2018年10月10日水曜日

実質

さて今日では、「ぼっちメシ」という言葉もあまり使わなくなった。今日では、学生さんだけではなく、大人もスマホの画面を見ているからである。
ファミリーレストランで食事をしている家族などを観察していると、お父さんとお母さんはそれぞれスマホを眺めてスリスリ、お子さんはタブレットでゲーム、お子さんが二人いればそれぞれ別の端末でゲーム、といった具合である。仲良く家族で一緒にいるように見えるのだが、精神的にはみんなバラバラで、一緒にいるのは「カラダ」だけ。集まってはいるのだが、実質みんな「ぼっちメシ」である。喫茶店でデートをしているとおぼしき若い男女も、見ているのは相手の顔ではなく、各自の所有しているスマホの画面である。
もちろん課題も、「スマホ好き」「スマホ命」「スマホ中毒」な紹介が多いのが、ここ数年の傾向である。「スマホの画面を見ながら何かをしている」という描写が多い。歩きスマホはもちろん、寝ても覚めても、授業中も、といった描写である。映像の描き方としては、多少オーバーアクションにする方が伝わりやすい。
…のだが、大学生の自己紹介として「スマホ中毒です」というのは、いかがなものか。まあ、現状の自分を見せる、という意味ではあるのかもしれないが、ちょっと「ビミョー」な感じ、ではある。

2018年10月9日火曜日

忘れもの

さて、どうして「ぼっち」を思い出したか、と言うと。
先日、授業の休み時間にトイレに行った。個室に入ったら、ドアの重さがいつもと違う。扉の内側には荷物をひっかけるためのフックがあるのだが、そこに小さな手提げ袋が下がっている。忘れものらしい。どこかに届けた方がいいかなあと、袋をとって、同じフロアの研究室に向かう。
洗面所を使うのは、概ね研究室のスタッフか、担当授業に出席している学生が多く、部外者は少ない。研究室に忘れものらしい、と届けたらスタッフが中身を確認する。中身の入った弁当である。
中を確認したスタッフと、顔を見合わせて、真っ先に確認したのは、「トイレでぼっちメシしようとした?」。
いやいや、いまどきそんな学生はいないでしょうねえ。と笑いながらトイレの個室のドアに貼り紙をしに行った。「お弁当を研究室でお預かりしています」。
お昼休みに学生が一人慌てて取りに来たそうだ。

2018年10月8日月曜日

ぼっち

数年前に「ぼっちメシ」という言葉が流行った。
大学の状況で言えば、学食へ行ってもひとりで黙々とご飯を食べる、といったことである。友だちがいないのが、その主たる理由である。なぜ友だちがいないかは、この際おいておく。
担当している授業では、最初の課題は「映像30秒で自己紹介」である。30秒、と言えば、テレビのスポットコマーシャルの長さだ。あまり「長い」とは言えない。10年ほど同じ課題をやっているが、その時の世相というか、学生さんの流行というか、そんなものが出てくる。「ぼっちメシ」が流行語だった数年は、「友だちがいない」といった自己紹介が何本かあった。自己紹介として「友だちがいない」というのはいかがなものか、ということは、この際おいておく。
映像の描き方としては、いくつかパターンがあり、どれが理解されやすいか、考えて制作することが「正解」である。その頃多かったのは、教室で一人ぽつねんとしていたり、友だちに無視されたり、校舎の片隅で本を読んでいたり、といったものだ。その中でも何本かは「ぼっちメシ」ネタがあった。教室の端っこでひとり弁当を広げていたり、こそこそと校舎の陰に入っておにぎりを食べたり、というシチュエーションの描写である。中でもトイレ内で弁当を使う、というのが数本出た。トイレの花子さん、ではなく、トイレでごちそうさん、である。
もっとも、ご時世とか、流行、ということもあって、誰もがみんな本質的に「ぼっち」であるとは言いがたい。たいがいが「ぼっち」気取り、自称「ぼっち」だったりする。これも時代、なので、数年で「ぼっち」ブームは去った。ここ数年は「ぼっち」ネタは少なくて、多いのは「スマホ好き」「スマホ命」「スマホ中毒」っぽいネタである。

2018年10月7日日曜日

あたって砕ける

授業では、動画作品をつくる、というのが課題のひとつにある。テーマやモチーフは何でも構わないが、自分たちのスキルと授業期間中のスケジュールでまかなえるもの、という条件がある。映像系の学科なので、どうしても学生さんは映画だの、ドラマだのを想定するらしく、ある程度のストーリーを持ったフィクションというスタイルが、ある程度は出てくる。実際に彼らが見ているものは、テレビや映画館、レンタルビデオや動画ストリーミングサービスで見る類のものなので、それなりのクオリティがある。実際に「見ること」と、「つくること」のギャップを体感することも課題の目的のひとつである。
19−20歳くらいの学生さんが考えることなので、例年必ず出てくるのは「恋愛ドラマ」である。数分の長さの課題なので、あまり大きなストーリーにはならないが、たいていは「片思い」、「思いが伝わる」、あるいは「相互の誤解」といったことがモチーフになる。人類永遠の主題だろう。
こういったフィクションというものは、実体験があればリアリティが出るものだ。実体験がなければ、それなりにリサーチをして、体験談を集めたりする。全くの「絵空事」を描くのは、逆に難しいのだが、学生さんはそれまでに見てきた「恋愛ドラマ」や「恋愛漫画」から、フィクションを構築しようとする。だからどこかに「ほころび」が見えてしまうことがある。
片思いの男子学生Aにラブレターを書いた女子学生Aがいる。自分では渡せないほど内気なので、友だちの女子学生Bに渡してもらうように頼む。女子学生Bは存外ちゃらんぽらんな性格なので、男子学生Aのロッカーに手紙を突っ込む。ところがそのロッカーは、当の男子学生Aのロッカーではなく、男子学生Bのものだった。ラブレターを発見した男子学生Bは、自分に来た女子学生Aからのラブレターだと思って有頂天、といった筋書きだった。
学生が書きたかったのは、「行き違い」や「誤解」による「思い込み」といったことだった。筋書きを書いた本人は大真面目なのだが、かなり「ほころび」が見える。そもそも大事なラブレターを渡すなどという人生の大事件を、ちゃらんぽらんな友だちに頼むだろうか。誤配されたラブレターを自分のところに来た、と誤解するのは、宛名がないからだ。ラブレターを書くのに、差出人の名前を書いておいて、宛名を書かないものだろうか。実生活ならどうするだろう。少なくとも宛名は書くだろうし、書かなければ確実に相手に渡ることが前提である。人づてに確実に渡すのであれば、ちゃらんぽらんな友だち経由ではなく、かなり口の堅い、いわゆる秘密が共有できる親友だろう。男子学生Bが有頂天になるのは、女子学生Aがもしかしたら自分に気があるかもしれない、という伏線が必要だ。
なぜこうなったか、といえば、筋書きを書いた本人に恋愛経験はなく、したがってラブレターを書いたことも、渡したこともなかったからだ。
人生もフィクションも、なかなか思い通りにはいかないものだが。

2018年10月5日金曜日

同伴

授業の合間に廊下に出ると、あまり見慣れない人がいる。
普段の大学のキャンパスというのは、学生さんか教える人か職員、あるいは出入りの業者さんあたりがうろうろしているものである。その時は、学生さんとおぼしき年格好なのだが、やたらキョロキョロしており、キャンパス内の地理不案内、という感じである。ああ部外者なんだなあ、と分かる挙動である。ふと見れば、廊下に大きな貼り紙、大学院入試作品提出受付はこちら、である。秋になると、早々に、そのような学校行事がある。
先日の廊下であれ、と思ったのは、大学院生とおぼしき年格好ではない、妙齢の「お姉さん」がひとり立っていたことだ。いわゆるリカレント教育、というものなのかもしれない。同居人のリカレント大学院生活は夜間部だったので、同級生は全員社会人、年齢も職場もバラバラだった。勤務校は「昼の部」だけなので、大学院生と言えども年齢はほぼ横並びである。
珍しいなあ、と思って横目に見ていたら、件のお姉さんはふと顔を上げて、手を振った。振り返ると、いわゆる大学院生の年格好の男子がやってくる。連れだって廊下を去って行った。保護者、というわけだ。大学院の入試の作品提出に保護者が同伴してやってくる時代、のようである。
なんだかちょっと、大学院生が「おこさま」に感じられてしまった。