2012年6月3日日曜日

子猫

映像は、画像で伝える情報が8割以上、あとは音声で何かを伝えようとする。
だから、映り込んだ画像が勝負になる。

ワークショップなどで、子どもにカメラを渡して何かを撮影してもらうと、思いもかけない画像を持ってくるので面白いことがある。通りのこちらから向こう側を、かなり広角で撮影してきたりする。取材場所の商店街の様子を俯瞰するような、大人っぽい構図だったりしてびっくりすることがあった。
「おお、商店街の様子を撮影してきたんだね、面白いねえ」。
などとスタッフが褒めたりする。しかし、当の本人は不服そうな顔をする。
「商店街の様子がよくわかるよねえ。お店がたくさんあるんだねえ」。
スタッフがしきりに子どもを持ち上げる。当の本人は相変わらずふくれている。そこで助け船を出す。
「うーん、じゃあ何をみんなに見せたかったのかしら」。
本人は広ーい画角の手前、小さく映り込むゴミ箱の下にうずくまる子猫を指さす。
画面の中のほんの小さな一部分である。ピントも露出も合っていないし、画面の中央に入っているわけでもない。
子どもは、商店街の様子を見せたかったわけではなく、道ばたの小さな猫を見せたかったのである。

彼が見ているもの、撮影した画角、提示されたフレーム、伝えたいもの、伝えたものは、必ずしも一致しない。
人は見たいものだけを見るのだが、それを提示する技術を、最初は持たない。自分の視野を提示すれば、誰もが自分の見ているものを見るだろうと思っている。しかしフレーミングされ、撮影されたものは、情報が均質化してしまう。だから、見せたいものを的確に見せるためには、いくばくかの技術が必要である。

同じことは美術学校の学生さんでも同じである。携帯電話で写真を撮影し慣れていながら、なぜか、彼らは撮影された画像の中で、自分が見たものだけが伝わると思っている。なぜなのだろうか。

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