2012年12月23日日曜日

思い出話

ひところ、OB会の仕事を手伝っていたので、かなり先輩の話を聞くことが時々あった。現在創立してから80年ほどになるので、最初の頃の卒業生は既に物故者が多くなっている。

まあ、元来が「美術学校」である。歴史的な資料とか文献とかを整理し始めたのはここ2−30年のことになる。データがアナログであったり、担当者でなければ分からない、ということもあったりして、大先輩の思い出話もなかば「話半分」なのかもしれない。年をとると、面白い話は尾ひれがついたりして、デフォルメされがちである。

戦前の「美術学校」ということもあって、もちろん学生は男子が多く、女子学生はあまりいない。昔も今も変わらないのは、卒業後の進路があまり「よろしくない」ように見えることで、だから「美術学校に通う」のはかなり勇気のいることだった、と言う大先輩もいた。隣近所、同年齢の男子は、いわゆる六大学とか、商業学校に通っていたりするのに、うちの息子は「美術」なんて、というわけである。拝み倒して美術学校に通わせてもらっている先輩は、その条件が「美術学校に通っていることを世間に知られないこと」だったそうだ。風呂敷で厳重にくるまれた絵の具箱を抱えて電車に乗り、絵の具が衣類についていないか十二分にチェックしてから下校する。
もちろん、美術学校に通うんだったら勘当だーという家もあったそうで、当然のように勘当され、生活費を稼ぎ学費を稼ぎ絵の具代を稼ぐという、苦学生もいたようだ。

芸術系の学生が貧乏なのは、いずこも、今も昔も、似たり寄ったり、かもしれない。 

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