2012年9月28日金曜日

表層


勤務校は東京都、とは言え、ちょっと郊外である。中央線から私鉄に乗り換え、駅から歩いて15-20分、というのがスタンダードなアクセスである。
当然のように、地方出身の新入生が通学し始めの頃の感想に「地方のうちより田舎」というのがある。
東京は都会、というのはかなり大きな先入観で、ちょいと考えてみただけでも、檜原村から八丈島まで東京都内なのである。

担当している授業科目のうち、ひとつは東京をフィールドワークして、その結果をまとめるものだ。
たいがいの学生は、東京と言えば、ビル、繁華街、雑踏、ビジネスマンというステレオタイプなイメージを持っている。それは実はメディアによって刷り込まれたイメージであったりする。自分の目ではなく、メディアを通した情報を自分のものだと思っていることに危機感を持つことも、織り込まれたテーマである。
丁寧にフィールドワーク、つまり観察を続けていると、自分なりの発見があったり、今まで見えないものが見えてきたりする。しかしそれが出来ない学生がぼちぼちといる。「情報を消費する」という言い方になるのだが、メディアの伝えた情報を確認するだけになってしまう。

結局、表層しか見えない、ということなのだが、情報の発信者になるとか、企画をする側に回るのであれば、常に「裏を読む」作業をすることになる。人が見ない/見つけていないことを発見して、それを他者に再提示することになる。

2012年9月26日水曜日

往復


勤務校は東京都、とは言え、ちょっと郊外である。中央線が東京都区部を抜けて数駅、私鉄に乗り換え、駅から歩いて15-20分、というのがスタンダードなアクセスである。
当然のように、地方出身の新入生が通学し始めの頃の感想に「地方のうちより田舎」というのがある。
東京は都会、というのはかなり大きな先入観で、ちょいと考えてみただけでも、檜原村から八丈島まで東京都内なのである。

美術学校というところに通っている学生さんは、さだめし美術館や博物館、ギャラリー巡りにいそしんでいる、と一般の人は思いがちである。勤務校に限れば、そんな学生さんが大多数というわけではない。新宿や渋谷に出るだけで「電車賃が高い」と思うのが多いようで、当然のようにアパートと学校の往復だけに終始する。自分で盛り場に遊びに行く学生も減った。展覧会も、授業でノルマにしない限り行かなかったりする。「今週トーハクで…」と話し始めたら、「トーハクって何ですかあ」と聞いてきた学生もいたりした。インターネットの時代でもあり、「ネトゲ」に漬かっている学生もいたりする。

学生さんはよく遊ぶ、というのがちょいと上の世代の「一般的な認識」である。美術学校に限って言えば、良くも悪くも「遊んでいない」。

美術というのは「自分の表現」を追及するものだが、それだけでは追及できないことが多い。社会情勢や、時代の機微などというものが、作品のテーマであったり、表現の動機になったりする。学生さんの視点が外に向かない、というのは、なぜだろう。彼らの関心は、自分とインターネット上にある情報だけなのだろうか。

2012年9月23日日曜日

物件


勤務校は東京都、とは言え、ちょっと郊外である。中央線から私鉄に乗り換え、駅から歩いて15-20分、というのがスタンダードなアクセスである。
当然のように、地方出身の新入生が通学し始めの頃の感想に「地方のうちより田舎」というのがある。
東京が都会、というのはかなり大きな先入観で、ちょいと考えてみただけでも、檜原村から八丈島まで東京都内なのである。

地方出身者はたいてい近所にアパートを借りて住む。以前は女子寮があったり、果てしなく「下宿屋」に近いアパートがあったりした。
ふーん、と思って学校の近辺を眺めると、風呂屋の煙突が見当たらない。つまり銭湯がない。そのため間借りするには「風呂必須」である。協同であれ、占有であれ、あるいは後付け押し入れ改造風という風情のものであれ、何らかの「風呂」があった。そのため、東京の都心の学生向けのアパートよりも割高な家賃で、六畳一間きり、などという物件は少なかった。たまーに出るそんな物件を「安い!」と飛びついてしまうと、2キロ以上離れた地域の銭湯に通わなくてはならなくなる。自転車で行き帰りすれば、風呂屋に行ったのかサイクリングに行ったのかわからないし、雨でも降れば直行するバスがないのでタクシーで帰らなくてはならない。

なぜか、と言えば、このあたりには下水道がなかったからである。
考えてみると、勤務校にはプールがない。夏の夕立で、校門前の道路は冠水する。台風の時に、校舎の半地下が水浸しになったこともある。

市内の下水道が整備されたのは卒業してずいぶん経ってからだった。銭湯はもう斜陽産業なので新規開店はなかった。そのかわり、というのかどうかわからないが、10年ほど前に掘削した「天然温泉」が近所に開業した。「温泉料金」では、銭湯の代用にはならない。相変わらず近所の学生向けアパートは「風呂付き」である。

2012年9月20日木曜日

ラジオ


郊外に住んでいると、車をよく運転することになる。たいがいは、運転しながらラジオを聞いている。景色を眺めながら、コトバを聞き、頭に抽象的なイメージを描くのは、ニンゲンならではのお楽しみである。
ところが、昨今は番組内容がずいぶんと変わってきたなあと思うことが思うことがある。「詳しいことはウェブでリンクをクリックして下さい」などというアナウンサーのリードである。ラジオのリスナーはみんなパソコン片手に聴取しているはずだ、というのだろうか。運転中に聞いているリスナーにそれは無理である。
もっとひどいのは、某公共放送で、リスナーに写真を投稿してもらい、その写真について女性アナウンサーがコメントしているのである。
「あーこれはすごいですよねえ」「いままでにない風景ですねえ」「面白いと思いますよ」。
ラジオオンリーなリスナーにはちんぷんかんぶんである。アナウンサーのボキャブラリー以前に、ラジオ番組で写真を投稿というアイディア自体が何かなあ、と言う気がする。

メディアミックスというコトバがある。ただ、こういったラジオ番組の制作にとって、インターネットの情報発信とグロスでしか発信できないのであれば、ラジオ番組という形態が果たしていいのだろうか、という気がする。新しい聴取方法を模索してリスナーを少しでも増やしたい、という意気込みしか感じられない。パソコンやスマホ片手でなければ楽しめないのはラジオ番組、と言えるのかしら。
もっと怒るのは、先端メディアについていけないシニア世代である。インターネットすら使っていないその世代にとって、ラジオならずとも「詳しい情報はウェブで」「ウェブでショッピングならお買い得」「ご予約はウェブから」などというリードすら「排他的」なのである。だからといって今さらインターネットを使いこなせるとは限らないし、老い先短く、そんな気もあまりないので、なおさら「排他的」に聞こえるのである。インターネットを使えない世代は損をしろ、とその世代には聞こえるらしい。

そんなこんなもあって、授業ではメディアの特質を理解した上で、それに出来ないことはそのメディアで表現することに固執しない、というのをルールにしている。制作したビデオの続きはウェブで、はあり得ないというのが、課題の前提である。

2012年9月18日火曜日

アンケート


同居人の大学の方は、前期の授業が終わってしばらくすると「アンケートの結果」が送られてくる。
授業の最終日に大学は受講生に授業感想などアンケートをとって、その集計結果を知らせてくれるのである。当方の勤務校も似たようなアンケートをとっているが、結果が配信されるのは授業が終わってしばらくたってからである。
同居人の方ですごいのは、自由記述になっている学生の感想やら意見やら要望に「お答えしてください」という文言付きで結果が配信されることである。

このテのアンケートは、大学が内部で作業しているのではなく、集計を外注している様子で、当方の勤務校はやたら分厚い前年度の「アンケート結果」のファイルとデータディスクが、新学期にどーんと講師室のテーブルの上にのっけられていたりする。
先生によってはアンケートの結果を眺めて一喜一憂していたりするようであるが、そもそも、一喜一憂のために予算はたいてアンケートをとっているわけではあるまい。アンケートの結果から何をしろ、という指針も支持もなく、ただ結果を送られてもなあ、という気がする。満足度90パーセント以下で講師料は5割引、と言われたらどうしようかと、一瞬考えたりはするのだが。

「授業は分かりやすく進められましたか」「課題について十分な説明がありましたか」「学習の指導は十分に行われましたか」などという質問項目は、大学生の授業で聞くことなんだろうか。そんなものは授業に出席している学生の顔を見れば分かりそうなものである。
むしろ「全日程遅刻せずに出席しましたか」「授業中に居眠りやおしゃべりをしませんでしたか」「授業の準備は自分で確実に行いましたか」「宿題は忘れずにきちんとやってきましたか」「授業中に携帯やスマホで遊んでいたり、内職など授業科目以外のことをやっていませんでしたか」などという項目をクリアしてから、教員や授業を評価して欲しいものである。そういった学生に「授業はわかりにくかった」などと言われたくはなない。こっちは学生以上に欠席遅刻には気をつけ、しゃべりっぱなしで居眠りや内職などできないのである。それ以上に授業の準備は大変である。授業時間の2倍3倍はあたりまえ、数ヶ月かけて資料をぼちぼち揃えていたりするのである。片手間に教えているわけではない。

しかし、「お答えしてください」というチェックのついた「不満足でした」そうな意見には、小心者だけについ「ごめんなさい」と言ってしまいそうである。

2012年9月16日日曜日

ビラ


立て看板はなくなったが、それなりにサークル勧誘だの、イベントのお誘いだのと言う告知事項は学内にはたくさんあって、現在はビラをあちこちに貼るのが定番である。
コピーという文明の機器も身近なものになり、学生はコンピューターでちょいちょいと見栄えのいい写真入りのフライヤーを作成なさる。

学内のあちこちに貼りまくられたので、事務局は「学生用の掲示板」というのを設置した。まあここならいくら貼ってもOKという場所である。だが、当然のようにこういったところよりも、告知に効果的なところに学生はビラを貼りたい訳で、だからやはりトイレだの自販機付近だの階段の手すりだのエレベーター内だの、学内のあちこちにビラは貼られる。
あまり貼られると景観的にはよろしくないので、当然のようにいくばくかは「剥がされる」ことになる。剥がすのは勤務校の場合、お掃除のオジサンやオバサンの役目のようである。朝早く、学生の来ない時間が「剥がし」時である。学生のいる時分であれば、トラブルになりかねない。オジサンたちは金属製のヘラを片手に、ていねいにビラを読む。基本的に「募集時期超過」「告知イベント日時終了」は剥がしている。そうではないものは、ひどく美観を損ねるものではないとか、業務上不都合とか、消防法上危険、とみなされなければ後回しである。

学生さんは貼るばっかりで、剥がさないのである。

2012年9月14日金曜日

立て看板


大学構内ではあちこちにポスターだのビラだのが貼ってある。

一昔前だと「立て看板」というのがあった。
材木屋からベニヤ板と垂木を買ってきて大工仕事、最後にベニヤにペンキやアクリル絵の具で絵を描く、というやつである。
「劇団なんとか本日初日!」というのもあれば、「体育研究室主催夏の水泳教室参加者募集」というのもあったりして、大きいのでまあまあ目立つ。
むしろ大判コピーなんかの方が高いので、せっせとアクリル絵の具で立て看板を塗り替えたりして使い回したりしていた。

そんなのが、学内になくなってから何年になるだろうか。学内のあちこちにおかれていた自転車や、放置されていた学生の課題作品なんかが一掃されて、一見きれいにはなったけれど、なんだか大学っぽくないなあと思ったりする。大学というのは雑然として活気があるように見えたものである。

2012年9月12日水曜日

撃沈


公立小学校にエアコン整備、という話が出たときも、なんだか本末転倒で、これなら夏休みなど設けずに、涼しい教室でお勉強三昧、のほうがいいのではないかと思った。
気候と、季節、カレンダー、というのは、なかなか一致しないものである。

だから、始業第1日に来ていない学生がいると「あれ?」と思うのである。
こんなに暑いのだから、まだまだ夏休み、と思っているのではなかろうか。

私が助手の頃に、やはり始業日にやってこない学生がいた。数日経っても、学校に姿を見せない。
夏休みは学生が「沈没」してしまうケースが多い。その間に授業や大学よりも楽しいことを見つければ、そちらに行ってしまう。
研究室の助手が大慌てで連絡をとったら、「沖縄のバイト先で居心地が良すぎてそのまま現地に居続け」ていたり、「夏山登山にはまってしまい、ガイド修行中」とか、「丁稚奉公のつもりで通ったデザイン事務所で、継続勤務を懇願され、働くことになってしまった」、つまりまあ、人生の方向を変えたのでまあよろしく、というケースもあった。
件の学生もそのクチかと思っていたら、数週間後にやっと「授業が始まっているんだけど」と連絡がついたときの返事が、「え???」であった。暑いのでまだまだ夏休み中と思っていて、学事予定を確認し損なっていた、もう始業していたなんて……というのである。

慌てて授業に来なさい、とお尻をたたいて、追加課題など先生に要請して無事授業にカムバックさせたのだが、まあのんびりした時代だったということではある。

2012年9月11日火曜日

始業


勤務校は、年間二期制である。

私の通っていた中学高校も二期制だった。4月から9月、10月から3月、という区切りである。だからして、前期末の試験は9月末、夏休みは試験勉強にいそしむようになっており、満喫した、という感じはしなかった。
大学に入ってからの二期制はすこしずれていて、4月から7月、9月から1月、という区切りだった。夏休みはまるまる2ヶ月何しようか、という状態である。もちろん「夏休みの宿題」を課す科目もあったりするのだが、中学高校の試験勉強と比べれば楽しいものである。
ここ数年は、少子化に伴う受験期間の見直しが影響しているのか、後期は9月から12月、という区切りになった。まあ、以前は1月に1-2週の授業があって試験だったから、何となく間合いの悪いスケジューリングのように見えたので、カレンダーから見れば「おさまりのいい」予定表が組まれている。
問題は、だからといって、授業日数が減っているわけではなく、12月に終わらせるために、9月の始業が早くなったということだろう。昨年は関東大震災のこともあって、学事予定はずれていたのだが、今年の始業は9月3日、公立小学校並みである。しかも残暑も厳しく、屋外の実習を考えると暑いことこのうえない。できれば最高気温30度以下になったところで始業、という制度もほしいところである。晴天の南側教室で授業をすれば、温室状態なので、エアコンはフル回転である。環境に優しいとは言えないような気もするが、学事予定はそんなことは関係ないのである。

2012年9月9日日曜日

ニアミス


知人が、同じ大学の違う学科に入学したのは4月のことだった。
あちらは同じ大学だから、構内で出会うこともあるだろうと思っていたようだが、「意外にも」なかなか会いませんねえ、などという話を、7月になってから伝え聞いた。

とてつもなく小さい学校、というわけではなし、そこそこの人数もいることだし、お互い授業にいそしんでいるわけであるから、そうそう会うものでもないだろう。

そもそも、私の学生の頃とはずいぶんと学校の状況も変わっている。
以前は授業が終わると居場所がないので、構内のあちこちでごろごろしていた。その学生の定位置、というのがあった。昼休みにはだいたいあそこのベンチのアタリ、でつかまえることができた。建物が増え、教室も増えた。学生の居場所がたくさん増えたので、教室や工房内が「定位置」になりつつある。
冬はともあれ、夏になると教室内は暑いので、廊下に机を出して、バケツに水を入れ、足を突っ込んでミーティングしていたりした。教室で授業であっても、窓やドアは開けっ放し、網戸無し、蚊遣りを焚きながら、話し込んでいた。今や、冷暖房完備になった。冷暖房効率のために教室は窓も開けない「密室」、建物は完璧な「箱」である。外から授業が見えないし、開けっ放しの教室もない。学生は授業が終わるとすぐに学食へ行って、涼みながらお弁当である。

ニアミスの機会が格段に減っているのである。