さて。
現在、「学校」というところで教えられている「映像」系の授業では、多かれ少なかれ「機械」による作業が伴うことが多い。機械や技術の上に成立している表現でもあり、その依存度はとても高い。しかも、技術的な開発がとても早い。
仕事の関係で、中世の古典技法などひもとく機会があった。1400年頃、イタリアの絵画技法書である。テンペラ画とかフレスコ画、といった技術である。この時代だと、絵描きさんは一人でお仕事をするのではなく、「工房」を持っていて、たくさんの職人さんやお弟子さんとの協同作業をしていたのである。
まあ、お弟子さんになるにはいろいろと動機だとか目的だとかがあるだろうが、まず最初にやるべきことは「自分の道具をつくる」ことであり、描画の練習をしながら道具や絵の具をつくることであったりする。画材屋さんというのが出現するまでは、道具や材料などをつくることは「工房」の仕事である。絵画に繋がる技術はすべて「工房」の中に入っている。
一方で、機械を通して表現するものは、表現者が機械を開発する、というわけにはいかない。表現者が機械の開発を促すこともあれば、開発された機械によって表現を試みる、ということもある。
機械の開発には高い専門性が伴うので、使い手の「創意工夫」だけでは追いつかないこともたくさんある。お互いのニーズを埋め合わせようとして作業しているわけでもない。
技術面が分離されて開発されると、そのスピードはとても速くなる。油絵が開発され、ポピュラーになるのに数十年単位でじっくりと浸透していっただろうが、ネガフィルムがデジタルメディアにとって代わるのに数十年はかからなかった。
表現を追及しているのか、技術を追っているのか、分からなくなる時すらある。
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