2016年1月24日日曜日

自由

いろいろな意味で気合いが入っているのが卒業制作展である。勤務校では会期は3−4日ほど、展示期間中に講評があり、その意味でも学生さんは緊張している。
少なくともお祭り騒ぎをしているわけではなく、真面目に学業の成果を見せるわけだから、受験生には芸術祭よりも卒業制作展を見に来なさい、と言うべきである。
見ている方は気楽なものだから、単純に「作品並んでる−」だけで終わるのかもしれないが、教える側になるともう少し複雑ではある。
ここしばらくの卒業制作展の傾向は、といえば、良くも悪くもアート、ではある。難しいのは、並んでいる作品が、どういった「成果物」なのか、読みにくい、ということかもしれない。
少なくとも、油絵学科で絵画が並んでいたり、彫刻学科で木彫が並んでいたり、建築学科で図面と模型が並んでいたりすれば、学習の成果としては分かりやすい。デザイン学科や文化学科で、どちらかといえばインスタレーションやドローイングが並んでいたりするのが、最近は多いので、これはいったい、どういった「デザイン」なんだろうと、考えてしまうことがある。

私が助手だったずいぶんと前のことだが、となりの学科は、4年で選択したゼミの学習範囲の作品しか提出を認めなかった。舞台設計ゼミなら、並ぶ作品は舞台の図面と立面のドローイング、模型といったのが「作品」である。オペラ、現代演劇、古典劇、シェークスピア、歌舞伎、ミュージカル、といった違いはあるのだが。ある年、学生がゼミの学習範囲ではなく好きなことを自由に制作したい、と言い出してごねたそうだ。舞台設計ではなく、イラストや、インスタレーション、空間造形、油絵や日本画など、舞台設計ゼミでは教えてはいない技術である。担当の先生はうーむ、とうなって黙った後で言ったそうだ。
「学生なんだから、好きなものをつくりたい、という意欲は分かる。それなら、こちらも日頃の学習のプロセスや態度、これまでの学習の成果や成績などとは関係なく、好きなように採点させてもらう」。提出の規定として「学習範囲」なのだから条件外で対象外でも良いよね、あるいは、プロとしてそれなりにシビアにジャッジさせてもらうからね、という暗黙のだめ押しである。

その年にはそういった条件外の提出作品は展示されなかった。 

2016年1月23日土曜日

卒業制作展

先週末は勤務校では卒業制作展だった。
論文で卒業できる学科もあるのだが、実技中心の学科が多いので、実技制作で卒業審査が行われる。学内が「総展覧会場」状態である。
アトリエや教室はもとより、体育館、廊下、階段、中庭、ピロティ、こんなところにというところにまで作品が鎮座ましましている。
外部のお客さんから見れば物珍しく、面白いものだろうが、当事者はいつも大変なのである。
そもそも卒業制作なので、担当教員の指導が必要だが、指導されるためには作品制作のプランが必要である。
もちろん、つくっただけではダメなので、展示をしてなんぼ。まずは「場所取り」である。所属学科研究室の管轄のスペースと、大学事務が管理するスペースは別なので、こちらもたいていは秋ぐらいに「場所取りのスケジュール」が公開される。希望展示場所、そこに展示される作品プランを提出し、競合すれば、管理者と当事者で話し合いながら場所を決めていく。
当然、展示作品だけをもちこんでもダメで、もちろん設置方法や設営も本人のプランに含まれる。作品だけを提出すれば卒業できるわけではなく、展示設営や運営も含めての「制作」になる。
当然、自分だけの作品をやっていてもダメで、同じ場所を共有する他学生との連携も必要になるし、所属学科内での共同展示作業も必要になる。普段使っている教室を展示会場にするので、机や椅子の移動、壁面の建て込み、展示作業、所属学科の展示プログラムやパンフレットの作成、終わればもちろん撤去作業、卒業式までのイベント各種管理運営である。

昔も今も、学生はわがままで自己チューなので、そこをなだめすかして、段取りを教えながら、自らの手は出しすぎずに、適度にお尻をたたくのが、研究室のスタッフの仕事である。 

2016年1月22日金曜日

雪かき

東京では17日の夜から雪が降り、朝方には郊外の自宅の近くはずいぶんと積もっていた。数日経った今日もまだ畑は白く見えるところが多い。
同居人は小学校勤務時代に気にしていたのは、雪と台風、である。小学校が「休校」になるかどうかは、朝の6時くらいの気象警報で決まるので、それを見てから出勤していたら、交通機関の遅延を考えると遅刻になってしまう。近所の児童はそんなこと関係なしに来たりもするので、たとえ休校であっても誰かが職員室に詰めていなくてはならない。雪ならついでに雪かきという肉体労働もセットなので、合羽長靴軍手持参である。こういう時は、たいてい勤務地の近くに宿をとって、自前で前泊である。
講師で行っている保育園は、シフトにあたっていない保育士も総動員で駐車場と周囲の雪かきに精を出していたらしい。送り迎え、子どもが歩くところはすっかり雪をかいてあり、同居人は感動していた。

なぜかというと、帰り道に寄った大手キャリア携帯電話の店舗駐車場は、雪をかいておらず、入れなかったらしい。近所に駐車して店に入ると、担当者が雪のため「お休み」で対応できないと言われたらしい。お客もごった返しておらず、カウンターの中で人待ち顔をしている姉ちゃんがいる一方で、店の周囲の雪はそのままである。「殿様商売」な印象で、早速キャリア変更の計画を立て始めていた。 

2016年1月20日水曜日

現場

結局塾の講師も先日辞める宣言をしてきた。
個人教授ではないので、一人の子どもを丁寧にフォローするシステムにはなってはいない。「先生」としては不完全燃焼になってしまい、フラストレーションがたまる一方だったからだ。
一方で、こういった学習産業というのは、「受験」という目の前にある人参だけを目標にして成立している面がある。それに適応できない子どもは、どこに行っても「落ちこぼれ」扱いされるのが辛かった、らしい。
もっとも、塾というのはそれが目下のセールスポイントで評価の対象になる。いくら落ちこぼれの子どもが出来るようになりました、と言ってもそれは数値として目に見える評価にはならない。

ともあれ、学校現場以外の「教育現場」を見ただけでも「社会勉強」にはなった、ようではある。 

2016年1月19日火曜日

教える

アルバイトの大学生講師は、問題集の答えを教える。、問題の答えを教えることと、考え方を教えることは違う、と同居人は言う。
担当していた子どもの一人は、問題を解くのにとても時間がかかっていたそうだ。大学生の講師にとっては、「とろい」子どもで、「早くやりなさい」と叱咤してしまうケースである。子どもの方は非常に慎重に答えを探していく性格らしい。納得できなければ先に進まない。闇雲に方程式や公式を丸暗記する、というやり方をしないわけだ。
一般的にはそれは「できない子ども」として扱われがちだ。同居人は小学校勤務時代にいろいろな子どもを受け持ってきたわけだから、そういう子どもと話をするのことは慣れている。問題集の進行は遅いかも知れないが、数週間でその子どもは問題集をやってくることが苦にならなくなったらしい。それまではなかなか問題集をやってくることがなく、勉強も「いやいや」だったのだそうだ。

教え方は子どもそれぞれに応じて変える方がいい、と同居人は言う。しかし、アルバイトの大学生ではその方法も知らないし、経験も無いので、自分がたどってきたケースでしか話が出来ない。採用試験から言っても、たいていアルバイトの学生はそもそも「お勉強が出来てテストの点が取れる」というタイプだから「なぜわからないんだ」という禅問答になるのだそうだ。 

2016年1月18日月曜日

合間

ほぼ個人教授、というのが売り文句の塾である。それは、言い得て妙なものらしい。
その塾で教えることは、あらかじめ子どもに渡されている問題集であり、それを答え合わせしながら質問に答える、というスタイルだったらしい。子どもの方は近所とは言え、いろいろな地域や学校から来ているし、使っている教科書も違うので、教える方の「簡便化」「マニュアル化」が図れる、というわけだ。先生の方には「解答集」があるので、それを見ながら答え合わせをすることになる。
ところが、子どもの方は案配良く問題集をやってくるとは限らないし、自分の学校で使っている教科書の進行とは違ったりする。目下の学校で抱いている疑問点は、問題集とは関係なかったりするので、質問しづらい。
先生の方は「担当制」ではないようで、先週とは違う子どもを担当していたりする。子どもの方は欠席、アルバイトの先生の方も都合により欠席だったりして、経営者はシフトに追われている。お昼頃に電話が来て、「今日は子どもが風邪で来ないので出勤しなくて良い」ことになったり、「今日は講師が一人休んだので、もう1コマやってほしい」という連絡だったりする。
そういう状況でも対応できるように「問題集」を使うのだろうが、いきなり初対面の子どもが、どういう性格で何を勉強しようとしているのか分からずに相手をするのは、大変である。

そのために、塾の方では「授業連絡」のような日誌を書くようになっている。ところがこれは休憩5分の間に「授業後の進行状況を報告する」ために、担当した2−3名の子どもそれぞれについてを書き、その上で次のコマで担当する子ども2−3名の「進行状況を確認」するために前任者の報告書を見て頭に入れる。その間にトイレと水分補給などをするというスケジュールである。3倍速で動かなくてはならない。 

2016年1月17日日曜日

ドレスコード

実地演習は、経営者相手に、実際の教授法を見せるもので、こちらの方はよろしかったらしく、早速来週から来てくれと言われたらしい。
行ってみると、ご同僚というのは、リタイアした女性教師の他は、ほとんどが大学生。教える方はドレスコードがあり、「スーツ着用」。青臭い大学生でもスーツを着れば「先生」らしく見えるのでは、という日本人ならではの制服信仰が見え隠れする。当人は小学校勤務時代も背広など着ていかないクチで、むしろ作業着だったりした。あわててネクタイと上着など引っ張り出した。

塾としては4−5コマほどの授業があり、1コマが60分で休憩が5分。まあ最初は慣れないからと、週に1日1コマからお仕事を始めた。 

2016年1月16日土曜日

試験

もとは小学校の先生なのであるから、まあ一番手っ取り早いのは家庭教師か塾の講師かということで、その後に求人情報を探して、応募したのは駅の近くのビルで営業しているグループ指導の塾である。最近はこういう塾が多いらしく、言われてみれば駅の近くには必ず似たような、いくつかのお教室がある。個人教授や家庭教師よりはお月謝はお安く、しかし集団指導ではないので行き届きます、というのが売り文句である。

出かけてみて初めて知ったのは、応募した塾はいわゆる「フランチャイズ」だったことだ。あちこちに同じ名前の塾があるのだが、経営者はそれぞれ違っていて、応募者も「フランチャイズ元」ではなく、ご当地の経営者が面接する。

さて、「採用試験」があるというので出かけていくと、同時に待合にいたのが大学生数名。最初にペーパーテストである。内容はいわゆる高校や大学受験に類するような問題で、同居人には歯が立たなかったそうだ。そりゃそうだろう、高校大学もエスカレーターだったので受験経験はなし、在学もすでに40年も前なので、教科書の内容など現在とは全く違う。こういうペーパーテストのスキルを教えるなら現役に年齢的に近い方がベターだろう。試験結果はさんざんだったそうだが、翌日は実地演習試験、というので出かけていった。 

2016年1月15日金曜日

パック

食品産業も「ブラック」とよく言われる職場のひとつではある。きつい労働によって、我々の消費生活は賄われている。

きつい作業ではあったが、いい社会勉強であると前向きに考えることにした。その後もいくつか単発のアルバイトなどしていた。どんなきつい仕事を請け負っても、コレに比べれば何のことはないと考えられるようになっただけでも良かったかもしれない。
ただ、やはりスーパーに買い物に行って、総菜売り場を通りかかると、ついパックの「製造元」の会社名を確認してしまうようになった。

総菜も、血と汗と涙の結晶である。

2016年1月14日木曜日

不振

同居人は、翌年春のクルージングの予定を立てたので、取り急ぎそのご予算に見合う現金を稼がねばならない。誰でも出来るお仕事、というのはあるのだが、あまりペイはよろしくない。手っ取り早く稼ぐには、人の働いていない時間に働くことである。同じ仕事でも、深夜労働の方が賃金が高い。

…ということで、次に挑んだのは、食品関係。「食いしんぼ」の考えそうなことである。年末年始ぶっ通し、早朝出勤、8時間労働、2週間の短期雇用、という条件である。仕事は、大手スーパーの総菜売り場に並ぶ食品作業である。ここのところ、新年と言えども、文字通り年中無休、あるいはお休みは元日だけ、というスーパーも多い。普通の社員やパートの働き手が年末年始の休暇をとる間のピンチヒッターという触れ込みである。厨房、という名前の「工場」に、出社が7時前、全身白衣で白長靴を着込み、出来上がった総菜のパック詰めがお仕事である。
…これが泣きそうなほど大変だったらしい。立ちっぱなしの作業、食品を扱うので室内は低温で寒い。流れ作業なので、トイレ休憩はない、あるいは行きづらい雰囲気、昼食もそこそこに夕方までまた作業。
初日は本当に帰宅するなり食事もそこそこに布団に直行、翌日は「行きたくないよ」と不登校児童のように泣きながら出勤した。ようやく2週間の勤務期間が終わると、使った白衣の洗濯とアイロンがけをして、給料を取りに行った。

働いて食欲不振など、食いしんぼな同居人には考えられないことであった。 

2016年1月13日水曜日

一石

同居人が定職を退職したのが数年前、「月給取り」ではなくなったわけだから、黙っていても預金に定額が振り込まれなくなった。人間働かなくては現金は手に入らない。というわけで、まだ体力も目下の預金残高も余裕がある時期に、いろいろな仕事をしてみようと思った、らしい。ついては、翌年春にクルージングの予定を立て、そのご予算に見合うだけの小遣い稼ぎをしようと考えた、らしい。いくつかの求人情報を見ては、履歴書を作成して面接に出かけていった。

まず最初にやったことは、運動不足解消の「ポスティング」である。小遣い稼ぎと体力作りと一石二鳥と考えた、らしい。不動産会社のちらしなどを、郵便受けに直接、投函して歩くのである。居住地域でやるにはあまりにも目立つので、隣の駅のいくつかのご町内をご希望、何度か出かけていった。
ご家庭としてはあまり喜んで受け取るトコロは少ないので、「チラシお断り」などという郵便受けもある。マンションなどでは、配布しているのが目立つし、犬に吠えられるし、いつもお散歩日和とは限らないしで、お散歩以上の「やりがい」があまり感じられなかったらしい。ある日、出かけていった当日が東日本大震災で、ポスティング中に地震に遭遇、隣の駅というのに帰宅に何時間もかかり、それ以来やめてしまった。

まあそれなりに三日坊主ではある。 

2016年1月12日火曜日

確保

どんなお仕事であれ、やってみなくては分からないことがたくさんある。若い頃はどんな無理なことでも乗り切れる、と思ってしまうところがあり、回りに無謀、と言われても、そんな業界に入っていくこともある。

勤務校でやっている授業が「映像」関係なので、当然のようにそういった嗜好の学生が集まってくる。ゲーム業界はもとより、アニメ、映画、テレビ局、映像アーティスト、などというのが代表的な「憧れの職業」である。業界では「即戦力」が好まれるので、そういった方向を目指す若者は、専門学校を目指すことになる。
特にこの業界は、ずいぶんと以前から「下請け」な体質である。お仕事の量は大量、作業期間が短く、テレビシリーズなどになると、とても予算が小さくなる。当然のようにしわ寄せは下請けの人件費に影響する。例えば、ここ10年ほどは、アニメーションもデジタルな作業になった。だから、作業はデータのやりとりで済むようになった。日本国内の人件費では賄えなくなって、外国への下請けも行われるようになった。ただし、国内同様のクオリティが担保されるとは限らないので、外注したが納品後国内で再調整が必要になるケースもある。だから国内の作業員もある程度の数は確保されているのだが、作業としてはかなり大変なので、「入れ替わり」が激しい。だからこそ、毎年一定数の「求人」がかかる。

「夢の世界」は、血と汗と涙でつくられている。

2016年1月11日月曜日

業界

もちろん好きなことだから、数年は「若い」がゆえの体力と根性で乗り切ることができる。会社側としてはこうやって若い人を淘汰していくことで業績を伸ばしているという側面もある。

ファミコン世代以降の学生は「ゲーム業界志望」というのが多かった。自分が身近で楽しんだ世界なので、作り手に回りたいと思うのだろう。当時のゲームメーカーは、毎年多くの学生を新卒で雇用していた。油絵や彫刻などはもとより、一般文系や理系、デザインやプログラミングなどとは全く関係のないジャンルの学生も雇用されていた。
とあるメーカーに就職した卒業生である。家庭用ゲームだけではなく、アーケードゲームなども作っていたメーカーに就職した。最初の仕事はどの新入社員も「外回り営業」である。そこである程度の実績ができると次のステップへの権利が得られる。新しいゲームの企画である。採用されたら、市販化するための企画として採用される。営業をしながら、週に10本企画を提出、数ヶ月以内に採用されなければならない。企画が採用されれば、晴れて「制作側」である。採用されなければ、永久外回り営業である。採用されるのは、年に何本か、ということだった。作りたいと入ったのだから、作れなければ、会社にいる意味を見いだせない。採用されないことが見えてくると、いまどきの人は、意外とさっさと辞めてしまう。メーカーは翌年、新たな社員を雇用する、というサイクルである。
辞めたときには、既に「新卒」ではないので、就職したければ、中途採用してくれる企業を探すことになる。ゲーム業界では「若さが命」のようなところがあり、中途採用はそれなりの経験やキャリアがなければ難しい。外回り営業だけではキャリアにはならない。
そうやって、2カ所目は、全く異なった業種や職種で飯を食う、ということになる。

私などの世代は「喫茶店のマスター」が定番だった。田舎に帰って家業を継ぐ、という友人もいた。いまどきの人はどうかというと、数年前に卒業した知人の娘は、油絵学科卒業大手ゲーム会社就職翌年退職現在ホームヘルパー。20代半ば過ぎ、早くも人生経験豊富である。 

2016年1月10日日曜日

戦う

ブラック企業、ブラックバイトというのが、メディアで目についた2015年だった。社員を使い倒して放り出す、というのは、普通の社会ではあまり考えられないことなのだろうが、デザインや映像の現場では以前から聞くことがあった。好きなことを仕事にすることは、ある意味で幸せなことなのだろうが。

私が大学で助手をしていた頃は、バブルな時期でもあった。仕事はモーレツだったがペイはいい、という職種や業種もあった。
学生がよくあこがれていたテレビ業界の話である。
ポストプロダクション、というテレビ番組制作下請けの現場である。月曜日の朝、ボストンバッグを持って仕事場に行き、土曜日の深夜にバッグを持って自宅に帰る。日曜日にバッグの中身をコインランドリーで洗濯乾燥して、月曜日にその中身を詰めて仕事場に行くのである。職場には「仮眠室」があり、蚕棚のように2段ベッドが並んでいる。月間残業時間累計は、通常勤務時間を遙かに超える。ずいぶん以前のコマーシャルのコピーに「24時間戦えますか」というのがあった。もちろん「戦います!」な状態である。ペイはよかったが、金を使う暇がない。若い人がそれを貯めるか、といえばそんなことはなく、若造のくせに、ブランドバッグやファッション、ホステスが侍るような高級クラブにブランデーのボトルキープなど、妙な無駄遣いに走る。食事に行く暇がないから、高カロリー高脂肪の店屋物か、若い人のことで毎日ラーメン屋通いである。そんな働き方なので、数年で体を壊す。「しばらく休みます」な職場ではないので、当然のように代替社員を探す。お休み社員に給与を払う余裕はないから、辞めてゆっくり養生した方が、と人事担当者からはそれとなく言われる。医者からはしばらく休養、モーレツな仕事は辞めなさい、などと言われている。休職できそうな雰囲気ではないので、辞表を出す。若いから退職金は雀の涙、ちょっと休養して医者通いしたり入院したりしたら、たちまち貯金は底をつく。

すべてがそういった現場ではないし、ある程度の経験で少しずつ働き方が変わる会社もある。こうやって会社を渡り歩きながら、少しずつステップアップしたり、起業したりする人もいた。全員、ではないのだが。 

2016年1月9日土曜日

ファン

さて、現在は、自分の家ではなく、著名人や文士の墓を探して参ることが、ある種のブームらしい。そのようにして歩く人を、「墓マイラー」というのだそうだ。
東京の街歩きを授業でやっているので、数年に1件ほど、墓関係のコンテンツを考えつく学生がいる。ただし、たいていの場合は元文学少年や少女である。

勤務校の近くには玉川上水がある。玉川上水と言えば、太宰の心中。現場は、もう少し下流、である。私の学生の頃は水を通していなかったので、ずいぶんと深い「谷」だったのだが、当時は水量もあっただろうし、流れもそれなりにあったのだろう。太宰の命日、桜桃忌の頃には、三鷹のお寺に参るファンが多い。
以前受け持っていた学生も太宰好きだった。授業ネタにしようと、写真を持って来た。「太宰の墓なんです。見つけました!」と勢い込んでいる。ファンならばたいてい知っている場所だし、秘密の場所でもないので、見つけるのはあまり苦労しないはずだ。ただ、学生にとって墓参りというのはあまりしたことがないらしく、墓地そのものも面白かったようだ。彼女の写真を見ると、太宰の墓以外の墓石もいくつかある。「面白いでしょう」、と本人はいたく得意である。「昔の人の墓はナントカ家ではなく、個人名なんですねえ」。まあそういうのも、ある。「面白い名字もありましたー。ほらこれ、しんりん、たろう、の墓。しんりんさん、て名前、聞いたことないですー」。

…彼女は「太宰だけファン」であったようだ。 

2016年1月8日金曜日

公園

一方、同居人の墓所は名古屋である。同居人の母親が名古屋の人である。
義母の家は尾張藩の藩士だったそうだ。お役目は「台所」方面、お城に納品する食材の調達係である。同居人の食い意地が張っているのは、血筋である。
明治になってからは、武士の商法で、映画館を作ったり、豆腐屋をやっていたりしたそうだ。商売はうまくいかず、結局同居人の祖父の死去で名古屋の家はたたんだそうだ。義母の生家だったところは、今はテレビ局が建っている。
名古屋は戦争で市内を焼かれた。そのため、市街地は計画的に作り直された。作り直すにあたって、「墓地」は郊外に集団移転した。東山動物園の近く、平和公園というネーミングである。広大な丘陵地が更地にされ、墓石だけが並んでいる。壮観である。宗派ごとにエリアが分けられ、そのエリアでお寺ごとにまたエリアが分けられる。丘陵地なので、段々畑のように墓石だけが並ぶ。墓所は砂利が敷き詰められ、雑草すら生えていない。夏は照り返しがきつく、日陰になるような木もない。冬は吹きっさらしで、風よけになるような植え込みも東屋も少ない。

今はもう名古屋に親戚もいない。檀家になっているお寺も、現住職には跡取りがおらず、次の住職は全く知らない人が来るらしい。しばらくうちに、こちらは引っ越しすることになるかもしれない。 

2016年1月7日木曜日

こころ

染井は古い墓地なので、いろいろな墓石があって、それを眺めて歩く。
海軍大将とか、勲一等とか、いろいろな肩書きのついた墓石がある。ヨーロッパ風に、「家」みたいなものも数件ある。外人墓地もあって、変わったかたちの石もある。真新しい墓石は、今の流行なのか小さなもので、「心」などと一文字彫ってあったりする。個人的には赤塚不二夫のキャラクター、「ココロの親分」を連想してしまうので、ビミョーな感じもするが。

墓地の片隅に空き地があり、ベンチが置いてある。そちらから、今日は小さな子供たちの声がした。行ってみると、近所の保育園の子供と保育士が鬼ごっこをしていた。 

2016年1月6日水曜日

染井墓地の入り口には花屋がある。
染井にはいくつかの入り口があり、そこにそれぞれ花屋が構えている。墓所には「かかりつけ」の花屋があって、たぶんずっと、最初から、お掃除などをお願いしている。
私が通うようになった頃は、先代のお母さんが店番だった。亡くなった旦那さんは詩人で、サトウハチローに師事していて、待合に詩集がたくさんあった。お母さんは明治大正の人で、常に和服で、鬢を大きく膨らませた結髪だった。
お母さんがだいぶお年を召して、立ち居ぶるまいが少し不自由になっても、店の奥にちんまりと座っていた。
今は代替わりしてお嬢さんだった人が、店を切り盛りしている。今のお母さんである。その息子もずいぶん大きくなって、店を手伝っている。

40年以上通っているが、花屋の佇まいも内装も、全く変わらない。中の人が少しずつ代替わりしていって、時が変わっていくのがわかるだけだ。 

2016年1月5日火曜日

墓と言えば、である。
祖父母に連れ歩いてもらっていたこともあり、墓参りは苦にならないタイプである。たいていは、墓参りの後の余録、どこかに寄ったりすることの方が楽しかったりした、ということもある。
祖父母の家の墓は染井の都営墓地である。明治の頃に墓地を開設されてすぐに借りていたらしい。借りた当時の図面が残っていて、100坪超と自宅の地所より広い。昭和の初期に親戚に分けたりなどして、私が通うようになってからはほぼ半分以下になっていた。それでも30坪くらいはあり、大きな桜の木が2本あった。地名に由来するソメイヨシノである。遠くからも見えるほど大きなきだったが、ソメイヨシノは短命な樹木である。大きな枝が折れ、根で墓石が傾き始め、ある年台風でかなり痛んでしまった。桜の木を「始末」せざるを得ず、まあよい機会なので、と墓石を整理してひとつにまとめ、数坪の地所にした。

祖母の納骨はカトリックだったので神父さんに来てもらった。豪放磊落な神父さんで、祖母がいたく「ファン」だった。学生時代は授業に行かずに映画館に入り浸りだったことや、はす向かいに二葉亭四迷の墓があって四迷の話を、待ち時間にしてくれたことを思い出す。

2016年1月4日月曜日

風景

正月に町中を歩いていると、いつもと違う風景を見る。
一番違うのは、お寺神社お稲荷さんなどが「初詣」仕様になることである。大きなお寺や神社だと、参道に屋台が並び、大きな賽銭箱が用意される。小さなトコロでも、新しい注連縄と松明やぼんぼりなどがつけられる。普段と違うので、ちょいと目につくようになる。いつも何の気なしに通り過ぎるところに小さな祠があったり、お寺への入り口があったりする。
お寺だと、本堂にお参りだけではなく、お墓参りもしていたりする。松の入った大きな花が供えられている。年の初めの風景、である。 

2016年1月3日日曜日

三が日

2016年はとても暖かいお天気で始まった。

同居人があまりしきたりとか、風習とかにこだわらない人なので、あまり正月らしいこともなく過ごすことになっている。正月らしいのは、元旦に実家に挨拶に行くのと、おせちを食べておしゃべりをするくらいだ。そもそも2人とも学校関係なので、いわゆる「年度制」、4月始まりで生活していて、区切りという気分がないからかもしれない。
正月が終わると早々に授業があるので準備をしていたり、もちろん採点とか新年度の準備とか仕込みとか、いろいろやることがあり、それは昨年からの引き続きである。

同居人はお勤めの頃は、年賀状の作業というのが一大イベントだった。友だち、先輩後輩恩師同僚に加えて、教えた子ども教えている子ども、その子どもたちのご両親なども含まれる。一番多かったときで、3−400枚程度を年内に出す。子どもとご両親関係は、「年賀状のお返事」として出すことになる。これが多かったときで200枚程度、だから、正月3が日はお返事書きが一仕事である。

同居人は退職して5年目、同僚はすでに数が少なくなり、恩師先輩もそろそろ少なくなる。教えた子どもも、そろそろ大人になって、いつまでも小学校の先生に年賀状を出すこともなくなる。今年は、構えていたのに、来る数も少なくて、かなり「拍子抜け」だったようだ。多ければ多い、で大変だと文句を言うのに、少なければ「寂しいなー」などとぼやいている。 

人間とは、ちょっとわがままである。