2015年7月30日木曜日

お返事

他の会社の話である。

高齢なのだが、設立者だったこともあって、未だに「会社に来てしまう」、元「お偉い人」である。
筆まめ、世話好き、宴会好きで、あちこちに出向くことを厭わない。すでに80はとうに越しているのだが、元気なじいさんである。
夏にお祝いごとなイベントがあって案内状を出した。いつもなら、速攻で電話がかかってきて「行くからねー」と元気な声が聞けるのだが、今回は電話がない。具合でも悪いのかと思って電話をすると「案内状はもらっとらん」。案内状は会社宛に出しているのだが、どうも担当部署が元「お偉い人」に渡していないらしい。以前の部下だった人に遠回しに事情を聞いた。

会社としてはいつまでも元「偉い人」が出勤することを快く思っていないらしい。じいさんが若い頃と違って、会社は大きくなり、組織的になっている。ワンマンなじいさんに振り回されるのはちょっとねー、というニュアンスである。もちろん高齢なので、出先で具合が悪くなってもよろしくない。しかし「付き人」をつけようとは思っていないらしい。言外に「早くリタイアして引っ込んだ方が…」ということである。だから、会社に来た案内や手紙をすぐには回さないらしい。

実力主義、成果主義な会社になると、せちがらいなあと思ってしまう。 

2015年7月29日水曜日

番頭さん

小さな会社のオーナーさんと知り合うと、「付き人」ではなくて、「番頭さん」がご一緒だったりすることがある。

オーナーさんが会社の一代目、しかも高齢なら、それよりも若い人が「秘書」あるいは「付き人」でご一緒だったりする。
オーナーさんが二代目、比較的お若かったりすると、それよりも年齢の高い人が「付き人」でご一緒されることがある。一代目の頃にお仕事をした人で、いまはそこそこの役付、いわゆる「番頭さん」な感じである。たいていは温厚で、人当たりが良い。

ある会社の二代目オーナーさんと、よくご一緒している「番頭さん」がいた。いつもはリゾートモードな場所であうのだが、たまたま都内で会うことがあった。ご一緒している「番頭さん」は違う人で、どちらかと言えば「秘書室長」モードである。

その会社には、実はいろいろな役割の「番頭さん」が取り揃えられているのかもしれない。 

2015年7月28日火曜日

追う

会社の偉い人、しかもご高齢の人、と知り合いになると、たいてい「秘書」さん、あるいは直属の部下、という人が「付き人」としてやってくることがあった。
昔で言えば「カバン持ち」、あまり良い意味では使われない言葉かもしれないが、若輩どうしで、ときどき雑談することもあった。
「随伴」される方の人は、会社にとっては「伝説」の人だったり、今は大きな会社の設立者だったりする。昔は小さな工場でねー、などという昔話を毎度聞かされるんですよー、というのが「付き人」さんの決まり文句である。
「叩き上げのじいさん」だったりすると、付き人を叱咤激励しつつ、自分はさっさと歩いて行ってしまう。ワンマンかつせっかち、というのがよくあるパターンだった。


付き人さんは追いかけるのが大変である。 

2015年7月27日月曜日

イベント

私の世代が習った「先生」たちが、定年退官、というのがここ数年続く。
大学は70歳定年だったが、最近は「選択定年」というのがあって、前倒しで退官する人もいる。

一般的な大学だと、教授がいて、その下に助教授がいて、その下に講師がいて、という人数的にピラミッド構造だったり、師弟関係があったりする。教授の上には、「教授の先生」つまり大先生、がいたりする。だから、例えば教授が何か賞をもらったとか、表彰された、還暦だ喜寿だ米寿だといった「お祝いごと」があると、お弟子さん筋が集まってパーティーなど開いたりする。こういうときに会を仕切るのは、大先生の下の先生、が筆頭になる。大先生の下の先生が多いときは、「発起人会」などが発足する。

こういった風景がときどきあった。

今は還暦くらい当たり前になってしまったし、世の中がせわしないのか、派手なことをしない傾向があるのか、「イベント」そのものが減ったようだ。 

2015年7月21日火曜日

マシントラブルに逆ギレしてマシンに蹴りを入れた学生の、その後、である。

1年の間は3〜4週間でいろいろな実技の授業を受ける。マシンの蹴りを入れた後、私の担当授業に参加、こちらではチーム制作なのだが、チーム内のコミュニケーションがうまくとれなかった。俺が俺が、と自己中心的で、他の学生には協力を要請するが、自分は他の学生の作業には協力しない。結局制作はうまくいかないのだが、それを他人のせいにした。自分は一生懸命やったのに、作品としてうまくいかなかったのは、他の学生が協力的ではない、と公言した。講評時には、他のメンバーを「出来の悪いおまえら」呼ばわりした。
その時チームの女子が逆ギレした。
「そういうあんたはナニさまのつもりなのよ。もう我慢できない」。


私が担当するのは3週間だけで、その後の授業の動向はわからない。2年に進級したと思ったら、アパートに引きこもって「ネトゲ廃人」っぽくなっていた。結局留年したらしい、と噂に聞いたのだが、その後どうしているだろうか。 

2015年7月20日月曜日

蹴り

締め切り間際に人間同様の馬鹿力を期待しても、機械には通じない。無理をしたら、機械はフリーズし、データが壊れ、結局は時間が無駄になることが多い。
授業なので、機械相手の作業はそんなもの、というのがわかれば御の字である。たいていの学生は、それ以降、もう少し早めにスパートするようにスケジュールを組むものである。

数年前の他のクラスの学生のことである。やはり締め切り間際だけスパートをかけ、機械に負荷をかけて、結局フリーズさせてしまい、データがふっとんでしまい、あげくにハードディスクが立ち上がらなくなった、というケースがあった。機械だからしょうがないのよ、というのが、こちらの常套句である。残りのデータをサルベージするにせよ、システムを初期化してクリーンインストールするにせよ、数分では作業はできない。今日の作業は無理だねえ、と言った途端にその学生はブチ切れて、マシンに蹴りを入れたのである。
ばっこん。
ケースに凹みができて、これはきっと中のボードが落ちてるなあ、という外見になってしまった。ハードディスクだけが無事とは思えない。
初期化では済まない。修理である。数日では済まない。しかも料金が発生する。下手をすると高額である。


後にも先にも、マシンに八つ当たりしたのは、その学生だけである。 

2015年7月19日日曜日

解決法

まあ、課題であるから、間に合わなくってもナンボのものである。それが身にしみて、将来馬鹿力に頼ったり期待したりしなければ良いだけである。

ところが、機械の方は正直なもので、「ゴリ押しする」学生というのを、私よりも先に見分けたりすることがある。

授業では12台のコンピュータを使っている。全部が同じ仕様なのだが、数週間の授業のうちでやけにフリーズするマシンが、時々出現する。違うクラスでは全く問題なく動作していたりするが、また別のマシンがやけに動作緩慢になったりする。
時として、「動作が怪しい」マシンを扱っている学生の「操作が怪しい」ことがある。
怪しい動きをし始めたときの操作を覚えていれば対処のしようがあるかもしれないが、ほとんどの学生は覚えていない。条件反射的にマウスをクリックしてしまい、エンターキーを押してしまうからだ。どのボタンを押したのか、どういったタイミングでどのキーを押したのか、記憶にない。

今年の場合は、「コンピュータの操作に不慣れ」でやたらエンターキーを押してしまうケースと、「自分ではコンピュータの操作に慣れていると思っている」のでやたら環境設定や初期設定をいじりまくってしまうケースの両方で「怪しい動作」が発生していた。機械の方で「要注意人物」を見つけてくれているようなものだ。たいていこういう学生は、すべての作業が「雑」だったり「乱暴」だったりする。コンピュータを扱う作業だけではなく、日頃の作業にも要注意である。


いまどきのコンピュータというのは、システム関連で使うファイルや設定がやけに多い。どの操作によって、何が悪さしているのか突き止めるのに時間がかかる。急いでいるときには、いきなりCドライブ初期化してインストールし直しましょう、という作戦になる。 

2015年7月18日土曜日

アドレナリン

ばたばたと過ごしているうちに7月も半ばである。授業の方はすでに終わり、学生の方はテストやレポート提出を残すのみ、といったところである。実技系の授業では試験はないが、課題の提出、というのがある。

たいていの学生は、間際までのんびりと過ごしていて、数日前からやっと腰を上げる。締め切り寸前までスパートしない、という癖を「崖っぷちの魔術師」というニックネームでカバーしていているのがいた。考えてみれば、寸前でじたばたするなら、数日前からじたばたを分散させていた方が良いことはわかるはずだ。今の年齢だと心臓とか血圧にはすこぶるよろしくない。美術学校ではそういった理屈は通らず、崖っぷちにならないとアドレナリンが出ないのか、自分を追い込むつもりなのか、そこで実力120%を目指す学生も多かったりする。

もちろん絵画や彫刻など、肉体労働ならそれはあり得るかもしれない。人間火事場の馬鹿力というのはあなどれないからだ。
ただし、機械にはそんな理屈は通らない。

ビデオを扱う授業をやっているのだが、たいていの学生は間際になるまでのんびりとしていて、締め切り数日前からスパートする。機械の方は日頃のんびりと過ごしているのに、締め切り間際数日だけがモーレツに稼働することになる。人間には火事場の馬鹿力はあるかもしれないが、機械にはない。締め切り間際だけ、コンピュータの処理速度が速くなったり、スーパーマルチタスクに変身したりはしない。焦ってリターンキーを押し続けてフリーズしたり、無理な処理をかけて熱暴走させたりする。
機械は締め切り間際に故障しない、とタカをくくっている。そんなことはない。突然無理に働かせたら機嫌が悪くなる。

機械を扱うときは、緩急なく平均的に、というのが原則である。

2015年7月11日土曜日

把握

たいてい授業の出席日数が危ない学生が、クラスに数名ほど発生する。以前は忠告せずに、授業を終了、課題作品の提出のときに、警告の掲示を出した。「以下の学生は出席日数不足のため課題は受理しない」。

それでもゴリ押しして課題を提出する学生がいる。翌日また掲示を出す。「以下の学生は出席日数不足のため、課題を受理しない。したがって採点もできないのでそのまま持ち帰るように」。

たいていの学生は「出席日数不足」に思い当たる節があるので、数回そんなやりとりをすれば、納得する。

しかし、ある「記憶障害」な女子学生は、そのクレームを教務課に持って行った。
「課題を受け取ってくれません」。

当然教務課から問い合わせが来る。「なぜですか」。
こちらのお返事は「出席日数不足なので受理できません」。

教務課はその返事を「記憶障害」ちゃんに伝える。「記憶障害」ちゃんは、教務課のカウンターでかなりゴネたらしい。教務課から「出席簿を見せてくれ」と連絡が来た。持って行って見せたら、教務課は納得した。
「記憶障害」ちゃんの出席日数は3分の2、しかしその出席はすべからく遅刻だった。

その頃の学校のルールは、出席3分の2で課題提出権利取得だった。「記憶障害」ちゃんはぎりぎりでクリアしようとしたらしい。しかし、遅刻ルールというのがあって、遅刻3回で欠席1回、というカウントルールがある。だから、出席日数は3分の2に満たない。
「記憶障害」ちゃんがぎりぎりでクリアしようとしたなら、カウントミス、あるいはルールを熟知していなかった、ということである。

ルールがあるなら、事前にきちんと把握しておかなくてはならない。

2015年7月10日金曜日

管理

学生にとって「遅刻」が身近な「問題」になるのは、自己管理の難しさということなのだろうか。

学校には「単位認定の基準」というルールがある。ある割合の出席数でテストの受験資格ができる、レポートや課題作品の提出の権利を得る、というものだ。もちろん、出席数で単位の確保が確約されるわけではない。皆勤賞でも、テストの結果が0点なら単位は出ない。
授業担当の教員にある程度の裁量はあるのかもしれないが、最近の教務課は管理が厳しい。むしろ明確な「事務的な」作業だからだろう。

授業も終盤に近づくと、出席日数の確認をしに来る学生が来るようになる。何回出席しているか、大丈夫か、といった内容である。大学生にもなって授業に出席したかどうか「記憶にない」ようなら、自己管理どころか、学生の「記憶機能」の方が「大丈夫か」と思ってしまう。

2015年7月9日木曜日

現実

「遅刻ネタ」というのはたいていステレオタイプである。「遅刻」ということに特別の意味があったりメッセージがあったりするわけではない。「遅刻しがち」であるという習性も、特別なことではない。だから共感しやすい、ということはあるのだろうが、19-20の「いいトシ」をした学生が取り上げる「テーマ」としては、いかがなものかという気がする。

クラスにはたいてい数名の「遅刻常習犯」がいる。
授業が始まってから数分で「すいませーん」と言いながら、教壇側の扉から堂々と入り、教卓の前に立ちはだかって「遅刻しました〜」とこちらの話をぼっきり折って報告する。
寝坊ならその程度だが、事故やハプニングなどという「正当な遅刻の理由」があるときは、その場で延々と遅刻の理由を述べる。わざわざ最後列まで通路をのんびり歩いて席に着く、などという「罪悪感ゼロ」な学生もいる。
お客様は神様だ、という言葉が脳裏をよぎる。

健康上の理由で、などというもっともらしい理由があることは稀である。
たいていは、遠距離通学の学生ほど早い時間に登校する。数分の電車の遅延が、つもりつもって数十分になるかもしれないからだ。
親の介護、という年齢でもない。
自分で学費を稼いで夜も昼もない、という学生も稀である。以前にそういう学生がいたが、明らかに授業時間の集中度が違う。休み時間は机に突っ伏して爆睡しているが、授業が始まると起き上がる。雑談をしてわかったのは、余暇どころか睡眠時間がほとんどないからだった。

授業ではなく、自分の好きなことには遅刻はしないのかもしれない。しかし初デートで遅刻したら、相手の印象は良くない。スポーツの試合では有無を言わさず「棄権」である。社会に出れば、一度の遅刻でその後の人生が変わることもある。後輩がロケ撮影の初日に遅刻したら、翌日に「あれ、まだいたの?」と言われたらしい。言外に「クビ」である。

時間にルーズな学生は、仕事もルーズになりがちである。資料やデータ、ノートの整理も苦手な傾向がある。こうなるともう一緒に仕事はしたくないタイプナンバーワンになってしまう。学校では「クビ」はないが、社会では「つまはじき」である。

学生には、数十年先のことなど見えていないのだろう。こちとら、「使える卒業生」も目指して授業しているのだが。

2015年7月7日火曜日

関心

さて、今年はやけに「遅刻ネタ」が多い。

たいていの「自己紹介」は、どうしてもその時点での学生の気持ちや状況を大きく反映する。ホラードラマが流行っていた頃は、やたら「ホラー」っぽい展開が多かった。その伝でいえば、「遅刻」が今年の学生の最大の関心事なのかもしれない。

いやしかし、である。大学生の最大の関心事が「遅刻」というのは、別の意味で危うい気がする。自撮りも含めて、学生の関心は自分自身、あるいはその周辺数センチ、日々のルーチンワークだけ、という気がするからだ。18歳に投票権、というニュースがあったが、自分自身にしか関心のない学生が投票などできるのか、ちょっと不安になった。

2015年7月6日月曜日

走る

さて立ち戻って、ここ1〜2年の作品がどうかといえば、ひとことで言えば「単純」、分かりやすいものなのだろうが、「だから何なんだ」というものが多い。

以前からあったのだが、ここ数年で増えたのは「遅刻ネタ」である。
校門から学生が走り込んで来る。アプローチを走り、中庭を走り、ピロティを走り、階段を駆け上がり、廊下を走り、教室のドアから中に入る。途中でチャイムが聞こえる。走っている途中、ドアの寸前、入った後、のパターンである。

自己紹介の意図としては、遅刻しがちな性格、というところらしい。問題なのは、単に走っているだけで、「いつも遅刻する」「いつもギリギリに教室に来る」というような習慣性は映像では表現しにくいということだ。単に教室に走り込む、という「移動状況」しか見えない。これが「いつも」なのか、今日は「特別」なのかは伝わらない。あるいは、下手をすると「駆けっこ好き」に見えてしまう。

たいていこのような意図だと、カメラが被写体と一緒に走ったりフォローしたりするのも多い。問題なのは、カメラマンの視点を意識しない学生が多いので、どちらかといえば「走る人物を追うストーカー」な映像になってしまう。「走っている人物」ではなく、「遅刻の女子学生を追うストーカー」を紹介してしまうことである。

2015年7月5日日曜日

ステレオタイプ

さて立ち戻って、ここ1〜2年の作品がどうかといえば、ひとことで言えば「単純」、分かりやすいものなのだろうが、「だから何なんだ」というものが多い。

以前からあったのだが、ここ数年で増えた「紹介」は「音楽好き」である。
学生が画面に入ってくる。椅子やベンチに座る。カバンからステレオイヤホンとプレーヤーを取り出す。イヤホンを耳に突っ込み、プレーヤーのスイッチを押す。体がリズムを取り始め、踊り出す。半数以上はフレームアウトして空舞台で終わる。

たぶん普段はそういう生活や嗜好があるんだろうなあと思うのだが、「だから何なんだ」という印象になってしまう。ひとつは、伝えたいことやその表現が「ステレオタイプ」であることだろう。一般的な音楽プレーヤーのコマーシャルをそのままなぞっているが、映像としての展開が少ない。舞台に入って出て行く、という演劇的な手法を使うので、ラストカットの意味が希薄になる。映像としての構成があまり考えられておらず、普段の生活の範疇でしか想定しないことが多い。

大抵の学生さんは「音楽好き」である。「音楽嫌い」という学生にはあまりお目にかからない。もちろん映像では肯定的なことを伝えるので、「嫌い」であることを伝える方が難しい。まあしかし、「作品」あるいは「表現」にするにはここからが一工夫いるところである。

2015年7月4日土曜日

連想

翻って以前の学生さんの作品がどうだったかといえば、ひとことでいえば今よりも「難解」なのが、時々出現した。

自分が引っ込み思案だ、という紹介をしたいとする。例えばこんなものが出てくる。
教室でも廊下でも誰かの後ろを三歩離れてついていく。
紙袋やマスクをかぶって、学内で立っている。
トイレでぼっち飯中。
教室の端っこでイヤホンを耳に突っ込んで窓の外を見ている。

30秒という尺なので、文脈をつくるほどの時間が取れない。だから得てして「ストーカー」「変な人」という印象になってしまう。
本人の制作意図を聞けば納得できるのだが、いわゆる「考え落ち」になっていることが多かった。言葉の連想ゲームから「アテ振りをする」という作戦である。
引っ込み思案→友達とあまり一緒にいない→自分を見せるのが得意ではない→一人で顔を隠して立っている→頭に紙袋をかぶって顔を隠す、という思考回路である。ところが映像では、クラフト紙の紙袋を頭にかぶった学生が学内で立っている、だけである。なぜ紙袋をかぶっているのか、なぜ学内に立っているのか、それだけではわからない、というのが課題の解題である。

連想ゲームの結果から、最初の「お題」を、同じ「言葉」として感じさせるのは、難しいのである。

2015年7月3日金曜日

普段どおり

ばたばたと過ごしているうちに7月である。
新学期にはぴかぴかの1年生だった学生が、すでに場馴れして緊張感のかけらもなくなってくる時分である。

担当している実技授業では、学習分野におけるさまざまな意図があったりはするのだが、1年生のクラスの最初の課題は、平べったく言えば「自己紹介」である。
言葉や文字という言語情報を使わずに、30秒の映像だけで自己紹介してね、というのが「お題」である。ここ10年ほど同じ課題をやっている。だから、年度ごとの特徴があったり、クラスごとの特徴があったりする。特に、時代背景のようなものが見えてくることがある。

クラスの8割は映像制作をしたことがない、という初心者である。1割は、高校で自主制作映画を作ったり、放送部でドキュメンタリーを作ったりしたことがる、というのがいる。クラスの3割ほどはアニメオタクや漫画オタクに近い嗜好があるが、映画オタクはいない。ここ1〜2年は、携帯やスマホで動画を撮影し、そのまま友達と共有する、という使い方をする学生が、クラスの半分以上に増えた。
そのためかどうかわからないが、最近の顕著な傾向は「自撮り慣れ」していることと、「普段の生活」を描きたがることだろう。
やけにカメラ目線でアピールする自己主張のある作品が増えた。レンズの向こうに想定しているのは「友達」である。やたらに歩いたり走ったりしてレンズに近づき、手を振ったり、首を傾げてにっこり笑ったりする。コスプレも増えていて、なぜか高校の制服やかぶりものを着ている。菓子バンやお菓子にかじりつき、耳にイヤホンをさしてノリノリになる、というのも増えた。

自分を客観視していない、という印象の自己紹介が増えた。普段の生活の自撮りの延長線上で映像を撮影している。いい意味で「天然」、悪い意味で「ホームビデオ」でしかない。

2015年7月2日木曜日

補正

今の学生さん世代は「デジタルネーティブ」と呼ばれている。
デジタルな世代は修整好きである。

実写の動画を教えている。編集ソフトではいろいろな機能があって、エフェクトもたくさん使えるようになっている。ここ数年の質問で多いのは、撮影した動画素材を修整することだ。
水平垂直を修整する、画面のサイズを修整する、などはまだ序の口である。背景のアレを消したい、向こうのコレを移動したい。ビデオだと音声も同録なので、ついでにセリフにかぶっているヘリコプターの音を消したい、などという要求が多い。
撮影はフルHD、編集も上映もフルHDなので、画像のスケールや回転といった加工技術を使って修整すると、上映時の解像度が下がることがある。背景のオブジェクトを消したり移動したり、などという作業は、ちょいちょいとした作業では済まない。音声も一緒のトラックに録音されたものは、各要素に分解はできない。
やってやれないことはないのだが、それが簡単にできるわけではない。だから「三丁目の夕日」という映画は話題になったのである。1960年代の風景がそのまま、最先端の技術で画像になっている。もちろんセットや道具ばかりではなく、CGも駆使、である。こういった加工をする、とう前提で撮影も行われている。あとから加工するためには、加工しやすい素材が必要になるからだ。

制作のプロセスを知らなければ、修正前と修正後だけを見ることになる。簡単に見えてしまうのだろうなあ。デジタル技術というのは、簡単で誰にでもやれそうに見えてしまうのが難点である。

2015年7月1日水曜日

メタファー

今の学生さん世代は「デジタルネーティブ」と呼ばれている。
しかし今のデジタル技術というのは、ベースにアナログ技術が入っていることが多い。

関わっている映像系のジャンルで言えば、画像系の編集ソフトは多かれ少なかれアナログ時代の編集を思い起こさせるメタファーを多く使っている。

写真加工で言えば、Photoshopというのがよく使われている。ソフトの中のツールに「覆い焼き」というコマンドがある。アイコンは、丸に棒がついたようなもので、実際に暗室作業で覆い焼きするためによく自作したものだ。暗室作業をやったことがあれば、なるほどと思う。しかし、今の学生さんの世代だとフィルムカメラを扱ったこともなければ、暗室作業をやったことがないことが多い。果たしてこのアイコンとコマンドが何を意味するのかわかるのだろうか、と思う。

映像系の編集ソフトで、Premiereというのを授業では使っている。映像の単位として「クリップ」と言っている。フィルムで編集する時に、フィルムを切り出して洗濯バサミで吊るしていたので、「クリップ」である。コンピュータ上の「クリップ」を切り分けるのは「レーザー」ツールで、アイコンは「カミソリ」である。私の世代だと、オーディオの6ミリテープの切り貼りはカミソリの刃を愛用した。ハサミだと、狙ったところを切りにくいし、刃の厚みがあって切り口が巻き上がりやすい。カミソリだと刃の厚みがなく、すっきりすぱっと切れるからである。
しかし、実際にフィルムやテープといったものを扱ったことがなければ、ピンとこないだろうなあと思う。

これも時代とともに変わってくるのだろうか。