2016年7月15日金曜日

憧れ

さて、今年のブームは「死」だった。
死にオチ、殺しオチ、ゾンビ、自殺、死人がらみ、などである。
昨年までは、アイディアとしては出ていても、実際の作品にまではならないことが多かった。ドラマや映画で見ているような「血糊」は、入手しにくかったり、高価だったりした。死人を見たこともないのに死体のふりは出来ないので、どうみても「死体のふりをしているひと」になってしまう。
しかし今年はそんなことをものともせずに「死にオチ」が多い。どのクラスでも必ず出現するプランである。現在見ているクラスでは、「人の殺し方」というコンセプトの作品企画さえ出ていた。

人が死ぬことは日常では経験しにくいことなので、「憧れ」ているのか。あるいはテレビやゲームで刺激的な描写が多く「慣れ」ているのか。ちょいと「死んでみよう」とでも思うのだろうか。子どもの自殺は、「リセット」なのだと聞いたことがある。これで「おしまい」、リセットなし、だとは思えない、のかもしれない。

勤務している学科の創設時の入試に、三好達治の「雪」を映像とするためのストーリーボードをつくる、というのがあった。簡単な絵コンテ、という感じで、数カットの構図をスケッチして、演出の方法を記述する、というものである。詩そのものの解釈と、それを映像化するための具体的な被写体を描くわけだ。たいていの受験生は、雪のつもった民家、いろり端、お母さんの添い寝、といった状況を描く。
その中に「墓石」を描いたものがあった。夜の墓地。墓石に雪が積もる。カメラがパンすると、隣の墓石にも雪が積もっている。雪は高く積もり、崩れ落ちる。墓碑が読み取れる。「…家太郎之墓」。カメラがパンすると隣の墓碑もかすかに読める。「…家次郎之墓」。カメラはズームダウンして、二つ寄り添うように並ぶ小さな墓石。
絵は上手かったのだが、結局点数があまり良くなかった。技術ではなく、コンセプトに対しての配点だったのだろう。

たまたまその後、小学校で国語を教えている先生と話をしていて、三好達治の話になった。その当時受験生の世代は、国語の教科書でこの詩を習ったのだそうである。文法的にはどうか、と言う話は別にして、学校ではもう少し牧歌的な状況として教えているのだそうだ。雪、太郎と次郎、夜、をキーワードに、イメージとして風景を膨らませる、ということが教材の目的だそうである。どちらかと言えば、雪の深い田舎や、降りしきる雪の風景、いろり端、お母さんとの添い寝、などを挙げるのだそうだ。「墓石とはなあ」と笑われてしまった。教えた側としては「想定外」なのだろうか。 

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