2014年7月31日木曜日

業務

非常勤講師というのは、授業が開催されている期間のパートタイマーである。
授業やってなんぼ、の世界なので、当然のように授業がなければ、ただの「ぷう」である。

勤務校では専任教員が200弱ほど、それに対して非常勤は700弱という人員構成である。
大学というのは、かくも非常勤で支えられている、非正規雇用の世界である。

勤務校は研究室単位で教育を行っているので、教育の実務は研究室が仕切っている。行きつけの研究室では400人弱の学生に対して、専任教員が8名。もちろんまんべんなく全員が授業をやっているわけではなく、非常勤の担当する授業数の方がはるかに多い。だから、実質的な業務というのは、研究室の「スタッフ」6-7名が行っている。「スタッフ」は4年契約の一応正規職員という名前の「助手」、1-2年契約アルバイトという扱いの「教務補助」がいる。専任並みの「研究職」という名目の、実務雑用係である。どちらも卒業して間もない若手が担うのが「恒例」だ。学生さんたちにとっては「先輩」にあたるわけだ。

私の頃は、一般的な大学は、ゼミに入って、修士や博士の論文を書いて、助手になり、講師になり、助教授になり、教授になる、というピラミッド構造な研究室が多かった。勤務校は、ピラミッド、ではない。専任の方が実務スタッフよりも多いのである。専任は終身雇用制でなかすげ変わらず、しかし実務スタッフは4-5年で一新、学生は常に新陳代謝している。
助手をやったからと言って、講師になったり助教授になったりすることは少ない。専任人員は簡単は増えないので、一番上の退官のタイミングでしか決まらない。確率から言えば、10年とか20年でひとり専任に上がれるかどうか、というところだ。専任教員は公募ではなく、どちらかと言えば「内々」で決まる傾向がある。しかし、公募制がベストか、と言えば、そんなことは言えないかもしれない。
昨今のIT化だの、少子化による販売促進の増加(つまり進学相談会とか、進路相談フェアなどへの専任のご参加、オープンキャンパスなどの開催)だのと、業務はだんだん増える傾向ではある。

困るのは、4-5年おきに実務担当の若手が入れ替わるので、業務の引き継ぎトラブルが定期的に起こることだ。長年勤めている専任は、実務業務などやらないので、フォローできない。もちろん研究室では、授業以外の雑務も多くなっていて、授業と販促ではどちらが優先なのかといぶかしむことがある。
優秀な人材を育てる、というのはどちらかと言えば勤務校にとっては、「優秀な社会人養成」なので、自分の学校の人材育成はあまり関心が無いように見える。パートタイマーの立場から言えば、大学は「研究」するところではなくて、「授業」するところだ。

ちっこい単科大学、歴史や過去の実績で今後も生きていけるのか、不安になることがある。

2014年7月30日水曜日

訂正

個人情報保護法、というのが出来た。同居人の勤務校は小学校だったので、ずいぶんナーバスだった。
電話連絡網も、個人情報保護、と言う名のもとに、結局一斉同報メールシステムに変わった。クラスの名簿も発行しにくくなったので、同窓会のお知らせ一つ出すのも大変である。もちろん先生の個人的な住所なども知らせなくなったので、同居人にあてた子どもさんからの年賀状は減少した。

保護法以前は、クラス名簿はあって当たり前、という世界だった。どこで知ったんだろう、と思うようなダイレクトメールが届いていた。高校受験の時期になると進学塾、大学受験の頃になると予備校、20歳になると呉服屋さん、大学卒業の頃になると就職活動情報誌、お年頃になると結婚式場のご案内である。そのうちきっと「お墓」まで来るんだろうなあと笑っていた。ダイレクトメールというのは、たいてい右から左にゴミ箱に入るだけだ。

同居人はバツイチだったので、ずいぶん長い間、元奥様宛のダイレクトメールが来ていた。宝石、毛皮、呉服、海外ファッションブランド、とずいぶんとお派手なものが多かった。いなくなったという情報は「訂正」されず、延々と「昔の」名簿でダイレクトメールが送られてくるのである。こういうのはどこに訂正を申し入れれば良いのだろうか。


同居人には、いなくなった子どもがいた。これもその後10年ほどは届いていたのではないだろうか。振り袖のダイレクトメールが来たときは、今はこんなお年頃なんだねえと、思い返したようだった。


住所の公開などナーバスになっている今日この頃、そういったことはもうないのだろうか。

2014年7月29日火曜日

作戦

そうこうしているうちに、同居人の勤務先は文科省の実験校だったこともあって、今にして思えば、割合早めに学校は「インターネットで連絡網」という作戦に出た。ちょっと大規模なメーリングリスト、というわけである。
小学校からは、何年生だけ、どのクラスだけ、全児童向けなどという選択で、一斉同報するのである。電話連絡網と違って、タイムラグがない。
ところがこれも、実際に使い物になるまでに半年や1年はかかっていたような気がする。

メール、と言っても、ご家庭の電話回線につないだパソコンだったり、携帯電話のキャリアメールだったりといろいろなものがある。働いている人は、おうちのパソコンのメールを見るのは、夜帰ってきてからで、超特急緊急連絡には間に合わない。あるキャリアのメールは、送受信できる文字数に制限があり、本文に入る前の文章しかメールで配信されなかったりした。もちろんキャリアメールでは添付ファイルは見られない。全部テキスト起こしである。
個人情報保護が話題になっていた頃である。メールアドレスが外部に漏れてはいけないので、個人情報は持ち出し不可、つまり送る方は、学校からしか送信できない仕組みだったので、「朝6時の気象警報で休校が決まる」ような連絡だと、朝5時半頃学校にいて、気象警報を見てから「本日は休校になりました」と発信しなくてはならない。担当の先生は「休校」ではなく、嵐の中の登校である。

いろいろなご家庭のケースがあったり、不具合を少しずつ修整したり、あるいは世間的な使用方法や技術、ハードウェアの使い方やスペックも少しずつ変わったりした。変化の早さは、ここ数年のことである。

2014年7月28日月曜日

連絡

それから幾星霜。
20年ほど経つうちに、大都市圏では核家族化が進み、共稼ぎのおうちが増えた。
留守番電話という文明の利器が開発され、電話連絡網は人間相手ではなく留守番電話相手に伝言することが多くなる。
留守番電話の難点は、「伝言承りました」だけであり、そのおうちのひとが「聞いたよ」という確証が持てないことである。

同居人は小学校の先生歴が長いのだが、このあたりの過渡期を「先生」として過ごしていたわけだ。

いつの時代であっても「連絡」は大切で、必要、だが、難しいものである。

そのうち「携帯電話」というものが普及し、電話連絡網では二つ三つの電話番号が並ぶようになった。
お仕事中はコレ、プライベートにはコレ、とひとりでいくつかの携帯電話を使いこなすお母さんもいた。伝言を送る方は、時間を見て電話番号を選ばねばならない。お仕事中に電話をしたら「次の人の電話番号が分からないので、次の人に回しておいてください」などと言われ、保護者会で話題になったことがあるらしい。結局、専業主婦で家にいる人が、かなりの人数に電話することになるからだ。

「ご連絡」というものは、いろいろと難しいものである。

2014年7月27日日曜日

伝言

通信教育系の会社から個人情報が漏れていた、というのが、先日はニュースになっていた。
「個人情報保護法」あたりから、なんとなく世間様は、別のベクトルに向かっているような気がする。

母は私学の小学校だったのだが、入学の条件が「自宅に電話がある」ことだったそうだ。太平洋戦争前後のころである。
私の世代だと、小学校時代には、大都市圏のクラスでは、ほぼ8-9割方に固定電話が普及していた世代である。核家族化が始まってしばらくの世代なので、サラリーマンの奥様は専業主婦が多かった。もちろん三世代同居、というおうちもそこそこあったし、商店街の近くだとご商売なのでいつも誰か家にいる、というわけだ。だから小学校には「電話連絡網」というのがあった。固定電話がないご家庭は、近くのおうちから「伝令」にいくのである。
台風前日とか、天気の怪しい運動会前日とかに、「明日の行事は延期です。授業の支度をしてきてください」などというのがまわってくる。担任からクラスの代表に連絡が行くと、枝分かれしたツリー構造に従って、電話で伝言ゲーム、である。間違ったら大変なので、お互いに復唱し、最後の人は「回りました」という確認をクラス代表にコールバックする。まだ留守番電話などない時代だ。

2014年7月26日土曜日

仕込み

講師する側から言わせてもらえば、「おつむのよろしい学生」に教える方が楽ちんである。
偏差値の低い学生に教える方がはるかに大変である。手を変え品を変え、好奇心を持たせ、興味を持たせなくてはならない。授業中に寝かさないよう、私語しないよう、スマホいじりをしないよう、あれこれと考えなくてはならない。

…にも関わらず、授業評価が低いこともある。分からないのは自分ではなく、授業のせいである、らしい。
いまや、学生様はお客様で神様である、らしいので、傾向と対策を練らねばならない。

小心者であるので、少しでも「分からなかった」という感想を払拭すべく、あれこれ手を変え品を変え、作戦を練り、授業を「仕込む」のである。今は夏休み、その間に少しでも「仕込み」をしておかねば。

2014年7月25日金曜日

もちろん授業をする側から言わせてもらえば、学生さんの「側」によって、同じ科目や内容であっても、授業の内容や方法は変わってくる。

一般的に「おつむのよろしい」学校の学生さんだと、授業はやりやすい。シラバスは当然読んでくる。事前に読んでくるように、図書を指定したら、全員でなくてもある程度は読んでいる。歴史や言語などの知識もあるので、余分な「解説」をする必要はない。話の腰を折られずに、スムーズに進み、内容が多くなる。
カルチャーなどの講座だと、年齢層がばらばらで、バックグラウンドになるものが違うので、お互いの共通項を見つけるまでがちょっと大変である。ただし、目的意識がはっきりしているので、食いつきが良い。どちらかと言えば、受講生のばらつきにあわせて、臨機応変に応えられるような準備が必要になってくる。

勤務校は、と言えば、目的意識はある程度あるものの、世間的な偏差値が高いとは言いづらい。シラバスは読まないし、参考図書もほとんど、あるいは一切読んでこない。本当に、授業の教室に「来る」だけである。「お勉強」的な知識の蓄積がほとんどないので、第二次世界大戦が1900年ごろ、と言ってはばからない。おかげで、話の腰を折って解説する羽目になることがある。もう授業内は、ポキポキに腰が折れた状態である。本題は、授業内の半分で納めるくらいの覚悟でないと、授業時間内には終わらない。
いわゆる「実技系」の学校である。受験対策的に言えば、偏差値が高いとは言えない。一方で、偏差値を底上げするような授業を組むというカリキュラムでもない。スキルはつくが、世界情勢に全く疎い学生が育っていく。これで社会に出していいのかしらん、と思ったりするのだが、それは基礎課程を担当している一介の非常勤が考えるべきことではない。ともあれ、目の前の学生に対応することしか、考えることはない。

2014年7月24日木曜日

成果

同居人の通っている別の大学は、マークシート方式の「授業評価システム」である。
翻って、私の勤務校ではアナログ式の「アンケート用紙」である。

授業の最終日に、研究室からよろしくーと「アンケート用紙」を渡され、学生に記入させて回収する。研究室はそれを集めて教務課に回す。勤務校では集計を外注しているので、年度末に分厚いファイルとデータの入ったCD-Rが届いているようだ。
年度初めに研究室に行くと、前年度の「授業評価アンケート集計結果」というファイルがどーんと置いてある、という状態である。
だからといって、自分の授業評価を十分に理解し、今後は評価向上のために留意せよ、というようなアナウンスがあるわけでもない。お客商売であれば、むしろ「どのように学生の評価を上げるか講師のための傾向と対策講座」などがあるべきだと思うが、それもない。アンケートはとっただけ、という印象がある。評価が高ければ、これから受験する高校生に「うちの大学の授業は学生の評価が高いんだもんね」とアピールできるのかもしれないが、それは「単位が取りやすいだけだもんね」に見えるのではないかと危惧したりする。

研究職である専任教員と違って、こちとらパートの非常勤教員なので、教育成果というコトバがちょっと気になったりするのである。

2014年7月23日水曜日

自由記述

そうはいっても、まあ概ねいまどきの学生さんは真面目である。おおかたの学生さんは、真面目に取り組む。
私の授業は必修なので、クリアできなければ進級できない。ほとんどの学生さんは、前向きに取り組まざるを得ない。

下の方に自由記述欄があり、無記名と言うこともあって、それなりに自由に一言書いているようだ。「すごーく勉強になりました」「一番やる気になりました」などという記述は、本気なのか下心なのかよくわからない。これは成績には関係ないと、学生は分かっているんだろうなあ、といぶかしむ。翻って、集計している方はわかっているのだろうか。


一方、言いたい放題、という記述もときどきあるようだ。私の授業は25人前後で、回収後私が目を通すなどありえそうなことだし、手書きのレポートなども要求するので、誰が何を書いたかすぐわかってしまいそうなので、あまり「言いたい放題」な例は少ない。
同居人の大人数の講座では、ちょっと悲しいコメントもついてくるらしく、アンケートの結果が学校から送られてくるとよく凹んでいる。たぶん業者が集計しているのだろうが、自由記述もご丁寧に全部がきれいにテキストで打ち直されてリストになっている。
「声が小さくて聞こえない」「授業の進み具合がわかりにくい」「資料の配布が少ない」などは、けっこう本人も気にしていているところで、毎度使いにくい拡声器を使い、授業始めと最後にサマリーと要約をして内容を端折らざるを得ず、初年度ははりきって資料を配付したら教務から「印刷費が予算オーバーなので今後は自粛するように」と言われた。おかげで、2年度以降も、毎度授業の仕込みはかなり時間をかけているように見える。200人中、数名の記述なので、割合からすれば少ないのだろうが、テキストになると「目立つ」ようだ。
のみならず「冷房がききすぎる」「遅刻してくる人のドアの開閉音が大きい」などの、施設面でのクレームは一介の非常勤に言われても困るような気がする。
あまつさえ「私語が多い」「遅刻が多い」「授業中に後ろの席の学生の携帯の呼び出し音が鳴る」などのコメントは、学生側の問題なので、授業についての評価とは違うような気がする。それは「授業評価」だろうか。
集計する方は、ただ自由記述欄をベタ打ちしているだけで、「授業評価」かどうかは関係ないようだ。

集計されたアンケートで凹んでいた同居人には、担当科目の専任の教員からアドバイスがあった。「うちの学生の評価は、あまり気にしないようにしてください」。
うーむ、なんのためのアンケートなのか。気にしないようなアンケートであれば、集める必要はないような気がするが。

2014年7月22日火曜日

単位

ぼちぼち学期末である。

ひとつの授業科目が終了すると、学校からアンケートをとるように、と学生向けの「授業評価アンケート」用紙を渡される。
毎度感じるのだが、何となく、しっくりこない。
授業についての評価が受講生によって行われ、それが大学の教育の総体として伝えられるのであれば、最高の教育機関と言うのはカルチャースクール、ということになるだろう。

学生様はお客様であり、彼らを満足させることが、「良い授業」であるなら、出欠をとらず、レポートも試験もなく、単に単位を乱発すれば良いからである。そういう授業が、学生を「馬鹿」にしたものであり、「教育」と言う役割を放棄していることは、誰にでも分かりそうなものだ。
最近は、学生の学習態度も付加されていて、「シラバスは事前に読みましたか」「授業には前向きに取り組みましたか」などという質問まで入っている。シラバスを事前に読んでこず、授業に前向きに取り組めないのであれば、授業は面白くないに決まっている。何を今更、当たり前のことを質問しているのだろうか。がっつり取り組んでも、自分には「興味がわかなかった」というなら分かる。だから授業には前向きに取り組めなかった、という論法なら分かる。それは学生自身の「意欲」や「努力」への評価であるはずだ。授業に対する評価ではない。
「興味がわかなかった」学生に、「興味をわかせる」ことが、授業の目的なのだろうか。シラバスを事前に読み、興味が持てそうだから、授業を受けたのではないのだろうか。もしかしたら、興味がわくかもしれない、という期待が、受講の動機なのだろうか。謎である。

もちろん、自分の興味のある科目だけ、意欲の出た科目だけを学習したいのであれば、「学校」という組織や学習形態は必要ない。いやなものでも強制的に学習させられるのが「学校」であり、そこで得るのは「努力」という習慣である。しかしそれこそが、社会に出たときに唯一役立つものだ、と言ったのは、E.デュルケムだったかな。

2014年7月21日月曜日

ビジュアル

映像業界と言うのは作業分担が細かく、それぞれがプロフェッショナルである。ディレクターがイメージした頭の中のビジュアルを、周りがいろいろと組み上げる、というシステムになっていることが多い。
得てしてそれが、「ディレクターになりたい」と学生が思うきっかけになっているようだ。自分がイメージしたビジュアルを、周りがよってたかって具現化する、という図式だ。
もっとも、そうなるためには、周りがよってたかって具現化したイメージに対して「ジャッジする」ことが出来る能力が要求される。痒い所に手が届くスタッフであっても、痒い所を探してくれるわけではない。黙っていれば、思ったイメージを提供される、などということはない。

学生さんの課題では、だからといって最初のアイディアやイメージに固執しすぎると、本質を見失うことがある。何が「本質」なのかを考えることが大切だ。前述のケースでは、スケッチが飛んでいくと言う超自然現象がリアルに撮影できなければならないのか、ということだ。
こういうときに、よく提案することのひとつが「黒衣」作戦である。舞台の上にいるが「いないもの」として観客は認識しなくてはならない。黒尽くめの衣装を着て、スケッチを「持って行く」のを撮影する作戦である。
もうひとつは「チープで効果的」作戦である。例えばメリエスやフェリーニの作品のように、リアルではないつくりもの、といった趣の装置を用意する。スケッチをテグスでつったり、針金で動かしてみせたりする。「リアルではない」方が、「何か」を伝えることもある。
「本質」が、男女が「出会う」きっかけである、とする。そちらを丁寧に描写することが出来れば、黒衣やチープなセットは気にならなくなってしまうことがある。

学生は、リアルを追求した、いまどきの表現しか見たことがない。「リアルではない」表現は、身近ではない。さまざまな演劇などのパフォーマンスや、時代を越えた表現を知る経験があまりないようだ。クラスで「歌舞伎を見たことがある」学生は、1-2名程度、黒衣など見たこともない学生がほとんどなので、思いもつかないのだろう。恵まれた社会と環境にいながら、少しもったいない気がする。

さまざまなものを見て蓄積していくことが、人生である。蓄積したことが、表現となって出てくることがある。人生がモノをいうのは、こういう時である。

2014年7月20日日曜日

本質

このあたりになって、学生さんは「表現の壁」というものの存在を知る。

自然や動物など、人間の思い通りにならないものはたくさんあるものだ。映像では、どうやって具体的な被写体の動きにしていくか、ということを考える。今の学生さんは、CGだの、特殊撮影だのといった画像を見ることに慣れているので、そのような画像にならないと知ると、とたんにへこんでしまう。スケッチが風に飛ばされないと、すべてのプランをチャラにする、という作戦に出ることが多い。ゲームオーバー、リセット、という感覚なのだろう。
ただそこで、リセットしてしまっては、「学習」にはならない。社会人になってからの仕事も、人生も、そうそう簡単にリセットは出来ないからだ。

こういうときに話をするのは、実は何を描きたかったのか、ということである。風に乗って飛んでいくスケッチを描きたいのか、スケッチしていた女子学生とそれを拾った男子学生の「出会い」とか「恋愛の最初の第一歩」みたいなことなのか、ということだ。
前者であれば、映像で描くことをはき違えている可能性が大なので、もう少しねちっこく話をする。
後者であれば、そちらの方をもう少し丁寧に描写することに、撮影のポイントをシフトさせる作戦を考える。飛び始めと着地をきちんと被写体として抑えておければ、中の「飛んでいく」という演出はいくつかの方法を考えられるからだ。実際に紙を飛ばさない、という演出も考えられるだろう。そもそもスケッチが飛ばなくてはならないか、ということも考えられる視点のひとつだ。

一発アイディアで進められたプランなのか、映像として表現するために練られたプランなのか、ということは、このあたりで学生と話をしながら探り出す。さて、人生がものを言うのは、これからだ。

2014年7月19日土曜日

待機

葉として考えるのは簡単だが、実際の被写体として用意しにくい、というものはたくさんある。もちろん、人間なら「演出する」という動かし方があるのだが、人間ではない被写体は、そうそう簡単に人間の思うようには動かない。

スケッチは学生の思うようには飛んでいかない。イメージ通りにひらひらと風には乗らない。

もし彼らがそういった実写映像を見てインスパイアされていたのだとしたら、その元の映像は相当「作り込まれた」ものであるはずだ。風にそよぐ白いシーツがはためいている合成洗剤の広告でも、たまたま映ったものではなく、イメージに合わせて「はためかせて」いるはずだ。

晴れるまで待つ、と言ったのは天皇黒澤明、という逸話がある。オープンでの撮影のときに、思った通りの空模様になるまで、ひたすら待った、という話だ。もちろん「待つ」のは「ロハ」ではない。スタッフもキャストも仕事はないが、待機状態なので、人件費は撮影しようがしまいが、同額払わなくてはならない。1日待って何百万、という勘定である。もちろん、1-2日どころではなかったので、逸話になったのである。

学生の課題ではもっとタイトなスケジュールを組むので、想定通りの風が吹くまで待つことなど出来ない。

2014年7月18日金曜日

言葉で言えば簡単なことなのだが、実写では映像として撮影することが難しい、ということはたくさんある。たいていの初心者の場合、それはあまり認識していない。だから、プランを聞くと「ありえなーい」ことがたくさん出てくる。

純情そうな女子学生が紙にスケッチをしている。風が吹いて、スケッチが飛ばされる。スケッチは、ひらひらと植え込みの木々の間をすり抜けて、落ちていく。スケッチが地面に落ちたところに男子学生が通りかかる。男子学生はスケッチを手に取る。そこには自分の姿がある。彼は、周りを見回す。向こう側の木陰に、スケッチブックを抱えた女子学生が立っている。

…などという描写がときどき出てくる。20前後の若い女子学生の考えそうなシチュエーションである。
ほんとにこれで撮影するのか、と一応、本人には確認する。本人はやってみます、とやる気満々である。じゃあ、やってみてよ、と撮影に送り出す。

いやいやこれが、実写では難しいのである。案の定、撮影している現場で立ち会うと、別の作業をしている。本日は無風。そよとも風が来ない。
翌日は、数名で団扇を用意して待機中である。ばたばたとあおいで、紙を飛ばす作戦である。遠すぎると紙は飛ばない。近すぎると団扇が映り込む。飛び始めはいいのだが、木々の間をすり抜けはしない。
その翌日は扇風機を用意してきた。ながーい電源コードを引き回して、スイッチオンである。あっと言う間に紙は吹っ飛んでしまう。風情がない。もちろん思ったように木々の間を抜けないし、思ったところに着地したりはしない。男子学生はスケッチを追いかけて走り回った。

人間以外のものを、自在に動かすのは、かように、大変なのである。

2014年7月17日木曜日

予報

言葉で言えば簡単なことなのだが、映像として撮影することが難しい、ということはたくさんある。たいていの初心者の場合、それはあまり認識していない。だから、プランを聞くと「ありえなーい」ことがたくさん出てくる。

多いのは「お天気」に関することだ。学生がプランを組んだときと、撮影しているときでは、天候が違うことがよくある。毎日同じお天気になるとは限らない、という日常ではごくごく普通のことが、「映像を制作する」と全く抜けてしまう。今日は雨だから、明日も雨、とは限らない。
授業の季節にもよるのだが、一夜にして「夏」になったり、暴風雨の翌日はすっかり快晴、ということも、よくある。以前は天気予報とにらめっこしていたのだが、最近の学生さんはスマホの天気予報とにらめっこである。だから「天気の予想」などお得意なのかと思ったが、これがスマホのアプリによってずいぶん「予想」が違うらしい。授業始業時に、予想と違ったときの「八つ当たり」は、スマホ相手である。
「あんたの使っているアプリがよくないのよー」「そんなこと言われてもー」「ほかのアプリ使いなさいよー」。

予想を信用しすぎる人間様が悪い、ということにならない。

2014年7月16日水曜日

絆創膏

うら若い女子学生もクラスにはいるので、60秒の映像で「お話」をつくると、どうしても「恋愛沙汰」というのが絡んでくる。
片思い、告白、失恋、ストーカー、いやいや、人生まだまだこれからの20そこそこの学生が考えることは、当然のように、青いものである。

「失恋して悲しい」というような映像の描写があった。女子が呆然と、キャンパスのピロティに立っている。カメラは彼女の足下のローポジションでアップ。女子学生は、ウェッジヒールのサンダルを裸足ではいている。遠景に、男子学生と女子学生の足があり、寄り添って、並んで、それが遠くに去っていく。というカットである。

女子学生のくるぶしの下に、絆創膏が貼ってある。サンダルの靴擦れでもあるのだろう。新品ではなく、数時間前に貼った、と言う感じである。

たいていの学生は、ディテールを作り込む、という経験がない。衣装や持ち道具なども、役者役の学生の「お持ち合わせ」で間に合わせる。すると、こういった「生活臭」のある絵がときどき出てくる。わざわざ絆創膏を貼って撮影したわけではなく、たまたま役者をする女子学生が靴擦れしてた、というだけ、である。

そんな絆創膏を眺めていると、「生活臭」というのが大事なんだよ、と昔、ポルノ映画を監督していた人から言われたことを思い出した。ポルノ映画は、「きれい」だけではなくて、「リアル」な感じが必要なのだそうである。だから「生活臭」というのを、そこはかとなく、匂わせるのが絵づくりのポイントなのだそうである。枕元のマグカップの模様が、観光地のロゴ入りだったり、とか。脱ぎ散らかしたセーターの袖口がちょっとほつれていたり、とか。全裸の女が、かかとに靴擦れの絆創膏だけをつけている、とか。微妙なものであるらしい。

…くだんの学生の場合は、単に「うつってしまった」だけに過ぎないのだが。

2014年7月15日火曜日

眼中

1年生の授業では、ビデオを使って60秒ほどの作品を各自でつくってもらう。

初心者の入門編、といった位置づけの授業で、「ビデオカメラは触ったことがない」学生もいる。
多くの初心者は、カメラで撮影するときに「自分の見ているもの」だけをファインダーの中に見ている。
「機械」と言うものを通すと、光の反射がすべてフラットな情報として記録される。オーディエンスは、フラットになった情報をスクリーンの上で再確認する。
だから、撮影する側は、オーディエンスにすべての情報を伝えるのではなく、「自分の見ているもの」だけを見せることに苦心する。照明やピント、露出などの撮影の技術的なことはもちろんだし、ロケーションや持ち道具、衣装も、「情報」になるからだ。

であるから、1年生の撮影して来た映像素材と言うのは、ときどき面白いものがある。
本人は撮影時にはまったく意識しておらず、ファインダーの中でも無視しており、編集時にもまったく「out of 眼中」なのである。ところが、違う人間が見ると、まったく違ったものが「意識される」ことがある。

よくあるパターンは、被写体の背後を誰かが通り過ぎる、というケースである。それが誰か知っている人だったりすると、オーディエンスの意識はそちらに持っていかれる。
被写体の後ろに猫がいれば、猫好きは被写体ではなく、猫に持っていかれる。
うちの同居人はクルマ好きなので、クルマが映っていると、それに持っていかれる。
ファッション好きな友人は、女優さんではなく衣装を見ていたりする。
音響効果の人と映画を見に行ったとき、彼は映画のストーリーではなく、「音」を見ていた。
効果の人「主人公の乗っていたヘリコプターの音は、違う機種の音でしたねえ」
私「いや、全然気づきませんでした」
効果の人「実際にはあんな音はしないけど、あの場面にはあれぐらいの音がいいよねえ。でも違う機種の音だと、観客が気づくようではプロではないからね。気づかないからいいんだよ」

…そういうものである。

2014年7月14日月曜日

勢い

教員と学生の懇親会での「勢い」発言など、まだかわいいものである。

私が学生の頃は、それこそ勢い余って無礼講と化し、誰かが脱ぎ始め、裸踊りをし始める。男子よりも酒豪な女子も多い。つぶれた男子を介抱したり、つぶれた先生を介抱したり送っていった。
あまりの騒ぎに、本学学生お出入り禁止と叫んだ居酒屋もある。壁をぶち抜かれ、階段からぞろぞろと学生が転げ落ち、床が抜けたた。お詫びにその学生を担当していた教授が、自らの作品を贈呈した、という話があったりした。ちゃんとした絵描きの先生である。号何十万円、である。

若気の至り、というやつなのだろうが、同居人の学生時代は、体育会系のサークル所属だったので、もっと凄い逸話があった。
飲み屋の壁を壊した、床を踏み抜いた、階段を壊した、看板を壊した、塀を壊した、近道しようと他人の敷地に入って横切ろうとしたら犬に追いかけられた、打ち上げで胴上げをして天井をぶち抜いた、先輩の結婚披露宴で新婚夫婦の寝室にみんなでなだれこんだ、酔っぱらって帰ってベッドに倒れ込んだがそこは隣の家の寝室だった……。

今聞くとフィクションみたいな感じがする。ほんとなんだろうか。
ちなみに、作品を贈呈された居酒屋では、先生の絵が廊下に飾ってあったそうだ。売り飛ばしはしなかったんだねえ、というのが後日談だ。その居酒屋も、現在は廃業していて、存在しない。今は昔、である。

2014年7月13日日曜日

状況

同居人は女子大学で講師をしている。
学生は女子ばっかり、なのだが、もちろん教員や職員には男性もいる。

ちょっとした「勢い」とか、留学生とのやり取りの言葉のあやで、「セクハラ」騒動になることがあるらしい。
ゼミの打ち合わせに学生が出向いたら、喫茶店に誘われて、コーヒーをおごられた、くらいのことである。学生にしたら「学校外でふたりきり」なのだし、ほかの学生から見れば「あの学生だけ」だったりする。先生の方は、それ相応にいいトシなので、10年20年前の感覚と変わらない。単にコーヒー飲みながら話をしたかっただけだったりする。
難しいものである。

卒論の季節、男性教員は、ドアも窓も開けっ放しで、学生と個別面談をするらしい。部屋の外は寒いが、開けっ放しで暖房などきかない。コートを着て、背中を丸くして、外からいろいろな人が覗き込んでも気を散らさずに、面談しなくてはならないそうである。

学生にとって、そういう状況は、ありがたいのかしらん。

2014年7月12日土曜日

発言

いろいろな意味で発言には気をつけたい今日この頃、先日は大学教員と学生の懇親会での発言が、研究室での話題になっていた。

その場で言えば、他愛ないことだったりするのだろうし、酒の勢い、というのもあるのだろう。ただ、後で他人から聞かされると、セクハラ、と言えるかも、というのがある。現場で対処してしまうのが一番なのだろうが、酒もさめて、冷静になって、やっぱりあの時の発言は、と蒸し返されるのも、何となく後味が悪い。難しいものである。
さめた頭で考えるなら、それが「勢い」なのか「本音」なのか「建前」なのか、ということもあるかもしれない。酒の席ではなく、しらふで言われたらもっと問題になるのかもしれない。
そんなことを考え始めると、教員と学生の懇親会は今後一切なしにしよう、という方向を向いてしまいそうだ。

結局、問題の解決にはあまりならないような気がする。

2014年7月11日金曜日

トシ

大学を卒業して社会人になった頃は、まだ「セクハラ」などという概念はなかった。
懇親会に行けばお酌を強要され、オジサン達にお尻を触られる。若く純情であった(!)頃は、いやでたまらなかったので、そういう性向のない先生の背後に隠れたりしたものだ。そのうちに、オジサンあしらいの上手な人を眺めながら、その方法を覚えていくようになるものだ。

そのうち、こちらも大人になってくるので、オジサン達の興味はもっと若い女性にいくし、こちらも口八丁で対内出来るようにもなる。
早く結婚した方が! と言われれば、婿連れてこい! と返せるようになるし、自分が産んでから! と言われれば、産ませるんじゃなくてお前が産んでみろ! と言えるようになるのが、年の功、というものである。 
人間、伊達にトシは取らないものである。

ただ、そういったことは、本質的にはよろしくない、と思う。目くじらを立てたり、我慢したり、対策を覚えたりしない世の中の方が、はるかにありがたいのは言うまでもない。

2014年7月9日水曜日

耐性

私が学生だった頃は、美術学校と言うのは男性が多かった。教員はすべて男性だし、学生も男子が多い。女子がいない、というわけではないにせよ、ある意味で耐性がつく。

学生であることが身分としての第一義なので、恋愛よりも単位のほうが大切である。クラスにはとても「もてる」女子がいたが、ある日派手に男子を振っているところを目撃してしまった。「あんたとデートしていたら課題をやっている時間がなくなる。私は課題をやりたい。別れるからもう連絡しないで」。…うーむ、男らしい(!)。

授業は男女で格差がある訳ではない。課題も労働も同じである。重たい荷物を持つ、ような課題はないが、女子だからといって肉体労働を請け負ってくれるほど「レディーファースト精神」を発揮する紳士が来るような学校ではない。
もちろん成績評価にも男女格差はない。女子だからといって大目に見てくれるような講師もいなかった。
私の世代だと、性別が痛感されるのは、アルバイトや求人書類で「男子募集」の項目を見る時くらいだ。

2014年7月7日月曜日

反応

毎年、年度はじめには、学校の事務方からいろいろな書類が送られてくる。辞令とか、住所変更のお届け用紙とか、今年の学事予定表とか、そういったものだ。その中に、オフセット印刷のパンフレットが入るようになってしばらくになる。

「セクシャルハラスメント」についてのご注意喚起についての書類だ。学生にも同じ印刷物が4月のオリエンテーション時に配布されているようだ。いわく、どんな場合の、どのような言動が「セクシャルハラスメント」にあたるかという「ガイドライン」の解説、それに該当されると思われた場合のご相談窓口の開設時間と場所、あるいはご相談すべき学内の担当委員のリスト、などである。

ずいぶん前になるが、友人であるところの男性が、女子大学で美術実習を担当していた。学生は机に向かって作業をしており、先生であるところの友人は机の間を回りながら指導する。とある学生の机に向かって、実習指導を始めた。先生は立っているので、上から見下ろす格好になる。机の上の画面に実際に描画するのに、かがみ込む格好になる。とつぜん、その学生が黄色い声を上げたそうだ。「先生! 私の胸ばっかり見ないでください!」。季節は夏、学生は薄着で露出の多い格好になる。襟ぐりも深い服だったのかもしれない。
先生であるところの友人は、びっくり仰天したそうだ。まあ、学生本人が自覚するほど「豊胸」、とは思わなかったからだ。その場でなんとか納めたんだけどね、というのを後日聞いた。先生はその気でなくても、学生がそう叫べば、「セクハラ」と思われてしまう。そのケースでは、「温厚でセクハラとは無縁で無害なキャラクター」な友人と、「常日頃露出度が高く自意識過剰な」女子学生、というのが一目瞭然だったそうなので、社会問題にはならなかったらしい。

それでなくても、美術学校では、デッサンやクロッキーでヌードモデルを使う。「肉体」でいちいち反応していては美術はやっていられないのではないかと思うが。

2014年7月6日日曜日

しわ寄せ

他にも、施設を壊した、業者の搬入の通行を邪魔した、他の授業の邪魔になった、通行の妨げになったなど、他人の迷惑を顧みない結果を指折り数えてみるときりがない。教える方は、常識的な範疇を想定しているのだが、学生の頭の中と行動は予想外の展開が多い。予想外のトラブルを起こすたびに、研究室と収拾に追われる。うーむ、予想外だな、と思いつつ、今日も収拾に学内を走り回る。常識の範囲内、という言葉が、どんどん意味を失っていくのが見えるようだ。

結局、よそ様の邪魔になった場所は、「授業内の撮影可能場所リスト」からどんどんと外される。
そうして、当該の授業時間で学生の撮影可能な場所というのは、毎年のように狭まっていく。
先輩の素行は、後輩にしわ寄せが行く、と相場は決まっている。それが理不尽だ、と言う学生も時々いるのだが、そう言う学生がたいがいトラブルを起こす。

結局のところ、どんな作業であれ、現場や周囲の状況、関係者の気持ちや印象を想像できない、自分たちの作業だけに集中してしまう、というのが原因に過ぎない。なぜこうも、他人のことを想像しにくい学生がやってくるのか、と言うことが、ここ数年の謎である。それは、家庭教育なのか、幼年期の教育なのか、予備校の競争的な教育のせいなのだろうか。

2014年7月5日土曜日

ご注意

撮影する、ということは、学生にとっては「特権」に思えるのかもしれない。

毎年、作品のプランを聞いていると、よく出てくるのが「エレベーターを使う」ものだ。
遅刻しそうになってエレベーターに飛び込む、エレベーターに乗ったら突然止まってしまった、急いでいるのにエレベーターは満員である、といった、生活状況に絡むものは、ごくごく自然に使われる。エレベーターに乗って到着階に止まったらそこは異次元だった、といったものまである。

学生さんのプランは、常日頃使っているものやこと、道具から発想することが多い。特に、最近使い始めたもの、使っていることが「面白い」とか、他者と違うと思っているものを使う傾向がある。エレベーターもその類いなのだろう。
学生さんに欠けてているのは、エレベーターは撮影用の小道具ではない、という視点である。
学内の通常生活圏内で撮影を行う。特にこの作業のために学内では特別に配慮されることはない。エレベーターもしかりである。

数年前に、エレベーターを使った撮影をしていたグループがあった。通常使用範囲内で、というお約束であったのだが、私やティーチングアシスタントが見ていない隙を狙って、彼らは「通常ではない使用方法」で撮影をしていた。長時間占有し、ワンフロアに長時間停止させ、他の利用者を乗せずに上下を繰り返した。通常の使用とは動き方が違うので、エレベーターの管理者がとんできた。学生は「故障じゃないですよー」と明るく振る舞ってしまったので、こちらは大学の施設管理者からご注意を受けたことは言うまでもない。もちろん、こういった「授業の小道具として」今後エレベーターは使わない、というご注意である。

かくしてエレベーターも「使用注意箇所」になっていった。

2014年7月4日金曜日

ご希望

撮影する、ということに、優越感を覚えるのかもしれない。

ある学生は、許可が必要な撮影場所の許可を得るために、午前9時から12時まで図書館閲覧室で撮影希望、という届け出を出した。

もちろん、「撮影される場所」側としては、9時から12時まではスタンバイ状態にならなくてはならない。フルスタッフ、万全の体制で待機していた。
ところが、学生の方は待てど暮らせどやってこない。やって来たと思ったら11時半過ぎ、10分ほどちゃちゃっと撮影して風のように去っていった。
2時間半を返せ、と撮影場所で待機していた担当者が考えるのは無理もない。

学生の方は、9時から12時のうちどこかで行ければいいなー、くらいの認識である。現場の待機担当者が、その後真っ赤になって怒って怒鳴り込んでくることくらい、見当がつくと言うものだ。

撮影する側が考えている以上に、撮影される側は「かまえる」ものである。それを忘れてしまえば、「現場」など撮影できるわけがない。

2014年7月3日木曜日

ご迷惑

ビデオカメラを使った実写映像の実習を担当している。撮影は授業時間内、学内が条件である。
「枠」をある程度決めておかないと、制作と言うのは上手くならない。条件がきつければ、その範囲内をいかに逆手に取るか、といったアイディアで勝負することになる。

さて、ビデオカメラを持つと、いきなり傍若無人になるタイプの学生がいる。人を止め、クルマを止め、場所を占拠し、使いっぱなし、散らかしっぱなしにするのである。こういうタイプの学生がいると、「撮影と言うのは害悪である」と受け取られかねない。

ずいぶん以前の学生だが、ちょっと目を離した隙に、傍若無人を発揮してしまったのがいた。
学内の校舎のひとつは、すべてのフロアのトイレが同位置に配置されている。窓は西向き、晴れていれば洗面所の窓から富士山が見える。2階から7階くらいまでのフロア数で、フロアが違うと窓外の風景が少しずつ違うわけだ。
学生の作品は、トイレに入った主人公が、洗面所の窓から外を見る。忘れ物に気づき、個室に戻り、また洗面所から窓外を見るとちょっと風景が違って見える。そんなことはないよね、と手を洗って顔を上げると、窓外の様子が違うようだ。はてな、という展開だ。
撮影する学生グループは、その校舎の女子トイレのすべての入り口に、こんなことを書いた紙を貼った。
「本日、授業の課題のため、撮影に使います。12時までトイレは使用しないでください」。
こちらの授業は午前中なのだが、その校舎は、さまざまな講義室や実習室が入っており、多数の学生も教員も出入りする。各フロアに一カ所しかないトイレにそのような張り紙が出て、学生も教員もびっくり仰天である。

そんな状態であれば、トイレを探して、休み時間はごった返す。使用可能なトイレは男子トイレだけである。女子は他の校舎のトイレに走る。大騒ぎになる。
張本人であるところの学生は、すべてのトイレで同時に撮影しているわけではなく、あちこちのトイレを出入りしながら撮影していた。変な張り紙がある、と誰かが施設管理者に連絡、そこから研究室に連絡が来た。スタッフに急行してもらって、撤収させた。
張本人と話をすると、撮影だから使用できると思っていた、らしい。いやそれは限度と言うものがあり、撮影だから何でもOKというわけにはいかない。研究室のスタッフと油を搾った。
学校は撮影のための施設ではないからだ。他人の迷惑、ということが想像できれば、こういう状況は回避できたはずなのだが。

2014年7月2日水曜日

無意識

学生さんの授業を見ていると、いろいろと感じることがある。

大震災直前に、スマホか携帯電話で入学試験のカンニング、というのが話題になった。学生さんが大学に持ち込むガジェットもいろいろと増えた。最近減っているのは携帯ゲーム専用機、それにいわゆるガラケーという携帯電話専用機、電子辞書の類いだろうか。

携帯電話からスマホになって顕著になったのは、授業中に教科書ではなくスマホに熱中している学生が多くなったことである。実習作業だと、まあ折々に調べもの、という状況があるので、授業内では禁止していない。しかしそれを拡大解釈して、ずーっとスマホでSNSをしていたり、ゲームをしていたりするのである。ああこれがスマホ中毒というものか、と思う。授業中に必要なければやらないようにと注意しても、5分ともたない。ちょっとこちらがよそ見をしている間に、スマホを取り出して画面をすりすりしているのである。ああこれが依存症というものか、と思う。

我慢できないのは「飲み物」も同様に感じることがある。コンピュータがぞろぞろ並んでいる部屋では、「飲食禁止」が原則である。授業内でも最初に注意する。にもかかわらず、さりげなく鞄からペットボトルを出してごくごくと飲み始める。ああこれが習い性というやつか、と思う。注意すると、「あっっ」と言って、初めて気づくのである。「飲んでいる」という自覚がない。以前に美術館の展示室でペットボトルごくごく、というのを目撃してびっくりしたことがあったが、同様である。教室で休み時間に飲むならいざ知らず、授業中にもごくごくである。缶コーヒーや缶コーラはさすがに栓も出来ないので、その場で飲みきるしかない。だから授業中にごくごく、というのは見受けることがなかった。

文明の利器は、人間の行動意識まで変えてしまうものである。