2018年6月15日金曜日

出席簿

1年生の授業も数ヶ月が過ぎると、学生の出席状況が見えてくる。
今年度は、1年生のドロップアウトが多そうだなあ、というのが正直なところである。
20名強のクラスで、1−2名の「既にドロップアウト」あるいは「ドロップアウト予備軍」がおり、その他に「遅刻しがち」「課題提出が滞りがち」なセカンドの予備軍がいる。2−3年前は、1学年に数名、といったところだったので、ちょっと今年度は多いかも、という印象がある。
5月になると、やっぱり他の専攻分野を受け直す、という学生がいる。第二とか第三志望の分野だったのだが、やっぱり第一志望に行きたい、というタイプである。学費と生活費を負担する親からすれば、1年でも無駄にしないことが望ましいのかもしれない。親の世代にはなかった制度で、転科編入などという制度も最近はポピュラーである。ただ、学生からすれば長い人生なので自分の思うとおりにできるのが一番だろう。その意味で、受け直すことを親に説得できただけでも、えらいものである。
もう一つのタイプは、通学してみたけれど、自分が思ったような学習分野や専攻分野、カリキュラムではなかった、というタイプである。自分に関係ないから、やりたくない、という学生もいて、こういうタイプはむしろ受験前のリサーチ不足なのではないかとも思うことがある。
気になっているのは、ここ数年多くなってきた印象がある「心身が疲れたので通学は一旦お休みしたい」タイプである。これも種類があって、単におサボりなのか、「不登校」なのか、病気なのかが、本人の申告だけでは分かりにくい。学生によっては「心身症なので、診断書を出します。授業には参加できないが、単位取得には対処して欲しい」などという希望を一方的に伝えるケースがある。勤務校の研究室は、比較的学生のアフターフォローに熱心なので、けっこうねちっこく、学生と保護者に連絡をとって、あれやこれやと対応策を練る。偉いなあ、と思う反面、大学なのだからそこまですべきなのかと、考えてしまうこともある。診断書の出るような病気であれば、メンタルであれフィジカルであれ、しっかりと治療に専念すべきだと思うのだが。
18歳成人、という法改正のニュースが取り上げられていた。果たして大学1年生くらいが、自分の意思と責任で学生生活をコントロールできるのか、出席簿を見ながら考えている。

2018年6月14日木曜日

ショートカット

3週間ワンクールの授業を5回ほど繰り返す授業を担当している。
学生さんの方は、3週間ワンクールの授業を4科目受講して単位取得する、という方式である。1クラスは25人ほどなので、18日の授業でまんべんなく個人的におしゃべりする、という感じには、なかなかならない。今の学生さんは、先輩にかじりつく、という方法を知らないので、黙って座っていて受講して、最終的に授業アンケートに「講師の指導が不足」などと記入する。大学側がこの記述で、クラスの人数を減らすとか、カリキュラムのスケジュール編成を変えるとか、指導講師の数を増やす、といった具体的な対策を講じてくれることはないので、学生にフラストレーションが溜まっていないかも、心配しなくてはならない。二昔前に比べると、大学の授業は様変わりしたものだと思う。
ことに最近の学生さんは「近道」を模索するようなところがある。何をするにしても、作業する前に「どうやったらいいか」を聞きたがる。その後、逐一、作業する前に、「これでいいか」と聞きに来る。この手の学生さんは得てして優等生で、失敗から学ぶ、という経験がない。「やってみてから、考えてみる」というのが、その問いに対する答えなのだが、そうするとむくれてしまうことがある。「指導不足」と、こちらがジャッジされた瞬間である。
受験勉強と違って、こと大学における授業では、「正解」を考えることが「勉強」ではないことが多い。むしろ、自分なりの正解を導くためのプロセスを模索することが、授業の目標だったりするものだ。
彼らが欲している正解への「近道」は、実は遠回りだったりするのかもしれない。

2018年6月2日土曜日

個性

授業が始まって数週間。映像系の専門コースにおける1年生の基礎的な実習作業を担当している。映像、といえば、当然のようにさまざまな機械を使うことが要求される。私の授業はストレートの実写なので、ビデオカメラと編集ソフトが、ここ15年くらいの必須項目である。
映像がデジタルな作業になってから20年ほどになるだろうか。私が学生の頃は、フィルムを文字通り「切って貼る」作業に没頭していたものだが、今やそれはソフトウェアの「アイコン」でしかない。
授業では、学生2人に1台のパソコンで編集作業をさせている。1年生のクラスだと一時に12台、2年生のクラスだと一時に20台ほどのマシンが並んだ部屋で教えることになる。こういった授業の進行やセッティングで難しいのは、パソコンベースで集団学習、という方法である。マシンは同じ構成で、同じアプリケーションをインストールしているにもかかわらず、トラブル発生するマシンが、ときどき、いる。なぜか起動しない、なぜかバグが出現する、といった案配である。全てが同じ症状ではない。学生さんの方は、日頃からマシンを使い慣れているわけではない。特に今日では、スマホは大丈夫だがPCはさっぱり、な学生も多く、ほとんどの学生は「ブラックボックス」として扱う。なおのこと、トラブルが出ると、学生はパニックになる。
教室のマシンは稼働が4年目である。税務署の減価償却の基準で言えば、ぎりぎり、である。そろそろ不具合が出始めるかなあと思っていると、五月雨式にトラブルが出るようになる。アプリケーションはフリーズ、マシンに再起動をさせることになる。以前と違って、システムの立ち上げに時間がかかるようになったので、再起動させてる間も、学生はイライラし出す。そもそも、インターネットブラウジングしかしない学生が多いので、映像編集ソフトなど重量級のソフトの扱いに慣れていない。どんどんフリーズさせることが増える。悪循環である。こうなると授業は悪夢と化す。
来年の授業をどうしようか、ぼちぼち考えなくては、と、居残りしてマシンの不具合を再確認しながら考えている。

2018年6月1日金曜日

参加

同居人が、図工の先生になろうと思ったのは、ひとむかし前、既に四半世紀以上になるのだが、当然のように時代はデジタルではなく、アナログであった。自分でいろいろと勉強しようと思ったようで、さまざまな「自主研究会」に参加していた。職場の研修会とは別に、有志の研究会というのがいろいろとあった時代である。勉強するテーマや、内容によっていろいろなグループがあったようだ。それなりのそれぞれが活発に動いていたのが、7−80年代頃のことだったのだろう。
たいてい運営する側、というのは、ボランティアに近いものになる。勉強する代金を徴収する営利団体ではないからだ。まあだからこそ、卒業した学校や、師事した先生、勤務している学校やエリアといった境界のない集まりにもなったのだろう。
同居人が最近顔を出している研究会も、運営する側はボランティアである。最近愚痴っているのは、運営する側が「打ち上げ」する飲み会の支出額が大きくなってきていることだ。日当は出さないので、弁当代や飲み会が「必要経費」として計上されているようだ。なんだかそれが、さもしい感じがする、と言いながら、研究会の会計書類を眺めている。