2016年2月23日火曜日

横並び

横長の画面になったのはなぜか、という議論が出るたびに出てくるのは、「人間の目玉は横に並んでいるので視野は横長」という話である。
油絵のキャンバスで言えば、ポートレート用にF、風景用にP、海を描くのにM、とだんだん横に長くなっていく。人間は縦に長い動物なので、横長の構図では周囲ががら空きになってしまう。だから、撮影するときに、人物以外のスペースに何を入れるか、というのをしつこく注意したりする。特に初心者は人物しか見ていないので、がら空きになったスペースなど見ていないことが多い。主人公以外の「空きスペース」に、犬がいようが猫がいようがヤギがいようが、気づいていない。横位置は人物を含めた環境や状況も伝えるが、縦位置だとそういった情報は排除できる。人物だけを見せたいのであれば、この方が効率的で、ぼろがでにくい。

必要は発明の母なので、そのうち縦位置専門の放送チャンネルや縦位置専用モニターなどが出るのかもしれない。一般的に現状では圧倒的な横位置な業界なので、全世界的全面的にそうなるとは限らないだろうが。 

2016年2月22日月曜日

アスペクト比

動くものを記録し、再生する、というフィルムの発明から百数十年、フィルム送りの機構の制約もあるのだが、基本的に動画のアスペクト比は横位置、途中では変更できない。一方シートフィルムの方は、そういった制約はなく、ポートレートを撮影することも多かったので、縦位置の構図もよく使われた。動画の場合は撮影も再生も同じアスペクト比の画面を使う。
そもそもフィルムのアスペクト比もどうやってそうなったのか、という話もあるかもしれないし、テレビ画面のアスペクト比は誰が決めたんだ、という話もあるかもしれないが、人間どうやら横位置が落ち着いて見ていられる、ということだったのかもしれない。スタンダード、という比率があって、フィルムで言えば16ミリ、テレビで言えばNTSCアナログ放送などは、4:3。今時のハイビジョンテレビは16:9なので、かなり横長である。そもそもそれも、映画館で見るようなワイドな画面、シネスコサイズを志向していたので、という話もあった。少なくとも、その頃は「縦位置」の動画はインスタレーションなどの特殊な上映形態が必要だった。
そういった経緯で、基本的に動画は横位置、再生画面も横位置、だからカメラも編集ソフトも「縦位置」はフォローしない。ところがスマホで撮影したら縦位置、一眼レフでもひょいと持ち替えて縦位置で撮影する学生が出てきた。編集ソフトで作業しようとしてパニックになっていたりする。「先生っ、画面が縦位置になりませんっっ」。そうなのである。ならないのである。

スマホで撮影してスマホで再生する、デジタルサイネージ用に使うという用途なら、縦位置で編集できるソフトというのもぼちぼちと出現してくるのかもしれないが、あくまでもイレギュラーなものである。 

2016年2月21日日曜日

スタンダード

考えてみれば、彼らは、中学高校からスマホを持ち、自撮りしてSNSにアップロード、友達と共有、などというのが日常茶飯事である。スマホで写真を撮影したり、動画を撮影したりするときは、必然的に「縦位置」になる。

携帯電話端末でワンセグ放送が受信できるようになった頃、画面側が90度回転する機種が出てきてびっくりしたことがあった。電車では画面を回転させて、イヤホンをつないで、プロ野球を見ているおじさんがいた。確かに、二つ折りの携帯電話端末で、横長の画面を見るのはちょいと見難いのだろう。必要は発明の母である。

一方、スマホの方は二つ折りではない。写真を撮るなら片手でほいっと持ち上げてそのままボタンを押す。機器がそうなっているので、逆に横位置だと両手を使わなくてはならない。操作は常に縦位置の画面を見るので、どうしてもそこで見やすいものは「縦位置」の構図になる。スマホが彼らの生活で使われる機器の全てになりつつある現在、そこでの使い勝手は彼らの「スタンダード」になっているわけだ。 

2016年2月20日土曜日

縦位置

日本の高校までの教育課程では映像制作というものを教えてはいない。教えている授業があるなら、私学で自由にカリキュラムが組めたり、特別熱心な先生がいたり、ということで、全生徒が学んでいるわけではない。だから、まるっきり初心者に映像制作の基礎を教えることが多い。
私などの世代だと、映画館で映画、テレビで番組を見る、というのが「映像の入り口」である。一方、現在の学生さんだと、子守代わりにテレビ番組やストリーミング配信のアニメ、という世代である。

さて、授業で映像を作るための基本を教えている。カメラと編集ソフトがあれば作れる、というものではなく、ある程度の企画と計画と準備が必要なものを課題にしている。だから、作者が頭の中で考えたことを、アウトプットしていくことになる。撮影の準備としては、どういう構図でどういう絵を撮るか、ということをドローイングするのをノルマにしている。最近気になるのは、縦位置の構図でドローイングする学生が増えてきた、ということだ。 

2016年2月19日金曜日

明確

自分で実際に撮影してみると、無理、と言うことが実感できるのだろうが、たいていの学生さんは実験せずに撮影の計画を立ててしまう。紙の上での試行錯誤も少ない。もやもやとしたアタマの中のイメージが、ビデオカメラを持つことで必ず撮影できると過信しているようだ。

映画やテレビの業界であれば、スタッフの業務分担がかなりはっきりしている。
「真っ暗な闇の中、浜辺で女が歩いている。海を見つめてさみしげな表情で空を見上げると満天の星」。
こんな文章があれば、プロはよってたかって準備を始めてしまう。ロケーションコーディネーター、キャスティングディレクター、照明、撮影、録音、もちろん現場にはヘアメイクや小道具大道具も必要になるかもしれない。1−2名くらいのスタッフではない。十数名、アシスタントや雑用係を含めたり、撮影当日には来ないスタッフもいたりするので、延べ人数にすればもう少し増えることもある。

ただ、プロと作業していると必要なことは「こうしたい」「これはだめ」という意思をはっきり表明しなくてはいけない。ぼーっと立っていて、お膳立てされるまま、という状況はあり得ない。スタッフはどうしたいのかと根掘り葉掘り聞いてくるし、途中経過でチェックを要求される。これもまた制作者のアタマの中のイメージがかなり具体的でなくてはならないわけだ。 

2016年2月18日木曜日

用意

「真っ暗な闇の中、浜辺で女が歩いている。海を見つめてさみしげな表情で空を見上げると満天の星」。

次に考えなくてはならないことは機材である。三脚が必要か、移動撮影するならドリーかトラックレールが必要か。いやいや砂浜の上でそれはないから、ステディカム+オペレーターという作戦か。
もちろん真夜中に撮影するわけにはいかない。学生さんは夜のシーンを、実際に夜間に撮影していると思っていることが多いようだ。映像は嘘をつくのである。夜中にカメラを回しても、なかなか上手くは撮影できない。もちろん満天の星など一般コンシューマ向けのビデオカメラでは機械的にかなり無理。
いまどきの学生さんは劇映画もテレビドラマも相当お金をかけているものを見ているので、当然撮れるでしょ、と思っているフシがある。いやいや、そんなことはないのである。

実写の映像制作を高校以下でやっていることは少ないが、やっていたとしても「画をつくりこむ」ことにはあまり注力されていない。コンセプトを立てること、技術的には、ビデオカメラと編集ソフトの扱い方、くらいではないかと思う。

夜中にビデオカメラを回して、自分の希望しているイメージになるのかどうか、という想像ができない。それはカメラとソフトが映像をつくっていると考えているからなのだろう。 

2016年2月17日水曜日

材料

「真っ暗な闇の中、浜辺で女が歩いている。海を見つめてさみしげな表情で空を見上げると満天の星」。


まず考えなくてはならないことは「場所」である。浜辺ってどこよ。
撮影したい画面のサイズ、背景に何が欲しいのかによって、場所は選ばれる。九十九里浜なのか、鳥取砂丘なのか、伊豆の白浜海岸なのか、それとも東尋坊か。

次にキャスティングである。年齢、姿形、髪型、衣装一式である。アラフォーが歩くのと、10代の女子が歩くのでは、見え方が全く違う。さみしげな表情に見える面立ちであることも必要だ。

撮影場所とキャスティングで予算がかかることは一目瞭然である。たいていの学生の場合、自宅近くの海岸などで撮影してしまい、狭い砂浜で国道がすぐ横を通っていて、ファミリーレストランが並び、頭上に飛行機ルートがあったりする。さみしい表情がまた別の意味に見えてしまうし、満天の星など明るくて見えない。つい友だちにキャストを頼んで、手持ちの衣装を持って来てもらったら、ユニクロのTシャツとショートパンツだったりする。しかもショートカットだったりするので遠目には「オンナ」なのか「女の子」なのか、もしかしたら「男の子なのかも?」に見えてしまうかも知れない。

2016年2月16日火曜日

意図

通信教育で担当している科目課題のうちひとつは、実写による映像制作のプランニングを立てるものだ。映像制作は、カメラと編集アプリケーションがあれば何となるというものではなくて、むしろカメラを構える前のコンセプト作りや、準備、計画が大切なことが多い。通信教育で、実技授業が難しいこともあって、映像制作の基本的なプランの立て方を学ぶ、という方向で授業を組んでいる。コンセプトをはっきりさせて、企画の意図や目的を明確にし、どのような映像作品にするのかを計画するわけだ。
制作では、具体的な撮影場所や被写体が必要になる。アタマの中にあるイメージを、どうにかして画像として定着させなくてはならないからである。
たいていの学生さんは、ことばからイメージを紡ぎ出す傾向があるようだ。生まれた頃から映像に囲まれて育った世代だと思うのだが、自分のイメージを「映像」として考えることはあまりないのだろう。企画書ではこんな文章が出てくる。
「真っ暗な闇の中、浜辺で女が歩いている。海を見つめてさみしげな表情で空を見上げると満天の星」。

映像で見たことがあまりないので、こういう場面を映像にしたいと思うのだろうか。スタッフになった状態で、これ撮影して、と言われたら、大変なのである。 

2016年2月15日月曜日

間際

今年も2月、通信教育課程の方はそろそろ学期末である。毎年のように同じようなことを書いているので、人間は誰もが同じことを考える傾向があるのか、こちらが成長していないのか、と思うようになってきた。
数年前と違うことは、学生の数が減っているのか、提出される作品のペースが遅い、ということである。世間様の景気をもろにかぶる業界なのである。
通信教育課程を手伝うようになってから10年あまりになる。最初の頃は、通学生とあまり変わらない年齢の学生も多かったが、最近はもう少し年が上、むしろ学習意欲がはっきりしている人が多いような気がする。
それでも「締め切り間際にすべりこみ」するのは、年齢や居住地域に関係ない。そろそろ提出が増えてくる時期にはなっている。私が担当しているのはレポートなどの書類提出だが、一方実技科目というのも同様に締め切りがある。提出されるのは立体や絵画もある。油絵の場合は乾いてから木枠からはずしてキャンバスを丸めて送付、などという作業が出来るのだが、締め切り間際になると「木枠張り込みのまま」しかも「絵の具が乾いていない」、立体だとやっぱり「支持体あるいは接着剤が乾いていない」したがって「送付用段ボール箱で形状が変更されてしまった」というのが配達される。時間が無いとこういうのが増えるので、対応する側は大変そうである。 

2016年2月14日日曜日

嫌い

コメントした教員は、いわゆる「アーティスト」なお仕事をしている人なので、そういう発言になったのかもしれない。私はどちらかと言えば「デザイン」な畑で教育を受けて仕事をしてきていることもあって、「好き」とか「嫌い」という物差しはなるべく使わないようにしてきたからだ。
自分が「好き」な表現であっても、クライアントに受け入れられなければ、それは「チャラ」である。一方で、自分が「嫌い」な表現であっても、クライアントの言うとおりに作業しなくてはならないこともある。仕事を請け負っている側で言えば、折衷ポイントを見つけていくことになる。
「アーティスト」を養成するのであれば、学生が「好き」な表現を追及すれば良いのかもしれない。もっとも、それが世の中に受け入れられるかどうか、という問題はある。ただ、そういう方向を目指すのであれば、先生の「好き」というコメントを学生が必要としているのかどうかは、疑問だが。
そう考えると、授業が「アーティスト養成」なのか、あるいはそうではないのか、という授業の根本が気になってくる。さて、担当科目ではアーティストをつくるための授業、というオファーがあったかしらん。

翻って現在の学生は、繊細なのか神経質なのかかまってちゃんなのか空気読みすぎなのか、こちらの気に入るような作品をつくろうとする傾向もある。「参考作品を見せてください」などと言う学生に、言うとおりに参考作品を見せようものなら、コピーと見まごうようなものをつくってくることがある。なぜこんな作品になったのかと言えば、「高評価が欲しい」。参考作品なら、高評価、だから高得点になる、というわけだ。だから先生が「これが好きでいいよねー」などと言おうものなら、そちらに走ってしまわないか、心配になる。

だから私としては、講評で「好き嫌い」は禁句にしている。

2016年2月13日土曜日

好き

教える側になると、当然のことだが、見ているクラスのことしか見なくなるので、回りは何をする人ぞ、という感覚に陥る。もちろん自分のクラスはほっておいて、隣のクラスに紛れ込むわけにはいかない。小学校と違って、学習指導進行のモデルケースがない。自分の時代を考えると、独学しかなかったので、興味津々である。プリントを配布しているよと言えば、1部くださいと図々しくコピーをもらったりする。独学世代は失敗も多く経験していることもあって、なかなか内容もツボを得ている。
一昨年は1年生の授業で「合同講評」、他のクラスの作品を見ましょう会、というのをやった。他のクラスの作品や講評には参加できないが、まあ片鱗でも覗こう、という趣旨である。こっちの授業ではぱっとしなかった学生が、他の科目では結構良い作品をつくっていたりする。人間誰しも得手不得手があると、こっちも少し安心する。そんなときに、ひとりの専任教員が学生の作品にコメントをしていた。「僕はこの作品が好きですね」。

うーむ。講評で「好き嫌い」を公言するのは、いいのだろうか。 

2016年2月12日金曜日

マネージャー

教える側になると、当然のことだが、見ているクラスのことしか見なくなるので、回りは何をする人ぞ、という感覚に陥る。専門性を要求される授業であれば、それでも構わないと思うのだが、実技授業の基礎教育課程ではそうはいかんだろう、と思うようになった。
1年生の基礎的な実技実習が4科目、学年は4クラスに分けて3週間ごとのローテーションで授業を受ける。最初はこちらも「ばらばら」だったのだが、そのうちに授業準備中にちょいちょいと話すようになった。最初は学生の対応方法リレーだったのだが、そのうち授業内容も少しずつ話すようになった。そのうちに気になったのは、4科目ばらばらではいかんのではないか、ということだった。
授業全体を把握し、それぞれの専門性を理解しつつ、各授業の内容をコントロールする「マネージャー」役が必要なことがあるからだ。下手をすると隣の授業と同じことをしていたり、同じ意味なのに違う用語を使っていたりした。呑気に「それでもいいですよ」などと言う専任教員もいたりするのだが、学生の側から見れば単なる出前授業が散発的に行われていて、連続性も継続性も感じられない。だから、学習の成果が蓄積しない。学生の時間をロスさせているだけなのではないかと思ってしまう。

専攻科目は映像関係なので、教える方はもちろん大学でそんな専攻など無かった時代の人である。設立されて20年あまり、そろそろ結果が社会からフィードバックされてくる頃なのだろうが。 

2016年2月11日木曜日

オーライ

担当している授業では、途中経過を授業では評価の軸の一つにするよ、と明言しているにも関わらず、ときどき「結果オーライ」な学生がいる。授業は欠席がち、回りとのコミュニケーションもよろしくはなく、途中経過の報告もなく、従って途中の指導もほとんどない。しかし、最終講評ではそこそこの作品をバリッと出す、というタイプの学生がいる。
得てして、授業で教えるスキルは既に身につけていることが多いので、学ぶことはない、と思っているのかも知れない。そういう学生も数年に1人ほどいる。何十年か前は、回りは多浪ばかりで海千山千、浪人中に学校の基礎課題もそれなりにこなしちゃったもんねという同級生もいたが、いまは違う。情報過多の時代らしく、技術的なことが先行しているケースが多い。「パリッ」とは見えるのだが、実はねえ、というのが多いのが気になっている。こういう学生ほど、上級生や社会人になってから挫折するケースをよく見てきたからだ。昔神童、と言うことがあるが、ちょうどそんな感じ。

いまから将来を心配してしまうのは杞憂ではあるが。 

2016年2月10日水曜日

経過

実技授業の提出物であるので、もちろん「お題」があり、途中経過報告をして、途中経過指導などが入る。最終的に出来上がった作品は、完璧にノーチェック、というわけではないことが多い。
最終的に提出できた作品が「ひどくまずい」ものであっても、途中経過を見てもらっていれば、「作品がよろしくないので落第」にはならない。再提出でリベンジ、という作戦もあったりする。
実技にあまり自信の無い私のようなタイプの学生は、ともかく途中で何度もしつこく指導をもらう作戦をとるか、実技自信満々の学生と一緒に作業する作戦をとる。門前の小僧、ではないが、周りが見えていると、やれそうな気もしてくる。課題のゴールに正解はないので、自分なりの正解を探す努力は、それなりに必要である。

教える側になって気をつけているのは、最終的に提出された結果としての作品だけを見ない、ということである。お題に対する考え方や、作業の計画、それを実行するプロセスが、あまり方向ハズレでなければ、作品はそこそこのものになってくる。最終的なグレードに影響するのは、作者のモチベーションの維持であったり、作業の工夫や段取りといったところだ。それは「場数」を踏むことで解決することも多い。それは社会人になるまでに、あるいは社会人になって数年で会得できることが多い。 

2016年2月9日火曜日

考え方

閑話休題。実技授業の講評の続きである。
ペーパーテストと違って、さまざまな作品が提出され、並ぶのが、実技授業である。課題によっては「正解」があるのだが、たいていの場合は同じものは二つと並ばない。作品に対して、先生が「講評」と称してコメントするのが、美術学校のスタイルである。
私が学生だった頃は、「良い」のにヒトコト、「よろしくない」のにヒトコト、あとは「その他大勢」なのでノーコメント、だった授業があった。コメントをもらうためには「良い」作品にしなくてはならない、ということである。
複数の教師が担当している授業だと、先生がディスカッションしながら進める、というスタイルもあった。一つの作品に対して、複数の教師がそれぞれにコメントする、といったケースもある。ドンドン脱線したり、時間が押してしまったり、授業が飲み屋に移動したり、ということもあった。面白かったのは、たくさんの「ものの見方」がある、ということである。途中で教師同士が討論を始めることもあった。さて、誰の作品を見ていたんだっけ、という感じである。

最終的に成績はどうあれ、そういった考え方を知ることは、私にとっては面白かった。 

2016年2月8日月曜日

通信簿

普通の一般教育などの学科の場合は、学期末は試験かレポート、採点されて終わりである。
実技授業の場合は、制作、提出、場合によってはクラス全員の作品を並べてみんなで見る「講評」というのがある。制作中はたいてい、隣の人は何する人ぞ、という感じなので、課題によっては開けてびっくり玉手箱状態になる。いやあダイナミックですごいなあと思ったら、あっさり「課題違反」で「再提出」になっていたりする。入試だったら「不合格」だが、通常の課題であればたいてい「再提出」で済む。将来がかかっていない分、お気楽な学生もいる。

私が学生だった当時、最終的に就職先に提出する成績表は、「単位取得」しか明記されないので、再提出だろうが、ぎりぎり「可」だろうが、先方には分からなかった。どんな状態であろうが「取れればオッケー」。ただし落とし穴もある。
たいていの学生は、一般教育科目では、単位が出やすい授業を選択しがちである。一方で、勉強したい「方面」の科目は、単位が取りやすいとは限らない。安全パイ、という考え方で授業を組み、時間割を見ると、「とめどもない」授業科目が並んだりする。専攻とは全く関係ないジャンルが散発的に並ぶことになる。成績表を眺めると、学生の趣味嗜好が分かったりするものだが、学内的には「安全パイ」だが、学外的には「散漫指向」にしか見えなかったりする。 

2016年2月7日日曜日

はおえど

何度も再提出を食らえば、「トラウマ」になったり、「思い出」になったりするものだ。

グラフィックデザインを専攻したので、学習必須なジャンルに「文字」がある。「タイポグラフィ」という授業で、まず最初は「視覚調整」から作業開始である。やっと「文字」になったと思ったら、いわゆる「レタリング」をする。烏口と定規と面相筆の世界である。ヘルベチカという書体で、H/A/O/E/Dを別々に書き、切り離して、それぞれの間が同じボリュームになるように、並べ直す。最初から再提出をくらい、合格した友達と同じ寸法で作図しても再提出だった。なぜだーと叫びながら何度も作図して、提出期限内ぎりぎりで受け取ってもらった。
この授業は、ベーシックな作業が多く、再提出が多い名物授業だった。同じ先生に習った同窓生はたいていこの「ハオエド」という課題で盛り上がる。

コンピュータでデザインをするようになって、烏口も面相筆も使わなくなって久しいが、やはりそれなりにポスターや雑誌を見ると「文字の間隔」が気になる。習い性である。 

2016年2月6日土曜日

知恵

実技の学校だと、実技授業というものがあり、そこでは「課題」というものが出される。その「課題」に対して、学生が作品を制作して提出する。大抵は、学習ジャンルや範囲、制作期間や提出形態など、いろいろな「条件」があらかじめ提示される。
そういった作業を、学生はコツコツと4年間続けるわけだ。
基本的には好きなことを好きなようにやりなさい、ということにはならない。課題ごとのテーマとか、目的とか、学習の目標などが、設定されていたりする。学生の身分で授業をやっていると、設定された目標が見えにくいことがあったり、学生の方で「やりたいこと」があったりする場合は、どうしても「はみ出した」ものを作りがちになる。
ほとんどの先生は、「はみ出した」ものに対しては、「再提出」というハンコを押す。リベンジしてね、というわけだ。「合格」のハンコをもらうまでに何度も作業することになる。

こういったことを4年も続けていれば、学生はそれなりに知恵をつける。得意ではなかったり、嫌いな作業であれば、要領よく過ごしてしまおう、作戦である。数名でチームを組んで共同作業、得意な学生を巻き込んで補完作業。講義ではないので、ノート丸写し、というわけにはいかないが。