもらい方、というのを伝授する。

大学は東京、といってもはじっこの方だが、最寄りの通勤路線では「遅延」というのが発生することがよくある。まあ不可抗力なら致し方ないだろう、というのが私の考え方である。

ただ、遅延の多い路線であることはよく知られているので、それなりに覚悟を決めて早く来なさい、という考え方の先生もいる。遅延証明書は必要なく、有無を言わさず遅刻扱いである。どうも、遅延証明書を何枚かまとめてもらって、遅刻仲間で分け合ったことが発覚したことがあったらしい。自転車で通える距離なのに、なぜこの日だけ、電車の遅延証明書を持ってくるのか、と先生がいぶかしんだそうである。

悪いことは出来ない。おかげで、他の学生もとばっちりを受けるわけである。

2014年6月27日金曜日

さらさら

音の作業をしていて面白いのは、「物理的な音」についての感覚である。

「はーるの小川は」という歌がある。
「さらさら」流れているのである。どのように「さらさら」なのかというと、たいていの人は郊外の小川を探して、流れている水音を拾ってくる。林の中の、せせらぎを録音している、という状況である。
ところが、その音を子どもに聞かせて、ナンノオト、と聞いてみると、たいていの答えは「トイレの音」である。
水の音、というのは、いまどきの子どもにとって、最も身近な音になっているわけである。
録音した人は、「郊外」で、「他にノイズも入らない」、しかも「さらさらな水の、清い小川」を探してきたのにも関わらず、である。がっくりである。

前にも書いたが、もちろん時代劇で刀を合わせて「ちゃりーん」とか、悪党を「ばっさり」斬ったりする音は、もちろん後でつける。しかし実際に、日本刀を合わせても「ちゃりーん」とは言わないし、人を斬っても「ばっさり」などという音はしない。イメージに合わせて、音をつくり、それが「ルール」となっている例である。
外国の映画で言えば、短銃とライフルの音が逆、というのがよくある例だそうである。私は鉄砲を撃ったことがないのでよくわからないが、実際の音とはずいぶんと違うのだそうだ。

効果音をつくるときに、気をつけるのは、イメージとして聞こえる音と、実際に物理的に発生する音との違いである。音源が画像上で見えるときには特に注意する。学内の清掃業者の軽トラックが、ポルシェの排気音を出してはいけないからだ。

2014年6月26日木曜日

マッチング

フィルムはもとより、どんなテレビや映画でも、たいていは「整音」という作業がある。現場で同録した音だけで勝負することはない。

ドキュメンタリー番組の取材で、遠くの山で笹の葉を食べているパンダが撮影できた。もちろん、超望遠レンズである。あらかじめマイクは仕込めない。番組として編集するにあたり、「むしゃむしゃ」と笹の葉を食べるパンダに音無し、ではかっこがつかない。音響効果さんがレタスをばりばりと食べた音をはめたそうである。

フィクションならもっと顕著に音を後でつけたりする。旦那とけんかした奥さんが、マンションのドアを勢いよく開けて家出する。怒り心頭でドアを勢い良く閉めて、足音高く廊下を去っていく。高級マンションでは、実際にはドアはきしまないし、クローザーという機構があるので、マンガのように「ばたーん」とは閉まらない。「がちゃっ」とノブがまわり、「バタン」とドアが開いて、奥様が怒りをこめてドアを力任せに「バッターン」を閉めたりする音は後付けである。
もっとわかりやすいのが、時代劇の「ちゃんばら」シーンである。竹光では「ちゃりーん」と峰を合わせられないし、人を切っても「ばっさり」と音はしない。
アニメーションになると、もっとすべからく、音をつけねばならない。描画された画像からは音は出ないからだ。

画像にマッチングした音が聞こえるのは、学生さんにとっては「ふつー」なのだろう。一方で、画像にとって「ふつー」に見えるためには、相当の作業の時間と手間と人手が必要である。だから低予算のテレビドラマでは、とても音が「うすい」。ひところの香港映画の音響効果は、ものすごーく音が「あつい」感じがした。相当大人数で、音響効果をアフレコしていた、と後で聞いた。さもありなんである。

2014年6月24日火曜日

ズーム

ビデオカメラに組み込まれた同時録音用のマイク、というのは、たいていレンズの近くにあり、レンズと同じ方向を向いている。今時のカメラだとステレオマイクだが、基本的にはレンズと同じ方向を多く包括する単一指向性、という感じである。

ビデオカメラのレンズ、というのは、たいていズームレンズを使う。学生に使わせている民生機や業務機は、レンズが最初からビルトインされているものである。民生機だと30倍ズームです! などと、ズーム倍率が高い方が売れるようで、業務機もたいていは焦点距離の幅がかなりあるレンズが組み込まれている。
広角から、望遠まで数十倍、という感じだと、かなり遠くから狙っても、被写体をとらえることが出来る。
一方で、マイクと言うのはズーム機構を持たない。ズームして、被写体を大きくとらえても、被写体の発生の録音レベルが上がるわけではない。

遠くの被写体を望遠で狙う、というときは、「仕込みマイク」というのを工夫する。カメラでは見えないところにマイクを仕込んで、別に録音しておくのである。出来上がった画像ではマイクは見えない。

だからときどき、学生が困った顔をして編集していることがある。望遠でとらえた画像は良い感じ、なのだが、台詞が全く聞こえないほど周囲のノイズに埋もれている。レンズとマイクは別もの、と思っていなかったり、収録時に音声モニタをしていないと、こういう羽目になる。

2014年6月23日月曜日

意外性

ビデオと言う機械は同時録音することが一般的である。被写体の話し声も、周囲の雑音も、もちろんカメラマンの独り言も、カメラは録音してしまう。

ビデオカメラはもとより、マイクで収録した音を確認したときに気づくのは、いろいろな音が入り込むことだ。人間は、脳みそが「聞きたい音」だけを抽出する。しかしマイクはすべての音を均等に信号にしてしまう。空気の「振動」を拾って記録するので、人間が音だと思っていないものであっても記録する。
だから、人間の耳で聞いた音と、その現場で録音した音は、違うことが多い。
一番多いのは「ウィンドノイズ」だろう。風の強い日に撮影しても、人間が感じるのは木々の枝葉がたてる音だったりするのだが、マイクは「ぼこぼこ」というノイズを拾う。
マイクの躯体やケーブルを触っていると、それも音として拾ってしまう。ちょっと擬音語にしにくいのだ、がやはり「ぼこぼこ」とか「ざりざり」といったノイズに聞こえる。
カメラマンの独り言や鼻息も意外に拾ってしまう。ぶつぶつ言う癖のある人は要注意である。

フィルムであれば、後で全部アフレコ、という作戦を取ることが多いので、逆に撮影中は大声で指示を出していたりすることがある。
ビデオカメラは同時録音で、どこかにマイクを仕込んである、というのが、ミソである。

2014年6月22日日曜日

予想範囲内

音と画像がマッチしている、というのは、普段我々が眺めていて住んでいる世界のことである。

だから、音と画像が乖離していると不自然な感じがする。雷が光って、雷鳴が後で聞こえる、というのは理科の時間に習う。実世界では、離れていても不自然に感じないのはそれぐらいだろう。
テレビのニュースで、海外特派員の報告が、絵よりも音がワンテンポ遅れて聞こえる。キー局内のアナウンサーとのやり取りが、ちぐはくな感じになる。それをうまくネタにしたのが、いっこく堂という腹話術師だ。口の動きと、聞こえる声が、ずれている。「声が遅れて聞こえるよ」という芸である。ずいぶん以前の海外電話、というのもそんな感じだ。会話のテンポがどうしてもずれるので、妙な間があり、同時に話し始めたりして、やりにくいことこの上ない。

さて、学生にとって身近な動画投稿サイトなどで見る「プロがつくった」ミュージッククリップは、素人が投稿した「うちの猫」ビデオよりもはるかにクオリティが高い。クオリティが高いのはなぜか、と学生は考える。一番先に思いつくのは「機材」なのだろう。ちょっと良いカメラと高機能な編集アプリケーションがあれば、あれくらい出来るのではないか、と思ってしまうらしい。で、ついやってみたくなる。
自主制作であれば別に問題はない。作業はちょいとやってみると、えらく時間がかかる上に面倒だということが分かるからだ。

ところがいまどきの学生さんは課題で「チャレンジ」である。美術予備校慣れしていないと、「課題」と「やりたいこと」の区別がつかないのではないかと思わざるを得ない。
だから、作品制作前の企画発表では、「課題の条件とは少し逸脱しているし、大変だけどやるんだろうねー」と念を押してみる。たいていは、大丈夫です、やってみたいんです、と答える。案の定、途中で「大変だ」ということに気づく。気づいたときには、すでに課題製作の期間の大半が終わっている。結局、課題は中途半端のまま提出することになる。

まあこれが、終わってしまえば「記憶から消去」になるのではなく、これが反省として彼らのこれからの制作に役立てば、課題としては「効果的」だったと言えるので、中途半端で終了するのは織り込み済み、ではあるが。

2014年6月21日土曜日

音入れ

さて、ここ数回同じように多いのは「音作業」である。

学生さんは、テレビはあまり見ないのだが、いわゆるミュージックビデオの類いはインターネットなどでよくご覧になるらしい。
今年の学生さんはそれが多いらしい。実写のフィクション映像の課題にも関わらず、「音と画像」についてのアプローチが多い。
アクションで同録した音を切り刻んでリズムや音楽に編集するプランだったり、役者のアクションに別の音をはめかえる、いわゆる「音入れ」プランだったりする。

まあ実験映画の時代からおなじみの作戦であり、目新しいものではない。ビデオクリップという媒体がポピュラーになったので、まあそれが「お手本」に見えたり、彼らにとっては新しい手法に見えるのだろう。効果としては面白いので、やってみたいと思わせるのかもしれない。

たかだか数分のミュージックビデオだが、実際には結構なお金と時間と人手がかかっている。撮影は周到なプランと準備があり、相当に時間をかけた作業が行われる。規模が大きいと、長編商業映画並みのものになり、話題になったりする。2時間分の金と時間と労力がつぎ込まれているのだから、濃厚で濃密、高品質でインパクト大でないはずはない。
学生さんにはそれは、「ふつー」に撮影して、「ふつー」に編集したように見えるのだろう。なぜならそれは「ふつー」に見えるからだ。

映像という表現にとって「ふつー」に見えることは、実はものすごーく大変なことなのである。あまりにも「ふつー」に見えるので、「すごーい」ようには見えないからだ。もちろん制作者は、作成の「苦労」を伝えたいわけではないので、そんな「苦労」など見せはしない。ごくごく「ふつー」に見えるように、細心の注意を払っていく。それがプロと言うものである。

2014年6月20日金曜日

チャレンジ

さて、今年のブームは、というと。
なぜか「禁じ手揃え」である。よく言えばチャレンジャー、悪く言えば無謀である。

授業では「映像では伝えにくいこと」と言う話をする。
たいていの学生は「映像なら何でも伝えられる」「しかもばっちり伝えられる」と思っているので、それは違う、という話をする。
たとえば否定形は伝えにくい。ここにある、というものは撮影できるが、ここにはない、という言い方にはならない。同じように、夢や回想、違う時制は伝えにくい。映像は常に現在進行形しか提示できない。だから「編集」という作業があり、コンテクストによって「読ませる」ことになる。
ところが今年の学生はなぜかわざわざ「伝えにくい」「表現しにくい」ことにチャレンジしたがる。
ここ数回で多いのは「夢オチ」「音作業」である。

もちろん、「夢」を映像として具現化する、というのは大変ではある。黒澤明の「夢」などがその例だし、夢と現実のあわい、ということをテーマにする作家もたくさんいる。
フィクションを作るときに「夢オチ」は禁じ手、というのはよく言われる。どんな荒唐無稽なストーリーでも、夢が覚めたら、というのでは「なあーんだ」ということになるからだ。似たようなものに、全部妄想、主人公の死亡、奇跡が起きる、などというものがある。それまで描いていたストーリーや世界を簡単にチャラにする、というのが「なあーんだ」と感じる理由である。

禁じ手に挑戦するなら、ストーリーとして「それは夢でした」という、すべてをチャラにしたオチだけでは難しい。夢の中の世界をきちんと描けたり、現実世界とのギャップをきちんと表現できないと、「やっぱり禁じ手だったねー」ということになるだけだ。

2014年6月19日木曜日

ブーム

1年生の授業では、ビデオを使って60秒ほどの作品を各自で作ってもらう。
グループでひとつのプロジェクトを作ってもらうのだが、面白いことに年度によって作風に「ブーム」があったりする。

10年ほど前のブームは「世にも奇妙な物語」風、であった。
特殊な設定を想定した状況を映像化してみせる、というものだ。犬が言葉をしゃべるとか、蛇口からオレンジジュースが出るとかいう世界を見せるのである。ストーリーや映像的な語り口、というのではなく、特殊な状況を映像の上で見せたい、というだけである。

その次のブームは「異次元もどき」風、である。
時間と空間を組み合わせることで映像は世界観を構築するものなのだが、それを組み合わせて、並行したいくつかの世界を描こうとする。あちらでおきている出来事が、こちらでおきている出来事とは全く違うのだが、遠目に見えたり、見え隠れしたり、という具合である。
仕掛けとしては面白いのだが、仕掛けを見せることに終始するだけなので、「だから何だ」というものに仕上がることが多い。

学科の特色から言えば、ストーリーものが多くなる傾向がある。
ミニドラマ、といったおもむきになるのだが、得てして「もりもりに盛りだくさん」な内容を考えてしまうことが多い。真面目にやったら15分は必要だねえ、という具合である。

ストーリーものでも、ひところブームだったのは「死亡入り」である。
主人公がいて、まあいろいろなことがあるのだが、人生の転機が訪れる。それは「親しい人の死」であった。
まあ、考えることはいいのだが、「生まれる」「死ぬ」以上に大きな人生の転機はない訳で、そう言う意味で言えば、「生死」が入れば否が応でもドラマチックにならざるを得ない。ずるい作戦である。

フィクションを考えるときには、「禁じ手」に近いものがある。

2014年6月18日水曜日

どっぷり

1年生の授業では、ビデオを使って60秒ほどの作品を各自で作ってもらう。
ビデオカメラを使うのも、編集するのもほぼ初めて、という学生も多い。

インターネットがブロードバンドになって、動画投稿サイトなども、逆にテレビのニュースで取り上げられたりする今日この頃である。
さぞや、「映像三昧」な生活をしているかと思いきや、全くそうではない、という感じがする。

一昔前は、下宿や一人暮らしの必需品は、テレビ冷蔵庫固定電話だったりしたのだが、今やテレビは買わないし、固定電話回線もひかない。だからといって、デスクトップのパソコンに光回線をひくでもなく、スマホひとつですべてまかなったりしていることがある。出不精なせいか、映画も展覧会も見に行かないし、DVDプレーヤーもないのでレンタルビデオも借りてこない。当然だが、新聞雑誌のたぐいも購読しない。

情報が多すぎると逆効果、というわけでもないだろうが、どっぷり映像文化に浸かっているとは言えないのが不思議な感じがする。

2014年6月16日月曜日

少数派

一昔前に比べると、美術学校と言うのが増えたり、今時だと景気が悪かったりで、受験率はずいぶんと低くなった。うらやましい。

現在の学校内を眺めると顕著なのは、男子学生が減ったことだ。就職率などという、ご両親ウケする数字が高いわけでなし、大手一部上場企業に終身雇用、というのも少ない(というか、ほとんど皆無)。今時美術学校に来るのは、冒険家あるいはチャレンジャーである。
しかしなぜか、美術学校の男子学生と言うのは、どちらかというと線が細い学生が多い。良い意味で繊細、なのかもしれないが、自己主張があまりなく、協調性もリーダーシップもいまひとつ、頭の回転が速いと言う訳ではないが、邪気がなく、素直である。
しかも、何しろ、まわりは女子学生だらけである。何かと言えば、男子学生だけで集まってつるんでいる様子は、何となく不思議な光景ではある。
これが逆の状態、つまり男子学生が多いクラスで女子少数、という場合、女子だけでつるんでいる、というのはあまり見かけない。

グループワークをするにあたって、学生を数名のグループに分ける。
以前、グループひとつに男子を集めて、他のグループは女子だけ、という組み合わせにしたことがあった。
男子学生はつるむとお互いを切磋琢磨するのではなく、甘やかす傾向がある、というのをそのときに発見した。女子同士だと、お互いの素行管理が厳しくなる傾向がある。それが行き過ぎると「あの人とはやってられない」と開き直る学生が出現する。
耐性をつけるためにも、男子と女子とをまんべんなくシャッフルしてグループを編成した。最初はおずおずとしていた学生も、そのうち女子学生と何となく丁々発止とやりとりするようになる。意外と「俺様のやることに文句を言うな」という亭主関白タイプは出ない。口八丁なのは女子の方なので、何かと言いくるめられることも多い。女子学生がリーダーシップをとったとしても、不快感を表す学生もいない。

悪く言えば覇気がない。ただ、よく言えばやさしい男子学生が多くなったんだなあと思う。

2014年6月15日日曜日

仲良し

さて、ほどよくぬるく仲良くなったクラスで、グループワークを始めることになる。

いくつかのグループに分けるのだが、分け方がいくつかある。
名簿順、成績順、身長の高さ順、というのが、小中学校ではよくやる作戦である。
もう少し知恵がついてくると、じゃんけんしたり、あみだくじをつくったりする。
大学生ではもう少し民主的にやろうかと思ったことがあった。グルーピングの条件だけ伝えて、学生にお任せする方法である。

そうすると、何年かに一度、「この指とまれ方式」というのが出てくる。「一緒にやりたいひとは集まってください」というやつである。
この方法だと、仲良しがグループになりやすくなる。きゃー、一緒にやれるねー、と最初のテンションがえらく高くなる。
こういうチームは、途中で沈没しやすいので要注意である。仲が良すぎて、前が見えないタイプになりがちである。誰かが遅刻したり、約束を破っても、「うーん、こんどから気をつけてね」ということで済んでしまう。気がつくと、仲良しに名を借りた「おさぼりメンバー」が出現する。4人のうち1人が、「おさぼり」すると、しわ寄せは他の3人にいく。25パーセントの労働が、33パーセントになってしまうのだから、それなりに大変である。甘く見ていると、おさぼりが増えたりする。4人の仕事を2人でやる、ということは労働倍増である。真面目にやっている方が馬鹿を見るわけで、仲良しだけにお互いに注意しづらいらしく、なんとなく労働力半減のままゴールまでたどり着く。案の定、作品は、「半分並み」になる。同時に「仲良し」も解消したりする。

あるいは一方で、グループとして上手く組めなかった「はみだし」メンバーと言うのが出現する。だれとも仲良しではなかったり、仲良しが5人いるのだが、グループは4人までという条件だったりする場合である。そういうのが集まって1グループを構成することが時々ある。ほとんど話をしたこともないので、「話し合い」が出来るようになるまでに時間がかかる。

たかだか数人のグループを作るのも、けっこう大変である。

2014年6月13日金曜日

協同

1年生が初めて私のクラスにやってくるのが5月の初めである。
すでに1ヶ月ほど過ぎているので、クラスの中はほどほどにぬるく仲良し、という感じである。

映像、という専攻分野では、何かにつけて「グループワーク」になる。
一人ですべての作業をするにはタスクが多すぎるからだ。

絵画では、ひとりですべての工程をまかなう、というのが今は一般的である。しかし中世の絵画工房は「グループワーク」つまり、徒弟制度によって成立した。作業は細分化され、それぞれの工程を実施する弟子がいた。指示体担当、絵具担当、メディウム担当、などといった具合だ。総括して監督するのが「先生」であり、作家名として歴史に残る。分業制だったことがよく分かって面白いのは、ダビンチが弟子時代に描いた「脇役」とか「その他大勢」といった人物が、先生の描いた「主役」を食ったりしていることである。1枚の絵を、先生一人が全部描いていた、というわけでもなかったようだ。

翻って、商業映画では物語の終了後、たいていは恐ろしく長いエンドクレジットが入る。映画館では、エンドクレジットを見ないで映画館を出てしまう人すらいるくらい長いことがある。それだけ多くの人が関わる「グループワーク」ではある。

2014年6月11日水曜日

ゴール

学生を長い間見ていると、就職は「時の運」だとよく思う。

学生側もそうだし、雇う側も「タイミング勝負」だ。
景気が悪ければ、成績が「良い」学生しか就職しにくい。点数がよろしくなくても、人柄はすこぶるよろしい、という学生はたくさんいるのに、である。一方で、景気が良ければ、成績が多少よろしくなくても、普段の行動がちょっとねー、と言う学生でも、大きな会社に就職できたりすることがある。素行が会社勤めで改善されればいいんだけどねえ、という学生でも、である。

現在、授業で担当しているのは1年生なので、切羽詰まった感じは、まだあまりない。一方で、3-4年になると、作品制作よりも就職活動に気合いが入る学生をときどき見ることがあったりする。美術学校ではちらほら、だが、一般の大学は違うのだろう。

大学合格が人生のゴールではなかったように、会社内定も同じようにゴールではないと思うのだが。

2014年6月9日月曜日

シューカツ

いまや、通年で大学生の就職活動がメディアに取り上げられたりする。当の本人は、大変だろうなあ、と、こちとら他人なのでよく思う。

高校の同級生では、4年生の大学を蹴って、短期大学に入学したのがいた。その当時、男女雇用機会均等法などなく、求人票には性別や生年月日が明確に条件づけられていた。メーカーはおしなべて、男子、浪人留年2回まで、というのが通り相場だった。女子は、と言えば、4年制よりも短大、現役の方が求人が多かった。女子社員は「腰掛け」であり、数年で寿退社する、のが「前提」だった時代である。少しでも長く働くためか、あるいは若い方が教育しやすかったのか、就職したければ、短大、という時代だ。

美術学校での就職活動は夏休み明けにぼちぼち始まった。プロダクションや個人事務所は、卒業制作の作品を持ち込むことが多いので、1月2月からが正念場、だった。卒業式前に滑り込みで内定をもらったり、卒業後に決まることも多かった。

まあ、高校の進学指導とは違って、大学卒業後の就職は基本的に本人の問題であるし、大学の研究室とはあまり関係ない。美術学校なので、就職しても、転職やヘッドハンティングも日常茶飯事、いつの間にか自営業、というのも多い。ときどき、全く畑の違う商売をしていたりして、何十年かぶりに会ってびっくり、ということもある。

2014年6月8日日曜日

いろいろ

編入、というのは、その当時は、ほかの美術学校にはなくて、ちょっと変わった制度だった。それもあって、短大の授業はかなりモチベーションが高い、ということを聞いたことがある。

編入志望の学生は、短大の授業はもちろん熱心である。編入するにはいったん短大を卒業しなくてはならないので、卒業制作と編入試験の準備が並行で進む。編入試験は近作の持ち込みと口頭試問、専攻によっては筆記試験があった。作品制作には課題ならずとも力が入る。
晴れて短大から編入すると、まわりは2年生の基礎課程を終えた学生である。編入した当人はすごーく頑張って、すでにひとつ学校を「卒業」していて、もはや「基礎課程」どころではなかったり、ちょっと「大人」だったりする。

助手の頃に私が担当した学年には、とても極端な編入学生がふたりいた。短大の卒業制作をこつこつと続ける、自分の表現分野を深化させるタイプと、短大とは全く異なったジャンルにチャレンジしようとするタイプである。
前者は、授業の選択では短大の卒業制作の延長上にあるようなものを選んでいて、出席もそつなく、目立たなかった。卒業制作は地味だが、労作だった。
後者の方は、短大では設定されていなかったジャンルの授業や、編入生にはちょっとハードルが高い履修条件のある授業にも履修希望を出した。4年制の学生では、3年になると卒業制作をにらんで専攻ジャンルを絞り込むようになる。しかしその学生の履修希望は、専攻ジャンルを絞り込むのではなく、むしろ拡散するように授業を選択した。いろいろなことを経験したかったのだろうが、時間的にはあとで大変だよと、本人に伝えた。しかし当人は、強引に自分の選択したい授業を主張し、履修した。案の定、途中でモチベーションは下がってしまった。前提知識や技術のない授業はついていくのが大変だ。どの授業の課題も何となく不完全燃焼、といった印象になる。その学生は、短大卒業時の作品とは全く異なった趣向の作品で卒業した。

もちろん、人生にとってどちらが良いとは言えないかもしれない。カリキュラムは次第に専攻ジャンルを絞り込み、ステップアップするように組んでいる。編入する学生のために特別に補講や講座を設けてはいない。
前者の学生は短大の時から本の装丁のデザインをやっていて、今も出版社で、地味だが良い仕事をしている。後者の方は、全く異なったジャンルの仕事を転々としている、と聞いた。
人生いろいろ、である。

2014年6月6日金曜日

チャレンジ

一昔前は、短期大学が併設されていた。

キャンパスは同じだし、教室や講義もかなり共通で、サークルなど課外活動も隔てがない。学生同士でもあまり「学部の学生」と「短大の学生」とは区別もなく生活していた。


短大の学生は編入試験が受けられる。同じ系列専攻の3年生に、短大卒業後編入できる制度だ。
今や転科編入という制度はポピュラーだが、その当時は「編入」というのは専攻同系列だけ、転科はないので、専攻を変えたければ「お受験に再チャレンジ」である。
制度上の特質から言うと、短大に入れば編入できる、可能性もあるので、浪人するよりも同系列の短大に入って編入を狙う、という作戦が成立する。
短期大学に入学する男子学生には、そのような作戦を狙うのがいた。一般的に短期大学と言うのは「女の園」なのだが、クラスに4-5人の男子学生がいて、やけに男子だけで集まって実習にはことのほか熱心、という傾向があったりした。

短期大学の授業では、男子学生の数が少ない上に集まった上に勉強熱心なので、ことのほか存在が際立って見えた。女子が一人休んでも気にならないが、男子が一人いないとやけに目立ったりする。そうして短期大学の男子学生は「目立つ」が故に、さぼりにくく、循環的に熱心に実習に参加するようになったりするのである。

大物

私の学生時代は、と言えば、浪人してきた学生が多かった。

浪人と現役の比率は、専攻学科によってずいぶんと違う。短大が併設されていたので、短期大学はもちろん現役女子の比率が高い。一方で、学部の彫刻学科などは国立大学を受け続けた浪人が多く、現役女子は珍しい。
浪人、と言っても一浪は「並」で、二浪三浪もそこそこいた。ファインアートのアトリエだと、四浪五浪の「ツワモノ」もいて、現役と並ぶと「大人と子ども」みたいな感じである。三浪くらいから上は「多浪」といってひとくくりに考えたりする。
留年する学生もいるが、一度や二度の留年くらいではくじけない。最終的には、二浪二留で卒業したりする。現役合格留年なしでストレートに卒業する学生と、卒業式ではトシの差がすでに4歳である。その頃の大手メーカーの就職試験は生年月日の制限付きで、現役+2歳くらいまでしか新卒試験を受けられない。もとよりそれも織り込み済みなので、メーカーよりはプロダクション、プロダクションよりは著名デザイナーの個人事務所などが卒業後の主な行き先である。

そういった学校なので、中退、という選択肢もあった。むしろ早く社会に出て、会社ではなく独立営業したりする。そういった人の方が「大物」になることがあって、それは「先見の明」というものであるかもしれない。大学としては「卒業生」ではないので、入学案内の宣伝材料として使いにくい、らしいが。

2014年6月4日水曜日

新学期

新しい学年の授業は、毎度のことながらワクワク、もといヒヤヒヤ、しながら始まる。

私の授業はゴールデンウィーク明けから始まるので、こちらとしては5月が新学期、という気分だ。
学生さんの方はすでに1ヶ月ほどほかの実習授業を経ているので、ぼちぼち大学生活に慣れた頃、である。

同じ学年で似たような年齢の学生さんを見ているにもかかわらず、毎年同じ学生が来る訳ではない。なぜかは知らねど、それなりに学年の「カラー」のようなものがあり、ランダムにクラス分けされているにもかかわらず、クラスごとの「特徴」があったりする。
同居人の行っている学校の様子もよく聞くのだが、どちらにしても今時の学生さんは素直で真面目、というのが通り相場である。

振り返ってみて、自分の学生時代は、と言えば、もっとひねていたよねー、と思い起こす。学業はほどほど、むしろ自主制作や先輩の課題の手伝いにいそしみ、欠席回数を数えて出席日数ぎりぎりで単位をクリア、というのが「ふつー」な学生である。工房で作業に没頭していると、さぼった授業の担当教員が覗きにきて激励してくれたりした。良い意味でおおらか、悪い意味で管理不全である。