2012年1月31日火曜日

ブランド


地方出身の、美術予備校に通ったことがないような現役学生だって、美術学校を受験する。会場では、そういう学生が、少数派ということもあって、よく目立つ。
インターネット通販などなかった時代なので、道具の揃え方がまず違ったりする。鉛筆の種類や、画材のメーカーといったところだ。

試験慣れしていない現役学生はまず隣近所の「道具」でびっくりしてしまうことがある。試験監督に昼休み、そーっと「あれは何でしょうか」などと聞いてくる。
髭面の多浪が、ステッドラーの青軸で描いている横で、詰め襟の現役男子がトンボの緑軸の鉛筆を鉛筆削り器で削りながら使っていたりする。持ち込む鉛筆の本数も2倍や3倍以上は違う。髭面は現役男子の道具を眺めて鼻で笑ってみたりする。

道具が合格を決めるわけではない。モチーフを眺めるまなざしは、誰もが真剣だった。

2012年1月30日月曜日


試験監督業務は、実技科目によっては採点の準備や段取りまでを含むことがあった。

その頃、彫刻学科は募集人員がとても少なかった。
彫刻の実技試験はデッサンだけだったので、受験人数によっては体育館のアリーナに全員分の作品をイーゼルにのせて、1列に並べたことがあった。
6時間かけて自画像、というのがその年の課題だった。「必ず頭部と、手を片方入れる」というのが条件である。
試験会場では1人1枚ずつ鏡を用意してある。それを見ながら描くわけだから、左利きだと右手が画面に入る。表情はたいてい真面目な感じ、悩ましい雰囲気が多い。美術を志す学生は入る前からモラトリアムな感じである。首筋に手を当てていたり、片頬を手のひらで覆ったり、髪をかき上げていたりする。ポーズのつけ方もさまざまで個性が出るねえ、などといいながら一列に並べ終わって、みんなで最後の確認をした。

まんなかあたりにある1枚の「自画像」は、にっこり歯を見せて笑って、ピースサインを出していた。

2012年1月29日日曜日

くじびき


モチーフを描く試験では、1台のモチーフ台に向かってイーゼルを設置する。全員が同じ場所から同じモチーフは描けないので、準備担当係がモチーフ台が見えるか、前後のイーゼルの位置が適当か、数名で代わりばんこにあっちに座り、そっちを眺めたりして、綿密に準備をした。
受験生は、会場に入るまでどこに座るか分からない。予め適当に番号が振られ、会場前や会場内でくじを引かせたりする。受験番号とは関係なく場所が決められたりする。窓際や扉の隣で寒かったりもするし、ストーブの真横でとても暑かったりする人もいる。全員が同じ環境、同じ場所、同じ条件で実技試験を受けられるわけではない。しかし、だからといって、好条件の場所にあたったからと言って受かるわけではない。

私が試験監督をしていた頃は、「多浪」がごろごろいた。芸大受験4回目などという猛者がいるわけである。髭面で長髪、道具は年季が入っていて、試験会場慣れしているらしく、「あ、去年とくじびきの方法が違うんだねえ」などと、段取りの比較もしてしまう。他方、ぴかぴかの現役生もいるわけで、セーラー服にスモックを着て、おっかなびっくり準備する女子もいる。
自分の割り当て場所に陣取って画材を広げ、イーゼルを動かさない、他人の邪魔をしないなど、基本的な試験の諸注意など終わると、試験開始である。

経験者は慣れているもので、絵を描き始めると自分の陣地をそろそろと広げ始める。少しでも描きやすいようにするために、イーゼルを少しずつ動かしたりする。後ろに割り当てられてしまった現役女子は、次第にモチーフが見えにくくなってしまって、試験時間もかなり過ぎてから、べそをかいて試験監督に窮状を小声で訴えたりする。
これが逆の立場だと、髭面の受験生は大声で苦情を訴える。
「監督! 前の人のイーゼルが邪魔で見えません!」。
「……えー、、、、すいませーん」。
前の人である現役女子は、遠慮がちにそろそろと移動したりする。実は「邪魔」ではなく、プレッシャーを与える作戦だったりする。

これが同じ立場だとこうなる。
髭面の受験生が大声で苦情を訴える。
「監督! 前の人のイーゼルが邪魔で見えません!」。
「俺は動かしていません! これが所定の位置なんです!」
大声で苦情を退ける「前の人」も髭面の見るからに多浪。下手をすると言い合いになってしまって、試験監督がまあまあまあ、などと言おうものなら「俺の一生がかかっているんだ」とすごい剣幕になったりする。回りの現役女子がびびってしまって、絵を描く手が止まってしまう。

もちろん「多浪」して態度がでかく、試験慣れしているからと言って受かるわけではないのである。べそをかきながら描いていた現役女子が合格することも、ある。

2012年1月28日土曜日

攪乱

モチーフを使う試験では、10人前後にひとつのモチーフ台を用意した。
アトリエの大きさによっても違うが、ひとつのアトリエに2-3セットを用意した。
入試の場合、隣とモチーフが違っては「試験」にならないので、受験人数に対してモチーフを何セット用意するのか、計算の上でモチーフの準備に入る。
5-600人が試験を受けたとしても、50セットや60セットは必要である。こっちのモチーフはワインボトルだが、隣はウィスキーボトルではいけないのである。それだけの数が用意できるものでなくては、モチーフとしては指定できない。

ある年のモチーフに野菜を使うことになった。
当然学校からは八百屋さんに注文が行くわけである。
「キャベツL玉60個」。
近所の八百屋は当然いぶかしむ。
「学食からの注文でもないのに、こんなに多く、同じ大きさのキャベツの注文が」。
季節も季節だし、やっぱり入試関係かなあ、と思われる。
「明日の試験ではキャベツが出るのでは」。
予備校の方は情報網を敷いて、その手のネタを仕入れる。
「明日の試験、どこかの学科でキャベツがモチーフに出るのでは」。
前日の夜は、急遽予備校のアトリエで受験生を集めて、キャベツを描きまくる事前トレーニングが特別実施される。

試験をする側としてはこんなことになってはいけない。
八百屋さんにはこのように注文する。
「キャベツと大根と白菜を60個ずつ」。
情報攪乱作戦である。

リアリティのある話で、まことしやかにスタッフ間では語られていた。
しかし、本当にそのように注文したかどうかは知らない。
ただし、モチーフ1セットの予算は上限があるので、「マスクメロン60個」には絶対にならないのである。

2012年1月26日木曜日

対策


入試では「持ち込み用具」というのが要項で発表された。
受験生はそれを見て、どんな試験なのかを知った。
今はもう少し、詳細が要項で指示されていたりする。曖昧な指示や解釈で不公平が出てはいけないと配慮されてはいるようだ。

油絵の試験では、6時間に「油絵の具一式」、つまり時間内に完成させなくてはならない。乾きにくい絵の具だけに、乾燥対策にさまざまな材料や技法を持ち込むのが一時期流行った。
次の年には、どんな新しい手法や材料が秘策として出てくるのか、試験監督としては興味津々である。

次の年は、試験会場に入ったら受験生に紙袋を渡すように、という指示があった。「持って来た画材を全て入れる」のが、試験監督マニュアルだった。
受験生の目が一斉に点になった。
紙袋に入れないものは筆とパレット、油壺くらいである。乾燥対策に砂や石膏、たぶん乾燥用のメディウムとして使用するだろう粉類、フィクサチーフをはじめとするスプレーや乾燥促進剤などなど、紙袋に入れると、試験監督が確認してガムテープで封印する。
次に、数色の絵の具、油の小瓶を配付する。その絵の具で描くように、という指示である。
砂も石膏もフィクサチーフも、紙袋の中である。

試験する方もあの手この手を考えるものである。
しかしこの作戦にしても、何回も使える「秘策」ではない。
お互い大変なのである。

2012年1月25日水曜日

フィクサチーフ


実技試験というのは、「無理難題」なんだなあと思うことがある。以前も今も、そうである。

油絵学科の試験科目に「油彩」がある。キャンバスに油絵の具で描く、あれだ。
入学試験では6時間のコースなので、その時間内に仕上げなくてはならない。
油絵の具というのは、基本的に「乾きにくい」画材だ。しかも「普通」は塗り重ねていくことで「味」が出てくる。
6時間の内に乾かしながら塗り重ねる、というのはどだい難しい注文である。私なぞは油絵というものは数週間、数ヶ月、ねちねちと粘りながら描くものだと思っていた。
速乾性の油を使うと、さらさらして厚塗りが難しい。厚塗りしようとするなら、乾燥は遅くなる。
未完成なら評価はしてもらえない。受験生は6時間で1枚の絵を仕上げるべく、いろいろとあの手この手を考え、トレーニングを重ねるのである。

ある年、絵の具に「混ぜもの」をするのが流行った。「メディウム」という作戦である。たぶんどこかの予備校の教室で考えついたのだろう。違う受験会場で、数名の学生が、絵の具に砂を混ぜていたのである。試験監督としては、指定されていない「画材」だったので、一応「試験監督室」におうかがいをたてる。「まあ持ち込み禁止とは明確に指定していないからなあ」というので静観することになった。乾燥促進剤としてはどうかと思うが、テクスチャーが出るので、隣の人とは違う「画風」には見える。
翌年の油絵の実技では、「混ぜもの」は石膏になった。強力に油を吸収するので、「厚塗り」には見える。1週間後も同じ状態なのか、というのが試験監督室の雑談ではあった。採点は2-3日中だから、その間保てばいい、という作戦である。
次の年の流行は「混ぜもの」ではなく、「フィクサチーフ」だった。木炭デッサンでおなじみ、定着用の液体である。速乾性可燃性の液体で、これをキャンバスの上にふきかける。下辺からライターで火をつける。炎はめらめらっと、画面上を走って、上辺まで行って消えていく。炎の熱で乾燥させるという作戦である。試験監督側としては、びっくりである。アトリエ内は灯油ストーブを焚き、絵の具の溶剤は「油」である。筆洗用に一斗缶にたっぷりと灯油も入れてある。
案の定、ライターは翌日から持ち込み禁止になった。

同じ作戦をとっていた受験生がいたので、単独で開発した手法ではなく、予備校で「共同開発」したのだろう。いろいろと考えるものだと感心することしきりだった。

2012年1月24日火曜日

厄落とし


実技の授業はたいてい3時間または6時間の1本勝負であった。これは今でもあまり変わっていない。学科試験に比べれば長い時間だ。

デザイン系の実技試験に「平面構成」というのがある。
ケント紙にポスターカラーで、色面構成をする。
美術予備校のサイトやパンフレットにはさまざまな「構成」がサンプルに出ていたりする。ケント紙は試験だから配付される。画材は基本的に持ち込みなので、試験によってはかなり大きな荷物になったりする。寒い時期に、お引っ越しのように大きな鞄を抱えて試験に向かうのである。
入試要項の持参画材の指定は「ポスターカラー」である。その頃はプラスチックの瓶詰めで、24色とか36色セットをとりあえず揃えたりする。
入学試験に行くのに、瓶詰めを持っていくのは重たいので、「詰め替え容器」に入れる、というのが流行だった。
平面構成をやり慣れる頃になると、瓶から出した色そのままではなく、混色して使うようになる。これも「詰め替え容器」に調色して入れておく。試験の現場で混色を始めると時間が足りなくなるからだ。
まだ写真がフィルムだった時代なので、35ミリフィルムの空き容器を写真屋さんでたくさんもらって流用した。50-60個は当たり前、多い人は100個以上の「詰め替えオリジナル色入りポスターカラー」を持って、入学試験に出かけた。

後輩のFちゃんも、「詰め替え」カラーをたくさん持って入学試験に出かけた。画材一式重たいので、お母さんのショッピングカートを借りてきた。
試験会場で画材を出して準備をし始めようとしたら、カートが妙に軽い。
カートの底に穴が空いていて、そこから「詰め替え」カラーが、ぽとん、ぽとん、と落ちてしまったらしい。数本しか絵の具の容器が残っていなかったそうである。
普通ならそこで真っ青、パニック、悲鳴、というところなのだろうが、彼女は慌てず騒がず試験監督に事情を話したらしい。
「絵の具が落ちちゃったみたいなんです」。
ここで既に大物の片鱗がうかがえる。
こういうときのために、入学試験中は構内の画材屋が営業中である。とりあえずの色数の絵の具を調達して、試験を受けたそうである。
間に合わせのポスターカラーで、無事合格した。
大物である。

しかし必死に調色して用意した100個近くの「詰め替え」は、彼女にとって何だったのだろうか。
落とした絵の具は「厄」に違いない、落として良かったねー、と入学後の笑い話になった。

2012年1月23日月曜日

トレーニング

 美術学校の入試というのは、ペーパーテストだけではなくて実技試験があったりする。
最近は公募推薦やセンター入試利用、小論文や面接やら、いろいろと試験方法もたくさんあって、どうなっているのか、当事者ではないのであまり知らないようにしているが、その昔は実技と学科がノルマだった。

音楽学校もそうだろうが、実技の方が入学考査のウェイトが高くなることが多い。美術予備校というのは、実技試験をターゲットに、カリキュラム(トレーニングと言った方がいいかも)を組む。
実技の時間と、画材が入試要項で発表されるので、それに合わせて調整していくのである。何を描かされるのか、例えばデッサンなら石膏なのか人体なのか、などということは詳細に発表されないので、前年度までの入試問題である程度のヤマをはって絞り込んでおく。
このあたりの「ヤマ」の取り方が、予備校によってずいぶん違う。今年はA研究所がたくさん入学したが、次の年は昨年ほとんどいなかったB予備校が大量合格、ということもあった。
高校の授業や、美術部の活動では「ちょっと間に合わない」のが、美術学校の受験だった。夏期講習や春期講習に参加したりして、「受験のスキル」を身につけるのである。今思えば、デッサンにいちばん入れ込んでいたのは、その時期だったかもしれない。大学に入ると、「デッサンが出来るのが当たり前」であり、それを前提にカリキュラムが組まれていたからだ。

私が業務として試験監督をしていたのはもう20年近く前になる。今とはやはり状況も違うだろう。携わっていたのは、都合6-7年になるだろうか。ちょうど受験者数が毎年増加していた時期でもあり、今は昔である。

2012年1月22日日曜日

入学試験というもの


入試の準備は、大学としては大イベントなので、かなり気合いが入っている。
10年ほど前の状況はこちらが詳しい。

2012年1月21日土曜日

モード

卒業制作展が終わると、大学は「入試モード」に突入する。
卒業制作展はある意味でお祭り騒ぎに近いノリだったりする部分があるのだが、がらっと雰囲気が変わってしまう。

卒業制作展の後片付けが終わると、学内は入試のためにあれこれと準備が始まる。
今は少子化時代で、受験生もひところよりも少なくなったようだが、それでも美術学校の入試は実技試験を伴うので、そのための準備があれこれと必要である。

実技試験は大きく分けると、デッサンなどの絵画や描写をするもの、平面構成などのデザイン系の試験、ほかには簡単な立体構成やドローイングなど、その年度や学科によってさまざまである。
ペーパーテストのように、講義室に試験用紙を配って、というだけでは済まない。イーゼルやモチーフの台を運び込み、並べたりすることはもちろん、アトリエであれば暖房機器の準備、油絵の実技なら筆洗の準備など、実はこまごました会場準備がいろいろと必要である。
こういった仕事は「施設管理」関係の事務職員が担当していて、それが学生のアルバイトを雇う。いいペイで雇われるが、とにかく肉体労働である。試験の前から作業が始まり、試験後は翌日の準備と、断続的な長時間拘束である。

入試準備の時期になるとすでに学内は入構禁止になる。守衛室のチェックも厳しく、人も少ないので正門から眺めると、少し静かで寂しいがモノモノシイ雰囲気になる。

2012年1月20日金曜日

フリープラン

私が大学助手として残っていた時期は、「バブリー」な頃で、学生もイケイケ、就職は売り手市場、しかも従来とは違った会社から求人があったり、専攻分野とまったく違う業種や職種に潜り込めた時代だった。
大手のメーカーや代理店は、今のように早い時期ではなかったにせよ、それでも3年生後半から「青田刈り」を始めており、夏休み前に内定がずいぶんと出されていた。
出されていた学生は安心して学業に没頭する、予定のハズである。

大手の会社に一番早く内定を決めた彼は、「予定」を忘れて学生生活を謳歌しすぎてしまった。後期の授業は手を抜き、卒業制作もかなり「しょぼい」ものを出してきた。卒業制作展の講評が終わると、教授や講師の先生方が集まって「審査会議」のようなものがある。案の定、あんな卒業制作で卒業させていいのか、大手の会社に内定しているのにそれにふさわしくない卒業制作ではないかと、厳しい(いや当たり前な)意見が噴出した。内定も決まっているのだから、しょぼくなってしまった言い訳を聞いて、1ヶ月くらいで「再提出」、グレードを上げることを条件に単位を出そう、という「大甘」な妥協案が出された。そこで、当の学生に連絡をしたが、連絡がつかない。実家に連絡をしたら「卒業制作提出後、その足で海外へ卒業旅行(その当時流行っていたのは、海外自由旅行というやつで、行きと帰りの便だけ確保、その間フリープラン)に出かけて、帰国は卒業式前日の夜中」ということだった。
当時は、携帯電話もなく、ファックスも一般には普及していない国もあり、「フリープラン」なのでホテルの予約も入っているはずもなく、帰ってくるまでは「なしのつぶて」、研究室のスタッフは彼のことであたふたしているのに、ご当人はのんびり海外旅行である。

「取らぬ狸の皮算用」と言うが、取った狸でも、最後まで見届けなくてはいけないのである。
卒業制作の時期になるとそんなことを思い出す。

2012年1月19日木曜日

体力

美術学校の卒業制作のほとんどは「展示」という形態である。
絵画や彫刻をはじめ、グラフィックやプロダクトなどのデザインもパネルプレゼンテーションや実物を展示する。
普段教室やアトリエとして使っている場所に展示をするわけだから、展示のための「壁面」を臨時につくってしまう。自立式の柱を立てたり、天井と床を「突っ張る」ポールを立てて、壁面をつくっていくのである。
学生は予め、一つの教室に入る作品の数や大きさなどを調べて、教室にどの程度の長さの「壁面」が必要かを割り出す。その「壁面」をつくるために必要な資材を割り出す。ポールが何本、パネルが何枚、固定用ボルト何個、などという具合である。美術学生さんが一番苦手な「算数」が必要で、四苦八苦しながら計算した。
数を確認したら、大学の施設課に在庫を確認し、必要数を確保、展示準備期間中に資材を倉庫から運び出して、設営、という段取りである。
もちろん展示終了後の後片付けにお掃除、すべてが終わって「シャンシャン」である。

こういう地味な作業がきちんと出来て一人前、作品の数や大きさをきちんと申告しなかったり、準備期間中の資材運搬や最後のお掃除に参加しなかったりすると、その後、ものすごーく険悪な雰囲気になってしまう。卒業式、謝恩会どころではなく、その後の一生、元クラスメートと会う都度、「そういえば、あの時は、手伝わなかったねえ…」などと思い出される羽目になったりする。

設営作業は、2メートル以上の鉄柱や、サブロク(90x180センチ)のコンパネや有孔ボードなども運ぶので、肉体労働である。エレベーターのない校舎では、3階、4階へも自力で運び上げることになる。ここ最近美術学校の女子率は非常に高いので、大変そうだ。

しかしこういった資材運びだけで、体力を使い果たしてはいけない。「本番」は、臨時壁面が出来上がったあとの、自分の作品の展示だからである。こちらは「各自」の作業になるし、評価に直接反映するので気を抜けない。

まあ、こんなことで弱音を吐いていては、社会ではやっていけない。
毎年、4月の新入生に言うのだが、美術関係のお仕事をやりたければ、センスや感性やスキルよりも大切なことは「体力、健康、根性」なのである。

2012年1月18日水曜日

卒業制作はもとより、美術も、今やコンピュータなしには考えられない時代になった。

デザインや映像などはもちろん、ファインアートの分野でもコンピュータを使った絵画や、三次元モデリングの彫刻などが出てくる時代である。
その昔は、そんなものはなかったから、人海戦術だったり、外注作戦だったり、体力と気力(と資金)が勝負だったりした。
コンピュータが介在するようになると、それは人の、ではなく機械の「性能」の勝負になったりする。

十数年前になるが、ある学生が夏休み前に卒業制作のプランを提出した。三次元のフルコンピュータグラフィックスのアニメーションだ。当時としてはマシンスペックがとても足りないので、普通は二の足を踏むような企画である。本人は努力家で、論理的、用意周到なタイプなので、プロトタイプを含めて他の学生さんよりもかなり先んじて作業を始めていた。秋頃から、工房のコンピュータ数台で、本番用のレンダリングを開始した。
ある日の夕方、一天にわかにかき曇り、夕立が降り始めた。ごろごろと遠くに雷の音もする。雨は激しく、稲光もしきりに走るようになった。「えっ」と思った瞬間、室内の照明が消えた。停電である。窓外を見ると、他の建物も暗い。数分の内に復旧し、蛍光灯がちかちかと点灯する。
ああよかった、とこの場合思ってはいけなかった。案の定、悲鳴を上げて件の学生が研究室に飛び込んできた。
メディアにフロッピーを使っていた時代の話である。ハードディスクやメモリーはとても高価だし、今のようにアクセスは早くない。たいていは1日、あるいは数日の作業終了後、お食事など人間様の休憩時間に、のんびりとバックアップをとる時代だった。その学生もその段取りで作業をしており、雷も近くはないから大丈夫と踏んだらしい。その数日のデータがふっとんでしまったと言う。泣く泣く作業をやり直した。
これが冬休みの停電だったら、提出に間に合ったかどうか。

それ以来、研究室は夕立情報にナーバスになった。夕立の来そうな日は、早めに学生の作業を切り上げるようにした。
今やコンピュータもドライブの性能も上がり、バックアップの方法もいろいろ選択できるようになったし、頻度も上げられるようになった。夕立の心配は今では笑い話だろう。

2012年1月17日火曜日

確認

1月初めから終わりまで、たいていの学生はかなり忙しく過ごす。
1年から3年までは、学期末で課題の提出がいくつも重なる上に、期末試験やレポートまである。4年生は当然卒業制作なので、一生がかかっていたりする。
在学生は当該学年の必要取得単位の内、何単位を落とすと「留年」、それまでだと「仮進級」という措置があった。仮進級だと、進級先の学年で落とした単位を挽回するのである。

語学や体育、美術史などの講義科目は、4年間で必要単位をとって「あがり」である。
単位取得は「自分の裁量」だったので、自分で指折り数えて確認し、不安なら教務課に問い合わせたりした。

助手だった時分、ある学生が、優秀な卒業制作を提出、優秀賞を授賞することにした。手続き万端、これは卒業式でも専攻分野の総代だねえ、などと言っていたら、体育の授業をひとつ落としていたことがその後の卒業判定会で判明、大騒ぎで優秀賞を撤回、卒業証書が出ないことになってしまった。
当時は、やはりのんびりした時代で、卒業式には卒業生席ではなく、父兄席に座って参加、一緒に記念撮影にも、ちゃっかりおさまった。内定先の会社には内諾を取って、前期期間中の土曜日に、体育の授業を在学生に混じって受けに来て、9月に無事めでたく卒業証明書を入手した。
2年生であった間に、真面目に土曜日に授業を受けていたら、こんな羽目にはならなかったけどねえ、とその数ヶ月、土曜日の授業帰りに研究室へ寄り、お茶を飲みながら反省しきり。非常にレアケース、というわけでもなく、ちらほらそういう「仮卒業生」もいた。そういうことであまり「くじける」人が少ないのも、美術学生の特質だったりしたかもしれない。

今は4月に教務課が、学生全員に前年度までの単位取得状況を確認するペーパーを配るようになった。指折り数えたり、卒業制作提出後単位が足りなくて、びっくりすることもなくなった。

2012年1月16日月曜日

伊勢エビつき

大学では年が明ければ学期末、卒業制作展が1月末に設定されている。
制作をしなくてはならない学生に正月はない。
学生生活の中で、いちばん制作に没頭する(あるいはせざるを得ない)状況ではある。

12月末から1月初めの授業の初日まで、基本的に学校は冬休みである。
学校の工房やアトリエは、研究室が管理していて、教員や助手などのスタッフがいなければ鍵は開かないという規則になっていた。特殊な機械や道具、スタジオなどは、管理者が必要だということだったのだろう。冬休み明けまで待てない、という学生が必ず毎年いた。
大学を卒業して助手として残っていた数年でも、ほぼ毎年のように、大晦日か正月三が日に学生から電話がかかってきた。この時とばかり、猫なで声で「お願いですう」、である。
逆に作業をよく知っていて、スケジュール的に「あぶなっかしい」学生もいる。そういうのに限って余裕を感じているらしい。暮れも早くに学校の作業を切り上げてしまった。全然危機感がない。こちらから電話する。「来ないと終わらない(=卒業できない)と思うんだけど」。

さすがに三が日はごめんだが、たいてい4日の朝から学校に通うことになる。大学正門の守衛室は、伊勢エビ付きの正月飾りがあったりする。
そのころはまだのんびりした時代だった。
一升瓶にお年賀ののし紙を付けて守衛室へ持っていき、「すいませーん、早くから」と挨拶する。守衛さんも心得たもので、「また今年も早くからお疲れさーん」と、昇降口を開けに来てくれた。

当然、本来、学内は冬休みである。主に作業をしていた建物はスチーム暖房だったので、ボイラー室が動かないと暖房は使えない。防寒着をおそろしくたくさん着込んで、学生さんの作業を手伝ったりした。

今はもっと管理がきちんとして、ドライにもなっているから、手続きなど事前に済ませなくてはならないだろう。「すいませーん」という時代ではないのかもしれない。

2012年1月14日土曜日

栄養

グラウンドの一角にプレハブ小屋があり、それが「風月」という学食だった。
安い、早い、味はこの際言及しない、という典型的な学食で、お世話になった卒業生も多い。ある年齢層の卒業生だと、その店の名前ヒトコトで、みんなが青春に逆戻りしてしまう、今や魔法の呪文である。

プレハブだけに、冷暖房は完備していない。
夏は暑いし、冬は灯油ストーブが持ち込まれる。
夏の冷やし中華は生ぬるく、上にごろごろと角氷がのっかってサーブされた。

友人がうどんを頼むと、おばちゃんが丼をつかんで渡してくれた。
おばちゃんの親指はどっぷりと汁の中に浸かっている。
「おばちゃん、指が……」とわななく友人は、女子校出身のいいとこのお嬢さんである。
おばちゃんはにっこり笑って「大丈夫よお、熱くないから」。

入り口入って、一番手前は、そばやうどんを茹でる釜である。
そのあたりで、食券を買うためだったり、お金をくずすために、釜越しに、お金をやりとりしていた。
営業終了後釜をひっくりかえすと、底の方に沈んだ小銭がいくつか出てきた。
たまたまそこにいた学生が、それを目撃してしまった。
おばちゃんはにっこり笑って「大丈夫よお、出汁が出るから」。

名物は「ミートおばちゃん」だった。
どんな定食を注文しても、左手におかずのお皿、右手にミートソースをしゃくうお玉を持って、「ミート、かける?」と景気よく聞いてくれるのである。
コロッケでも、アジフライでも、牡蠣フライでも、ハムカツでも、オムレツでも、何でもである。定食は何でも「ミートがけ」になった。

こうやって美術学生は栄養をつけて、大人になったのである。

2012年1月13日金曜日

ホワイトマーカー

大学に来ると、それまでの交友関係とは全く違う人種が混じってくるのが面白かった。
中学高校と違って、出身地の異なる友だちと知り合う楽しさとか面白さは、格段だった。
自分の常識は他人のそれとは違うことを知り、それがその後の自分の視点の多様性を培うことにもなった。

そんな中で、いつでもどこでもネタになることに、「北海道にゴキブリはいない」というのがあった。
本当か嘘かは分からないが、北海道出身の女子学生がアパートに出てきたゴキブリをコオロギと勘違いして捕獲して虫かごで飼育していた、というのである。これはどんなところでもよく聞く話なので、すでに「伝説」となっているような気がする。まさかそんな、と言って酒の肴になっていた。
私にとってその虫は「とってもイヤ」なものだけれど、それが「屁でもない」人もいることを知ったのも、大学の交友関係である。

別に北海道出身でもない彼は、虫嫌いではなかった。飲んでいる横を走り去る虫がいても、平然と飲み続ける人だった。そうして、彼は一人暮らしのアパートに、ずいぶんとゴキブリが訪問してくれるものだと感心しながら日々を過ごしていた。
「ホワイトマーカー」という白い油性ペンがある。画材として彼はよくそれを使っていた。当然、彼の部屋にはそれがごろごろしていて、ある日、虫の背中に「背番号」をつけようと思い立つ。つかまえては、ナンバリングして、リリースするのである。ナンバリングの仕方がまずいと、虫さんは死んでしまう。上手くナンバリングして、元気にリリースできるまでに、それなりのコツが必要だったらしい。一番、二番、三番、夏にナンバリングした虫は数十番になった。冬が来て、虫さんは出なくなった。翌年、暖かくなると、虫さんは活動し始める。彼はまたナンバリングをし始める。昨年からの番号を続けていく。ある日捕まえた虫の背中に、見覚えのある、白い番号があった。32番。冬を越して会いに来た虫だった。

繰り返すが、私は虫は苦手だ。現場に居合わせたくもないし、冬越しの感動の再会、その現場を想像したくはないが。

彼は彫刻科の卒業で、アーティストである。

2012年1月12日木曜日

大学も1月の期末試験を過ぎると、学生さんは「春休み」に突入する。
昨今の上級生は就職活動でお忙しいかもしれないが、私どもの時分は就職するなど思いもよらなかったし(女子学生は短大の方が就職率が高かった時代である)、男女雇用機会均等法もない時代(就職条件に「大卒男子のみ」というのが多かった)で、大半の女子学生は4年生で卒業制作を終えてから、ばたばたとその後の人生を決めていた。
それ以前、2-3年生の頃は、単なる長い春休みなので、遊ぶか、遊ぶ金を稼ぐか、の二択である。
美術学生のアルバイト事情というのは、普通の学生とは違って「手に職」があるというのが強みである。
学校近所の喫茶店は普通だが、美術予備校のアルバイト、デザイン事務所の使いっ走り、建築模型制作、デパートのショーウィンドウの展示替え、などとというのが王道ではある。
しかし世の中は狭いもので、思わぬところで卒業生にでっくわす。
数年前に家の墓地を整理するのに、石屋を頼み、話をしていたら彫刻出身だったことがあった。

彫刻という学科は、作業の関係上、学生の間に何かと資格を取ったりする。溶接、危険物取り扱い、フォークリフターなど特殊車両取り扱い免許などで、これを使ったアルバイトもよくやっていた。石彫をする学生もいるので、石屋さんのアルバイトも、彼らにとっては当然の成り行きだったかもしれない。就職口もいろいろあって、私が意外だったのは「マネキン屋さん」だったりした。デパートのショーウィンドウに並んでいる、あのマネキンを造るのである。すごーく「手に職」だと感動した。マネキンをつくるために彫刻を専攻するわけではないだろうが、それでも私などには出来ない仕事なので、ものすごーく感動した。
彫刻科ばかりではないが、植木屋になった友人もいたし、不動産屋になったのもいる。なぜかダンサーになったり、当然のようにミュージシャンになったのもいる。喫茶店のマスター、なんていうのもある意味「憧れの商売」ではあった。もちろん、アルバイトが高じて本職になったのもいる。

人生、入った大学や、学生時代の専攻分野だけでは決まるものではない。将来何がメシのタネになるかは、若い内には分からないものである。

2012年1月11日水曜日

シイタケ

デザイン系の学生であっても、1年生のカリキュラムに「彫塑」が組まれていた。とりあえず美術の基本だよ、という意味に解釈するとして、やりたかったのはデザインなんだけどなーと思いつつ、指定された作業服と道具を揃えて授業に向かった。
当時は「かなり厳しい授業である」と上級生からかなり脅しを聞かされた。出席はマメにとるし、サボるとみつかるし、講評はかなり辛口で、指導は容赦ない。授業の課題は「丸太から足首を彫る」といったものだった。めいめいが裸足になった片足を見ながら、黙々とのみを使う。端から見れば、ちょっと間抜けな風景だったに違いないが、本人達は単位欲しさに、いたって真面目である。出来上がる足首は、実物大以上のサイズになる。講評はごろごろと巨大な足首が並ぶ。
屋外では別のデザイン専攻の1年生が作業中である。こちらはまず、5-60センチ四方ほどのコンクリの塊をつくって、そこから野菜を彫り出す、というものである。野菜は、シイタケ、ジャガイモ、タマネギ、などが指定されていた。足首よりもフォルムとしては難しそうだなーと思って、横目で眺めていた。出来上がったら一抱えもあるシイタケやジャガイモやタマネギになるのである。まあ、出来上がりは足首よりも「かわいい」。ちょっとうらやましかった。

授業が終われば、作品は「お持ち帰り」が原則である。しかし、巨大な足首は、抱えて歩くのはちょっと重たい。コンクリのシイタケはもっと重たい。当然のように、自分に割り当てられたロッカー周辺に転がしておくことになる。課題なのだから、あまり思い入れのない学生も多く、なかなか持ち帰らない(物理的に持ち帰れない場合を含む)。一応課題であっても「作品」なので、お掃除のおばちゃんたちは、おいそれとは捨てない。数年間も、そこに同じ足首が、ほこりをかぶって、転がっていたりした。
アパートを近所に借りていたりすると、たまさか持ち帰る学生がいたりする。玄関先に記念品よろしく、シイタケが鎮座ましましていたりする。しかし、卒業して引き払う段になると、処分に困る。ゴミとしては出しにくい。自然とアパートの外、裏手の片隅、塀の際などに、さりげなく、そーっと放っておいたりする。
大学の近所を歩いて、古いアパートがあると、裏手の方に、コンクリのシイタケやジャガイモが転がっていたりする。大家さんからみれば、とっても迷惑な「野菜」である。

2012年1月10日火曜日

控え室

彫刻専攻の入る校舎が建て替えられる前、その横には小さな小屋があった。
午前中そこらを通る習慣のあった私は、そこの「住人」をあまり目撃したことがなかった。
日本画なら飼っているいきものの定番は「鳥」である。ある日午後、たまたまそこを通ったら、ヤギさんが数頭くつろいでいた。
学内のどこかであれば、唐突に、どんな大きさの動物用の小屋があっても、「おー、(人間ではない)モデルさんの控え室だねー」と考えてしまうようになると、それはもう立派に「美術学校モード」である。
午前中、ヤギさんたちは「モデルさん」として、お仕事にお出かけになっていたのだった。

もちろんそこも、趣味で飼育していたわけではない。人間に限らず「モデルさん」のお世話は、当然、学生さんたちのまわりもちである。いまどき、犬猫よりも大きな動物の世話など、家庭ではあまりやらないだろう。
ヤギさんの世話が出来る、ということも、きっと将来の何かの役に立つに違いない。

2012年1月9日月曜日

モデル

学内、正門から見て一番遠くにある棟は日本画のアトリエである。
デザインの学生は、美術専攻の学生のテリトリーにあまり行く機会がない。入学したてのデザイン系の学生にとって、そのあたりは「未知の領域」であったりする。
花がたくさん植わっている花壇や、鯉がいる池、鳩や雉のいる小屋がある。とても牧歌的な趣味で、と思うのはデザイン系の新入生の常である。
そんな牧歌的な一角で、お昼休みのひとときをのんびりと過ごすようになる。女子学生はなぜか常に「餌をやりたがる」もので、その日も、鯉にパンくずをやろうと、池を訪れた。ところが、前日に池にたくさんいた鯉が、全くいなくなっているではないか。猫がすべて一夜にして食ってしまったのかと、あわててご注進に来たことがあった。

「花鳥風月」というが、これらは伝統的な日本画のモチーフである。趣味ではなく実益で校内で養っているのである。鯉さん達は、ときどき、めいめいが器に入れられて、日本画のアトリエで「モデルさん」をしているのである。「モデルさん」のお仕事が終われば、また池に放される。
小屋の鳥とてご同様である。
当時は放し飼いのあひるがいた。ときどき校内のあちらこちらを散歩していたり、掃除のオジサンの軽トラックにひかれそうになったりしていた。餌と寝床の場所が分かっているので、きちんとご帰宅はするのだった。
母の友人は、日本画家のおうちに嫁に行った。嫁さんのおつとめは、旦那様、お舅様、お姑様のお世話ではなく、「鳥小屋」のお世話だったそうである。

私が学生の頃、日本画専攻は、伝統的なモチーフが、課題や卒業制作に多かった。現在の卒業制作展では、花鳥風月どころではなく、モダンで伝統的ではない画題も多い。ちょっと見ただけでは、これが日本画かと思うようなものもある。日本画と洋画の違いは、溶剤や支持体なのかと思っていたが、最近はそのあたりもかなり緩くなっているようだ。「美術」の境目も、だんだんクロスオーバーになっているようである。

2012年1月8日日曜日

アッパッパ

美術学校では人体を描くことが必須である。クロッキー、デッサン、油絵、日本画、彫刻、いろいろな授業で「人体」を扱う。モチーフになるのは「モデルさん」である。
モデル、といえば、たいていの人はファッション雑誌に出ているような人物を思い浮かべるだろう。しかし、アトリエに出入りするのは「美術モデル」というのである。ファッションモデルとは、仕事の内容もスキルも、全く違う。
20分ポーズ、10分休憩、を繰り返して3時間、それを月曜日から土曜日まで、同じポーズでこなす、などというのが絵画のモデルのスキルだったりする。
ファッションショーに出るモデルのような、スレンダーな背の高い若い人ばかりではない。背が低く、ぽっちゃり系だったりする。
裸婦を描く絵画の授業では、「ついこの前お産したのよ」というすっぴんのおねえさんが来た。隣のアトリエでは、新人らしいとっても若い、当時のアイドル似の女の子が来ていた。最初の頃、男子学生は喜んでいたが、休憩ごとにポーズが少しずつ変わってしまって描きにくいよ、という愚痴を聞いた。写真モデルのように、「若い」「細い」「顔の可愛い」人が描きやすいわけでもない。
モデルさんの休憩用に、お茶やお菓子なんかを用意するのは、アトリエの学生が交代で係をする。3時間の授業だから休憩は6回、コーヒー、紅茶、緑茶など飽きないように取りそろえるのだが、毎日同じではならない。モデルさんの機嫌を損ねたら、大変である。機嫌良く「モデルさん」としてお仕事をしてもらって、初めてこちらの絵も完成するからである。前日、次の日と、綿密に打ち合わせをして、おやつ係もかなり頭を使う。
ヌードだとモデルさんに合わせて室温に調整するのも、学生の係である。モデルさんに様子を聞きながら、石油ストーブの出力を微調整する。モデルさんが風邪でもひいたら、明日から絵は描けない。自然室温は高めになるなので、学生さんは汗だくである。
休み時間にアトリエの外でタバコを吸っている、突っかけサンダルに「アッパッパ」を着たおねえさんは、ヌードのモデルさんである。学生さんたちよりも、はるかに貫禄があった。私のクラスのモデルさんは、仕事が終わると「アッパッパ」から革のジャンプスーツに着替えて、ナナハンにまたがって、颯爽と帰った。

学科の編成替えや、情報系、デザイン系の専攻が増えたせいか、以前よりも学内でモデルさん達を見かけなくなった。美術とは、何にせよ、どのようなかたちであれ、人と対峙するものではなかったのかと、コンピュータのディスプレイやスマホを見続けている学生さんを眺めながら考えている。

2012年1月7日土曜日

キャンパスには猫がいる。
こちらが授業で四苦八苦しているのに、あちらはベンチでのんびりひなたぼっこである。くやしい。
春先は子猫を連れて、学内を散歩している。
女子学生がお弁当のおこぼれなどをやっていたり、アトリエの外の廊下に餌の皿が置いてあったりする。
郊外の、のどかな学校風景である。
近所のアパート住まいの学生が大家に内緒で猫を飼い、就職に伴う転居のために、困って大学に猫を放したのが始まりだったらしい。私が学生の時にも、別に人を襲うわけではなし、学生のおこぼれでお腹いっぱいらしくゴミも漁らないし、だから掃除のおばちゃんも邪険にはしなかったし、守衛のオジサンはおやつを分けていたりした。
もちろん、誰の猫、というわけではないので、自然に繁殖が行われる。ねずみ算、というほどでもないけれど、春先にはあちこちで子猫を見かけた。わーかわいい、などと言っているうちはまだいい。かわいいと言いながら、下宿に連れ帰る学生もいたりする(こういう学生は、卒業時にまた猫を学校に「戻し」たりもした)。
美術学校というのはたいがいのアトリエや教室がかなり「オープン」なつくりになっている。エアコン完備ではない時代だったから、夏はあちこち開けっ放し、冬も灯油のストーブだからあちこち開ける。猫もお出入り自由な状況である。特定の研究室に出入りする猫もいて、あの白いのは油絵の、あのサバトラは彫刻の研究室の、などという縄張りもあった。
ある年、とある研究室でノミが大発生した。もちろん原因はお出入り自由の猫である。それまでにも被害がなかったわけではないだろうが、その年は特に大発生して大騒ぎになった。事務職員の中には学内から猫を一掃すると宣言する人すら出た。ノミの被害よりも「猫駆除」の方が大騒ぎになったのは、週刊誌にすっぱ抜かれたからだ。大学名は伏せられたが、たかが猫を「駆除する」なんて、という動物愛護者論調で、事務職員側が悪者扱いだ。その週刊誌を見た学生たちが、発行翌日に、うろうろしている猫を一斉に、一時的に連れ帰って、学内の猫の数が激減し、「一掃」しようにも猫がいなくなった。美術学校の学生は、常日頃は協調性があるとは思えないのに、こういう時だけ団結する。

事務職員の中には、その騒ぎ以前から、猫の状況を憂いている人がいた。独身、年配の女性で猫好きである。年に何頭かずつ捕獲して、ポケットマネーで避妊手術を受けさせていた。子猫には、もらい手を探してやっていた。友人はそんな子猫をもらって帰った。アパートで一人暮らし、家族としてとてもかわいがっていたのだが、帰省時に猫を預けるあてがなく、猫を連れて実家へ向かった。一人住まいだった彼女のお母さんがその猫を気に入った。「あなたが東京に行くなら、猫はおいていってね」。人質、いや猫質だと彼女は言っていたけれど、ずいぶんと長生きして、お母さんと仲良く暮らしたそうだ。

2012年1月6日金曜日

小石

現在のキャンパスに移転する前も、移転した後も、学校は駅から15分、20分程度歩いた場所にある。
私が学生だった頃、非常勤で教えにいらしていたOBは、移転前のキャンパスで学んでいた。そのうちのひとり、K先生は、ダンディですてきなジェントルマンだった。「洒落者」だったのは学生時代からだったんだよ、とやはりOBの先生にうかがったのは卒業してからだった。

駅から学校までは今のように舗装した道ではなく、雨が降ればぬかるんでしまう。美術学生はたいていが貧乏だったので、靴をダメにしないように、雨の時は下駄で通学したのだそうだ。ところが例のK先生だけは、雨が降っても革靴で通ってきたらしい。全身きちんとオシャレに決めて、だ。クラスの中でひときわ目立った存在だったという。

現在のキャンパスは、駅からの通学路はバスが通る車道ではなく、遊歩道を利用している学生が多かった。そこも以前は舗装していたわけではなかったので、雨が降ればぬかるんでしまう。下駄、という選択肢は私の時代はなかったし、行きは晴れて帰りは雨、ということも多かったので、朝から雨靴を履いて通っていたわけでもない。おかげで、靴は何足もダメになった。
暗くなれば、街灯も少ない。ちょっと夜中の一人歩きはコワイ道だった。
春先のある雨の日、帰りが遅くなった。傘をさして、駅まで歩いて帰った。既に暗くなった道で、目の前の小石を蹴ろうとしたら、空振りした。びっくりして振り返ったら、それは冬眠から覚めたばかりのように、のろのろと歩いているヒキガエルだった。

2012年1月5日木曜日

モチーフ

今の図書館が出来る前は、かなり広い地べたがあった。半分ほどは梅林で、あとは「空き地」状態である。
雨が降ればぬかるむその「空き地」は、春先は建築科の授業で垂木のジャングルジム状のものが建ち並び、学園祭の間は模擬店が建ち並ぶし、陶芸の工房が鞴祭りで焚き火をしたり、なぜか誰かがいつの間にか大きな穴を掘っていたりなどした。
そんな「空き地」の一角に、そこそこの大きさの漁船が陸置きされていた。
新入生がやってくると一番初めに考えるのは、なぜそこに漁船があるのか、ということらしい。しばらくすると、課題などで漁船を構図に入れてスケッチしたり、写真を撮影したりして、学内風景として認識してしまい、不思議に思わなくなってくるようだ。
すでにナンバーや艇名もはげ落ちて、それなりの古びた感じで、しかも学校は海から遠く離れている。ある学生がしつこく、船の存在する由来を聞きたがるので、学内で調査することを課題に組み込んでしまった先生がいた。調べてみたら、あまりぱっとしない理由だったので、取材した学生本人はかなりがっかりしていた。
大学がいまの土地に移転する時期に、事務職員が知り合いから「廃船を引き取らないか」と持ちかけられたらしい。絵画のモチーフとしていいぞと言われ、もらいうけたということだった。学生は、もっと大げさな、ドラマチックな、あるいはロマンチックな理由を期待していたのだろう。
今考えれば、梅林の前、というのもかなり「唐突」なモチーフだし、移送料も安くはなかっただろう。移送料より廃船作業料が高かったのか、切り刻むに忍びなかったのか。
梅林も空き地も船も、新図書館の建設で跡形もなくなくなった。

2012年1月4日水曜日

教材室には、静物画のモチーフになるモノがごろごろあって、学生に貸し出したりしていた。
静物画だと、ワインの空き瓶とか、ほうろうのピッチャーとか、果物かご(生ものは各自用意)とか、テーブルに敷く布、そのほかに「なんでこれが」とか、「これはなんだ」というようなもの(しかも新しくはなく、ほどほどに古びていて、ちょいとほこりっぽい)がいっぱいあった。
そんな中にあるのが「ホネ」である。美術学校だとたいがいそれは「牛骨」だ。モチーフにするのは「もも」や「あばら」ではなく、頭蓋骨である。牛のだから、大きくて重い。
モチーフをあれこれ借りて、自分の教室(つまりアトリエ)でセッティングして、絵を描くのである。学校で借りたモチーフなので、自分の部屋に持ち帰るわけにはいかない。自分の部屋でじっくり牛骨を描きたい学生は、牛の頭蓋骨を個人的に入手した。今考えれば、のべつ牛骨を描いているわけもなく、実はインテリアとか見栄だったのかもしれない。
今もかなりのお値段だが、その時分もそれなりに高くて、なかなか手が出なかった。
思いあまって「牛骨自作」という手段に出る者がいた。肉屋で話を付けてもらい、屠殺場で牛の生頭を入手、下処理をして、それをどこかに埋めておく。待つこと1年ほどできれいに「ホネ」だけの状態になっている。というまことしやかな言い伝えを上級生から聞いた(どうすれば白くなる、とか、どの程度埋めておく、などという専門的な話題はこの際置いておく)。
埋めておくところはどこか、というのがアパート住まいの貧乏学生には問題だ。河原に埋めて、犬が掘り出して、飼い主が警察に通報して大騒ぎ、そんなことになってはならない。世間を騒がせたりすることよりも、じっと我慢して待っていた憧れの「牛骨」を失うことの方がコワイからである。
どこに埋めるんだろうねえ。「牛骨の作り方」の話を聞いた後、友人とビールを飲みながら、校舎の裏手のキャベツ畑を眺めていた。

2012年1月3日火曜日

キャベツ

学校の周囲はその時分あまり民家が建て込んでおらず、学生向けの安アパート、正門前は広大な月極駐車場で、その一角にコインランドリーの小屋があった。ロックアウトの後は、本当に暗かった。暗いのは「畑」が多いせいもある。台地にあるので、田んぼではなく「畑」。キャベツやブロッコリー、麦なんかが植わっていた。江戸時代に開拓され、農家も多かった。近所の農家の副業は大学向けの安アパート経営である。
大学の北に男子専門の農家経営アパートがあった。大学からの帰り道で、近道は大家の畑を突っ切ることだ。酔っぱらった学生が、勢いでキャベツをもいで帰ることがあったそうである。近所の同様のアパートよりもちょっと家賃が高いのは、そのキャベツ代だという話だった。

2012年1月2日月曜日

なごり

学生の頃は8時半ロックアウトという制度があった。午後8時半に全校舎の非常用コンセントを除く全ての電気が管理室で落とされる。教室で我を忘れて作業していたらいきなり「真っ暗」になった。その後守衛さんが教室の施錠に来る。その前に、そそくさと身の回りを片付けて慌てて帰った。
卒業してもしばらく続いていたから、まあ学校的には良かった制度だったのだろうくらいに思っていた。
学生紛争の名残だ、と聞いたのは卒業してからだった。学園紛争から10年以上も経つのに、まだ「名残」、のんびりした学校である。
あとで古い卒業生や、長くお勤めの先生に聞くと、いろいろな「名残」を教えてくれた。
ある校舎の屋上は、新築時に夏の熱対策に屋上に小石を敷き詰めたらしい。それが紛争時、一夜にして事務職員が人力で運び下ろしたそうだ。学生が屋上から投石するのを防ぎたかったのだろう。紛争後もそのままで、その校舎の最上階は夏はとても暑いのである。紛争が終わったら石を「現状復帰」することは、事務職員は考えなかったのだろう。
キャンパスの中庭は現在アスファルトで舗装されているが、最初は煉瓦で敷き詰められていたそうだ。ここも「投石予防」のため、一夜にしてアスファルト舗装された、という話である。ここも未だに現状復帰されていない。

2012年1月1日日曜日

窓を叩く

大学に女子寮があった。
正門入って左側で、校舎の隣、あまり広くないキャンパスなので、本当に「学内」だった。
入学1年目の女子だけが入っていて、2年生になったら自分でアパート借りなさいね、という寮である。
当時大学は午後8時半ロックアウトという制度があって、その時間には守衛さんを除く全員が下校する。人気があるのは女子寮だけだった。
もちろん、どんなところにも「怪談」の類はあって、女子寮の学生が8号館のピロティに幽霊を見たらしい、などどいうことが、まことしやかに伝えられていた。女子寮にも、もちろん「幽霊」は出るらしく、伝説のように語り継がれていた。
学期末の課題に間に合わず、3階の自室で必死に作業していた女子学生の部屋の窓がほとほとと叩かれる。「誰?」と問うも返事はなく、しばしの静寂。中庭に面した窓外にベランダや通路はなく、叩くためにははしごをかけなくてはならない。「全員下校のはずなのに」と件の学生は考える。はしごや脚立で足場をかければ、音や気配で他の誰かが起きてしまう。おかしいなあと考えていると再び、ほとほとと窓が叩かれる。女子学生は窓に近寄り、そっと耳を澄ます。窓外からささやくような女の声。「……課題、できた?」
女子学生は窓を勢いよく開けるが、外は真っ暗闇。
学期末によく出てくる、元女子寮の住人だった幽霊らしいと知ったのは翌朝のことだった。

幽霊はガセかもしれないが、「課題、できた?」は美術学校の学生にとって、恐ろしくリアリティがある。