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2013年4月20日土曜日

宿題


私が子供の頃は、「お父さん会社員、お母さん専業主婦、子供2人」が一般家庭のロールモデルだった。

確かに、子供時代の友達は、地域的な特性もあっただろうがそんな家庭が多かった。
転校した小学校では、商店街が近かったので、自営業のお子さんが多かった。お母さんが働いている、と言っても、たいていは自営業が多かった。文房具屋さん、そば屋さん、美容院、銭湯なんかがクラスメートだ。
私の自宅では、仕事ではないが帰宅時に母がいないことが多かった。そういう家の子はたいてい「鍵っ子」と呼ばれていた。帰ったら自分で鍵を開けるために、首から鍵をぶる下げていたりした。

その後、だいぶたってからだろうが、ロールモデルっぽい一般家庭が少なくなった。専業主婦が家で子供の帰りを待っていたりしない。「鍵っ子」ではかわいそうだったりしたのだろうか、公立の小学校では「学童クラブ」というのが出来始めた。夕方まで小学校の空き教室で宿題をしたり、友達と遊んだりできて、相手になる大人が数名いた。
私立の小学校ではそういった制度がない。どうするか、といえば「お稽古ごと」である。月曜日は英会話、火曜日はピアノ、水曜日はスイミング、木曜日は学習塾、金曜日はお習字、と大人顔負けの忙しさである。母親がべったりつきあうこともあれば、何人かの母親がローテーションを組んで、数名の子供の送り迎えを担当したりする。

「子供用デイサービス」という看板から、何をやっているんだろうと想像したりもする。宿題を一緒にやっていたりするのだろうか。

2013年4月18日木曜日

土曜日


小学校が「ゆとり教育」を打ち出した頃、土曜日の登校風景がなくなった。

私は、中学高校と「土曜授業なし」の私学へ通っていた。週末は何に使うか、というと、その週の復習と翌週の予習で手一杯である。もう少したつと、週末はひたすら受験予備校通いになる。土曜日に授業がない、ということはてんで「ゆとり」ではなく、「リベンジ」だったりしたわけだ。

同居人が当時小学校の教諭をしていた。一番困ったのは、学校行事をいつやるか、といったことだったそうだ。会社員なら土曜日はお休みなので、土曜日に運動会や学芸会がセッティングできたりする。ところが、「お休み」である土曜日や日曜日に行事を行うと、代休やら授業の振替やら平常時のやりくりが、ものすごーく大変なのだそうである。
先生たちにとっては、土曜日の午後はその週のまとめやら、翌週の準備やらに使えたのが、土曜日に登校しない、となると、平日の残業になる。どこもそうだとは言わないが、同居人の平日は、朝7時前に登校、夜8時過ぎに退校、という感じだった。

そしてまた、土曜日授業が復活しそうな雰囲気、現場はまた大変なんだろうなと思う。

2012年10月29日月曜日

正解


同居人が小学校で図工の授業をしていた頃、「おうちから古新聞を持って来てください」とアナウンスしていた。新聞を購読しないご家庭もあったり、忘れてくる子どももいるわけだから、保険の意味もあって、同居人はときどき「ご家庭にある古新聞」を持参する。

新聞というのは、ニュースだけが掲載されているわけではなく、テレビ欄もあれば家庭欄もあり、スポーツ欄もあれば社会面もある。
大掃除やら引っ越しで、古い古い新聞が出てきて、つい「読み」ふけってしまうのは、人間の性である。それは子どもとて同じなので、難しい漢字は読めないながらも、読める字だけ拾って読んでみたりする。だから、子どもが使うことを考えたら、駅売りスポーツ紙などはあまりよろしくはなかろう。

今日も先生はご家庭にある古新聞を配布して粘土細工である。
「先生」
と作業中の子どもから手が上がる。
何かなーと、同居人は近くへ寄る。
「この答え、違ってます」

子どもの机の上に広げられた新聞にはクロスワードがあった。
同居人は時々新聞でクロスワードを楽しんだりするのである。

2012年10月27日土曜日

わさび


ちょいと昔は、よく「ご町内の皆様、古新聞、古雑誌がございましたら」とスピーカーから呼びかける軽トラックが住宅街を流していた。バネばかりで重さを量って、トイレットペーパーとか落とし紙なんかをくれた。
今時は、自治体が資源回収と称して、古新聞、古雑誌、なんかを持っていく。
まあたいていのご家庭には「古新聞、古雑誌」というのがある、のだった。

同居人が小学校で図工の授業をしていた頃、養生のためによく「おうちから古新聞を持って来てください」とアナウンスしていた。が、「うちは新聞をとってません」という子どもがちらほら出現するようになった。忘れてくる子どももいるわけだから、保険の意味もあって、同居人はときどき「ご家庭にある古新聞」を持参する。

ある日の授業は、古新聞を広げて粘土細工である。
「先生、古新聞ください」
先生は子どもに、実家から持っていった「古新聞」を渡す。
子どもは自分の机で、もらった古新聞を広げる。
子どもから手が上がる。同居人は「何ですか-」と聞く。
「新聞を広げたら、わさびの袋がはさまってましたー」

同居人の実家では鍋料理の場合、新聞を広げてカセットコンロをのせる、という「テーブル養生」をしていた。薬味やら調味料やらこぼしたり、小さなゴミが出たりしたら、そのまま畳んでしまう、という作戦である。

だから、自分の家の古新聞で作業をするのが望ましい。

2012年10月23日火曜日

許容量


同居人は小学校勤めが長かった。お昼は当然、子どもたちと同じ給食である。

小学校に遊びに行くと、まあ飲み物でも、と控え室に招き入れられる。お茶とかコーヒーではなく、冷蔵庫にたくさん入っている「給食の残り」の牛乳だったりしたことがあった。
給食で配布する牛乳が紙パックになったので、瓶を返却する必要がなくなり、子どもが残した未開封の牛乳がいくばくか保存してあった。配布当日に廃棄処分にするには、賞味期限がまだしばらくあるのでもったいない、という感じである。しかし、欠席がいたり、アレルギーの子どもがいたり、寒い日には食指が動かないらしく、毎日何個かが残ることで毎週何十個という数になるのだそうだ。
先生がそれぞれのクラスで、毎日残った牛乳を飲んだ日には、1日1リットル以上になったりする。むしろ健康的ではないだろうなあと思った。

以後、廃棄処分すれすれの紙パックの牛乳は我が家にやってくることがしばらく続いた。うちでも大人二人、1日に飲める量は限られている。牛乳は、カッテージチーズに化けた。

2012年10月22日月曜日

いつでも


同居人は小学校勤めが長かった。お昼は子どもたちと同じ給食である。

私の世代が子どもの時は、お昼はコッペパンにおかず(和洋中あり)、低学年の頃は脱脂粉乳、転校してからは瓶牛乳が定番だった。今のお子様たちはアレルギーも多いらしく、担任の先生は新学期に保護者からの聞き取り調査をしている。アレルギー症状のある子どもや、食べられる食材の少ない子どもは、別途お弁当を自宅から持参、ということになるらしい。これはこれで大変である。

変わらないのは牛乳で、今は瓶ではなく紙パックで配布である。おかずが和風だろうが、中華だろうが、牛乳は必須である。これも不思議な制度だとときどき思う。煮魚に牛乳、肉豆腐に牛乳、酢豚に牛乳、である。ミスマッチと栄養価とどちらがいいか、という選択で牛乳なのだろうが、大人になってみてみると不思議な組み合わせである。

小学校の現場では、これが「当然」、どの先生も当たり前な表情で鯖の竜田揚げと牛乳を同じトレーにのせている。考えてみれば、不思議な光景だと思うのだが。

2012年10月21日日曜日

生野菜


同居人は小学校勤めが長かった。お昼は子どもたちと同じ給食である。

しばらく前の話になるが、給食メニューが激変した時期があった。0157の時の話である。貝割れ大根か、と騒がれ、結局給食メニューから生っぽいお野菜がなくなった。野菜はひたすら、煮るとか焼くとか茹でるとか、といった感じになったそうである。突如、給食メニューからカラフルな食材がなくなり、地味ーな色合いになったそうである。

こういったニュースがあると、回れ右で前へならえ、のような対応をするのがお役所である。結局貝割れ大根ではなかったのかもしれないが、給食メニューに生野菜は、かなり長い間、復活しなかったそうである。

2012年10月19日金曜日

職業病


同居人は小学校勤めが長かった。お昼は子どもたちと同じ給食メニューである。

昔も今も給食当番というのはあるようで、配膳やらお給仕やらは子どもたちが順繰りにお当番をする。
ところが先生の方はクラスに一人、毎日給食当番のようなもので、配膳とお給仕、後片付けも、子どもたちも一緒である。
クラスの中の誰よりも遅く食べ始め、誰より早く食べ終わり、後片付けにかからなくてはならない。小学校の担任の先生の早食いは、職業柄致し方ないが職業病である。

同居人の同僚と食事にでも行ったときは、とても大変だった。誰もが食べ物が来ると、一心不乱に「かきこむ」のである。お食事中に会話を楽しむ、といった風情ではない。お相伴している「小学校の先生以外」の私は常に、「食べるのが遅い」状態である。

小学校の近くの飲食店で、とても食べるのが早い人を見つけると、「先生かしらん」と考えてしまう。

2012年10月16日火曜日

解剖


小学校の授業内容というのは、時が過ぎるとずいぶんと変わったりするものである。

我々の世代だと、理科で「解剖」というのがあった。
しばらく前の世代だとカエルだったりしたようだが、私の世代では「鯉」だった。
ばたばたと暴れる鯉の頭を金槌で叩いて気絶させ、作業が始まる。お命を頂戴してしまうと、心臓が動いているところを見られない。叩き損なうと鯉は俎ではなく机から脱走する。大騒ぎである。

まあ考えてみれば残酷な話なので、昨今の小学校ではあまり解剖実習はやらない、という話を聞いたことがある。
まあやってみてなんぼの話だから、やらないよりはやったほうがまし、というので同居人がしばらく勤めていた小学校では解剖実習を決行することになったらしい。

早朝、業者が小学校に到着、トロ箱が理科室に搬入された。
トロ箱の中身はとれとれの「鯖」。業者は魚屋である。金槌で叩く手間はないだろうが、何か違うような気がした。

2012年10月15日月曜日

豆電球


小学校の授業内容というのは、時が過ぎるとずいぶんと変わったりするものである。
同居人がやっている授業の内容など聞いていると、浦島太郎になったような気になることがある。

我々が子どもの頃の理科の授業の実験では、乾電池に銅線をつないで豆電球を光らせて、直列並列などとやっていたりした。現在は豆電球が入手しにくいのでLED電球を使うそうだが、こちらだとつなぎ方が逆だと光らないし、電圧で光り方が弱くはならない。教えることは全くベツモノになったりする。

しばらく前のニュースで、小学校の家庭科の調理実習で食中毒、というのがあった。原因はポテトサラダに使ったジャガイモの芽が取り切れていなかったそうである。これはまた調理以前の問題かもしれない。家庭科の先生は家事のベテランというわけでもなかったりするし、ポテトサラダなど総菜屋で買う習慣だったのかもしれない。
そういえば、家庭内の調理週間もずいぶん変わっているようで、現在お魚はスーパーで「切り身のパック」を見ているお子さんが多く、そのため「切り身」と「丸物=お魚の全身」との照合図鑑、というのを雑誌の特集で見たことがあった。切り身なら「鮭」に見えるが、顔を見ても「鮭」には見えないお子さんが多いそうである。

いろいろと時が過ぎると、学校で教えることもいろいろと増えてしまって大変である。

2012年3月26日月曜日

学芸会


同居人が小学校勤めだったこともあり、そこのイベントには何度か裏方の手伝いがてら、お邪魔したことがある。

小学校のイベントと言えば、学芸会である。学校によっては隔年開催だったりすることもあるし、音楽中心に音楽会になっている学校もある。
体育館や講堂の舞台の上でパフォーマンスする子どもを、客席側から見る、というものだ。

これはたいがい会場内が明るくないので、コンパクトなカメラでは写真は撮りにくい。強制的にフラッシュが発光してしまったりすると、パフォーマンスの妨げになる。フラッシュOKで撮影できたとしても、光の届く範囲が狭いので、せいぜい前列のお客さんの頭の後ろが鮮明に写る程度で、遠い舞台までは無理。
これがデジタルビデオの普及によって様相が変わってくる。ご家庭用のビデオカメラには、こういった用途を見越して「暗いところでも大丈夫」な設定モードがあったりする。だから、学芸会の舞台も撮影できちゃうのである。運動会同様、学芸会も我が子の晴れ舞台を撮影するために、にわかビデオカメラマンが多数出現する。一家に一台、舞台側から見れば、子どもの数だけビデオカメラのレンズが並んでいる。
にわかビデオカメラマンは、ファインダーではなくモニターを見て撮影する。家庭用のビデオカメラにはモニターしかないものもあるのだが、ともあれ数インチの小さな液晶画面を見るのである。

客席の一番後ろから見れば、小さな四角い青白い液晶画面がずらーっと、灯籠のように並んでいる。
舞台側から見れば、客席は真っ暗ではない。蛍の光窓の雪、青白く下からの光で照らされた家族の顔(しかしこちらを凝視しているのではないので、頭部とかおでこが、という感じ)が、並んでいるのである。

2012年3月25日日曜日

運動会


同居人が小学校勤めだったこともあり、そこのイベントには何度か裏方の手伝いがてら、お邪魔した。

小学校のイベントと言えば、運動会である。学校によって、春だったり秋だったりするが、校庭の風景は似たり寄ったりだ。大きなトラック、スタートやゴールのゲート、旗やバナーで飾られた校舎、キャンバス地のテント、父兄用の応援エリア。
父兄の応援席では、電機メーカーの広告のように、子どもを撮影するにわかカメラマンがたくさん出現する。

20年ほど前は、持ってくるカメラはコンパクトカメラ。オートフォーカスのズームレンズが主流だった。
それからほどなく、8ミリのムービーカメラが混ざるようになった。我々の世代だと8ミリフィルムだが、こっちはビデオである。お父さんビデオ、お母さんカメラ、という布陣である。
もう少しすると、カメラはデジタルカメラになる。より小型化するか、焦点距離の長さで競うようになる。その後数年で、コンパクトなデジタル一眼レフに入れ替わる。
その時分には、ビデオはデジタルビデオ、より小型化してバッテリーの持ちも良くなる。お父さんはデジタル一眼、お母さんはビデオという布陣になる。

こちら側から父兄席を見ると、さながらレンズだらけである。報道陣のカメラ席のようだ。
しばらく前までは、ファインダーとレンズの方向はたいがい一致していたので、目玉の代わりにレンズがこっちを見ている、という風情であった。両方デジタルになってから、父兄はファインダーではなくモニターを見ているようになった。レンズはこっちを見ているが、顔は下向きだったりして視線とレンズの方向が一致しない。
子どもが頑張って綱引きしているのに、父兄は下を向いている。子どもは父兄ではなく、レンズに向かって手を振っている。

父兄が見て、応援しているのは、子ども本人ではなく、モニターのなかの虚像である。

2012年3月2日金曜日

ゴミ箱


授業をやっていると、学生さんの反応がとっても新鮮なことがある。

コンピュータを使い始めた10年以上前は、あまり使い慣れない学生が多かった。
小学生だともっと輪をかけて新鮮なことがある。

当時、小学校でMacを教えていたクラスでの話である。今で言えばClassic OS、たぶん8とか9くらいの頃である。
「本日の作業が終わったら、自分のつくったデスクトップの書類をゴミ箱にドラッグしてください。ドラッグしたらゴミ箱がふくらみます。ゴミ箱は空にしておきましょう。空にすると音がしてゴミ箱が元のように空になります。これで本日の作業は終わりです」
などという作業内容であった。

授業終了後、先生がコンピュータの状況を確認していると、デスクトップにあった書類はもとより、もともとあるべき書類やフォルダ、アプリケーションやシステム設定がなくなっていたコンピュータが続出していた。
現在のMacOSと違って、昔のOSではゴミ箱に入れるとゴミ箱が太って、空にすると効果音と共にゴミ箱が痩せた。それが面白かったのか、子どもは手当たり次第、ファイルだろうがアプリケーションだろうが、何でもゴミ箱に入れて、ピューという音をさせて楽しんでいたというわけだ。「捨てて良いもの」「捨ててはいけないもの」の区別がつかなかっただけなのである。

小学校のことで、1クラス40人、マシン40台、先生は一人で、アシスタントは誰もいない。翌日の授業のために、先生の残業が大変であったことは言うまでもない。

2012年2月17日金曜日

文集


同居人が6年生の担任になった年があった。
小学校の最終学年で、卒業関連の準備がいろいろと必要になる。
定番なのが「卒業アルバム」である。
係になった子どもたちと、アルバムに何を入れるか、かなり早い時期から相談する。
その年は、自分たちの顔だけでなく、それぞれの図画とお習字の作品をいれよう、ということになった。
自分の「今」を表す作品を、授業で作成し、それを残すわけだ。
アルバムのページには、今の自分を残そうというコンセプトである。

制作された作品を集め、番号順に整理したものが、自宅に持ち込まれた。
複写するのが私の仕事である。
図画の方は、旅行や遠足の思い出、友だちや家族、校内の様子など、さまざま。
お習字の方は、定番の「夢」や「希望」、「将来」などが多い。
何かお題があったのか聞くと、授業では「好きなことを書く」ことだけを条件にしたのだという。

なるほど。
一人のお習字の作品が、墨痕鮮やかに「寿司」だったわけだ。

2012年2月16日木曜日

カメ


小学校低学年のクラス会議でよく話題になるのは「動物を飼おう」だそうである。

都心の小学校で、マンション暮らし、動物を飼えないご家庭が多く、どうしてもそういう話題が出るのだそうである。低学年だと、いぬねこうさぎはむすたーとりと、飼いたい動物オンパレードのリクエストで先生を揺さぶる。土曜日や日曜日、夏休みや冬休みの世話はどうする、といろいろと議論をすると、まあたいていが「無難」な線で落ち着くらしい。
だから、小学校の教室では、金魚やメダカなどが多いし、ハムスターなんかだと週末や長期休みは子どもの家へホームステイに出たりする。同居人のクラスではカメが選ばれたらしく、小さなカメをプラスチックの箱で飼い始めたそうだ。

当初は物珍しいこともあって、みんながこぞって世話をしたがる。
学年が上がると、クラス替えもある。カメさんのクラスはどうするか。
新しいクラスでは、飼い始めた前のクラスの責任は負えないと思われたらしく、だんだん世話がぞんざいになってくる。飼い始めた頃は小さくて可愛かったが、数年経つとそれなりに大きくなってすでに「可愛い」サイズではない。
カメさんはおとなしいから文句も言わないし、哺乳動物よりも比較的世話が焼けない一方で、なつかれているんだかどうだか分からない。
とうとう数年後の夏休みにはホームステイ先の提供もなく、その間の世話はどうしようかとクラス会議の話題にもならなくなった。

終業式の翌日。先生はどうしようかと考えあぐねて、カメさんの背中に白いマジックで、学年とクラスを書いた。
4年2組。
小学校に隣接するキャンパスには、ちょっとした池が何カ所かある。鯉がいたり、睡蓮が咲いていたりする。そこに、夏休みの間ホームステイさせようと思ったらしい。9月に再会したときに確認できるように、所属クラスを明記したわけだ。

9月。池で名前を呼んでも、手を叩いても、口笛を吹いても、カメさんは戻っては来なかった。

2012年2月15日水曜日

ウサギ


同居人がその小学校に赴任した頃、校庭の隅にウサギ小屋があった。小学校で小動物など飼育するのは今も昔も変わらないなあと眺めていた。かなり広い小屋に、1匹が住んでいた。最初は2匹で飼っていたのが、1年ほど前に、1匹が先に死んでしまったので、その後やもめ暮らしをしているのだと言う。

動物の世界に人間の世界を反映させようとするのは子どもにありがちなことである。ウサギが1匹で寂しそうだから、ともう1匹のウサギを飼うことに、その後の飼育委員会で決まったらしい。

おいおい、である。ウサギは人間と同じ感情を持っているわけではないのである。委員会の先生は何も言わなかったのかと考える間もなく、ウサギの新入居者が来たらしい。隣の大学は理科系の学部があり、実験ウサギが何匹も飼育されていた。新入居者の補充は、実験のお下がり、キャンパス内を横切るだけだ。
まあともあれ、案の定、である。子どもたちは、仲良く2匹で生活することを夢見ていたのだろうが、ウサギは縄張り意識が強い。やもめウサギは新人ウサギに猛烈な喧嘩を仕掛けて、怪我を負わせた。

結局引き離した上に、新人の方は教室内ケージ飼いになったようだ。やもめウサギは、その後は心おきなく、広い小屋でやもめ暮らしを満喫したそうだ。

2012年2月14日火曜日

アサガオ


同居人は数年前まで小学校で教えていた。
こちらは、大人になると小学校のことなどだいぶ忘れていたりするし、その頃と今では小学校を巡る状況もずいぶん変わっていたりする。

1年生の担任をしていた5月のある日、日曜日の朝につきあってくれないかと言う。小学校へ行きたいらしい。
ついていくと、教室の外、窓の下に、1列に植木鉢が並んでいる。アサガオである。3つくらいの小さい芽が出ている。
アサガオを育てるのは、今でもやっているんだねえと思っていたら、一回り大きな鉢を持たされた。こちらはもっとたくさんのアサガオの芽が出ている。同居人は、窓の下の鉢をひとつずつ確かめている。出ている芽が3本以下の鉢を探して、私の抱えている鉢の芽を、子どもの鉢に移植しているのである。
植物のタネはすべてが発芽するとは限らない。しかし、自分の鉢で植えたタネが出てこなかったら、子どもが悲しいと思うだろうし、カリキュラムでは「鉢に3本の芽が出ている」ことが前提で、次の作業にとりかかることになっているらしい。

子どもの鉢は、すべからく3本の芽が出ている状態になって、本日の作業終了。
このような努力が日本全国均質化された義務教育に寄与するのだろうが、何かベクトルが違うような気がする。