2012年6月11日月曜日

リターン・キー

私の両親の場合は、「つくる」ものは「手にとって触れる」以上に「使える」ものの方がありがたい、という認識があって、デザインだの映像だのといった作業をしていると、母親にはよく「使えるものはつくらないのねえ」と言われた。母親にとって、テキスタイルとか陶磁などの工房の作品は生活に「使える」ものだが、デザインの授業のプレゼンや写真の引き伸ばしは、生活には「使えない」のである。
まあ、そうは言っても、好きでやっている作業なのだから、インクまみれだろうが、酢酸くさくなろうが、なりふりかまわなくなろうが、作業はする。
学生にとっては、「仕事の証明」でもあるし、みんなでよれよれしていれば怖くない、という状況にもなる。
そんなこともあって、なりを見れば専攻分野のだいたいのアタリがついた。

翻って今日、学生さんのなりは、均質化してきれいになった。汚れているわけではないから、それだけでは専攻分野があまり分からなくなった。肉体労働系の作業が少なくなったということでもあるのだろう。彫刻の学生だって、コンピュータで3次元のオブジェをつくってプレゼン、という時代である。彼らにとって「つくる」とは、コンピュータのリターン・キーを押すことだったりする。指先を染料で染めたり、絆創膏だらけになったり、薬品臭が髪から抜けない、などという状況は、別世界の出来事なのかもしれない。

現実的にはそういう社会になっていくのかもしれないが、それで忘れてしまうものは何もないのだろうかと、時々不安になることがある。

0 件のコメント: