2013年6月30日日曜日

不要

さて、授業で使っているビデオカメラというのは、「ハンディカメラ」というやつである。放送局スタジオ用、ではなく、ENG(屋外取材)にも使える機材である。数キロ程度の軽いものなので、女子でも簡単に片手で構えられる。

構えられる、というのがミソである。
昔使っていた16ミリカメラは、ホールドしにくいデザインで、モーターで振動する。三脚は必須である。
その後使ったビデオカメラは、重たくて片手では持てない。三脚必須である。
その後のビデオカメラは、肩に担ぐスタイルである。もちろんビデオデッキは別物である。右肩にカメラ、左肩にテープデッキのショルダーベルトが食い込む。もちろん、両方とも、重たい。歩くとふらつくので、両足広げて踏ん張るしかない。
その後もビデオデッキがなくなったが、カメラ一体型になった。おかげで右肩はもっと重たくなった。今度はバランスがとりにくいので、小柄な私ではそうそう動けない。
必然的にカメラはフィックス、あるいはフィックスに限りなく近い体勢で撮影するはめになる。

翻って、今の授業で使うカメラは、小さくて軽いので、三脚を「邪魔者」扱いする学生が多くなる。撮影に出かけても、三脚は不要とばかり置きっぱなしである。

案の定、ブレブレな素材を撮影してくるのである。

2013年6月28日金曜日

予想

さて、使っているのはもちろん、ビデオカメラであるので、録画をすれば同時に録音する。
録音中は外部のモニタースピーカーには出力しない。ハウリング防止である。
録画後は現場でプレイバックすることを教えているのだが、たいていの場合は画像を確認するだけである。
録画した画像は編集のために編集室で再生確認する。もちろん、外部スピーカーが接続されていて、録音した音も確認できる。

あるグループでは、同じグループの女子学生を「役者」にして撮影していた。風に髪なびかせる乙女、といった風情を撮影したかったんだろうなあ、と思う。絵は、きれいなものである。台詞があるので、録画した音そのままを最終的には利用したいらしい。学生は得意満面で音量目一杯にあげて、再生確認しはじめた。

「…あ、そこに立って、うーん、もう少し横向いて…」
「…そうそう、そこ、いいねえ…」

最初は控えめに女子学生に指示を出す声が入っていた。
「…本番、行きまーす…用意、スタート!」
女子学生はおずおずと歩いて、木陰に立つ。
「…あー、いいねいいねー、ため息ついてねー台詞ねー」
これはカメラマンかディレクターの指示音声が入っているようである。
女子学生ため息をつく。
「…ほーっ……(遠くで聞こえない)…」
「…あーあーあー、セクスイーに、いいねいいねー、ふむううううう(鼻息)」

グラビアの写真撮影会みたいである。カメラを構えている学生は、どうもそういった趣味があったようである。
まあたいてい男子がカメラを担当するとこうなるが、女子がカメラを担当するともっと違う会話が入ってくる。

「よーし、いいよー、ところでさー、あんた」
とそばにいる他の学生に小声で話しかけたりする。
「A君てば、あんたのこと気になってるみたいだけどさー、あんたどう思っているのよ……、はいカットー、良かったよー」

いや良くないよ、カメラに集中しなさいよ。

毎年何例かはこのように、「予想外の録音」がある。

教訓1 ビデオカメラで撮影する時は音声も録音される。
教訓2 遠くの役者の声よりも、近くのカメラマンの声の方が明瞭かつ大きく録音される。
教訓3 録画中はモニターヘッドフォンが必須である。
教訓4 録音された音声は分離できない。つまり、ため息だけ音量を上げる、カメラマンの独り言は消去する、なんてことはできない。

2013年6月26日水曜日

斜め

被写体に熱中してしまうので、カメラが斜めになっていても気づかない、というのは初心者にありがちなことである。
現場で再生しても、編集室で確認しても、「斜め」なことに気づかない猛者もいる。
「斜め」であることを指摘しても、役者の彼女がかわいく撮れているからいいもんねー、という態度な学生も多い。こういう学生はきっと世界がどうなっても自分の見たいことしか見ていないに違いない。

さて、デッサンをしたり、風景を写生したりするときに、まず気をつけるのは画面に対して水平なものは水平に描く、ことだったりする。画面に対して机の天面が斜めなら、机は傾いているので、花瓶やリンゴは転げ落ちてしまうからである。画面に対して、水平垂直でないなら、画面内での水平垂直のルールが見えるようにしなくてはならない、というのがお約束である。
デッサンをしてきた学生であっても、そんなことは忘却の彼方である。

人間はかくも、自分の目的以外のことには注意を払わないものである。

2013年6月25日火曜日

外側

1年生の実写ビデオの実習授業である。

撮影には、カメラ、三脚、マニュアル、カチンコ代わりのホワイトボードをセットで持たせる。
最初の取り扱い説明では、カメラを三脚に取り付けて、水平と垂直を合わせることから始まる。

ところが、撮影してきたものを見せてもらうと、たいていの場合は、絵が「斜め」だったりする。構内の建物はすべからくピサの斜塔状態である。三脚を使っているので、なおのこと、すべての絵が「斜め」なのである。

なぜそうなっているか、というといくつかの理由がある。
初心者の場合は、自分の撮影したい被写体しか見ない。ほかのものは、フレームに入っていても「out of 眼中」である。
手前に「撮影したいもの」がある場合、その向こう側は彼らの意識の外である。

カメラケースや自分たちの荷物がフレームに入っている。
ガラスに自分たちが映り込んでいる。
被写体の向こう側でヒッピホップダンスを踊っているのがいる。
遠くでサンバ研究会が派手な衣装合わせをやっている。
お掃除のおじさんが箒を巧みに使いながら背後を横切る。
業者のトラックが走り去りながら荷物を落としている。

シリアスな場面を撮影しているにもかかわらず、ギャグになる寸前である。たいていの場合、指摘しないと「映り込んでしまったもの」に気づかない。


人間の目や意識というのは不思議なものだと感心すると同時に、機械がいかに情報を「フラット」にしてしまうかということも感心してしまう。

2013年6月23日日曜日

合わせる

人間の目というのは賢いもので、基本的にはパンフォーカス、つまり全部にピントが合っている状態で網膜に倒立像を結ぶ。しかし、網膜上の「像」がそのまま脳みそに認識されるわけではない。倒立像を正立になおし、なおかつ自分の見たいものに「ピントが合う」状態で認識される。見たいものではないものは、脳みそが「ピンボケ」の状態として認識する。
だから、レンズでとらえた映像上でピントが合う、合わない、というのは、脳みそに認識させたい情報をあらかじめコントロールできる、ということでもある。
肉眼でピントが合わないのは、近視や遠視などの問題があるからで、だからピントを合わせるために眼鏡を使うのである。目玉でピントが合わないものは、脳みそでもピントを合わせることができない。最初にピントを合わせるという作業は大切なのである。

レンズでとらえたフレーミング内で、見せたい情報にピントを合わせる、というのが基本である。それをうまく利用したカメラワークに「ピン送り」というのがある。手前から奥、あるいはその逆にピントの合う範囲を変えていくことで、オーディエンスの認識をコントロールする、という方法である。
オーディエンスはフレーミング内で、ピントの合っている「もの」に意識を集中する。だから、オーディエンスの見たい「もの」にピントを合わせる、というのが基本的な作業である。

2013年6月19日水曜日

ピント

カメラを使った作業では、何はなくともピントを合わせることが、前提である。ピンボケ、手ぶれ、というのはケアレスミスなのである。

「ちょっとピンボケ」というロバート・キャパの本があるが、キャパはピンボケの写真しか撮影できないわけではない。ブレボケアレ、という写真のスタイルがあったりするが、それとてブレボケアレだけしか撮影できないわけではない。たいていは、きっちり写真ができる人が、自分のメッセージを伝えるために、そういった手段に出るのである。ブレもボケもアレも、コントロールできてなんぼ、なのである。

ここ数年だが、学生さんにビデオを撮らせていても、ピントをがっちり合わせてこないケースが増えた。なんでピントが合っていないのかと問うと、「こんなもんじゃないですかねえ」。よくよく話をしてみると、ピントというのはカメラが合わせるものだと思っているフシがある。
試しに、使っているカメラでピントを合わせてやったり、隣近所の学生のピントの合っている学生のファインダーをのぞかせたりすると、「ほほー」、である。

彼らの周りにあるカメラという名前のついているものは、基本的にオートフォーカスに自動露出である。スマホや携帯電話のカメラ機能に、マニュアル操作など装備されていはいない。だからピントが合うか合わないか、といのは彼らにとっては「運」でしかないのである。

2013年6月16日日曜日

課題違反

美術学校の実習授業では、たいてい何かを「制作」する。
私の授業では機材を扱ったり、教室外で撮影の作業をしたり、ということがあるので、さまざまな「条件」がつくことになる。
例えば、「機械を壊さない」「授業中に学外へ出ない」などというのは常識に近いとして、制作する作品の長さや技術的な条件などが色々あったりするのである。

私の時代で言えば、受験に「平面構成」というのがあった。お題が短い文章で示されて、それに対してポスターカラーなど使った色面で平面構成するというものである。例題も参考作品も、受験だから当然、ない。指示された文書から逸脱したものはすべからく「課題違反」であるので、採点の対象にならない、つまり不合格である。「三色で」構成しろ、という文章なのに、五色使えば問題外の外である。
競争率がそれなりに高かったので、課題違反で不合格などあってはならない。だから、問題文の読み込みと正確な理解は必須である。

翻って授業中の学生さんの作業を見ていると、課題文の読み込みが甘いなあと思うことがよくある。自分の都合の良いように解釈してみたり、拡大解釈してみたり、条件の一部を読み落としたり、という具合である。

入学倍率も下がったことだし、我々の世代とはそもそも鍛え方が違うのであるとあきらめがてら、今日も今日とて課題の条件を毎朝呪文のように唱えてから課題の作業にかからせるのである。

2013年6月9日日曜日

お答え

テレビを見ていると、「インタビュー」という方法で、「ひとにものをきく」場面をよく見る。学生がノンフィクションをつくろうとすると、必ず「インタビューする」のである。
ニュースで政治家に政策を聞く、街頭で社会についての考えを聞く、イベント参加者に感想を聞く。
どうですか、と聞くと、誰もが即座に的確な回答をしている。だから、誰が、どこで、何を、どのように聞いても、同じように即座に的確な回答がかえってくる、と勘違いしがちである。

街頭インタビューというのはかなり「仕込み」が必要である。誰もが即座に笑顔で答えてくれるわけではないので、まず「答えてくれそうな人」を見つけなくてはならない。そういった「人」が見つかったら、もちろん取材の許可をもらい、取材の意図を話し、どんな話を聞きたいのか、ディレクターがじっくり話をする。その人に答えてもらいたいことを、彼らから引き出さなくてならない。あまり「お答え」が長くなるとオンエアでは使えないので、「お答え」を要約し、そのように「お答え」してもらうように念を押す。それからカメラを回して、インタビュアーがマイクを向けるのである。

「朝早くから行列に並んでいらっしゃいますねー、何時から並んでいらっしゃるのですか?」
「うるさいなー、さっきから何度も午前5時だって言ってるだろう! しつこいなあ」
とおこったおじさんがオンエアされた「放送事故」があったりもしたそうだが、何度も念を押されればうんざりするに違いない。

もちろん「お答え」が全部オンエアで使われるわけではない。編集という作業が介在する。話の途中で切られていたりするので、「お答え」したうちのほんの一部分しか使われない、というのはよくあることである。あれだけ時間をかけてつきあってあげたのに、たった一言だけしか使われなかったりする。もちろん「お答え」が本人の話の意図とは正反対になるように編集されたりもする。与党の政策について「いやあ、こまったもんだねえ」と言ったのに、野党の国会のヤジには「いやあ、こまったもんだねえ」に化けたりする。


街頭インタビューは「世間の声」ではない、かもしれない。

2013年6月4日火曜日

確認作業


ジャーナリズムの授業ではないので、取材方法などは学生さんが従前に見たことのある番組や作品がベースになる。そうやって授業を進めていると、かなりの学生が似たような作業をしてくることがある。

フィールドワークに出かけて「東京を見る」というテーマで作業を進めている。
いちばん多く出てくるのは、既存の「印象」の確認作業である。

「東京にはビルが多い」とか「人が多い」というのが、彼らにとっては「一般的な印象」のようである。そうすると見てくるのは「ビル」と「ラッシュアワーの駅」である。たいていは新宿駅か渋谷駅である。
「東京にはラーメン屋が多い」というのが、少し前の地方から出てきた学生の「一般的な印象」だったりする。こちらも新宿や渋谷にあるラーメン屋さんを見てくるのが多い。
それで、「東京は高層ビルの街である」「東京ラーメン巡り」、そんなことをテーマにしたりモチーフにしたりして、作業を進めようとする。

果たしてそうなのだろうか、というのが「見る」ことの基本である。
大学も東京都下なのだが、ここいらへんで一番高いビルは大学の校舎で8階建て、一番近所のラーメン屋は通学路にある中華屋である。
そんな時に、しぶしぶ答えたりするのは、大学の近くの「田舎具合」である。
地方の自宅の方が街中にあったりする彼らにとって、大学の隣がキャベツ畑だったりするのは、「東京」ではない。だから、メディアで刷り込まれた既存の印象を確認したがるのかもしれない。