2016年7月22日金曜日

いろいろ

もう少し学生数の多い大学だと、もうずいぶん以前から「配慮願い」というのが出ていた。健康上、あるいは心身のさまざまな障がい、ご家庭の事情など、配慮の理由はいろいろである。今日では、通常つまり従前通りの授業というスタイルには向かない学生さんも入学してきている、ということである。
大学としては、そういう学生さんも幅広く受け入れますよ、というアピールも出来るだろうが、対処するのは現場である教室。で、しかもこちとら一介のパートタイマー、非常勤、もちろん「配慮手当」などはない。授業は講義と違って実習なので、肉体労働であったり、グループワークでコミュニケーション活動を伴ったりもする。どんな「配慮が必要な」学生さんでも幅広く、というわけにはいかないこともある。
そういった事情も含めて、通信教育という作戦も考えられるだろう。もっと単位の流動性も配慮できるといいなあと思う。入学した大学で卒業するのではなく、さまざまな学校で単位を取り、それらを集めて卒業できる制度、というものがあれば、学生さんとしてはもっと多様な、あるいは自分に適したスタイルの授業を選択して学習できるのではないかとも思う。午前中に病気で出席できないことが多い学生さんなら、ある程度の単位は通信課程でまかなえるかもしれない。

まあ実際には、制度上そう簡単にはいかないので、こういった「配慮」が必要なのでもあるだろうが。 

2016年7月21日木曜日

配慮

同居人の授業は、教育学系の講座、つまり教職をとる人は必修、である。こちらの授業は14回でワンクール、2単位の講義、試験付きである。規定で言えば、10回の出席で、試験を受ける権利を取得する、というやつだ。100人前後の受講生がいて、いまのところ、ほとんど来ていなくて、投げ出しているのが7−8名、やはり資格取得には学生さんは熱心である。「デモしか先生」という言い方があるが、数少ない就職先として、「先生」はセーフティネットでもあるのだろう。

ところが先週になって教務課から紙が2枚ほど回ってきた。「先生にご配慮のお願い」という紙である。
1枚は「体調不良で出席が出来ないことが多いと本人から申し出があり、出席日数の配慮をお願いしたい」、もう1枚は「体調不良で出席が出来ないことが多いと保護者から申し出があり、以下同文」。診断書の添付も裏付けもなく、本人あるいは保護者の一方的な言い分で「配慮」しなくてはいけないようである。
こうなると、どんなに遅刻が多く、欠席していても、あるいはもしかしたらどんな理由であっても、教務課に本人が「体調不良でした」と届ければオッケー、欠席は免除、ということになる。なんだこれは、状態である。教務課は本人の言うことをそのまま書類にして回しているだけのようだが。
そもそも、授業に来なくてもいいのであれば、学校に行く意味があるのだろうか。

もっとも、出席していなければ、試験の解答などできないので、どっちにせよ落ちることにはなる可能性の方が大きいのが、同居人の授業である。「出席」すれば単位が取れるわけではない。

人生、そんなに甘くはないことを教わるのも授業である。 

2016年7月20日水曜日

ご相談

ところが、別のクールの授業でやはり遅刻常習の別の女子学生が発生した。
「体調不良のため出られない」と友だちを通して連絡することもあるが、遅刻ばかりか欠席も多い。最終講評日の後、あまりにも出席日数がはかばかしくないので、注意をしたところ、しくしくと泣き出し始めてしまった。いわく、偏頭痛持ちで治療中なのだが、朝は調子が良くないことが多く、どうしても起きられないと言う。うーむ、そういう状況なら、午前中の授業に出席できない恐れの方が高くなるわけだが、大学のシステムとしては午前中の授業に出席できなければ進級できないようになっている。通学して続けられるかどうか、じっくり医者と家族と話してみてはどうか、と言うと、またしくしく。

いやあ、泣かれても、遅刻が出席になるわけではないからなあ。ともかくおうちの人とお話ししてきなさい、とその日は帰ってもらった。 

2016年7月19日火曜日

病気

小学生は8時前には校庭で遊んでいたりするものだが、午前9時の授業開始時に大学生は遅刻する。
他のクラスの話だが、遅刻常習の女子学生がいた。あまりにも遅刻するので注意すると、「朝、起きられない病気なんです」。まあそれでも彼女のためだけに授業を遅らせるわけにはいかないので、当然のように本人の作業は遅れがちになる。大学として対処すべきなのかどうかは、担当の研究室とも協議しなくてはならないので、診断書を持ってくるように、と話したそうだ。1クールの授業が終わって、次のクールでは、何事もなかったかのように遅刻をしないようになった。

病気、というのは、五月病のことだったようだ。 

2016年7月18日月曜日

4人分

担当している授業は3週間、つまり18日で1クール。これで単位を出している。
大学の規定としては、3分の2以上の出席によって、単位取得のための試験受験、あるいはレポートや作品の提出の「権利」を持つことが出来る、ようになっている。つまり、出席だけしていてもダメ。出席してなおかつ試験を受ける、あるいはレポートや作品を出す、だけでもダメで、合格点を取らなくてはいけない。つまり、皆勤賞でもレポートが白紙であれば、不合格、というわけだ。
面倒くさいのが遅刻、早退の扱いである。勤務校では先生によっていろいろなパターンがある。遅刻3回が欠席1回に相当するとか、授業内30分以内が遅刻でそれ以降は欠席扱いなどである。実技実習だと、肝心要の説明が授業冒頭にあって、作業を始めることになるので、途中から入ってきても訳が分からない、という状況がままある。
写真の暗室実習ではフィルムの現像などもあって、途中で出入りは出来ない完全暗黒の中の作業、ということがある。作業開始後、フィルムの定着が終了するまで30分以上は缶詰状態なので、遅刻したら参加出来ない。

担当している授業では暗室作業こそないものの、グループ作業なので、一人が10分遅刻すると、残りの3人も10分待ちぼうけを食らう羽目になる。本人は10分の遅刻と思っているかも知れないが、残りの3人も遅刻同然、ということになる。遅刻してきたら積算して40分の遅刻、という計算になる。 

2016年7月17日日曜日

宿題

さてそろそろ2学期制の大学では前期授業終了の頃合いである。
担当している学科では現役の学生が8割越え、というのが大学入試対策室の統計でやっとこさ判明した。どうりで教室にはいるが、意識は教室の外側、という「単にいるだけ」という学生が増えているのが納得できる。教室に来ているのが「義務」でもあるかのようで、覇気がない。
授業終了時に「夏休みの宿題があるのか」と聞きに来た学生がいた。「そんなものはない」と言ったら、喜色満面「やったー、勉強から解放される」と小躍りしていた。いやあ、それは反対だろう。「やったー、自分で勉強できる」と小躍りするのが大学生ではなかろうか。

一方で夏休み明けの授業で「夏休みは何をしていたか」と聞くと、概ね「ぼーっとしていた」「田舎でのんびり過ごした」というのが増える。大学というのは思いっきり勉強できる身分、ではなかったのかと、がっくりする。 

2016年7月16日土曜日

オチ

私が教わった映画監督の基本的なスタンスは、「死にオチなし」だった。

死ぬことは、人生では大きな出来事のうちのひとつであり、それだけで「ドラマチック」だからである。シナリオを書く上では「ドラマチック」な展開を目指すものだが、そもそも「ドラマチック」な「死」という要素を持ち込めば、どんな下手くそなシナリオでもドラマチックに見えるからだ。
一方で、どんなに辻褄が合わないシナリオでも最終的に主人公が死ぬことで結末にしてしまう、という作戦がある。これも、あまりよろしくない展開方法のひとつでよく例に挙げられる。連続テレビドラマなどでは、視聴率低下のための打ち切り、俳優の降板などでよく使われる作戦である。

同じようなオチのつけ方に「夢オチ」というのもある。どんな荒唐無稽な設定と展開でも、「ああ夢だった」で終わらせるものだ。

どちらも「安易に使うな」という意味で、「出来れば禁じ手」。「芝浜」「邯鄲の夢」などという夢オチの名作もあるが、やはりこれを越えるものはなかなか出来ないものである。 

2016年7月15日金曜日

憧れ

さて、今年のブームは「死」だった。
死にオチ、殺しオチ、ゾンビ、自殺、死人がらみ、などである。
昨年までは、アイディアとしては出ていても、実際の作品にまではならないことが多かった。ドラマや映画で見ているような「血糊」は、入手しにくかったり、高価だったりした。死人を見たこともないのに死体のふりは出来ないので、どうみても「死体のふりをしているひと」になってしまう。
しかし今年はそんなことをものともせずに「死にオチ」が多い。どのクラスでも必ず出現するプランである。現在見ているクラスでは、「人の殺し方」というコンセプトの作品企画さえ出ていた。

人が死ぬことは日常では経験しにくいことなので、「憧れ」ているのか。あるいはテレビやゲームで刺激的な描写が多く「慣れ」ているのか。ちょいと「死んでみよう」とでも思うのだろうか。子どもの自殺は、「リセット」なのだと聞いたことがある。これで「おしまい」、リセットなし、だとは思えない、のかもしれない。

勤務している学科の創設時の入試に、三好達治の「雪」を映像とするためのストーリーボードをつくる、というのがあった。簡単な絵コンテ、という感じで、数カットの構図をスケッチして、演出の方法を記述する、というものである。詩そのものの解釈と、それを映像化するための具体的な被写体を描くわけだ。たいていの受験生は、雪のつもった民家、いろり端、お母さんの添い寝、といった状況を描く。
その中に「墓石」を描いたものがあった。夜の墓地。墓石に雪が積もる。カメラがパンすると、隣の墓石にも雪が積もっている。雪は高く積もり、崩れ落ちる。墓碑が読み取れる。「…家太郎之墓」。カメラがパンすると隣の墓碑もかすかに読める。「…家次郎之墓」。カメラはズームダウンして、二つ寄り添うように並ぶ小さな墓石。
絵は上手かったのだが、結局点数があまり良くなかった。技術ではなく、コンセプトに対しての配点だったのだろう。

たまたまその後、小学校で国語を教えている先生と話をしていて、三好達治の話になった。その当時受験生の世代は、国語の教科書でこの詩を習ったのだそうである。文法的にはどうか、と言う話は別にして、学校ではもう少し牧歌的な状況として教えているのだそうだ。雪、太郎と次郎、夜、をキーワードに、イメージとして風景を膨らませる、ということが教材の目的だそうである。どちらかと言えば、雪の深い田舎や、降りしきる雪の風景、いろり端、お母さんとの添い寝、などを挙げるのだそうだ。「墓石とはなあ」と笑われてしまった。教えた側としては「想定外」なのだろうか。 

2016年7月14日木曜日

紙袋

自己紹介と限らず、数年前まで良く出てきたのが、いわゆるPOV、主観ショットである。
紙袋の底にビデオカメラを仕込み、レンズの前面だけ穴を開ける。紙袋をぶる下げて構内を歩く。
出来た作品は、「学内に住んでいる猫の視点」で描かれた「猫の1日」である。

いやいや、単にローポジションの手ぶれ画面にしか見えない。なぜか、と言えば、そのブレブレの画面は「猫の視点である」という前提が伝えられていないからである。その上で言えば、猫がこんなふうに、きょろきょろと左右を見回しながら歩くのか、いやいや猫ってどちらかと言えば「近眼」だし、色覚もずいぶんと違うのではなかったのか、と考え始めると、「単にカメラがとらえている画像を提示しているだけ」に見えてくる。

「吾輩は猫である」という小説がある。文章では一人称の文体というのが成立するが、映像では成立しにくいのである。

2016年7月13日水曜日

作業中

他にもここ数年で多くなっているのは、ラップトップを机上で開いて、キーを叩き始める、というものだ。

女子学生が教室で机上のラップトップに向かって、速いピッチでタイピングをしている。途中であくびをしながら伸びをして窓の外を眺める。またタイピングを始める。

机の上にはラップトップと缶コーヒーだけがある。こういうのはたいてい「課題をしている」という状況を示していることが多い。何の課題か、は設定されていないので、ラップトップの画面は映されない。
彼らの普段の生活はそうなのかもしれないが、どう見ても、タイピングの練習以前、ゲームをやっているようにしか見えない。やけに速いピッチのタイピングなので、文章をひねり出している、感じに見えない。

そういえば、同居人が仕事で行っている中学校に、ある中年の先生がいるそうだ。ずーっと職員室にいてラップトップに向かってポチポチ。しばらく画面をにらんでまたポチポチ。仕事熱心なのかと思ったら、あだ名は「ヤフーオジサン」だと他の先生が教えてくれた。見ているのはヤフーのトップページで、個人的なことでネットサーフィンばかりをしているらしい。干されているのかどうかは分からないが、「窓際族」の新しい生態のようである。 

2016年7月12日火曜日

イヤフォン

「趣味、嗜好」で多いのは「音楽鑑賞」。ただし、いまどきの学生は、ヘッドフォンとかイヤフォンで、スマホかデジタルプレーヤーをご使用である。

ベンチに座り、耳にイヤフォンをツッコミ、身体でリズムを取り始める。動きがだんだん大きくなり、踊り出し、どこかへ行ってしまう

これもステレオタイプな描写で、イヤフォンが耳に突っ込まれると同時に、映像からノリのいい音楽が流れてくる。サイレント仕上げの場合は、リズムや踊りがそれなりに大きなアクションになる。
前者の場合は、どうしてもヘッドフォンプレーヤーのコマーシャルの焼き直しな演出である。映像は客観的だが、効果音は主観的、つまり本人だけが聞いている音楽であって、決して「派手な音漏れ」ではない。実際の生活の中では、どちらかと言えば後者の状況の方が「見慣れた」光景である。

どちらにせよ、学生同士だと「ヘッドフォンもしくはイヤフォン」イコール「ノリのいい音楽を聞く」という図式になっているようで、これも暗黙の了解のようである。これが音楽学校の学生さんが聞いているものだとクラシック、だろうと思うと、友人は邦楽専攻なので聞いているのは常磐津、同居人のプレイリストには「いや〜ん、ばか〜ん」。常磐津で「ノリノリ」だとすごいなあと思うのだが。 

2016年7月11日月曜日

中毒

「行動記録」の他に多いもの、と言えば「趣味、嗜好」である。

十数年前は、読書好き、ピアノは10年習った、実は黒帯、といった「得意技」、隠し芸大会のような講評会だった。いまどきの若者、と言えば、スマホ中毒、音楽中毒、テレビゲームや漫画、アニメ好き、と言ったところで、クラスに数名同じネタがかぶり、「自己紹介」とは言いにくい状態だったりもする。特に「いまどき」だと、映像上の表現もほぼ似たり寄ったりになる。毎年100本近く見ていると「ああまたか」というのが出てくるようになった。どうしてもステレオタイプになりやすいネタである。

授業中にスマホ、食事しながらスマホ、歩きながらスマホ、中庭のベンチでスマホ

特にスマホ世代でない世代から見ると不思議なのは、「スマホでぽちぽちしている」という描写はするのに、「スマホで何をしているのか」という描写が少ないことである。「歩きスマホしている」のは地図を見ていないと全く歩けない「とんでもない方向音痴」なのかもしれないし、授業中は辞書を引いているのかもしれない。もっとも、学生の作品ではこんなところのバリエーションでしかない。むしろ先日の新聞で読んだ、「電車のホームで歩きスマホをしていて、スマホをホームから線路に落とし、飛び降りて拾おうとして電車にはねられて大けが、無傷で拾い上げたスマホの画面を眺めてすりすりしながら救急搬送された」ネタの方が、「いかにも今日的」ではある。 

2016年7月10日日曜日

眠い

「行動記録」で多いもの、と言えば、「眠いネタ」である。

授業中によく眠る、いつでもどこでもすぐに寝られる、寝坊癖がある、などがよく出てくる。
「自己紹介」というお題なのに、「私はよく眠ります」というのは大学生としてはいかがなものか、というツッコミはこの際置いておく。親に学費を出してもらっているのに「授業中によく眠る」のはいかがなものか、というツッコミも、この際置いておく。映像として伝えることに、「眠る」というネタを選ぶのはなぜか、という疑問もこの際置いておく。たいてい20余名のクラスで2−3名はこのネタである。

教室の机に座り、ノートを開いている。シャーペンでノートに文字を書いている。文字を書くスピードが遅くなる。舟を漕いでいる。頭が机にぶつかる。

30秒だとこんな構成が多い。映像では、習性や癖は表現しにくい。映像では、固有名詞の特定のアクションを伝えるからだ。特定の学生が授業中に寝始める、というアクションを伝えているが、それは「授業中に居眠りする」癖までは伝えない。講義で寝る、デッサン中にも寝る、体育館での授業中にも寝る、などという「パターン」を見せなければ、習性には見えてこない。難しいのは、自分では見えていないだろう「寝姿」と、寝入る「アクション」である。たいていの場合は好意的に「眠たいんだね」と理解してあげられるのだが、ときどき、どうしてもこれはナルコレプシーにしか見えない、というのが出てくる。休憩中食事中、あるいはトイレの個室の中でも寝てしまうネタを使っていたりする。それは「習性」や「癖」を通り越して、「病気」に見えてしまう。 

2016年7月8日金曜日

大食漢

行動記録の中でも「食べる」ことは、取り上げたいもののひとつのようである。
自己紹介、というテーマの課題だと、たいてい「食べることが好き」、あるいは「私の好きな食べ物」といったコンセプトの作品が出てくる。
生理的現象で共感が得やすいということは、本能的に知っているのだろう。それだけに、他者の何と共感できるのかということは曖昧なまま、表現に走ることが多い。

教室内で女子学生がスパゲッティを食べる。カツ丼を食べる。カレーライスを食べる。

場所は同じ教室内で、衣装もメイクも同じである。
どう見ても「大食漢な女子」あるいは「過食症」なのだが、本人的には「食べることが好き」で「普通に小食」だそうである。

映像で表現するときには「時間」と「場所」の情報を的確に提示する。場所が同じで衣装が同じであれば、時間的に継続していると認識される。これがスパゲッティを教室で食べる。カツ丼を学食で違う衣装で食べる。カレーライスをラウンジで違う衣装とメイクで食べる。そうすると、それぞれ全く違う場所と日時に見えるので、いちどきに「三食平らげている」という認識にはならない。

これも、「つくること」を通して知る、映像の読み解き方の基本である。 

2016年7月7日木曜日

走る理由

30年来の定番は「行動記録」である。
テーマが自己紹介だろうが、フィクションだろうがノンフィクションだろうが、必ずクラスに数名が同じネタを使う。

学生が校門から走ってくる、中庭を走り、階段を駆け上り、廊下を走り、ドアの前に走り込む。

本人的には「遅刻」なのだが、観客的には「単純に走っているだけ」である。
映像ではかように、本人的に「つもり」なのだが、ストレートには伝わらない、というものがけっこうある。走ってくるのは「学生」であり、走っているのは「学校内」であり、「1分後に授業が始まる」ということが分からないと、「遅刻しそう」ということは伝わらない。トレーニングなのか、隣の猛犬に追いかけられているのか、はたまた走る先にあんパンがぶる下がっているのか、提示された情報だけでは分からない。
実はそういうことは、役者の行動以外に提示されている情報から読み解く。だからオーディエンスに読み解かせるためには、的確な情報を提示しなくてはならない。それは、作ってみて初めて気付くことのようだ。

「走れメロス」という小説があるが、なぜ走っているのかを文脈として伝えているから小説になるのである。理由が分からなくては、単に「走っているメロス」だけを見せているだけだ。 

2016年7月5日火曜日

告白

ブーム、と言わず、たいてい出てくるのは「恋愛」ものである。男女共学、その年代はそれしか考えることがないからである。
10年ほど前だと、男子学生と女子学生のなれそめ、みたいなものが「ブーム」だった。階段ですれ違う、ものを落として拾ってもらう、宿題を見せてもらう、レポートを出しに行ってもらう。自分たちの生活の延長なのだが、いかんせん、制作している本人たちは恋愛中ではないことが多く、リアリティがない。どうしても自分たちが見ていたドラマや映画の「なぞり」になってしまう。描き方がステレオタイプ、である。
そのうち、自分たちの恋愛体験をそのまま描こう、というのが「ブーム」になった。

男子学生が学食にいる。携帯電話がポケットで鳴る。電話を見るとメールが来ている。「好きよ、慶子より」。男子学生はぽちぽちとボタンを押す。「僕もだよ。太郎」。笑顔である。

実際の体験がそうであったのかもしれないが、映像としてはあまり「面白い」とは言えない。学食の学生と携帯電話のディスプレイしか画面では出てこないからである。

トシをとると疑心暗鬼になるのか、人間ひねくれてくるのかよく分からないが、わたくしほどになると、最初のメールを「慶子」本人が送ったものかどうかすら疑う。慶子の携帯電話をお母さんが取り上げて打っていたらどうするのか。いやあ、お父さんかもしれないなあ。そういえば、おうちに電話、という時代は、よく妹や姉が本人の振りをして声色で返事したりしたよなあ。その傳で、一家全員でうぶな太郎君をおちょくっているのではないか。

今で言えばオレオレ詐欺とか、なりすまし詐欺にすぐひっかかっちゃう太郎君であった。 

2016年7月4日月曜日

ブーム

現在担当しているクラスの学生は概ね同い年、離れていても2−3歳くらいである。生活環境があまり変わらなければ、受け取っている情報もそうそうは変わらない。実技実習なので、作品をつくるためのアイディアやネタだし、と言う作業は、どうしても似たり寄ったりになってしまう。1−2年のスパンでは変わりはないような気がするが、3−4年程度の幅を考えれば、確かに「傾向」というのがある。作品のアイディアやネタというものは、真っ白なアタマの中から、忽然とわき出すものではなく、彼らが生活していた環境で得たものに根ざすからだ。

この授業を始めた頃の「流行り」は、「世にも奇妙な物語」だった。テレビで良く見ていたのだろう。視聴率も高い、単発のシリーズものだ。現実の世界とはちょっと違う世界のエピソードを語る、という方式である。だから例えば、「人は必ず後ろ向きに歩く」とか、「何かの合図で誰かがどうにかなる」といった設定があって、その上のエピソードが語られる。それを子ども時代に見ていた学生さんたちは、それをやってみたいものらしかった。類似の企画案がたくさん出てきた。「猫が先生をしている学校」「誰かがヘッドフォンで音楽を聴くと全員が踊り出す」「家を出るときに右足から出ないと不幸なことがおこる」といったものだ。
ところが、作品は90秒程度の尺が条件である。エピソードを描くためには、その前提となる「世界観」を最初に伝えなくてはならない。結局、世界の設定を描写して時間切れ、そうでなければ「この学校の先生は猫なんです」などとナレーションを入れることになる。なんで猫なんだ、と考える間もなくエピソードが始まってしまい、犬は生徒にはなれないのかなどと思っていると尺が終わってしまう。気にしているとストーリーの展開が追えない。

現実世界とは違う世界を描くのがその頃の「ブーム」、つまるところ、世界観の設定を説明しておしまい、である。 

2016年7月3日日曜日

多様さ

授業の方も3クラスめ、同じ内容の授業をしている。悪く言えば、毎度同じことの繰り返し、よく言えば、前のクラスで少しずつ方向修正しながら授業している、というところだろうか。
学年はもちろん一緒なのだが、やはりクラスが違えば、微妙に雰囲気が違う。ムードメーカーがいたり、やけにモチベーションを下げるのがいたりする。
授業内ではグループ作業をさせている。仲良しグループにならないように、こちらでランダムにチームを組む。もちろん、社会に出たら仲良しだけでつるんではいられない。相性が悪い人、初対面、年齢差があったりしても、一緒に作業をすることになる。特に映像系の作業は共同で行われることが多い。ただ、苦手な人と作業をしていると、ときどき新しい発見もある。人間が違えば見方が違うわけだから、新しい視点に気付いたり、作業の緻密さが正確に反映されたりしているんだなあと思ったり。仲良しだと「なあなあ」になってしまうところを、相性が悪ければとことん話し合う羽目になったりする。話し合う間に、自分で曖昧だったところが確認できたり、再発見できたりする。

だから本来大学というのは、もっと多様な人が通った方が良いのになあと思う。文科省は少子化をにらんだ施策をしているようだが、むしろ社会人やリタイアした人、会社の研修制度としての利用などを広く受け入れることに積極的になっても良いのでは、と思う。 

2016年7月2日土曜日

おとな

小学生と変わらないと思う一方で、大人並みだなあと思うこともある。

美術館の講座で、工具を使うことがある。木材や金属も使うので、大型のカッターやノコギリ、ノミ、ヤスリなどを使う講座もある。子どもは自宅では大切な「お子様」なので、危険な工具など使わないだろうから、丁寧に使い方を教える。持ち方、構え方はもちろん、怪我の仕方も指南する。こんなふうにつかうと、指を怪我していたいですからねー、注意しましょう、という具合である。大人の講座では、使ったことがあるだろうから、一応念のためにだが、使い方は教える。

怪我をしたり、工具を壊したりするのは、大人の方が断然多い。カッターで直線切りをするときに、着る直線の上に自分の指を置かないように、と注意する。子どもの方は、「定規を置く。カッターの刃を出す。定規を押さえる。指の位置を確認」と、一つ一つの動作を指さし確認している。一方大人の方は、定規を置いたら、カッターの刃を出し、確認もせずに使い始める。案の定、定規の端から指の先がはみ出ている。カッターの刃は使い古されていて切れ味が鈍いので、力任せに切ろうとする。つい刃先に力が入り、勢いで指まで切ってしまう。「わかっているつもり」なのが、危ないのである。

先週も学生がカメラを落とした。三脚の上にカメラを載せたまま、脚の長さを調節しようとしてバランスを崩したらしい。
その数日前には、「三脚の脚の長さを調節し、安定していることを確認してからカメラを載せる」ことを注意していたのに、である。

うーむ、やはり小学生ではないようだ。 

2016年7月1日金曜日

がんばったで賞

さて、いまどきの学生さんは、小さな時から「褒められて育った」タイプが多い。少子化のおかげだろうか、ふんだんに手をかけられている、という気がする。少なくとも、ほったらかしで育った野生児、という印象の学生は少ない。
こういう学生さんの反応で多いのは、「自分を褒めたがる」ことと、大人(学校で言えば先生や、研究室のスタッフ)に「構ってもらいたがる」ことだろう。
美術館で教育普及活動をしているので、小学校低学年の子どもを見る機会が多いのだが、そんな子どもたちとあまり反応の違いがないのが、最近不思議に思うことである。作品をつくる講座の発表会では、自分の作品に対して「どこを頑張ったか」ということを伝えることが多い。まあ、作品を評価をするわけではないし、努力目標と成果という視点は、こういう場合は有効だ。

翻って大学教育の現場はそういうものではないので、自分の作品のプレゼンで「頑張りました」などという発言が出るといかがなものかと思ってしまう。頑張るのは当たり前だからだ。