見えないものや聞こえないことは、伝えられない、というのが基本である。
だから無理か、と言えばそうではなくて、それは表現のモチベーションになっている。「愛」は、それそのものは見えないから、男女とか親子などの関わりを描くことで「愛」を感じさせるようにしているわけである。
ビデオカメラを構える初心者がすぐに忘れてしまうのが、このことである。自分が感じていることが、そのまま映像として定着すると思っていたりする。
前主任教授がよく言っていたのは「絶世の美女」撮影作戦である。ディレクターに「絶世の美女を撮影してこい」と言われたらどうする? という質問である。
15年前は外国人の映画スターの名前がよく出ていた。ニコール・キッドマン、シャロン・ストーン、ジュリア・ロバーツとかが挙げられた。
10年前くらいからは日本人の女優さんである。宮崎あおい、蒼井優、仲間由紀恵、小雪、なんかが挙がる。
5年ほど前からぼちぼち「絶世の美女」というのが通じなくなった。「街を歩いてきれいなお姉さんを撮影します」。
最近は親孝行な男子がいて「お母さん撮影します」。「絶世の美女」がお母さんとは。それでびっくりしていたら、その後「うちのおばあちゃん」という婆さん孝行な男子もいた。二度びっくりである。
前教授が20年前に想定していたのは、クレオパトラ楊貴妃ヘレネだったのだろう。今日生存している人物ではないので、被写体としては無効、というのが当時の正解である。
絶世の美女が、街で声をかける程度なら、「絶世」とは言えない。今の学生さんにとっては「世」がたくさんあるものらしい。で、最近の正解は、「君にとってはお母さんは絶世の美女かもしれないが、他人にとっては絶世の美女ではないと言われる恐れが大」、あるいは「君にとっては絶世の美女かもしれないが、他人にとっては単に君のお母さんにしか見えない」ということになっている。
さて、「絶世の美女なおばあさん」とは、どんな人だろう。
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