2012年7月8日日曜日

ソース


そんなわけで、母親が育った家には、曾祖父の教え子、つまり書生さんというのが何人かいたそうである。まあ、地方から出てきた秀才、といった風情だったのだろう。

曾祖父の奥さん、つまり曾祖母というのも東京女子高等師範出身、わりかたしゃきしゃきと、物言いのはっきりしたタイプであったそうだ。
母、つまり曾祖父の孫は難しそうな宿題を持ち帰ると、曾祖母に相談して、書生さんに代筆をお願いした、ということが何度かあったらしい。教員の孫としてあり得ない、と思ったが、曾祖母の持論は違っていて、勉強するのはいつでも出来るし、学校の思うとおりに宿題をやっても本来の「勉強」とは違うのだから、誰がやっても構わない、ということだったらしい。

そんなふうに、宿題をやってくれたかもしれない書生さんのひとりとは、彼が亡くなるまで付かず離れず、親子ぐるみ孫ぐるみで、つきあいがあった。彼は卒業後母校の教員になったのだが、遊びに来ると「単なるオモロイオジサン」でしかない。何を研究しているのオジサンか、と母に聞くと「代用ソース」と答えが返ってきた。

長じて調べると彼は応用化学の教授で、戦時中は専攻を生かして食材を研究開発していたのだそうである。おかげで私の中では「応用化学=代用ソース」が直結してしまった。本当は、それだけが研究対象ではないのだろうが、申し訳ないことである。

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