2012年4月30日月曜日

美容院

ビデオカメラで撮影、編集する実習授業を担当している。

授業で撮影した動画素材をプレビューしてもらうと、ときどき「!」とか「?」な素材を見ることがある。

ひとりの学生が撮影されている。2−3日後、リテイクの素材を撮影し、編集しているのを後ろから眺める。
主人公は、ロングのソバージュヘアー、かわいい女子が豪快にショートケーキを食す、というシーンである。
リテイクの素材を、先週の素材と入れ替える。
…あれ?
「ちょいと待った」と学生にストップをかける。
「おかしくないの?」と学生に問うてみる。
「何がおかしいですか?」と学生は涼しい顔である。

カットがかわると、学生の髪の色が変わるのである。
撮影された学生をつかまえる。
「週末に美容院に行ったね」と確認する。
「分かりますう?」と学生はにこにこ顔である。
「髪を切って、ヘアーカラーしてみましたあ。似合いますう?」
うーむ、それだけイメチェンしたら、分からないはずがない。

似合うかどうかは問題ではなく、カットごとにころころとヘアスタイルが変わってしまっては、シーンとして成立しないのである。
どうして撮影されている学生は気にしないのか、どうして撮影した学生は気がつかないのか、どうして編集している学生は平気でつないでいるのか。

学生の考えていることは、私にとって、いつも、かなりの謎である。

2012年4月29日日曜日

アメリカの夜

ビデオカメラで撮影、編集する実習授業を担当している。

授業で撮影した動画素材をプレビューしてもらうと、ときどき「!」とか「?」な素材を見ることがある。

画面は薄暗く、どうやら屋外のようである。照明も何もない。画面の下方に何か動くものがあるが、ピントは合っていないし、色も判別不可能、ゲイン(感度)を上げすぎてノイズが多い。

「何、これ」と学生に問うてみる。
「夜の海岸で、主人公が散歩しています」。
「動いているのは、人なの?」。
「主人公が連れている犬です」。
「うーん、暗すぎて何がなにやら」。
「そうなんですよお。月も出ていなかったし、海岸なので街灯も何もないじゃないですか」。
そう言われても、私にはその現場はわからないので、同意できない。相変わらず、学生との会話は禅問答である。

映像制作においては、自分の目で「暗い」こと、実際に「暗い」こと、撮影された画面の上で「暗い」こととは、全く違う。作品をつくるという課題なのであるから、最終的なアウトプットがきちんとしていなければならない。「暗くて撮影できない」のは、暗い画面の言い訳でしかない。

フィルムの撮影技術の一つに「アメリカの夜」というのがある。昼間の撮影だがレンズフィルターを使って「夜」に見せる、というものである。画面の上で「それっぽく」見えることであっても、実際の状況が「それ」とは限らない。こうして映像はオーディエンスを騙すのである。

2012年4月28日土曜日

現実問題

ビデオカメラで撮影、編集する実習授業を担当している。

授業で撮影した動画素材をプレビューしてもらうと、ときどき「!」とか「?」な素材を見ることがある。

学生がアタマの中で考えているイメージと、映像として撮影しているイメージが、どうにも一致しないことがある。
例えば、「見目麗しき女子学生が、こころもとなげにベンチに座っている」のが学生のアタマの中にある画面だったりする。撮影してきた素材は、「見目麗しき」よりもどちらかと言えば、ショートカットで健康的、「ばんから」な姉御風、ジーパンでスニーカー、大股広げてどっかりと、しかし背中を丸めて座っていたりする。

「こういうイメージだったのかねえ」と学生に問うてみる。
「いえ、ちょっと違うんですけど」。
「ちょっと、かねえ。どういうのが欲しかったの」。
「うーん、やっぱり色白でロングヘアの」。
「ぜんぜん、違うよねえ」。
「まあ、しょうがないですよねえ」。
禅問答風のやりとりが続く。

イメージぴったりの女子がみつからず、とりあえず「違うけど、しょうがない」で、隣の席の女子に座ってもらうと、こうなっちゃうのである。
映像では、キャスティング、衣装、ヘアメイク、持ち道具、大道具、全部揃えて、具体的な被写体で描く。「しょうがない」被写体では、「しょうがない」映像しか撮影できない。いや、隣の席の女子がしょうがないわけではない。隣の席の女子をそのまま座らせても、アタマの中にあるように、「見目麗しく」撮影できない、ということである。
つまりアタマの中のイメージそのものは、映像としては提示できない、というわけだ。

急に色白には出来ないだろうが、せめて、ヘアメイク、衣装や持ち道具、立ち居振る舞いで、自分のイメージを具現化してよ、とハッパをかける。でなければ、最初から「現実化できない被写体」を使うことを想定することは避けなさいよ、と諭すのである。

2012年4月27日金曜日

前提条件

ビデオカメラで撮影、編集する実習授業を担当している。

授業で撮影した動画素材をプレビューしてもらうと、ときどき「!」とか「?」な素材を見ることがある。

授業で使用しているハイアマチュアやセミプロ用と、ご家庭で使う一般コンシューマー向けのビデオカメラにおける一番大きな違いは、マニュアル操作ができるかどうかである。
学生は、カメラもデジタルな世代だし、写真は携帯電話で撮ることが多い。レンズを向けてシャッターボタンを押す、それ以上の作業は、そこには発生しない。だから、マニュアル操作のできるカメラを渡しても、ボタンを一つ押す以上の作業は、なかなかしないのである。

ある学生が持って来た素材は、ぼけぼけのピンぼけばかりである。カメラについている小さな液晶画面では気にならないのだろうが、プレビュー用の大画面では、ぼやぼやでわけがわからない。どうしてこんなにピンぼけなのかと聞く。
「きっとカメラが壊れているんです」。
使っていたカメラの動作を確認する。いやいや、カメラ壊れていないよ。ピントリングがマクロの固定になっているだけだよ、まずピントを合わせなくてはね、という話をするが、学生の頭の上には「?」マークが踊っている。
「だって、カメラを向ければ、普通、撮影できるじゃないですか」。
疑うことなき完璧なフルオート世代である。
うーむ、私のようなマニュアルな世代では、「それじゃ、普通、撮影できない」。

ピント、というのがあってだねえ、という話から始めなくてはならない今日この頃である。

2012年4月26日木曜日

いぬのきもち

ビデオカメラで撮影、編集する実習授業を担当している。

授業で撮影した動画素材をプレビューしてもらうと、ときどき「!」とか「?」な素材を見ることがある。

一昔前だと、紙袋の底にカメラを仕込み、地面すれすれに持ち歩いて「猫の見ている世界です」などというのを持ってくる学生がちらほらいた。それは違うよ、と言う話をしていたら、別の女子学生が「うちの犬の見ている世界です」というのを持って来た。
自宅で飼っているミニチュアダックスの背中にビデオカメラをくくりつけて散歩に行ったのである。
犬の体力に対してカメラが重いらしく、やたらよれよれと画面が揺れ、他の犬がレンズに鼻先をくっつける。立ち止まると飼い主はリードをひっぱり「はやく!」とか「とまらない!」と命令する。
画面はぶれにぶれている。ラクダの背中に乗っているとき以上に揺れるのである。

犬の背中のカメラの「視野」ではあるのだろうが、犬が何を見ているかは分からない。犬の視線がどちらを向き、何を見つめているか、だからどんな感情でいるのか、ということはそこには反映されないからだ。
見ているこっちは「乗り物酔い」状態だが、犬の方はいい迷惑だったに違いない。

2012年4月25日水曜日

ノイズ

ビデオカメラで撮影、編集する実習授業を担当している。

授業で撮影した動画素材をプレビューしてもらうと、ときどき「!」とか「?」な素材を見ることがある。
撮影している学生はほとんどが初心者である。初心者というのは、自分が見たいものしかファインダーのなかに認識しない。

主人公がベンチに座って、もの思いにふける画像を見せられた。設定としては、ボーイフレンドにふられて、がっくり、しんみり、などというシリアスな青春ドラマなカットである。
プレビューして見せてもらう。今度は、画面の奥の方に掃除のオジサンが入らないように、注意しながら録画を開始しているようである。
ところが次第にウィンドノイズが入ってくる。「ぼー、ぼー、」。
それが次第に大きくなっていく。「ぼこぼこっ、ぼこぼこっ」。
どうやら人声も混じっている。「はあーっ。ふーーーむっっ」。
次第にささやき声も混じってくる。「あああああ、いずみちゃんて、やっぱり、かわいいよねー、はあああああ」。

画面はしんみりな青春ドラマではなく、アヤシイ方面のビデオになりつつある。
撮影時にはヘッドフォンでモニタリングしなくてはならない。ビデオカメラは同時録音する機械なのである。

2012年4月24日火曜日

ワープ

ビデオカメラで撮影、編集する実習授業を担当している。

授業で撮影した動画素材をプレビューしてもらうと、ときどき「!」とか「?」な素材を見ることがある。
撮影している学生はほとんどが初心者である。初心者というのは、自分が見たいものしかファインダーのなかに認識しない。

主人公がベンチに座って、もの思いにふける画像を見せられた。設定としては、ボーイフレンドにふられて、がっくり、シリアス青春ドラマ、などという画面である。
ところが画面の奥、向こうの方に、掃除のおじさんがいたりする。竹箒を振り回している。軒下の蜘蛛の巣をはらっているようである。途中で別の掃除のおばさんがやってきて、作業を手伝い始める。蜘蛛の巣はなかなかとれないようだ。二人でますます派手に竹箒を振り回している。

画面はがっくりな青春ドラマを通り越して、別の次元にワープする。端から見ていた学生は爆笑している。
撮影した本人だけが、なぜ爆笑されているのかが分からなかったりするのである。

2012年4月23日月曜日

プレイバック

ビデオカメラで撮影、編集する実習授業を担当している。

たいていの学生は、「ビデオカメラ」で撮影したことがない、と言う。携帯電話やコンパクトデジカメでも動画が撮影できる時代、YouTubeなど動画サイトを見れば素人動画がてんこ盛りである。しかし、実はあまり「つくる」方は一般的ではない。学生が普段「見ているもの」は、素人動画よりも、テレビやレンタルビデオで商業映画などの、玄人中の玄人の作業の方がはるかに多い。
であるから、授業で撮影した動画素材をプレビューしてもらうと、ときどき「!」とか「?」な素材を見ることがある。

ビデオカメラはハイアマチュアとかセミプロ、業務用の機材を使わせている。フィルムカメラと違って、まったくの素人でも「何も撮影されていない」という状況は基本的には、ない。どんなときでも「そんなはずは…」というのは、操作ミスであることが多い。

スタートボタンを押して録画が始まり、もう一度ボタンを押すと録画が止まる。フィルムだと、撮影中はフィルムが走行するのでやかましいが、ビデオカメラはいたって静かである。だから、ときどき、「ボタンのタイミングがずれちゃった」のがある。
動画の頭に「おーし、カット−、オッケーでーす、さて、次のカットはー」などという会話が入り、移動したりピント合わせしたりして、「よーしスタンバイ、いきまーす」で動画が終わる。本番は撮影されていない。この繰り返しが延々と続いている。

NG集を作るのであれば、完璧である。
フィルムじゃないのだから、どうして撮影現場でプレイバックしないのか不思議である。

2012年4月22日日曜日

健康体力根性

こともあろうに大学というところではあるのに、新しいクラスで実習授業を始めるときには必ず「遅刻をしないように」という注意をせねばならない。しないと、ずるずると遅刻をする学生が続出し、授業の進行に支障を来すからである。
小学校ではないので、風邪をひいたからと言って欠席届を出す必要はないが、だからと言って休んだ日のことをもう一度おさらいをすることはない。風邪をひいて熱を出すのも自己責任、というのが基本である。
もちろん、出席することが目的ではないのだから、実習についてこられない、あるいは周囲が気を遣わなければならないような体調でやってくるなど論外である。
だから、実習授業で最も大切なことは健康体力根性、と最初に伝えておく。出来れば入試の科目に入れて欲しいくらいだ。
いくら成績が良くても、毎度二日酔いでふらふら、10キロのカメラも持ち上げられず、ワンフロアの移動でもエレベーターを使い、ちょっとそれを注意すればふくれっ面で移動なしの撮影で済まそうとする、などという学生は「実技」に向かないからである。

はてさて、大学で教えることって、こんなことだったかしらん。

2012年4月21日土曜日

落とし前

実習授業ではグループで作業する。

人数の多少に関わらず、協調性のない学生というのが必ず混じる。
遅刻しがちだったり、ドタキャンしたり、言われたことをやって来ないなどという、いわゆる「約束を守れない」タイプである。わざとやっているのではないだろうし、悪意があるわけではないのだろうが、他人には必ず迷惑がかかる。ごめんごめんで済ましているうちはまだ平和だし、リカバーしやすいことであれば、みんなで目をつぶっていたりする。
しかしこれが、約束を守れない回数がこんできたり、わざとやっているのかと疑いの目を向けられたりするようになると、グループ作業はそれ以上進行できなくなることがある。険悪な雰囲気になり、村八分になったり、シカトされるようになる。あいつには単位をやらないでください、などと言いに来る頃には、すでに「共同責任」という範疇を超えてしまう。
ここまでこじれてしまうと修復はもはや不可能である。だから、グループ作業を始める前に、グループで予めルールを作っておくように、と言うようにしている。例えば、遅刻の常習者が居るのであれば、遅刻5分につき500円玉1枚、というペナルティだ。貯金箱を一つ用意しておいて、遅刻するたびに500円玉を入れておく。5分につき50円では安いので、遅刻することの「罰則」にはならない。ちょっとつらいけど、難しくはない、というルールにすることが大切だ。たまった500円は、課題の打ち上げの足しにすればいい。

こういうのを、私の授業では「落とし前」と言っている。500円玉は単なる例なので、他のかたちで「落とし前」を払うことにしても良い。
落とし前は、金知恵身体に限る。金がなければ知恵を出せ、知恵が出なければ肉体労働でよろしく、ということである。

2012年4月20日金曜日

グラウンド

学生さんが熱中しているサークル活動であるが、職員もサークル活動をしていたりする。

日曜日は授業がないので、学生は学校に来ない。
サークル活動で出入りしている学生がちらほらいたりはするが、講義室や教室、工房は全部閉まっているから、いたとしてもとても少ない。
代わりに来るのが、グラウンドを使って野球をしていたり、テニスをしていたりする職員である。

私が助手だった頃、教職員の野球部、というのがあった。これがなかなか強い、という評判だった。
ある日曜日に学校にたまたま用事があって行くことがあった。グラウンドで交流試合の最中だった。
普段ネクタイ背広でしか見たことのない事務のおじさんたちが、ばりっと揃いのユニフォームでプレー中である。チームが強いのは、実は甲子園経験者が入っているからで、というのは後で聞いた話だ。

事務職員になるにも体育会系というのは「強い」のかもしれない。

2012年4月19日木曜日

サークル

学生さんが熱中しているサークル活動であるが、職員もサークル活動をしていたりする。

私が助手だった頃、良く出入りしていた部署に、若い「兄ちゃん」がいた。まあ年齢が近いこともあって、顔なじみになってよくおしゃべりしていた。
ある日、校内のボイラー室の近くで顔を合わせた。事務系の職員なので、設備系の作業エリアにいることがちょっと場違いな感じがした。挨拶をすると、サークル活動の帰りで、などという話である。何やっているのと軽く聞くと、「茶道」。

大手の会社とか、役所などに、「茶道部」というのはよく聞くが、美術学校に「茶道部」とは少し意外だった。ボイラー室の管理をしている職員たちが仮眠用に使っている和室で「活動」しているのだと言う。うーむ、仮眠用の布団の横でお点前か。

全部の組み合わせが、とても意外だったのだが、事務職員は美術学校の卒業生ではないので、美術学校の「サークル」とは少しフェーズが違うのであった。

2012年4月18日水曜日

いかしか

美術学校には、学内にいくつか学生さんのサークルがある。

世間一般の大きな総合大学と違って、学生自治会は存在していない。「同好会」という種類になる。趣味、娯楽、教養、スポーツなどさまざまだ。体育会というのはないので、体育関係の「運動部」系も、「サークル」だ。

しかし「サークル」と言えども、集まっている学生はそれなりに一生懸命やっている。スポーツ系の集まりであれば、大学間の交流試合やリーグ戦なんかがあったりする。当然、体育会のリーグ戦に参加しても勝ち目はないので、無難なところでは「美術大学」とか「芸術系大学」との試合をすることになる。

私が助手だった頃、社交ダンス部で熱心に活動している学生がいた。教室に入ってくるのにステップを踏み、ターンしていたりする。翌週に「競技会」があるので、猛練習中らしい。どんな競技会かというと「いかしかリーグ」に参戦させてもらうのだ、と言う。
美術学校同様、実技授業が多く、体育会系の運動部ではないが、それなりに試合をするために、医科歯科系の大学でリーグ戦を組んでいるらしい。その年は、そのリーグ戦に参戦させてもらえた、らしい。

競技会の結果はどうあれ、学生時代に何かに熱中しているのはいいことである。

2012年4月17日火曜日

フリーズ

大学の実習授業は180分が一コマである。

実習授業は、基本的に肉体労働である。講義と違って、身体が動いているので、授業中の居眠り、というのはあまりない。
…はずだ、と思っていたら、実習でも居眠りする学生を発見した。
コンピュータを使った授業で、一人の学生がマウスを持って何か考えている様子である。うーむ、作品制作に悩んでいるんだなあ、と思っていたら、5分経っても同じ姿勢で悩んでいる。近寄ってみると悩める表情でフリーズ状態である。しっかり寝ていた。
さすがに撮影実習なら、寝ることはない。
…はずだ、と思っていたら、そんなことはなかった。ある日の撮影実習では、カメラを構えている三脚の足下で、メモと鉛筆を持ってしゃがんでいる学生がいた。撮影の邪魔にならないように小さくなって感心、と思っていたら、カメラマンの「カット、オッケー」というかけ声にも反応しない。近寄ってみるとメモを取る態勢でフリーズ状態である。しっかり寝ていた。

こういう授業でも「寝ることが出来る」のは、特技なのか、ナルコレプシーなのか、悩むところではある。

2012年4月16日月曜日

180分

大学の実習授業は180分が一コマである。

授業時間の単位や区切りは大学によっていろいろと違うのだろうし、講義と演習と実習では同じ授業時間を消化しても学生が取得する単位が違っていたりする。学校をいくつか掛け持ちしたりすると、身体に染みついたタイミングや集中力が、妙なところで物理的に区切られたりして、面食らうこともある。

美術学校の場合、入試の実技試験は180分単位で進行することが多い。6時間のデッサンなどでは、午前3時間、昼食休憩、午後3時間、という進行になる。180分の間、試験に集中するというトレーニングを受験勉強では積み重ねるわけだ。
そんなこともあって、大学に入って実習が180分というのは、あまり違和感がない。

ところが実習では、180分で「やめられない止まらない」という状況が発生する。作業に熱中してしまい学生が止まらないこともあるし、指導に熱の入ってしまった先生がやめられないこともある。
私が学生の頃は、午後の授業は4時まで、4時10分以降の授業はなかったので、午後の実習は「やめられない止まらない」ことが多く、5時6時まで押すことはざらだった。ボーダーラインは午後8時半のロックアウトなので、それまでに後片付けを終えるようにすればよかった。午後1時から午後8時まで、休憩しながらの実習作業は、学校的にはいけないことだったのかもしれないが、それなりに楽しい作業でもあった。
現在の時間割だと、4時以降に講義科目をとる学生もいて、午後の実習も強制的に4時で打ち切りにせざるを得ない。「やめられない止まらない」状況はあり得なくなった。作業がぼちぼち佳境に入り、乗ってきたところで150分が過ぎていたりして、慌ただしく終えなくてはならない。
現在はロックアウトがなくなったので、8時に慌てて退去、という状況を見ることはない。ただ、火元管理者のいない夜間は現実的に使用は不可能なので、学生だけで「やめられない止まらない」と、引き続いて夜中に作業することもあり得ない。

物理的な時間の区切りと、作業のノリとは、ちょっと違うこともある。

2012年4月15日日曜日

理由

大学の授業は朝9時に始まる。

助手として勤務していた頃、遅刻の常習者であった先生がいた。授業開始5分前に研究室に電話が入る。遅れそうなので先に出席を取り、宿題を回収、資料を配付して、15分ほど時間を稼いでおいてくれ、という内容だ。うちの大学はそういうところは鷹揚なので、助手としては快諾し、時間を稼ぐことになる。
携帯電話がまだ普及していなかった頃、高級車に自動車電話なセレブ、というのが流行ったことがあった。先生はその「セレブ」な人で、遅刻予告の電話も自動車からである。遅れることが分かっているなら自宅からでもいいだろうし、毎度遅くなるなら15分は助手が出席をとるなどの作業というルールを決めておけばいいのだが、先生は「自動車電話」を使いたいのであった。だから「15分ほどよろしく」の後は、遅刻の理由の会話が続く。しかもその理由は毎度違うのである。
出る直前に電話が入った、宅急便が来た、奥様が風邪をひいた、電子レンジのなかで朝食が爆発した、駐車している車の前に猫が寝ていた、車のウィンドウが凍っていたので溶かしていた、前を走る車が異常にとろかった、幼稚園送迎のバスがいた、自転車が前を突然横切った、犬が飛び出してきた、ボールが飛んできた、鳥とぶつかった、などなど、同じ理由を使ったことがなかった。

それはそれで、ある意味すごいと思ったのは、理由がいつも違うなあと気付いた数ヶ月後である。ああくやしい、最初から理由を書き留めておけば良かった。

2012年4月14日土曜日

リーチ

大学の授業は朝9時に始まる。

遅刻をする学生に理由を聞くと、正直な学生は「寝坊しました」「電車で寝過ごしてしまいました」。自分の素行が理由である。
少し知恵がついてくると「バスが遅れました」「途中で腹痛を起こしました」。自分ではどうしようもない状況が理由である。
もう少し知恵がついてくると「駅で盲人を案内してました」「おばあさんに切符の買い方を教えてあげてました」「前を歩いていた人が空き缶を投げ捨てたので、拾いに行きました」。あえて社会的な奉仕活動が理由である。こちらの良心に訴える作戦をとる。
このあたりになると、本人の普段の素行と見合わせると、嘘か誠が分からない話になってくる。

もちろんこの頃には、遅刻の回数がかなりになっている。初日の遅刻から「社会的奉仕活動」を言う学生は皆無である。
適当なところで「そろそろリーチなので、あと1回遅刻したら課題は受け取らないよ」などと脅しをかける。たいていはこの脅しで、遅刻は止まる。

「アカハラ」と言われるかもしれないが、こうまで言わないと遅刻が止まらない学生の方がはるかに「ハラスメント」だと思うのだが。

2012年4月13日金曜日

タイムカード

大学の授業は朝9時に始まる。

学生から教える側になって、変わったことはいくつかあるが、そのうちのひとつは「学生は遅刻できるが先生は遅刻できない」ということである。

数年通っていた専門学校では、教える側は「タイムカード」である。授業開始10分前が出勤の定刻で、それよりも5分遅れるごとに講師料から10%が引かれる。だからといって、授業を5分延長したり、学生の質問で5分間引き留められたりしても、講師料に10%の割り増しはつかない。私の通っている大学は出校簿というのがあり、学校に来たらはんこかサイン、自己申告システムである。こちらの遅刻や早退や延長はあまり細かくは問われない。一方専門学校などは、学校経営がビジネスなのだから、当然いろいろと厳しいが、世間一般、会社的な考えでいえば当然なシステムで運営されていたりする。

専門学校は都心にあって、9時始まりの授業だと、ラッシュアワーの最中にもみくちゃにされながら学校に通うことになる。通うだけで一苦労、学校に着いた頃にはへとへとである。世間のビジネスマンというのは毎日このような苦行を強いられているのであった。「お父さん尊敬!」を再認識した。

お願いだから8時始まりとか、7時始まりにしてくれれば、こちらはもう少し楽なのだが、学生さんは少しでも遅く始まる方がいいのだろう、やはり9時始まりの授業は遅刻が多かった。

2012年4月12日木曜日

逆算

大学の授業は朝9時に始まる。

社会的には早いか遅いかは別にして、小学校の教員をやっていた同居人にとって、それはすでに授業時間中な時刻である。

小学校の始業は8時半、だから8時過ぎには職員朝礼がある。
小学校の開門は7時半であるから、その時間には子どもがやってくる。お天気が良ければ校庭で遊ぶし、飼育当番や花壇当番もあったりする。職員朝礼までの間、子どもの相手をする。
授業の準備が必要なら、子どもが来る前の時間にやらなくてはならない。7時半頃に作業を終えるために逆算して出勤する。守衛さんにカギを開けてもらって、こっそりと授業の準備をするのである。だから、遅くて7時、早くて6時半などという時間に出校していた。
その時間に出校するために、家を出るのが5時とか5時半、冬ならまだ星の出ている時間、車のフロントガラスが凍っていて、やかんのお湯をかけて出かける。
給食室が工事中で、弁当を作らねばならなかった年があった。こちらの起床時間は4時、4時半である。新聞はまだ配達されていない。

相方の仕事を予め検討してから同居人にすべきだったと後悔した。

2012年4月11日水曜日

大学の授業は朝9時に始まる。

…のだが、甘い態度を取っていると、遅刻が続出する。授業が始まってから5分、10分した頃にぼちぼち、30分過ぎた頃に入ってきて「遅刻しました」と話の腰を折りに来る。ときどき大きな顔で遅刻をする学生がいたりする。遅刻をするのは学生の特権だと思っているかのようである。

何分までが遅刻という認識なのか、ということについては大学の授業のルールがあったり、授業ごとのお約束があったりするが、基本的には実習授業では前提講義を先にしてその後作業に取りかかるという段取りになるので、遅刻をすると前提講義なしの作業をすることになってしまう。
前提講義では何を話すかというと、課題についての目的やルール、作業の段取り、本日の日程など、実習の心得、みたいなものである。遅刻をすると、そこいらへんがすっとばされるので、何のために、どのように、実習をするのかが分からないまま、五里霧中な作業をすることになる。
遅刻をしたからといって、前提講義を何度も繰り返すことはない。最初から出席している学生は、何度も前提講義を聞く羽目になり、実習時間が減ってしまう。
定刻に遅刻者が多いので、ある程度の人数が揃ったら授業を始めようとすることがある。本人は5分の遅刻のつもりだろうが、20人クラスの他の19人×5分、他人の時間延べ95分を浪費していることになる。もちろん、授業時間内は物理的に短くなる。指定時間に終わる設定で組まれた実習が終わらない。
フィルム現像の実習などでは、完全暗室に30分前後「缶詰」になる。作業開始時にそこにいなければならない。途中で入室して途中から作業を始めるわけにはいかない。遅刻したら当日の作業は皆無となる。結局損をするのは自分である。

だから、授業の開始時には遅刻をせずに来なさい、というのが実習授業のルールである。
小学校や中学校では8時半には朝礼やホームルームがあったはずなので、9時に学校に来るというのは楽勝なハズなのだが、大学になると「朝寝坊をしました」が増えるのはなぜだろう。

2012年4月10日火曜日

お得

大学合格が人生最大のゴールだったりするご時世である。

こと美術大学に限っては、就職率も良いとは言えないし、大企業にお勤めする先輩も多いとは言えない。「大学は出たけれど」を地でいく状態が卒業後も待ち構えているのは今も昔も明白なので、入学は決して「終着駅」ではない。

しかし、受験産業や高校の受験担当教諭にしてみれば、大学合格がゴールとして設定されているわけなので、どうやって「希望大学に合格するか」が戦略の要である。そのためには、脇目もふらず、最短ルートで、効率よく、学習して合格させねばならない。
ま、それも分からなくはないが、そういった傾向が学生に染みついており、何をやるにしても「最短ルートで効率よく」やろうとする。
ところが、美術学校の課題にせよ、社会に出てからのプロジェクトにせよ、どんな作業でも「最短ルートで効率よく」やれることばかりではない。リサーチを含んだプロジェクトでは、調査したことの7割方を表出させることなく「お蔵入り」させることはざらである。ではその7割はまるっきりの「骨折り損」だったのか、と言えば決してそうではない。10年後、20年後に、ふと役に立つことがあったりするのである。

10年先、20年先に役立つかどうかは分からないが、大化けする「ネタ」になるかもしれない。それでご飯を食べられるようになるかもしれない。最短ルートは、短期的には「お得」だが、長期的には「骨折り損」の方が「お得」だったりするのである。
私なぞ、大学に入ってからというもの、寄り道ばかりしているような気もするが。

2012年4月9日月曜日

正解

新学期、1年生のクラスの会話は、出身校や出身予備校のグループを中心に始まる。全員がぴかぴかの1年生、である。

がむしゃらに数をこなせば何とかなるかも、という体力系の発想は、お勉強だけで入ってきた学生さんには通じないことがある。

美術学校の課題では、ペーパーテストのような「正解」はない。上手/下手、スキルがある/ない、課題の要求に対してOK/NG、といった尺度はあるが、このようにつくれば「正解」というのはない。どのようにアプローチするか、といった過程も含めて評価されることが多い。それは、石膏像をどのようにデッサンするか、といったことと同じだ。高評価のデッサンとうり二つの絵を描けるはずはないが、同じように高評価を得ることは違う描き方でも出来る。

数年前にびっくりしたのは、課題を提示した後、質問にやってきた学生が「高評価をとった参考作品を見せて欲しい」と言ったことだった。前後して、「どのように制作すればいいのか」と微に入り細に入り具体的な質問を、連日のようにし始めたのである。

これはきっと何かを「つくった」ことがない、ペーパーテストしかやったことがないのかもしれない、と思ったのは数日経ってティーチングアシスタントと話をしたときだった。彼が作業の指導をしていると、何につけても「こうした方が評価が高いのか」「どうつくれば高評価がとれるのか」と、その学生に問われるのだという。たいてい、他の学生は、技術的なこと、機械の扱い方、段取りなどを聞いてくる。最終的にどう評価されるか、ということよりも、とりあえず作品をどうやって完成させるか、あるいは完成度を上げるか、ということの方が質問の主体である。
「作品をつくる」ことではなく、科目で高得点を取ることが学習の目的なのかねえ、という違和感をふたりで確認し合った。失敗してもいいから、プロセスを学ぶという発想はないのだろう。美術学校の学生さんらしくないかも、と思うのは「古いタイプ」だからなのかもしれないが。

しかし、卒業証明書や科目履修証明書に、成績が併記されていただろうか。どちらにしても、卒業して、社会人とし仕事を始めてしまえば、学生時代の成績評価は関係はないような気がするが。

2012年4月8日日曜日

効果

新学期、1年生のクラスの会話は、出身校や出身予備校のグループを中心に始まる。全員がぴかぴかの1年生、である。

美術学校にはあまり「エスカレーター校」はない。もちろん当学も「附属学校」はないので、全員が受験組である。試験形式も最近はいろいろあって、公募推薦やセンター入試利用方式など、実技をしなくても入れる学科もあったりする。木炭の芯の抜き方を知らない美術学校の学生というのも変なものだと思うのは、私がずいぶん前の卒業生だったからだろう。

私の頃は、デッサンが必須だったので、「受験生活」というのはまあ当然のように描く日々を過ごすことになる。私はデッサンが「上手」ではなかったので、当然のように居残りや宿題を抱える。上手くなるには、数をこなすしかないからだ。上手くならなかったのは、数が足りなかったのか、才能なのか、どちらかだったのだろう。ただ、数をこなせば、何とかなるかもしれないと思ったのが、受験生活の効果だったような気もする。

2012年4月7日土曜日

ゴール

新学期、1年生のクラスの会話は、出身校や出身予備校のグループを中心に始まる。

概ねは受験勉強や予備校の話から盛り上がるものだが、ここ数年の学生を見ていて気になるのは、いわゆる「燃え尽き症候群」に近い学生がときどきいることだ。
それまでの人生のゴールは、大学合格であり、生活はすべてそれに向かって集約されてきた。さて、合格してみて、「何がやりたい?」と問いかけると、「別に」などという答えが返ってきてしまうのである。
合格が「ゴール」であり、「マイルストーン」として設定されていない。人生これからだと言うのに、である。
その先が設定されていないのであれば、貪欲に何にでも首を突っ込んでいけばいい。何が自分に適しているのか、何が得手なのかは、やってみなくてはわからないからだ。

それは「別に」ではなく、「何でも」という答えである。

2012年4月6日金曜日

フレッシュ

新学期、1年生のクラスの会話は、出身校や出身予備校のグループを中心に始まる。

多浪とは逆のタイプが、現役合格のフレッシュな1年生である。
本心なのか、天然なのか、傍目には判断しづらい「無知は武器」なタイプがときどきいたりする。例の「知りませーん。教わってませーん」である。
しかし、知らないのに強引に作業を進めようとするので、無理にねじを回してねじ切ったり、背面パネルを陥没させたり、三脚の足を折り曲げたりするのが、このタイプである。
知らないなら、機械を壊す前に、ヒトコト聞いてほしいものだと毎度思うのだが、決して聞きには来ないで、壊してから「壊れました」と言ってくる。「壊れました」ではなく「壊しました」と言い換えて欲しいものである。
現役が多いクラスは、ティーチングアシスタント(授業の助手)と一緒に、鵜の目鷹の目で作業を監視しなくてはならない。

フレッシュな1年生には、実習授業では要注意なのである。

2012年4月5日木曜日

先輩

新学期、1年生のクラスの会話は、出身校や出身予備校のグループを中心に始まる。

私の学生の頃は、「多浪」というのがごろごろいて、同じクラスで出身予備校内の先輩後輩の順列がそのまま持ち込まれていた。しかし、「多浪」だからと大きな顔が出来るのは、最初の数日で、授業が始まれば予備校の出来不出来はあまり関係なくなってくる。お名前に「先輩」がついていたのが、次第に「さん」付けになり、数ヶ月経つと「君」になったり、あだ名で呼ばれたりするようになる。
受験の学習がそのまま大学の授業として延長されるわけではないので、当然と言えば当然である。さりとて、受験学習が全く無駄、とは言えない部分もあり、最終的には「学習の切り替え」のタイミングをどこでつかむか、それまでの学習の蓄積を表出させることなくどこで生かすか、が大学の授業を乗り越えるコツだったりするような気がする。
多浪故に、受験学習の領域からなかなか脱せず(つまり頭がカタイ)、しかも他人よりも先輩というプライドがあるために謙虚ではなく(つまり教わることに慣れていない)、結局空回りしたり、集団制作で協調性を欠いたりしてドロップアウトする例を何回も見てきた。

何事もリセットできる新学期、こちらも心機一転しなければ。

2012年4月4日水曜日

知らない


教わる側にとっては、わくわくな新学期である。
教える側にとっては、ちょいと荷が重く感じる新学期でもある。

教える方は常に「ナマモノ」を扱っているわけだから、毎年同じルーチンワーク、というわけにはいかない。毎年同じジョークで同じ反応が返ってくるわけではない。ある大学教授は毎年も、何十年も、同じ授業、同じジョークという「伝説」があったりする。逆に何年も同じように授業を続けられることの方がかえってすごい気がする。私の場合は、相手、つまり学生によっては、内容を足したり、引いたり、という作業が常に発生するからだ。

影響が一番大きいのは、高校までの授業の内容である。日本史と世界史の選択、地理や地学の選択、技術家庭科や美術の履修時間の変更、どの教科であっても学習内容の変更などは、如実に影響する。社会に出れば「コモンセンス」であったりすることが、「教わっていません」のヒトコトで「無知は武器」に変貌する。「教わっていない」ことは「知らなくて当然」だったりするようである。
第二次世界大戦や朝鮮戦争といった近代史、釘の打ち方やノコギリの使い方などの大工仕事、図書館の使い方や、美術館の楽しみ方、専門領域の学習でなくても、知っておいた方がいいなあと思うことはたくさんある。

今年の「知りませーん」は何だろうか、ちょいと気になる新学期である。

2012年4月3日火曜日

決まり文句


本日は春の嵐。台風のようなお天気である。

台風と言えば、子どもの頃は夏休み終盤の恒例行事のようなものだった。風が強くなる前に家の周りを確認し、飛ばされそうなものは家の中に入れ、雨戸をたて、早くに寝てしまうのである。
台風翌朝というのはたいていお天気で、朝から陽光さんさんという感じになる。外が明るいと、雨戸の節穴から光が入り、お星様のようだった。ちなみに、この穴を通して光が対面の壁に届くと、外の風景が逆さに映る。いわゆる「ピンホール」で、「カメラ」つまり写真機の原点でもある。
写真の授業での初日は、「雨戸の節穴」というのが決まり文句で、これから写真機の原理とフィルムの科学的な解説で始まる。
ところが、アルミサッシというのが世の中に出てきて事情は一変した。雨戸はスチール製で節穴などないし、雨戸すら知らない学生もいたりする。

常套句が難しくなった今日この頃でもある。

2012年4月2日月曜日

虚像

写真にしろ、動画にしろ、レンズによって被写体は何かのメディアに記録される。それは作者の手から直接生み出されるものではなく、間接的に生成される。

フィルムで写真を撮影していると、こんな目に遭う。
ふとした拍子に裏蓋がぱかっと開いてしまう。
撮影し終わったと思ったら、フィルムの装填ミスで、巻き上げられていなかった。
もしくは巻き上げすぎて内部でフィルムが切れて絡まっていた。
現像タンク用のリールにフィルムを巻き損ねた。
現像し終わって乾燥したら、フィルムが「素抜け」あるいは「真っ黒」だった。

撮影の苦労が一瞬にして水泡と化す瞬間である。私の場合は、アタマの中が真っ白、とか、目の前がスローモーションとか、そんなものではなく「っっっっっっっっっっ」。
機械相手の表現では、機械を信用しすぎてはいけない。おかげで機械の確認をおさおさ怠らないというのが習い性になった。撮影時に各種設定や露出を再確認してしまうのが癖になった。突然のシャッターチャンスにはとても弱いし、今時の学生さんみたいにあちこちしゃかしゃかとスナップしながら町中を歩くことも苦手だ。家に帰って撮影した「あがり」を確認するまでは、落ち着いていられないので、撮影後はあいさつもそこそこに、そそくさと帰宅する。
もとが小心なだけに、心配性にも輪がかかってしまった。

未だに、「水泡と化す」ような夢をよく見る。撮影記録のメディアをコンピュータが認識しないとか、中身をうっかり消去してしまったりする。あっっっっという間に、努力も苦労も消えてしまうのである。わっっと叫んで目覚めると、冷や汗をかいていたりする。すでに立派なトラウマである。
アナログからデジタルへ、技術が発達しても、小心者にはあまり関係はない。

2012年4月1日日曜日

「天国と地獄」

既存の楽曲を使うときは、著作権に配慮することはもちろんだ。
それより以前に気を遣うのは「先行するイメージ」であったり、個人の抱く印象であったりする。

運動会のホームビデオであれば、「天国と地獄」とか「ウィリアム・テル」とか「クシコス・ポスト」なんかが入れば、映像が無くても「運動会」だったりする。逆に、学芸会のビデオでこれらのBGMを入れると、見ている人のアタマの中は「運動会」になってしまうので、突如舞台上に玉入れの篭が出現したり、上手と下手に分かれて綱引きが開催されてしまっても不思議ではなくなってしまう。

ずいぶん前の話だが、学生が映像作品のBGMに中島みゆきの「狼になりたい」をはめてきた。本人は意気揚々と上映を始めた。コンセプトは「前向きに、元気だしていこう」という趣だったのだが、音楽が盛り上がったところで、突然、一人の女子学生が大声でおいおいと泣き始めた。上映している本人はびっくり仰天である。
泣き出した女子学生に聞くと、作品に感動したわけではさらさらなく、数週間前に男に振られたとき、喫茶店でかかっていた音楽だったらしい。かなり大恋愛の大失恋で心の痛手もまだ癒えず、心折れそうな毎日を送っていた。そんなときに、映像はポジティブな内容なのに、音楽はつらい思い出、心の傷をえぐり、ほじくりかえしてしまった、らしい。

多くの人が聞く音楽は、それぞれに違うイメージを持たれたりする。自分の抱くイメージが「一般的」で「普遍的」だと思ってはいけない。