2017年6月30日金曜日

会計

数年ごとに研究室のコピーはリース期間の更新と共に新しくなる。新しくなるとそれなりに新しい機能もついてくる。いろいろとかゆいところを探して機能にしているわけだ。
もちろん、この手のリース物件は、ランニングコストは別会計である。機械内にカウンターというのが入っていて、プリントした枚数を勘定している。1枚いくら、である。もちろんファックスすれば電話代は別。メーカーの保守契約代金も必要だ。ある程度の消耗品は保守料金だろうが、紙代は別。使えば、使ったなりに、お金がかかってくるようになっている。
日頃眺めていると湯水のように使っている文明の利器である。同居人の勤務校では1−2年ほど前から「コピー緊縮令」が出た。カラーコピーで、学生に毎回10枚ほどを配布している美術史の授業があったらしい。美術学校の美術史だから、受講生も多い。カラーコピーが1枚30円として、一人300円、300人ほどの授業なら1回の授業で90000円、15回の授業があるのでプリント代だけで135万円、講師料よりもはるかにお高い。現在はプリントは回収の必要があるものだけになり、資料配付はサーバーから学生がダウンロードする方式になったらしい。やっとペーパーレスになってきたというわけだ。

2017年6月29日木曜日

コピー

勤務校の研究室にはコピー機がある。今やオフィスの必需品である。多くのこの手のオフィス用機械がそうだが、これもリース物件である。両面読み取りフィーダー、ソーター、ホチキス止め機能があって、プリンター、ファックスもできる。なんでもこい、というのがここ数年の流行である。
四半世紀前はこんなものはなく、あっても高嶺の花だった。コピー、と言えば、青焼きである。当然のように、授業内でプリント配布などない。あったとしても、最初の授業での「ガイダンスシート」程度である。その頃は、「コピーする」ではなく「ゼロックスする」だったし、英語で言えば「photocopy」である。
ゼロックスがぼちぼち普及してきた頃は、まだまだアナログな機械で、拡縮率は数通り。それがデジタルになり、1%単位で拡縮できるようになった。画期的だ! と感動したものだが、その普及に伴って、デザイン事務所からは「デザインスコープ」がなくなっていった。デザインスコープというのは何か、というのは余談になるので置いておく。
その時分から授業内配布プリントというのがぼちぼち増えてきた。相前後してワードプロセッサというのが普及してきて、レジメをつくってくる先生が増えてきた。研究室のお仕事に、授業用プリントのコピー作業、と言うのが増えたわけだ。
さて、同居人の場合は、大人数の授業なのでプリントは100部。学校では、同じ時間帯にいくつもの授業があるから、それぞれ100部ほどプリントする先生がいる。プリント1枚、で済む人はまれで、中にはひとりに10枚近くのプリントを1日に配布する人がいる。授業開始時間よりも早く控え室に行くのは、コピー機争奪戦があるからだ。
毎日コピー機さんお疲れさま、である。

2017年6月23日金曜日

世代

スマホ依存、という学生さんも多くなったわけだが、ある意味では、こういった電子機器の扱いには慣れてきたという見方もあるだろう。
コンピュータが必須の授業が始まった頃は、キーボードが「コワい」という学生さんが少なからずいた。タイピング、ということすらしたことがなかったので、キーボードで「d」はどこか、「k」はどこか、などと大騒ぎだった。ブラインドタッチなど申すまでもない。一本指打法である。「左クリック」を、右手でクリックするから「右クリック」と信じて疑わない学生さんもいた。マシンの電源を落として、と言ったら、すかさず電源ボタンを押して、作業中のデータを全部飛ばしてしまった学生さんもいた。
ここ数年だと、スマホのフリック入力は出来るのに、キーボードをあまり知らない、という学生さんもいる。「コントロールキー」や「デリートキー」を知らない、というわけだ。違う授業科目の話だが、レポートを作成するのにスマホで作業している学生がいたらしい。あんな細かい画面で良くやるなあ、と感心したが、それより前に親指が腱鞘炎にならないか心配にもなった。データでテキストレポートを送ってきたらしい。印刷の方法は知らなかったようだ。ここいらへんも、「スマホ世代」である。

2017年6月22日木曜日

現場

担当している授業の一つは、1年生のクラスである。当然のように、毎年1年生を見るわけだ。最近の学生さんは浪人が少ないので、概ね18−19歳くらいの「青二才」である。
10年以上前から「ケータイ」世代。そういえば、「ポケベル」世代というのもあったよな、などと思うのだが、ここ数年は「スマホ」世代である。ケータイ以上に、自他共に認める「依存症」が多い。いくらケータイ好き、と言っても、今のスマホ好きにはかなうまい。
構内の廊下や、通路など、こっちが気をつけないと、歩きスマホ学生に正面衝突しかねない。教室や廊下のコンセントは、必ずどこかで「充電中」のガジェットがぶる下がっている。そんなに熱中していてバッテリーを消耗して、肝心の連絡がつかなかったらどうするのだろうと思っていたら、鞄の中からモバイルバッテリーを出して見せてくれた学生がいた。ひとつ、ではない。二つ、三つである。
授業中のtwitterが数年前までのトレンドだった。「いま授業なう」、である。さて、ここ1−2年はLINEが流行である。twitterやfacebookなどは、投稿すれば一段落するSNSだが、LINEは常時相手がいてやりとりするような構造で、必然的にスマホ凝視状態である。もちろん授業中もひっきりなしに何か打っている。打ち終わると、1−2分したらまた打ち始める。私の世代で言えば、長電話状態である。受話器を置かずにずーっと抱えている感じである。
授業中に情報を収集したり、デバイスで書類を参照したりすることが多くなって、授業中スマホ禁止と大声でアナウンスはしていない。デバイス上のマニュアルを見るついでにLINEを始めてしまうと、授業の方は上の空である。途中でお腹が痛いのでトイレに行っていいですか、というので、本当に具合が悪いのであれば保健室に行きなさいね、と言ってドアを開けたら、ハンカチではなくスマホを握りしめている。お腹が痛くてトイレに行くのに、なぜスマホが必要なのか、理解に苦しむ。あげくに、スマホで授業以外の作業はしないように、特にLINEは、などと中学生に言うような注意をする羽目になる。これが高等教育の現場なのかと思うとがっくりである。

2017年6月21日水曜日

ダイエット

時折、すれ違う車は真っ赤なのだが、ボンネットの色が真っ黒。色が違うのが気になっていた。詳しい人に聞くと、ボンネットだけをカーボンにしているのでは、ということだった。
クルマのボディーは一般的にスチールでつくられている。鋼鉄だから、それなりに重たい。一方、乗り物などで速度をそれなりに出すには、自重を少なくするというのが基本だ。競馬のジョッキーは小柄である。自転車で言えば、サイクリング用のそれはママチャリよりもかなり軽い。それと同等で、クルマもボディーを軽くすればスピードを出しやすい。街乗り、一般車両であれば、まずはアルミホイルにする、というのが常識、その次にやることは、パネルをカーボンファイバーにするのだそうだ。ただし、全部カーボンにしてしまうと、かなりお高くなってしまうことと、紫外線による劣化が大きく、またクルマの強度は小さくなる。その兼ね合いが面倒らしい。ちょっとでも軽くするために、パネルをひとつカーボンにする、という作戦をとることがあるらしい。
さて、すれ違うクルマのボンネットは黒いので、カーボンファイバーだろうと思われる。従って、オーナーはクルマ好き、しかもラリーとかレース好きなのかもしれない、と思われる。カーボンはお高いので、それなりに懐具合もあるりそうだと思われる。
だから、というわけではないが、ついドライバーに目が行くことになってしまう。
若い、とは言えない。スマート、とも言えない、むしろ懐具合並にフクフク、といった体型である。
うーむ、ボンネットをカーボンにすれば、どの程度自重が減るか知らないが、ドライバーのダイエットの方が効果的な気がするのだが。

2017年6月20日火曜日

マクラ

いまどきの、とマクラがつくようになったら年寄り、と言われる。若いもんに「昔の」などと、生まれる前のことを言っても意味はない。彼らには「いま」しかないからだ。
まあそれでも、年をとってみると、以前との比較で考えることは多くなる。大学の1年生相手でよく考えるのは、高校までの教育成果としての「学生」さんである。
年寄り世代になくて、いまどきの学生にあるのは、「情報科」という科目である。コンピュータとか、情報リテラシーを教える、という科目である。一方減っているんだろうなあと思うのは、いわゆる工学系の技術科、家事系の家庭科である。男子でも5寸釘が打てない、図面が読めない、女子でも裁縫が出来ない、包丁が扱えない、という場面を見かける。個人差なのかもしれないが、授業でやったのでは、と聞いたら、やってません、と堂々と答える。おうちのお手伝いもしたことがないのだろう。
ではいまどきの学生さんは、情報系はばっちり、なはずだが。簡単なプログラミングをやったことがある学生から、パワポで何かつくったことがある、インターネットで調べものをした、程度までかなりばらつきがある。情報科には、学習指導要領などというものがないような印象すらある。教える側の能力差が大きい、と言えばそれまでだろうが、義務あるいはそれに近い教育制度で、なおかつ、いまどきのリテラシーとして重要な「情報」系の科目で、それはまずくはないだろうか、と思う。
今や昔、であるが、技術科という科目でも、学校によってはかなりばらつきがあった。私の世代の男子に聞くと、エンジン全部分解再構築、丸太から板を切り出して椅子と机を作る、などというのがあった。私は女子校だったので、家庭科オンリー。やはりお裁縫が多く、ボタンホールはフランス風を教わった。中学生の頃、ブラウスやスカートをつくったのだが、ジャストサイズで型紙をつくったのが4月、出来上がるのが数ヶ月後で、出来た頃にはサイズが変わっていた。成長期まっただなか、だったのである。
いやしかし、今考えると、エンジン分解など面白そうだなあ、と思うのだが。

2017年6月16日金曜日

蕎麦屋

曾祖父は、大学で教えていた。大正から戦前の話である。
大学は今ほど給料を出さなかったので、ほぼ無給というのが雇用の条件だったらしい。その頃の家訓が、そば屋で昼飯を食べない、というものだったそうだ。
授業の合間に昼食を外でとることになると、どうしても同僚と一緒になる。話はどうしても授業の話だったり、教え子の話になったり、愚痴だったり、する。どこで誰が耳をそばだてているか分からない。学内のことは外部に出すな、という教訓である。
翻って、いまどきの先生たちはよく外に食べに行く。同僚も伴う。近所の飲み屋で大騒ぎしているグループがいて、様子をよーく観察していると、近所の学校の先生だったりする。がっかりである。
新学期になってから、先生のtwitterが話題になった。「思っていたようなクラスのメンバーにならなかった」といった趣旨のコメントである。案の定炎上である。
発言の内容以前に、twitterがいまどき「ひとりごと」だと思っている方もいかがなものか。お仕事の愚痴を外には出さない、というのは、先生という職業以前に、どんなお勤めであっても前提なのだと思っていたが。
人はさまざまな失敗を重ねて大人になるものだが、今日ではちょっとした失敗も、大問題になってしまい、「重ねる」どころの話ではない。辛い世の中、ではある。

2017年6月15日木曜日

未来

食洗機が故障した。杞憂してから2ヶ月である。https://tcd5m.blogspot.jp/2017/04/blog-post_6.html
製造がとっくに中止されている業務用メーカーの家庭用卓上型機器である。修理が出来るかと電話をしたら、速攻でサービスマンがやってきた。製造中止機器なので修理できるのかと言えば、倉庫にある在庫のパーツをかき集めてみます、と言う。翌日見積書をわざわざ持参して、ほぼ8割のパーツが集まったので、オーバーホールしますか、と言う。軽く大手メーカーの卓上型製品値段になる。これで数年はしのげるのか、と一発奮発である。
入院中は食器手洗い、ということになる。いない間に食洗機のありがたみをしみじみ感じる。手荒れのひどい人や、油汚れの多いものを洗う人には、文明の利器である。アンダーカウンターの据え付け型だと、4人家族1日分まとめて洗う、という感じになる。少人数の家や、食器をよく使い回す家なら、小容量で回転を多くした方が便利に思える。
大手家電メーカーだと、小容量だが1回の運転が小1時間である。実家でもそうだが、鍋釜までは突っ込めない。
ほとんどの国産電機メーカーが撤退した現在、食洗機の未来が心配である。

2017年6月14日水曜日

煎餅屋

学生さんと話をしていると、世の中は「自分たち世代」しかいない、という感じがすることが多い。流行の歌や番組など、「知っていてしかるべき」という前提で話をする。他の世代は「世の中に存在しない」というのが彼らの常識である。
さて、2年生の授業ではフィールドワークを含めて作業をする。学外に放り出すと、いろいろなものを見るし、さまざまな人と関わる。そして自分たちの視野の狭さを知る。ただし、「自分たち世代しかいない」と思っている学生さんは、視野の狭さを知るのにすごく時間がかかる。ところが1学年に数名ほど、早い時期に、視野がものすごーく広がる学生さんがいる。こういう学生さんは、フィールドで他人のお話を聞くのが上手である。決まった傾向があって、他人、といっても年寄り、にである。ニコニコと挨拶をして、おしゃべりをするのが上手い。あげくに、あめ玉をもらったり、缶コーヒーを買ってもらっていたりする。
こういうタイプを、授業内用語で「年寄り転がし」と言っている。
ある学年で、地味な女子学生がいた。小柄で声が小さく、引っ込みがち、目立たない学生である。ところがフィールドワークをすると、年寄りとおしゃべりするのがえらく上手い。一気に「デビュー」、クラスで注目の的、である。よく聞いてみると、実家が草加市で煎餅屋をやっており、兄が跡取りとして修行中、妹の彼女は売り子の看板娘、なのだそうだ。どうりで、年寄り扱いが上手いわけだった。

2017年6月11日日曜日

営業

大学は厳しい時代である。黙っていても受験生が群がる時代ではないので、積極的に営業を行う。
大規模な営業活動の一つに、「オープンキャンパス」というのがある。お若いと何でも略語にしてしまうので、通称「オーキャン」。初めて聞いたときは、ドタキャンの親戚かと思ってしまった。
勤務校では、6月初めの週末がそれにあたっている。学科ごとにバナーをつくり、パンフレットをつくり、授業参観が出来たり、課題作品を展示したり、という作戦である。普段の授業を見せるのが、オープンキャンパスのそもそもの意図だったと思うのだが、今やお祭り騒ぎである。研究室のスタッフ、受付をしていたりする学生たちがお揃いのTシャツで廊下に並んでいる。うーむ、こういうお祭り好きが多くて、普段は何やってんだか、ということを見せるには良いのだろうが。
実際のところ、展示をしたり、パンフレットをつくったりという実務は、研究室のスタッフが担っている。私の頃にはなかったイベントである。余計なお世話だろうが、研究室スタッフは、余計な業務だと思わず、一生懸命やっている様子が泣かせる。
こんなにしてまで営業しなくてはならない、ということも泣かせる。ここまでするのであれば、もっとダウンサイジングすることを考えれば良いのに、と考えたりもするのだが、ことに男の人はイケイケどんどんというタイプの人が多いので、ダウン、などとは考えたくもないのだろうが。
毎年イベントとは関係なく、通常授業をやっていると身としては、いつも通りに授業をさせてほしいものである。

2017年6月10日土曜日

ベクトル

写真の先生と少し立ち話をしていた。最近の学生さんは−、というのがマクラである。
写真の先生がここ数年がっくりしていることがあるそうだ。授業時に、褒めた学生さんが、しばらくして「写真を見てください」とやってくる。見せてくれたのは「鎌倉に遊びに行ってきました」な感じの、記念写真だったそうだ。
そういえばなあ、と自分の授業も思い起こす。私の方は実写のビデオを担当しているのだが、そちらもここ数年「ホームムービー」風な作風が目立つからである。
それが意図してか意図していないかはよく分からなかったのだが、最近の学生さんはスマホで動画、インスタグラムなどのSNSで公開、というフローが多い。小学生の「憧れの職業」に「You Tuber」が入っている。初期のそれはかなり計算されて台本が書かれているように見えるのだが、表面上は「お気楽ムービー」に仕上げている印象がある。それに騙されているのか、本質を読み込めないのか、動画作成は「軽いノリ」で「稼げる」と思っているのかもしれない。やたらカメラを振り回す、ピントも露出も関係なし、表現の特性や特長も理解しない、とりあえず機材をいじり倒す、という印象である。
ビデオカメラや編集ソフトの宣伝コピーを眺めると、「プロ級の仕上がり」「ハイクオリティ」「最高画質」なのが多い。決して、「作り手のコンセプト」などには立ち入らない。
写真で言えば、ライカを持っていてもアマチュアはアマチュア、「写ルンです」で作品を制作するプロ。ホームムービーを否定するわけではないが、美術の畑で作品を制作するのであれば、少しベクトルが違うような気がする。

2017年6月7日水曜日

シベリアへの道

学校というところは、どこでもそうなのだろうが、構内に校舎が点在している。私が学生だった頃は、まだあまり建物がなくて、敷地のど真ん中にグラウンドがあった。
20年以上前から、グラウンドの上に道路が計画されていた。いつなくなるか、と言いながら数十年経ったのだが、やっとここ数年でグラウンドが撤去された。つまり道路を境に、キャンパスは南北に分断された。
数年前から南北を自由に横断するのは歩道橋か地下道か、などと教授会で話題になっていたようだが、それも結局地下道に落ち着いた。工事状況を眺めていたが、土木工事というのはすごいものである。
さて、昨年出来た南北地下道だが、いまどきの学校らしく「愛称募集」などというポスターがしばらく貼ってあった。1等賞に豪華賞品! だったかどうかは知らないが。
分断された北の方には彫塑のアトリエがある。ほぼ全ての学生が必修で学ぶ実習科目のアトリエである。かなり肉体労働な科目だったので、デザイン志望のヤワな学生には辛かった。ドロップアウトする学生が何人かいた。単位を落としてしまうと「再履修」である。つまり、その科目で何が何でも単位を修得しなくてはならない。落としたままでは卒業できないからである。カリキュラム編成上の都合で、正規の授業時間内には「再履修」することができない。それで、授業が開講されていない期間、つまり冬休みに1週間の集中履修が用意されていて、そこに参加することになる。
彫塑のアトリエは冷暖房がなかった。ふきっさらしで、下はコンクリの打ちっ放し。木彫だとアトリエは「建物」の中だが、コンクリの塊を彫塑する課題だと、屋外、上は雨よけの「テント」だけである。当然のように、再履修期間は冬である。寒いどころではなく、すごく寒い。再履修して通うのは「シベリア」と言われた。私の場合、「シベリア」に通いたくないがために、彫塑の単位取得に一生懸命だったと言ってもいいくらいだ。だから、北に向かう通路の名前は、私の世代だとそれは「シベリアへの道」としか考えられない。
最近の課題では再履修の学生が少ないのかもしれないし、冷暖房完備なアトリエになったのかもしれない。アトリエや再履修のクラスをシベリアとは言わなくなったようで、もちろん採択された通路のお名前は「ガレリア」だった。なんか、ショッピングモールのようである。

2017年6月6日火曜日

方言

同居人の最近のお仕事のひとつは、「スクールカウンセラー」である。
いじめ問題や教員の不祥事など、メディアで良く取り上げられている。その対策に、文科省が旗を振って「チーム学校」などと音頭を取っている。その「チーム」にいる、というわけである。
文科相が旗を振っているからと言って、全国的に即座に配属されたわけではない。こういうのは、自治体の教育委員会の裁量なので、全国一律同じように配属されてはいない。
一般的に思い浮かぶのは、生徒相談室で生徒個人のお悩み相談、というところだろう。必要な資格に「臨床心理士」などというのがお馴染みである。翻って、同居人の方は、学校心理士、という資格である。どちらかと言えば、先生側のサポートのウェイトが大きい。今のところは、市の教育委員会で設置されているチームで、市内の小中学校を巡回し、学級運営をサポートしている。
サポートするからには、学校内の授業の様子も見ることになる。
先日は、市内の小学校に出向いて行って授業参観してきた。「英語」の授業だったらしい。小学生相手なので、外国人講師が、歌やゲームをしながら、日常的な会話に慣れる、という内容だったようだ。外国人講師、と言われればそうなのだろうが、その学校では明らかにフィリピンなまりの英語で、かなり派手なお姉さんが教えていたらしい。英語、と言っても、フィリピン風である。
まあ、インドなまりとか、エジプトなまりとか、コックニーなまりとか、オーストラリア風とか、英語と言ってもそれぞれあるので、国際的、と言われればそうなのかもしれないが。

2017年6月5日月曜日

登録

新学期が始まって2ヶ月が過ぎた。ぼちぼち学生も落ち着いてきた頃、と思っていると遅めの5月病になっていたりする。難しいお年頃である。
同居人の方は今年は90人前後の受講生を抱えている。出席者の確認チェックは帰宅後の私の作業である。
昨年度までは、同じ時間帯に行われていた授業の講師が、あろうことか同居人とルックスがそっくりだった。短身、メタボ、坊主頭、メガネ、チョビ髭である。教職課程、必修科目なのも一緒である。おかげで、授業を取り間違えている学生が数名いた。本人は当然のように受講しているのだが、登録名簿に名前がない。教務課で調べてもらうと、あちらの授業の受講生である。授業名が全く違うし、シラバスの内容とも違うのに、疑問に感じないのだろうか、というのが謎だった。
そちらの授業の講師は無事定年退職で、今年度から後任の先生が新しくやってきた。今年度は講師が変わったので、受講間違いはないのだろうかと思っていたら、あにはからんや、今度の先生の方が同居人にそっくりらしい。やはり短身、メタボ、坊主頭、メガネ、チョビ髭である。類は友を呼ぶらしい。

2017年6月4日日曜日

対策

インターネットでメールを使うようになってしばらくになる。使うようになった、ということは、一方で使わなくなったものもある。メールでやりとりするようになって、急激に使用頻度が落ちたものにファックスがある。
ファックス、という機械が出現したころは画期的だった。なにせ、自宅にいて、海外と即座に文書のやりとりが出来る。国際電話だと時差があるので、先方のオフィスアワーに電話するのに夜中に起き出さなくてはならない。致命的なのは、会話力の差なのかもしれないが、それよりも前に、あの「タイムラグ」でなかなか意思が通じなかったことだ。おかげで、新聞社でテレックス、などというものを拝借したことがあったくらいだ。
ファックスが出てきて一番先にやったのは、ホテルの予約とその確認だ。テレックスも今や死語だが、今やファックスもその後を追いそうだなーと思っていた。
電子メールの少し前は、文書のやりとりは郵便よりも早いファックス、というのが便利だった。ぴろぴろー、という音色を聞いていると、機械さんが一生懸命通信している実感があった。
電子メールになってから、それよりも高精細、大量の文書もあっという間に送れるのである。もちろん、あっという間に、ファックスの使用頻度が激減した。しばらく使わなかったので印刷用紙が残り少なくなっていたり、用紙切れで受信できなかったり、インクリボンの具合がよろしくなかったり、などというトラブルとは無縁である。
何かの時のために、自宅でもファックスを置いてはいるが、私の仕事に関しては、ファックスのやりとりはほぼ皆無になった。せいぜいあっても、家電修理の見積もりを送ってもらうくらいである。
同居人の方は、未だにファックスのやりとりがある相手がある。電子メールなど使いこなせない年寄りだと思われているのかもしれない。早朝、ぴろぴろーとファックスを送信している。
ところが、同居人の勤務先では、最近ファックスが復活した。電子メールの添付ファイルにウィルスが入っていた、ということがあったらしい。ウィルス対策していれば問題はないのだが、役所というのはそういうことにあまり強くない。対策を立てる前に用心、ということになったらしく、メールサーバーで添付ファイルが使えない設定にしたらしい。ファックスならウィルスは来ないのだろうが、やはりこちらも、早朝ぴろぴろーとやりとりをしている。
アナログな風景復活である。

2017年6月3日土曜日

別々

授業期間以外は、ぼちぼちとフリーの仕事をしている。どんなお仕事であっても、請求という事務作業がある。いまどき現金でギャラをくれるところはないので、口座に振り込んでもらうことになる。口座番号と口座名など伝えるのが事務作業、である。
普段のお仕事は旧姓でやっている。まわりを見回すと、そういう人も多い。大学の延長上で仕事をしていることもあって、あまり不自然さはない、と思っている。これで三度目の名字なのだが、変わるたびに姓名判断では運勢が落ちていく。右肩下がりな人生である。生まれたときに姓名判断でもして、命名したのだろう。親心である。しかし、名字が変われば判断が変わるなど、赤ん坊の頃には思われていなかったに違いない。ともあれ、右肩下がりではいやなので、一番運勢の良い名字で仕事を続けている。
勤務校ではあまりうるさいことを言われなかったので、職員名簿と給与振り込み明細書の名前が違っていた。その頃は経理の係と顔パスだったので、毎度毎度、などと挨拶して明細書をもらっていた。まあ業界としては、ペンネームなど使う先生も多かったのだろう。
面倒なのは、フリーで仕事をしていて、お仕事場と振込口座の名前が違うと、問い合わせが入ることである。赤の他人の口座ではないかと考えてくれるらしい。振り込む側としても、お仕事名前で振込を手続きしてしまい、口座名見当たらず、と組み戻しになってしまい手数料が発生したりする。
こんなトラブルがたまにあるのだが、こういうときに夫婦別姓だったら面倒ではないのだがなあ、と思ってしまう。通称で問題がない、と国会議員は思っているのだろうが、面倒くさいのを我慢している、のである。