2014年7月21日月曜日

ビジュアル

映像業界と言うのは作業分担が細かく、それぞれがプロフェッショナルである。ディレクターがイメージした頭の中のビジュアルを、周りがいろいろと組み上げる、というシステムになっていることが多い。
得てしてそれが、「ディレクターになりたい」と学生が思うきっかけになっているようだ。自分がイメージしたビジュアルを、周りがよってたかって具現化する、という図式だ。
もっとも、そうなるためには、周りがよってたかって具現化したイメージに対して「ジャッジする」ことが出来る能力が要求される。痒い所に手が届くスタッフであっても、痒い所を探してくれるわけではない。黙っていれば、思ったイメージを提供される、などということはない。

学生さんの課題では、だからといって最初のアイディアやイメージに固執しすぎると、本質を見失うことがある。何が「本質」なのかを考えることが大切だ。前述のケースでは、スケッチが飛んでいくと言う超自然現象がリアルに撮影できなければならないのか、ということだ。
こういうときに、よく提案することのひとつが「黒衣」作戦である。舞台の上にいるが「いないもの」として観客は認識しなくてはならない。黒尽くめの衣装を着て、スケッチを「持って行く」のを撮影する作戦である。
もうひとつは「チープで効果的」作戦である。例えばメリエスやフェリーニの作品のように、リアルではないつくりもの、といった趣の装置を用意する。スケッチをテグスでつったり、針金で動かしてみせたりする。「リアルではない」方が、「何か」を伝えることもある。
「本質」が、男女が「出会う」きっかけである、とする。そちらを丁寧に描写することが出来れば、黒衣やチープなセットは気にならなくなってしまうことがある。

学生は、リアルを追求した、いまどきの表現しか見たことがない。「リアルではない」表現は、身近ではない。さまざまな演劇などのパフォーマンスや、時代を越えた表現を知る経験があまりないようだ。クラスで「歌舞伎を見たことがある」学生は、1-2名程度、黒衣など見たこともない学生がほとんどなので、思いもつかないのだろう。恵まれた社会と環境にいながら、少しもったいない気がする。

さまざまなものを見て蓄積していくことが、人生である。蓄積したことが、表現となって出てくることがある。人生がモノをいうのは、こういう時である。

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