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2017年6月11日日曜日

営業

大学は厳しい時代である。黙っていても受験生が群がる時代ではないので、積極的に営業を行う。
大規模な営業活動の一つに、「オープンキャンパス」というのがある。お若いと何でも略語にしてしまうので、通称「オーキャン」。初めて聞いたときは、ドタキャンの親戚かと思ってしまった。
勤務校では、6月初めの週末がそれにあたっている。学科ごとにバナーをつくり、パンフレットをつくり、授業参観が出来たり、課題作品を展示したり、という作戦である。普段の授業を見せるのが、オープンキャンパスのそもそもの意図だったと思うのだが、今やお祭り騒ぎである。研究室のスタッフ、受付をしていたりする学生たちがお揃いのTシャツで廊下に並んでいる。うーむ、こういうお祭り好きが多くて、普段は何やってんだか、ということを見せるには良いのだろうが。
実際のところ、展示をしたり、パンフレットをつくったりという実務は、研究室のスタッフが担っている。私の頃にはなかったイベントである。余計なお世話だろうが、研究室スタッフは、余計な業務だと思わず、一生懸命やっている様子が泣かせる。
こんなにしてまで営業しなくてはならない、ということも泣かせる。ここまでするのであれば、もっとダウンサイジングすることを考えれば良いのに、と考えたりもするのだが、ことに男の人はイケイケどんどんというタイプの人が多いので、ダウン、などとは考えたくもないのだろうが。
毎年イベントとは関係なく、通常授業をやっていると身としては、いつも通りに授業をさせてほしいものである。

2016年12月31日土曜日

書類

今年も年の暮れである。
非常勤講師をしていると、年の暮れの行事は採点結果の提出、来年度のシラバスの執筆、それから折り返して教務課から「来年度の出校のお願い」などという書類がやってくる。
昨年度から書類の様式が変わったなあと思っていた。いつもは「来年度の非常勤講師」の「辞令」というちょっと仰々しい書類が入っていた。それがいつの間にか、なくなっていた。
雇用契約に関する法律の変更に伴うモノだったらしい。非常勤は、「正社員」にあたる「専任教員」ではない。大学教員任期法改正により無期契約転換申込権の発生する非常勤を10年続けても、大学としては専任教員には格上げできない。勤務校では、非常勤がかなりの高比率である。つまりそれで「経営している」ということだ。
また、10年以上非常勤を続けるためには、「1年に限る契約」を繰り返す、しかも従来の定年を5年前倒し、という作戦になったようだ。
同居人は、公立の学校で非常勤をしていたが、その時は毎年4月に雇用され、3月に退職をする、という方式だった。来年度のシラバスを書いているにも関わらず、3月に「退職願」、4月に「履歴書」を提出、という不思議なやりとりをしていた。
勤務校の場合はもっと細切れで、私の授業は5月始まりで10月に終わるので、雇用期間は「5月から10月」という書類になっている。しかも、びっくりしたのは身分証明書で、「裏面の授業期間内に限り有効」で、裏面には「5月から10月」という但し書き付きである。おおお、これでは11月から4月までは勤務校の福利施設や図書館を利用できない、ということか。
もっとびっくりしたのは、非常勤講師仲間で、お子さんが保育園に通っている人だ。「来年度の雇用期間は4月から3月」、つまり「通年」ではないので、保育園に通える資格がなくなりそうだという人がいた。どちらにしても非常勤は1月から3月までは授業期間ではないので、当然のように全員が「通年契約」ではなくなるわけだ。これを無理無理「通年契約」という書類にしてしまうと、3年で非常勤を辞める羽目になる、というルールらしい。もちろん、保育園に預けずに仕事を続けるのは難しい。保育園に預けるお子さんをお持ちの女性非常勤講師はますます辛くなる、という構図である。その後書類が整ったのか、確認せずに授業期間が終了したので、来年度の動向を心配している。
政府の掲げる女性活躍が云々とか、大学の教育環境やら基礎研究がどうやら、という次元ではないのでは、と、少し怒りながら書類を眺めている大晦日である。

2016年6月28日火曜日

責任

そういうわけで、ここ数年は授業を地団駄踏みながらやっているので、こちらの健康上よろしくないような気がしている。毎日のように、教える側としては帰宅後傾向と対策を練り、改善策を探り、明日の教材の手直しをする。もちろん授業時間以外のペイはない。ボランティアなのか、習い性となっているのか、というところだろう。たいていの非常勤講師というのはこういった勤務状況ではないだろうか。好きでなければ続かない。
もちろん社会的にこれで良いのか、と言えば疑問が出てくる。明らかに非正規雇用者が大学の授業を支えている。勤務校も専任教員の2倍どころではない人数の非常勤講師がいる。非常勤の立場から言えば、授業実施の時間給をいただく単なる「パートタイマー」なので、大学としての授業を担保するどころの話ではなく、授業時間に出向き、授業をやる、授業時間以外のサービス残業も打ち合わせもなし、にしてほしいところである。そもそも、大学の学生は自発的に「責任」をもって学習することが前提だったから、この手の教え方でもやってこられた。教室に座っているだけの学生が増え、役所が大学教育のクオリティについていろいろとご希望をおっしゃるのだが、大学は設備投資に熱心である。

私などはすでにある程度トシもいっているし、学校以外のお仕事も多少はある。しかし、正直なところ、非常勤だけでは食ってはいくことはできない。組合も共済年金も退職金もない、年度契約だから来年度も雇用されるとは限らない。専業としては、かなり不安定な商売である。若い世代の非常勤だと、本人としては「責任持って学生の面倒を見る」前に、自分や家族の面倒を心配することになる。 

2016年6月26日日曜日

多様性

居住地域が首都圏、年齢がほぼ横並び、というクラス編成が多くなる。何がよろしくないか、と言えば、クラスのメンバーに多様性がなくなってしまうことだ。どうしても井の中の蛙、どんぐりの背比べ状態である。とてつもない苦学生と大金持ちは出現率が低いので、家庭環境も経済環境もほぼ横並び、考えていることもほぼ横並びである。中学校や高校のクラス構成とあまり変わらない。
こういったクラスで何が起きるか、と言えば「楽屋落ち」で終始することである。年齢がほぼ同じだと、遊んでいるビデオゲーム、流行している歌手の唄、熱中した漫画などが似通ってくる。彼らにとっての「共通認識」が、世界の全てのように思えているようだ。
一方、学校の外に出れば、同じ年齢、境遇の人間などごくわずかである。自分たちの共通認識が、他の世代や他の国の人に通じないことなどいくらでもある。そういった想像すら出来ないのが新入生、ということなのかもしれない。60を越えた教授に向かって、「ジョジョを知らないなんて」とハナで笑っていた学生がいた。教授から見れば学生は「ゲバゲバを知らない」のである。

海外の学校の講座などを見ていると、人種も年代もいろいろな人が混ざっていることが多い。最近だと萩本欽一が大学入学、ということがニュースになった。こういう多様性が多くなると、大学というのは人生開眼する場所になり得るのになあと思ったりする。

2016年6月25日土曜日

傾向

ここ10年ほどの傾向は、と言えば、ほぼ全員が現役で入学してくる学生になったことだ。
留学生は語学学校へ行ったりするので、1−3歳ほど年上になるが、日本人はほぼ9割が現役である。日本少子化による全入時代である。浪人していたと言っても1年ほどで、私の世代のように2浪3浪がごろごろ、というのはあり得ない。
ほぼ8割が首都圏出身者である。地方にさまざまな大学が新設され、美術をやろうと思ったら居住地域で美術系の学校が探せるようになった。美術や造形学部、でなくても、教育学部の美術系のコースが増えたりすることもある。しばらく前に流行ったのは、女子短期大学の家政学部が、4年制になり、共学になり、美術や造形系の専門コースを増設、というパターンである。そもそも家政学部には、インテリアやクラフトといったコースがあるところが多かったので、こういう流れになっている。
もうひとつは、美術学校の学費が以前より高額になってきたということもある。いまどきの美術学校は、建物も設備も新築でご立派、デザインなどの分野だとコンピュータが必須なので機材費がかかる。学費以外に施設費や機材充当費などもあり、こちらもかなりの金額になる。首都圏に出して下宿をさせると、月に10万近くが下宿代食費など生活費、その他もろもろで必要だ。実家から通うのなら学費は出そう、という家庭内会議があったことは想像に難くない。
もちろんこういう時代でなくとも、美術学校を卒業したので作家としてやっていける、などという保証などどこにもない。下手をすれば就職すら危なっかしい。大学が「就職予備校」だと思っているのであれば、教育学部の美術コースの方が、まだ安全に思えるはずだ。

そんな彼らにとっての「普通」、という認識が、実はクセモノである。

2016年6月20日月曜日

お祭り

10日ほど前、週末は勤務校で「オープンキャンパス」というイベントがあった。いまどきの学生募集の販促活動である。受験志望者、つまりいつもは「学外関係者以外」を学内に入れて、学内を見てもらおう、というものである。

勤務校で始まったのは十数年前だと思うのだが、最初の頃は「普段の様子を見せる」ということで始まった。ところが年を追うごとにだんだんと様相が変わってきた。学生の作品展示、授業公開だけではなく、受験志望者対象のワークショップ、制作体験、入学試験合格者の作品展示、専任教員による受験相談会。学内はそれに向けて大掃除が行われる。植木屋がやたら丁寧に植木の世話をし、刈り込む。いつもは学内にごろごろしている学生の課題作品なども一掃、期限切れの壁に貼ってあるビラも一掃である。教室や廊下は展示会場となり、いつもと違う様相、とても授業どころの話ではない。普段学校にいる側からすれば、一大イベント、お祭り騒ぎである。

受験志望者はお祭り騒ぎを見に来るのだろうか。普段の授業の様子がこれ、と誤解しないと良いのだが。毎日がお祭り騒ぎだと思われたらどうするのだろうか。入学してから「オープンキャンパスな毎日ではない」ことでがっくり、意気消沈したりしないのだろうか。心配である。 

2016年6月12日日曜日

とある美術学校にこんな張り紙があったというのが、ネット上で話題になっていた。
「学長からのお願い 建物の裏で犬の首が発見されました。(中略)このような呪いの行為は学校で行うものではありません。本学では呪いの行為を禁止します」。
文面から見ると公示ではないようなので、学生のやったことなのだろうが。

そこは、同居人が週1回教えに行っている学校である。
同居人曰く、
「イノシシの首じゃないの?」。
裏手に山のある学校だそうなので、「イノシシ出没注意」という看板が学内にあるそうだ。

そういえば、その学校の移転前のキャンパスでは「マムシ出没注意」、保健室に血清常備、という噂もあった。

犬の首くらいじゃ、驚かない学校である。

2015年11月6日金曜日

シェード

当している学科の授業は、私の担当授業以外にも、短期集中決戦型のスケジュールが多い。授業が一段落すると、教室や工房を片付けるのは、いずこも同じである。
たいてい、いろいろな「忘れ物」が出てくる。

先日は「靴」でびっくりしていたが、ほかの授業の忘れ物では、「衣類」「服飾雑貨」などがあったりする。何か、といえば、フィクションのドラマ撮影の実習授業である。ドラマなので「お芝居」をするわけだが、小道具などを学生が集める。芝居に使った小道具がそのまま置いてある、というケースである。なぜか「デスクスタンドのシェード」とか「座布団」などもあったりする。慌てて取りに来ないので、ここ半年ほど研究室前の廊下のダンボール箱に突っ込んであるままである。シェードを持ってきた本人は、シェードなしのデスクスタンドで勉強しているのだろうか。 

2015年7月7日火曜日

関心

さて、今年はやけに「遅刻ネタ」が多い。

たいていの「自己紹介」は、どうしてもその時点での学生の気持ちや状況を大きく反映する。ホラードラマが流行っていた頃は、やたら「ホラー」っぽい展開が多かった。その伝でいえば、「遅刻」が今年の学生の最大の関心事なのかもしれない。

いやしかし、である。大学生の最大の関心事が「遅刻」というのは、別の意味で危うい気がする。自撮りも含めて、学生の関心は自分自身、あるいはその周辺数センチ、日々のルーチンワークだけ、という気がするからだ。18歳に投票権、というニュースがあったが、自分自身にしか関心のない学生が投票などできるのか、ちょっと不安になった。

2015年7月6日月曜日

走る

さて立ち戻って、ここ1〜2年の作品がどうかといえば、ひとことで言えば「単純」、分かりやすいものなのだろうが、「だから何なんだ」というものが多い。

以前からあったのだが、ここ数年で増えたのは「遅刻ネタ」である。
校門から学生が走り込んで来る。アプローチを走り、中庭を走り、ピロティを走り、階段を駆け上がり、廊下を走り、教室のドアから中に入る。途中でチャイムが聞こえる。走っている途中、ドアの寸前、入った後、のパターンである。

自己紹介の意図としては、遅刻しがちな性格、というところらしい。問題なのは、単に走っているだけで、「いつも遅刻する」「いつもギリギリに教室に来る」というような習慣性は映像では表現しにくいということだ。単に教室に走り込む、という「移動状況」しか見えない。これが「いつも」なのか、今日は「特別」なのかは伝わらない。あるいは、下手をすると「駆けっこ好き」に見えてしまう。

たいていこのような意図だと、カメラが被写体と一緒に走ったりフォローしたりするのも多い。問題なのは、カメラマンの視点を意識しない学生が多いので、どちらかといえば「走る人物を追うストーカー」な映像になってしまう。「走っている人物」ではなく、「遅刻の女子学生を追うストーカー」を紹介してしまうことである。

2015年7月5日日曜日

ステレオタイプ

さて立ち戻って、ここ1〜2年の作品がどうかといえば、ひとことで言えば「単純」、分かりやすいものなのだろうが、「だから何なんだ」というものが多い。

以前からあったのだが、ここ数年で増えた「紹介」は「音楽好き」である。
学生が画面に入ってくる。椅子やベンチに座る。カバンからステレオイヤホンとプレーヤーを取り出す。イヤホンを耳に突っ込み、プレーヤーのスイッチを押す。体がリズムを取り始め、踊り出す。半数以上はフレームアウトして空舞台で終わる。

たぶん普段はそういう生活や嗜好があるんだろうなあと思うのだが、「だから何なんだ」という印象になってしまう。ひとつは、伝えたいことやその表現が「ステレオタイプ」であることだろう。一般的な音楽プレーヤーのコマーシャルをそのままなぞっているが、映像としての展開が少ない。舞台に入って出て行く、という演劇的な手法を使うので、ラストカットの意味が希薄になる。映像としての構成があまり考えられておらず、普段の生活の範疇でしか想定しないことが多い。

大抵の学生さんは「音楽好き」である。「音楽嫌い」という学生にはあまりお目にかからない。もちろん映像では肯定的なことを伝えるので、「嫌い」であることを伝える方が難しい。まあしかし、「作品」あるいは「表現」にするにはここからが一工夫いるところである。

2015年7月4日土曜日

連想

翻って以前の学生さんの作品がどうだったかといえば、ひとことでいえば今よりも「難解」なのが、時々出現した。

自分が引っ込み思案だ、という紹介をしたいとする。例えばこんなものが出てくる。
教室でも廊下でも誰かの後ろを三歩離れてついていく。
紙袋やマスクをかぶって、学内で立っている。
トイレでぼっち飯中。
教室の端っこでイヤホンを耳に突っ込んで窓の外を見ている。

30秒という尺なので、文脈をつくるほどの時間が取れない。だから得てして「ストーカー」「変な人」という印象になってしまう。
本人の制作意図を聞けば納得できるのだが、いわゆる「考え落ち」になっていることが多かった。言葉の連想ゲームから「アテ振りをする」という作戦である。
引っ込み思案→友達とあまり一緒にいない→自分を見せるのが得意ではない→一人で顔を隠して立っている→頭に紙袋をかぶって顔を隠す、という思考回路である。ところが映像では、クラフト紙の紙袋を頭にかぶった学生が学内で立っている、だけである。なぜ紙袋をかぶっているのか、なぜ学内に立っているのか、それだけではわからない、というのが課題の解題である。

連想ゲームの結果から、最初の「お題」を、同じ「言葉」として感じさせるのは、難しいのである。

2015年7月3日金曜日

普段どおり

ばたばたと過ごしているうちに7月である。
新学期にはぴかぴかの1年生だった学生が、すでに場馴れして緊張感のかけらもなくなってくる時分である。

担当している実技授業では、学習分野におけるさまざまな意図があったりはするのだが、1年生のクラスの最初の課題は、平べったく言えば「自己紹介」である。
言葉や文字という言語情報を使わずに、30秒の映像だけで自己紹介してね、というのが「お題」である。ここ10年ほど同じ課題をやっている。だから、年度ごとの特徴があったり、クラスごとの特徴があったりする。特に、時代背景のようなものが見えてくることがある。

クラスの8割は映像制作をしたことがない、という初心者である。1割は、高校で自主制作映画を作ったり、放送部でドキュメンタリーを作ったりしたことがる、というのがいる。クラスの3割ほどはアニメオタクや漫画オタクに近い嗜好があるが、映画オタクはいない。ここ1〜2年は、携帯やスマホで動画を撮影し、そのまま友達と共有する、という使い方をする学生が、クラスの半分以上に増えた。
そのためかどうかわからないが、最近の顕著な傾向は「自撮り慣れ」していることと、「普段の生活」を描きたがることだろう。
やけにカメラ目線でアピールする自己主張のある作品が増えた。レンズの向こうに想定しているのは「友達」である。やたらに歩いたり走ったりしてレンズに近づき、手を振ったり、首を傾げてにっこり笑ったりする。コスプレも増えていて、なぜか高校の制服やかぶりものを着ている。菓子バンやお菓子にかじりつき、耳にイヤホンをさしてノリノリになる、というのも増えた。

自分を客観視していない、という印象の自己紹介が増えた。普段の生活の自撮りの延長線上で映像を撮影している。いい意味で「天然」、悪い意味で「ホームビデオ」でしかない。

2015年6月12日金曜日

崩壊

現役学生が多くなると、真面目な学生が増える。
以前と比べれば、遅刻早退無断欠席は格段に減った。
いやしかし、こんなことは、授業以前の問題だから、あたりまえ、ではあるのだが。

ただ、ここ数年の学生さんを見ていると、高校生を通り越して「お子様」な印象もある。
授業中にやおら立ち上がり、こちらの話を遮って、「トイレに行ってきていいですか」と質問する。
遅刻をしたら、堂々と黒板側の扉から入ってきて、講評の最中なのに遅刻の理由をとうとうと報告しにくる。
授業中のスマホいじり、ライン連絡、ゲームは「あたりまえ」である。
授業中の体調不良は自分で対処する、人の話の腰を折らない、弁明されても遅刻は遅刻、授業に関係ないことは授業中にはしない、といったルールを授業開始前に確認しているにもかかわらず、である。そもそもこんなことを確認すること自体が大学なのか、という気もする。何度注意しても、授業中のスマホいじりは止まらない。あげくに「依存症なんです」と開き直る。依存症なら「学校」ではなく、「他のところ」へ行くべきだろう。

大学の授業崩壊も時間の問題ではないのか、という気もする。

2015年6月11日木曜日

授業

ここ数年だと、少子化の影響もあってか、入学試験倍率が減るようになった。当然の結果として、浪人生というのが発生しにくくなる。そもそも、目的の学科に入るまで粘るような本人の根性と、不景気な今日、家庭のお財布事情がない、という現実問題もある。第二志望であっても入学するので、今やクラスの8割以上が現役である。

現役だと、高校を卒業してそのままやってくる。「授業」というものの認識も「高校」の継続線上にある。
教科書を持ってきて授業時間は席について、前を向いているか、前を向いているふりをしている、というのが、彼らにとっての授業である。

担当している授業では参考書籍を4月に購入してもらっている。これをベースにして授業が進められている。のだが、5月の授業開始前までに書籍を読み込んでくる学生は皆無である。講座が終わってから「あの書籍はいつ授業で使うのですか」という質問があったりする。ややもすると、「教室の講座で読まないのなら書籍は買わなくても良かったのではないか」と言われたりする。

小学校の授業ではないので、「参考書籍」を、授業内に、みんなで同じページを開いて、素読する、ようなことは、大学ではやらない。シラバスに「参考書籍」「参考文献」というリストがあったら、授業前や授業進行に合わせて、期間内に各自で読んでおく、あるいは読み直す、というのが基本である。

と、私は教わったのだが、今の学生さんは、どうもそうではないようだ。

2015年6月10日水曜日

雰囲気

新学期が始まってしばらくはバタバタしている。

授業の内容や課題は、あまり変えないようにしている。しかし、学生の方は学年ごと、クラスごとにかなり特徴がある。学生によって理解度も進行速度も違うので、必然的に対処することになる。授業内容は同じでも、毎年少しずつ伝え方が変わる、というわけだ。ちまちまと授業用の資料を編集し直したり、追加の配布資料を作ったりするのである。学生の方は寝坊しましたとのんびりと教室に入ってきて、参考資料も文献も読まずに、準備皆無で席に着くが、こちらは前日夜遅くまで準備に頭を抱えていたりするのである。

学年ごとに特徴が変わってくるのは、入学試験の受験の方法や科目、もちろん試験内容にもよって違ってくる。もちろん、その時点で18ー9歳くらいの子どもがそれまでに受けてきた義務教育や、学校ごとの教育方法によっても違いが出る。現役が多いか、男子が多いか、私学出身がいるか、地方出身者が多いか、ということも要素になる。25名ほどのクラス編成なので、6月ごろまでには「クラスの雰囲気」というのが出てくるようになる。ムードメーカーがいたり、リーダーシップをとる学生がいたりする場合である。

2015年5月14日木曜日

成果

こういった最終日が理想ではない。

正直ちゃんは、やんわりと注意しただけで、「あまり言うことをきいてくれないんです」と言う。だから、遅刻くんもルーズくんも行為が改まらない。改めるまでねちっこく責めることが大切である。

だから私が担当している授業では、雰囲気が険悪になる前に何度かフォローをする。作業が本格的に進行しないうちに、遅刻が多いのなら、お互いに注意させる。ルーズなら、どうやったらルーズにならないか対策を立てさせる。肝心なのは、グループ内である程度のルールをつくり、自分たちで守らなくてはならない、という雰囲気を作らせることである。自主的に授業に参加している、という自覚がないと、どうしても遅刻くんやルーズくんになってしまう。だから、遅刻くんやルーズくんでもできる仕事を探して任せたりもする。グループワークでは、教員からの注意はあまり意味がない。出席しないと単位あげないよ、という脅しも意味はない。それよりも正直ちゃんにはグループ内で、「これ以上一緒にやれないから、遅刻くんはもう来ないでいい」と決めてしまう選択肢もあるよとこっそり耳打ちしておく。たいていこのあたりで、がっつり話し合ってもらうと、たいていの遅刻くんやルーズくんは消極的な授業参加を考え直すようになることが多い。

極論を言えば、大学の授業は義務教育ではない。いやいや参加するのであれば、やめてもらった方がお互いに幸せではある。
授業としては、いろいろなトラブルがあって、その中で解決方法を探し見出すことができればベストである。もちろん課題としては、良いものができればベストではある。しかし、良いものさえできれば良い、というのとは違う。作品としてはあまりよろしくなくても、トラブルをきちんと解決した方が、はるかに勉強の成果としては大きい。

2015年5月13日水曜日

積もるもの

担当している授業は朝の9時から始まる。前に何度も書いているのだが、授業は時間厳守で開始する。
9時、などという時間は、小学校の始業時間よりも随分と遅いので、来るのはたやすいはずだ。しかし5月を過ぎて、緊張感がなくなってきた学生は遅刻が多くなる。寝坊しちゃいました、で大目にに見るのは楽である。しかし、これが「たが」であり、積み重なってしまうことがある。

2年生の実技授業担当の先生と話をすると、ときどき出てくるのが、「クラスの雰囲気が険悪」。その授業もチームを組んで制作をする。最初のうちは良かったのだが、次第にチームの雰囲気がとげとげしくなってきたらしい。これがもっと悪化すると「荒れる」ようになる。

グループ制作の雰囲気悪化のきっかけは、たいていが些細なことだ。
誰かが遅刻をする。あーごめんごめん、で済ませていると、その学生は遅刻が常習化する。
誰かが、撮影用の準備を怠る、あーごめんごめん、後回しにして、で済ませていると、その学生はどんどん撮影の準備がルーズになってくる。
小さな「あーごめん」が積み重なると、正直に時刻通りに来ているのが馬鹿らしく思えてくる学生が出てくる。遅刻常習2人目である。
ここいらへんで誰かが「カツ」を入れてくれればいいのだが、最近の学生さんは「憎まれっ子」になるのが嫌いなので、黙ったままである。そうすると、準備ルーズくんが準備をすっぽかしたり、ルーズくんが2人になったりする。スケジュールがどんどん後ろに押してくる。締め切りは迫る。正直学生の目がつり上がる。もうチームワークどころではない。すでに雰囲気が険悪である。

最終提出に泣きながら間に合い、講評日である。チームが作品をプレゼンテーションする。遅刻1号もルーズ1号も堂々と「一生懸命頑張りました。作品が間に合って良かったです。良い作品になったと思います」などとコメントしてしまう。正直学生がそこでブチ切れたことがあった。
「あんたほとんど何もやってないじゃないのっっっ。誰のおかげでここに居られると思ってるのよっっっっっっ」
その場で遅刻くんとルーズくんを泣きながら糾弾した。

2015年5月12日火曜日

計画

担当している授業のうち、1年生のクラスでは、たいていが「新入学」してきた学生である。しかし、ときどき「二度目」な学生さんもいる。
私が学生のころは、クラスの1割が「元先輩」だったりした。男性を「先輩」と呼ぶのは、同期生になったので違うし、かといって「さんづけ」でもないし、でも実際には随分とトシが違うので「くんづけ」もいかがなものか、と悩んだりした。

今年も名簿を眺めていると、去年も見たようなお名前がちらほら。

現在はあまりそういうケースはないのだが、私が学生のころは「計画留年」をしている先輩がいた。受けたい授業が期間的に重複していたり、同じ授業を2度受けたい、などという猛者である。
担当していた学科では、非常勤が担当している授業で短期間、その専門の専任教員がいない、などということがあった。
ある先輩はその授業を「計画留年」して、2年続けて受講し、そのまま中退し、その分野でデザイナーとして活躍している。

ことにデザインや美術の分野では、卒業証書が役に立たないこともある。

2015年5月11日月曜日

要注意

勤務しているセクションでは授業時間のスケジュールもあって、担当授業は今週から始まる。みんなよりも少し遅めの新学期、というところだ。学生の方は4月から授業が始まっているので、すでに1ヶ月、ぼちぼち学校慣れし始めた頃、という時分である。

授業も4月初めならまだ緊張感があり、学生さんのぴりぴりした雰囲気がある。しかし5月もゴールデンウィークを過ぎれば、5月病の季節、そろそろ友達もできてだらだらし始める頃である。
私が学生、あるいは助手をやっていた頃は、ゴールデンウィークと夏休み、芸術祭という学園祭期間、それから春休み、というのが「関門」である。授業が少し「間が抜ける」ころに、ドロップアウトする「期間」である。ゴールデンウィークのドロップアウトは「大学の授業内容が期待していたものと違っていた」ので悶々とし始めたり、不本意な滑り止め入学だったのでやはり来年は気を取り直して受験し直したいのが理由で、学校に来にくくなる。少し長い目の休みがあると、どうもその後の欠席は「自主休暇」とみなされやすく、注目されにくい。気がつくと、単位危ないぞ、という状況になっていたりするのである。

これが夏休みだとアルバイトに熱中、芸術祭だとサークル活動に熱中、春休みだと人生別の意味を見出し中、ということが多い。

休み明けの欠席は要注意である。