2014年5月29日木曜日

外観

同居人が10年以上前に研究成果をマルチメディアでまとめる、というプロジェクトをやっていたことがある。
インタラクティブなメディアがまだまだ目新しかった時代、である。
大学の後輩数人にわたりをつけて、手探り、ではあったにせよ、ある程度のかたちにまとまった。

先日それを書棚の奥から掘り出して、再確認したい、と同居人がのたまう。
すでにそのマルチメディアを閲覧するアプリケーションはとうに開発中止、もちろん作成したほうのアプリケーションのメーカーはすでに他のメーカーに買収され、吸収されたので、開発中止である。
コンピュータの一昔前のOSが動いて、プラグインのプレーヤーが入っていればなんとか、ということのようだ。そのような環境で動くコンピュータは見なくなって久しい。もちろん家のコンピュータもすべて入れ替わっている。
したがって、現在そのマルチメディアのコンテンツを見ることは出来ない。単なる「ディスク」の外観しかない。

やっぱり印刷物にしておいた方が良かったかなあ、とぶつぶつ言っている。

2014年5月24日土曜日

お願い

授業の前には機材の準備が必須である。

コンピュータを使う編集作業をしているので、こちらの機材準備はもっと大変である。
12台の機械を用意してもらっているのだが、なぜかいつも授業では「同じ」ように動作しない。
ハード的には同じスペックなのだが、微妙に挙動がそれぞれ違う。

例年、授業の開始前に、機材の動作確認を研究室のスタッフにしてもらう。たいていはそれで何とかなるが、ある年はこんなことがあった。
ソフトウェアを入れ替えたので、新しいバージョンで授業を進行することになった。授業前にスタッフがソフトウェアをインストールしていた、はずだった。授業時にそれを起動すると「ユーザー登録のお願い」などが立ち上がった。つまり、インストール作業をした「だけ」だったわけだ。インストール後に、起動して、ユーザー登録やアクティベーションなど、事務手続きをして、アップデータをあて、必要なプラグインを足しておき、一連の動作を確認する、ような作業はしていなかったのである。授業時にびっくり仰天である。
同じように、他の授業で、他のソフトウェアでも、「インストールだけ」してあったらしく、授業が成立しなかったらしい。私の授業では12台だが、そちらの授業では25台くらいあったはずだ。
準備作業中に、すべてを確認できなかったのだろうか。

先日、タブレット端末を授業で使おうとしていた高校が、アプリのインストールが授業内に終わらず、などというのが新聞に出ていたが、まあ似たようなケースである。アプリエーションなどは、使えるようになるまでが、ちょっと大変なのは、同じようなものだ。機械さえあればいい、というものではない。特に今時のソフトのインストールはインターネット接続が必須だったりする。学校などでは、同時に多くの機械を接続したりするので、相対的な速度は遅くなる。授業でアプリをインストール、という先の高校は、よほど高速で大容量の回線を使っていたのだろうか。

コンピュータを使った授業は、教えるよりも、準備の方が大変なのである。IT授業、などと軽く言ってほしくない、と思ったりもする。

2014年5月21日水曜日

事前準備

担当している授業では、機材あっての作業なので、授業前の機材点検と整備が重要である。

同じ型番の機材であっても、それぞれに「癖」のようなものがある。1年間、学生に使わせると、それなりに故障したり壊したりで、くたびれてくる機材も出てくる。同じように使っていても、初期不良がしばらくしてから出てくるものがあったりする。

機械を使った経験値がない学生に教えるのだから、機材は均質的な方がベターである。機械はそれぞれ大量生産品であっても個性がある、とわかるのは、いくらかいじったことのある人にしか分からないからだ。

非常勤をやっていて辛いのは、授業準備には関わりにくい、ということである。授業は基本的に授業時間内だけのペイなので、授業時間外の準備やら後片付けやらと言う作業にはペイがない。ただ働きである。また、機材は担当している授業だけで使用しているのではなく、他の授業やが癖員自主制作にも貸し出しをしている。機材管理は研究室、というルールなので、準備作業は使用する授業のうちのひとつの担当として手を出しにくい。授業前には、研修室の助手さんに機材の点検などお願いすることになる。

2014年5月18日日曜日

設定

授業の前には機材の準備が必須である。

メカニカルな機材の時代では、スイッチ類は一瞥して状態を把握できた。デジタル世代の機材は「MENU」というのが曲者である。メニューボタンを押すと、各種設定の画面に入る。設定は段階的に行われるようになっているのが普通なので、3段階から4段階で目的の設定にたどりつく。メーカーによって、設定の名称や設定方法が違うので、見当をつけるにはちょいとコツがいる。

カメラで言えば、電源を入れれば撮影できる、ようにはなっている。ただし、メニューをいちいち撮影前に確認しないと、直前の使用者の設定したスタイルで撮影を始める、ようになっていることが多い。通常こういった機材のオーナーやユーザ、オペレーターが、複数で機材を共有する、という使い方はあまりしない、とメーカー側は想定しておる。だから、学生さんが撮影に出かけて、帰ってきて素材を確認すると、とんでもない設定で撮影されていることがある。16:9の縦横比で撮影していることを想定しているのに、4:3だったり、撮影解像度が違ったり、白黒モードだったり、録画ファイルの設定が違ったり、ということがある。学生さんが日頃使うようなコンパクトなカメラやスマホは、細かい設定をしなくても済むようになっていたりするので、「設定をいじる」という概念は、彼らには皆無である。

授業の機材準備も、すんなりと終わる訳ではなく、各種設定をいちいち確認しなくてはならない。取り急ぎ、すべての設定を「初期化」しておく、というのがスタンダードな作業である。
設定を多く使えるのは、便利なことかもしれないが、結構めんどうなのである。

2014年5月16日金曜日

寿命

担当している授業は、映像の表現に特化した専攻の基礎授業である。だから、使用機材も将来的に使う、だろうなあ、というクラスの機材を使う。いわゆる「業務用」クラスである。これくらいなら、2年生の授業でも使うだろうし、4年の卒業制作でも同等程度、あるいはもう少し進歩した規格のものを使える基本は学べるはず、だと思う。
ただ、私物として買うなら、ちょっとお高いかもしれない。これが御飯の元になるとしても、毎週日曜日にブライダルビデオのアルバイトでも入れなければ、機材の元を取った気にはならないかもしれない。
あるいは、3年先の卒業制作でも現役で使えるか、と言えば、前にも言ったように「ビミョー」である。だから、1年生の授業では貸与機材で作業する、というのが基本的なルールである。

ひとつには、同じ機材であれば、取り扱いの説明がしやすい、というのもある。いくつかの機材をいじったことがあれば、カメラであれば取り扱いは似たようなものだ。ただし、カメラというものを一切いじった経験がなければ、五里霧中なので、同じ機材で同じように説明する方が効率的だ。それが彼らの「基準」になれば、次のカメラの取り扱いはさほど面食らわなくても済む、はずである。
問題は、共有機材だと、扱いがぞんざいになりがちなことである。自分のお金で買ったものでなければ大切にしない、というのは、私としてはとても悲しかったりする。図書館で借りた本に書き込みがあったり、ページが破れていたりするようなものである。

だから結局、共有機材でも、今は4-5年使えれば「良い」方なのかもしれない。フィルムの時代のメカニカルな機材は、20年現役、というのがざらにあったりした。電子機材はことに軽量化のためにプラスチックのパーツが増え、つくりは「やわ」なものになった。したがって、寿命が短いのである。

2014年5月15日木曜日

貸与

担当している授業では、受講生すべてに機材を用意できない。

学校にも予算と言うものがある。全員に同じ機材が均等に貸与できれば良いのだろうが、現実問題としてはそれは難しい。学生に「自分でまかなえ」と言えれば楽なのだが、授業で使う機材をすべて買わせるとなると、1年分の学費相当に近い費用になる。もちろんそれが4年間使えるかと言えば、今の機材の技術進歩や開発スピードから言えば「ビミョー」である。制作のクライマックスの4年生になったときに、最もスペックの高い機材が欲しくなるからである。

私の頃だと、写真関係の機材は全部自前、というのが前提だった。今は昔、フィルムの作業である。カメラはもとより、撮影機材も暗室機材も消耗品も全部、である。全部新品で揃えると相当な金額になるので、授業が終わり、御用済みになった中古品を先輩から安く譲り受ける、という裏技があった。丁寧に使えば、10年やそこらは使えるので、私で何世代目だろう、というのもあったりした。

映像と言うのは、昔も今も、お金がかかる表現である。特にデジタル世代になって、ランニングコストは安くなったのだが、初期投資の機材は高額になった。高額な機材であれば、授業用に全員分は揃えられないので、何人かでシェアすることになる。したがって、授業では数名のグループ制作で、そこに機材をワンセット貸与する、というスタイルになる。
このときに、グループのメンバーの経験とか知識とかが、ある程度ばらけていないと、クラスの制作の足並みが揃わない。担当している授業で言えば、ビデオカメラで動画を撮影したことがあるか、コンピュータで動画を編集したことがあるか、くらいの経験を聞いて、グループごとに同じくらいの経験者数を入れるように組んでいく。

単純に「名簿順」などとやっていくと、あるチームはやけに経験者が多く、機械の使い方に精通しており、やたらテクニックに走る。あるチームは、全員典型的な初心者で、電源ボタンの見分け方から教えなくてはならない。
経験者と初心者をある程度混ぜていくと、初心者に経験者が教えていく、という作戦が出来る。初心者に教えることは、経験者にとってもメリットがあり、自分の技術レベルを再確認することにもなる。

これも事前にアンケートをとってもらい、仲良しグループや他の先生の情報も加味して、グループに組んでいく。先生の授業準備は地道である。

2014年5月14日水曜日

仲良し

グループ、というのは「仲良し」グループではよろしくない。

授業は実技なので、仲良しで「遊ぶ」というわけにはいかない。社会に出れば、嫌いな人とも、初対面の人とも、作業をすることになる。常に「仲良し」でお仲間になれるとは限らない。もちろん、作業によっては、「仲良し」であることがデメリットになることもある。


学内で撮影作業をさせているので、様子を見に行くと、常に「休憩」しているグループがいたりする。お茶に菓子パンまで用意されており、早昼の様相である。スマホいじりに熱中しておる。

しばらく経って、もう一度様子を見に行くと、まだ「休憩」中である。おしゃべりに夢中で、口角泡を飛ばして爆笑中である。
こういうグループに限って、授業を振り返ってひとこと、などと言ってもらうと、「授業の撮影の作業時間が短かった」などとおっしゃる。短くしているのは、本人達なのだが。

クラスが受講していた他の実技の先生とは、よく学生の様子を情報交換する。学生の性向とか、志向とか、仲良しグループとかである。なるべく、他の授業のグループとはかぶらないように、仲良しグループにならないように、シャッフルしてグルーピングするのである。先生は密かに努力しているのである。

始まり

担当している新学期の授業は、5月上旬が始まりである。
グループ制作が基本で、3-4人で1チームになって、作業をする。基本的に「映像」という業界は共同作業が基本なのだが、コンピュータによるノンリニア編集が可能になり、スマホにも動画が撮影できるご時世なので、ワンマンな作業、というのも現実的な今日この頃である。

私が制作をしていた頃は、フィルムよりも消耗品や機材のレンタルが安いとは言え、20分のテープが5000円、ビデオカメラなど撮影機材のレンタルや編集のレンタルは基本的にはプロ向けなので、目玉が飛び出るほど、お高かった。機材や消耗品の予算を切り詰めようと思えば、撮影や編集をいかに効率的に短期間で済ませるか、が勝負になる。従って、短期集中人手投入決戦型が基本中の基本である。
ところが、ワンマン作業が可能であれば、気の向いたときに撮影、編集中に気がついたらリテイク、編集は夜中でも日曜日でも気の向くまま長時間いじくりまわせる。アマチュア作家や、個人で作業するアーティストなどにはありがたーいご時世である。

受講する学生さんは、個人作家を目指す人ばかりではなく、将来的にはプロダクションで作業をする、大人数でもっと大きなプロジェクトで作業をしたい人もいるわけで、授業ではグループ制作が基本になる。

2014年5月12日月曜日

モルモット

初年度の学生の口癖は「おれらモルモット」だった。
良くも悪くも、どちらも五里霧中だったことは、教わる側も教える側も分かっていた。小学校や中学校ではないので、まあそれはお互いにある程度は納得していたことだ。

初年度の学生の動向が下級生のカリキュラムに反映されるので、まずかったことはだんだんと改善する方向にはなる。一方で、初年度の学生だと「オーバーサービス」になることもある。まあここまで面倒見なくてもいいかねえ、と次の学年からは考える。だんだんと淘汰する方向になることもある。

初年度の学生だと、これからなるべき「見本」というものがない。目星がないのは不安でもあるが、一方では「言い出しっぺ」になれることもある。こんなことやりたいなー、と言うと、それじゃやってみるか、とセッティングしてみることが何度かあった。さまざまな条件もあって、授業のカタチとして定着したものは少ないかもしれないが、それは作業の結果によるものだ。

トライする、という経験は、現在10数年の先輩という「見本」を見ている今の学生には、なかなかやれないことだったりもする。

2014年5月11日日曜日

ダブル

今日のシラバスの詳細でも、各日程の授業内容を事細かに記載しているわけではない。
講義科目だったら、各日程の講義テーマやタイトルなんかがずらっと記述されていたりする。
だから、進行の概要は分かっても、実際に授業の内容の細かいところまではよく分からない、というのが正直なところである。

新しく発足したセクションでは、開設前から数年かけていろいろな授業をセッティングした。専任教員が分担して、授業概要を決めて、非常勤の先生をお願いした。初年度では、五里霧中だったのだが、本当に五里霧中だったと思ったのは、学生と話していた初夏の頃だった。
違う授業で内容がほぼ一緒、あるいは参考としてみせられる作品が同じ、というものだった。非常勤の先生が例えば「演出論」というタイトルで講義する。違う非常勤の先生が違う授業で、「ジャーナリズムと映像」というタイトルで講義する。はたまた、違う非常勤の先生の「映画史」の授業で、ドキュメンタリー映画の歴史、というタイトルの講義である。参考として上映した映画は、どちらもフラハティの「極北のナヌーク」である。60分ほどの映画なので、どちらも全編を授業内で見せたらしい。授業は90分なので、2/3は映画を見ることになったようだ。
映画自体は、お若い学生にとっては「エキサイティング」ではなかったようなので、「また見せられちゃったよー」と思ったらしい。そうでなければ、何度見ても面白い、ということになったはずだ。

授業の切り口はそれぞれ違っていたのだろう。しかし講座内容のシナリオまで提出をしてもらうことはないので、こういったケースが何度かあった。特に映像系の授業では、確固たる教育方法、というのがその頃はなかった。文学でもそうだが、「古典」とか「定番」というのがある。それは独学であってもある程度共通しているものが多い。また同じ作品でも切り口を変えると全く異なった見方になることもある。
言い訳ではないが、本当に「進行しながら考える」ことになってしまった。

2014年5月10日土曜日

口伝

今は昔、私が学生だった頃はインターネットもなかったので、講義科目は「講義ガイダンス」のような冊子で配布されていた。
授業科目と担当者、内容の概要が数行あって、実際の開設期間や授業曜日など詳細は教務課が配布する時間割で確認する。概要もざっくばらんとしたものなので、詳細は先輩を捜して聞く。多分に主観も混ざっているが、面白さ加減、単位が取りやすいとか、出席が甘い、とか、別の情報も収集する。

実際に出席して授業を受けると「ガイダンスと内容は違うなあ」ということが時々あった。「近代デザイン史」という授業は、「ヨーロッパ近代のデザインについて」云々という文章だったような記憶があるが、実際には通年かけて「ウィリアム・モリス」のことをみっちりと語られた。その先生にとっては「近代デザイン」イコール「ウィリアム・モリス」だったのだろう。ちょっと当てが外れたが、それなりに面白かった。困ったのは、インテリアショップやホテルの壁紙やカーテンの柄をじーっと眺めて「モリスだねー」と思ってしまうことである。習い性というやつだ。

名物授業、というのもいくつかあった。私の頃では心理学、経済学、生物学、建築史、などがその筆頭だ。ここに入学したなら取らねば、と先輩に教えられ、また後輩に教えていった。
授業にはファンがいて、美術学校なのに、なぜか「経済学ゼミ」「生物ゼミ」という「サークル活動」があったりした。

今でもそういう「口伝」があるのだろうか。

2014年5月7日水曜日

シラバス

学校では翌年の授業の内容や予定などを集めて「シラバス」というかたちで告知する。

学校によっては、「記述すべき項目」が細目によって決められたフォーマットが用意してあったりする。学生さんとしては、それを読んで、登録すべき講義を決められる、というわけである。

勤務校では前年の末から1月にかけて原稿を集める。同居人は、いくつかの学校に行っているが、学校によって締め切りが違う。早いところでは、前年の秋半ば、遅くても暮れになる前に締め切りがある。
授業と言えどルーチンワークではない。年度内の授業が終わって、成績を出しながら、ゆっくり反省と傾向と対策を考えて翌年の授業内容を検討する暇もなく、来年度の授業概要を考える、というのは、どうもせっかちな感じがする。

今やオンラインシラバス、というかたちで、学生さんがそれを読むのだが、締め切りはかなり前倒しである。春休みの間に、授業方針を変更したくなったら、1年我慢して次年度、ということになってしまう。教育現場はかくも世間とはペースが違うものである。

2014年5月5日月曜日

違い

同居人は「ゆとり世代」を指導していた側の教員だったので、もちろんそのメリットもデメリットも知っている、はずである。最も大きなポイントは「生きる力」なのだそうで、総合学習という授業の導入によって、自分で考えることが習慣づけられている、はずなのだそうである。

もちろんそれは、教員の能力でずいぶんと差が出る指導内容と指導方法のようである。アメリカで言えば、行った学校、ついた先生によって、教わる内容が全く違う、という感じがする。
一方で、それは古い世代にとっては「偏った」ことを教わっているなあ、という印象がする。第二次世界大戦を全く知らない学生がいる一方で、ネイティブアメリカンの歴史だけはやけに詳しい学生がいたりする。どっちもどっちだと思うのだが、二次大戦も朝鮮戦争もベトナム戦争も全く知らない世代に、今の外交問題のポイントは分からないのではないか、とは思う。問題なのは、二次大戦を知らないことを「学校で教えられたことがない」と開き直ってしまう態度の方で、それは「生きる力」どころか、「自分の首を絞める力」にしか見えないことがある。

2014年5月4日日曜日

ふるい

もちろん、長い目でみていれば、だんだんに子どもの性向というのは変わってくるのだろう。
いちばんよく言われることは、学習指導要領との関連である。ちょっとトラブルと、「どうせ私たちはゆとり世代ですから」というのが、言い訳の「合い言葉」だった時期もあった。
少子化になって、大学も増えたので、入学試験の競争率も低くなった。状況としては「入りやすい」というわけだ。そうなるとどうしても現役が増えて、浪人は少なくなる。景気が悪くなれば、首都圏在住のご家庭の子どもが増える。地方にも美術系の大学が増えたので、地方出身者が減る。入学試験の選択科目のバラエティーが増えたので、入学時の学生の意識の差はむしろ大きくなる。入学試験は「篩」としてはあまり機能していないのかもしれない。

親兄弟から絶縁を言い渡されたり、行くんだったら自分で稼げと言われたりする「背水の陣」みたいな学生がいたのは、今は昔である。
今時の学生さんたちは、よく言えば、おっとりしていて、真面目で熱心。ハングリーではないし、ガツガツもしていない。
一方で、あきらめも早く、要領はとても良い。無駄な労力を使うのを厭う。「見本」や「正解」、「高得点」「高評価」「ほめられること」にはこだわる。

ときどき、ちょっと、周りを見回して、寄り道するくらいの、余裕が欲しいなあ、と思うことがある。

2014年5月3日土曜日

変更

受講者数だけではなく、受講者の傾向は、同じ学年でもクラスごとに違う。教務課の方は機械的にクラス分けをしているのだろうが、相当偏っていて、意図的としか思えないことがある。

クラスにリーダーシップをとる学生がおらず、全体的にどんよりとしたクラスになることがある。作業に積極性がなく、すべてに消極的で、テンションもモチベーションも上がらない。課題は「とりあえずこなすもの」だと思っている。
…かと思えば、隣のクラスは、やけににぎやかだったりする。授業が始まっても私語が止まらない。授業中に脱線した質問をして、もっと脱線させてしまう。課題は拡大解釈をしていて、自分のやりたいようにやる。テンションは高いのだが、課題に対する意識はまた別物である。
…かと思えば、隣のクラスは、仕切り屋が一人いたりする。すぐにすっくと立ち上がり音頭をとる。ハキハキくんである場合もあるし、単なる委員長タイプで、実技は伴わなかったりするケースもある。

学生の性向がかなり違う場合、入学試験の方法や、考査方法を変えたのかと勘ぐりたくなる。

2014年5月1日木曜日

おまかせ

ハキハキくんがいることで、作業は円滑に進む、とは限らないこともある。
もちろんハキハキくんだけが「悪い」わけではなく、「おまかせ」状態にしてしまった他のメンバーの責任もあることは否定できない。

ハキハキくん以外の学生が、「キレる」「反抗する」「分裂する」ことがあり、「分裂」状態のまま、空中分解して授業が終わることもある。
あるいは、ハキハキくんを排除して、ハキハキくん以外の学生で作業を別途進行してしまうこともある。

グループ作業ではどのように話し合いをして、役割分担を決めていくか、ということが重要だ。それは「ハウツー」ではなく、生活の経験値に根ざすことが多いのかもしれない。
初対面の学生同士では、遠慮しながら話し合いが始まる。お互いに譲り合ってなかなか物事が決まらない。しかし、顔見知りの学生同士で組ませれば上手くいくとも限らない。ミーティングをすれば横道にそれ、馴れ合っているので、ルールがなし崩しになる。
外国籍の留学生が混じると、コミュニケーションを丁寧にとろうとして上手くいくケースもある。一方で、日本国籍でもインターナショナルスクールの出身だと、文化や経験値が違うのか、日本の学校を出た日本人とうまくやれないことがある。

もちろん、授業内の課題であり、私の授業としては「失敗オーライ」なので、制作が上手くいかない、ということを評価の対象にはしない。大切なことは「
なんでこうなったのか」という、原因を知ることと、その対策を考えることだからだ。