2014年6月20日金曜日

チャレンジ

さて、今年のブームは、というと。
なぜか「禁じ手揃え」である。よく言えばチャレンジャー、悪く言えば無謀である。

授業では「映像では伝えにくいこと」と言う話をする。
たいていの学生は「映像なら何でも伝えられる」「しかもばっちり伝えられる」と思っているので、それは違う、という話をする。
たとえば否定形は伝えにくい。ここにある、というものは撮影できるが、ここにはない、という言い方にはならない。同じように、夢や回想、違う時制は伝えにくい。映像は常に現在進行形しか提示できない。だから「編集」という作業があり、コンテクストによって「読ませる」ことになる。
ところが今年の学生はなぜかわざわざ「伝えにくい」「表現しにくい」ことにチャレンジしたがる。
ここ数回で多いのは「夢オチ」「音作業」である。

もちろん、「夢」を映像として具現化する、というのは大変ではある。黒澤明の「夢」などがその例だし、夢と現実のあわい、ということをテーマにする作家もたくさんいる。
フィクションを作るときに「夢オチ」は禁じ手、というのはよく言われる。どんな荒唐無稽なストーリーでも、夢が覚めたら、というのでは「なあーんだ」ということになるからだ。似たようなものに、全部妄想、主人公の死亡、奇跡が起きる、などというものがある。それまで描いていたストーリーや世界を簡単にチャラにする、というのが「なあーんだ」と感じる理由である。

禁じ手に挑戦するなら、ストーリーとして「それは夢でした」という、すべてをチャラにしたオチだけでは難しい。夢の中の世界をきちんと描けたり、現実世界とのギャップをきちんと表現できないと、「やっぱり禁じ手だったねー」ということになるだけだ。

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