2012年5月1日火曜日

走る

ビデオカメラで撮影、編集する実習授業を担当している。

授業で撮影した動画素材をプレビューしてもらうと、ときどき「!」とか「?」な素材を見ることがある。
編集しても「!」だったり「?」だったりすることもある。

ひたすら人物が学内を走りまくっている素材を見せられる。編集しても、動線はばらばら、カメラワークはぎこちなく手ぶれもしている。露出もピントもいまひとつ、絵としても「しまり」がない、時折主観ショットも混じる。ひたすら走っておわりである。
本人的には「何をやっているか」は分かっていて、そのイメージを淡々とつないでいたりする、つもりでいたりする。

「つもり」というのは実は「くせもの」で、それは子どもの頃から培ってきた「テレビの見方」に依存するところが大きい。しかし、なぜそのようにテレビを理解しているか、ということはあまり自覚できていない。ブロークンで話せるけれど、英語の文法を理解しないまま、小説を書こうとしたり、詩歌をつくろうとしたりするに近いかもしれない。
「走る」ことだけに集中してしまい、そのイメージを増幅させようとしているのは分かるのだが、「だから何だ」状態である。

「それで、なんで走っているのよ」と学生に問うてみる。
「あー、実は主人公は遅刻しそうなんです。その焦り、焦燥感をですねえ、イメージ表現したいじゃないですか」

「遅刻」などという情報はどこにも出てこない。画像だけ見れば、学校内かどうか、知らない人が見たら分からない。従って、焦燥感も感じられない。ただ、どこかの建物内をひたすら、走っているだけだ。

映像制作は、自分のイメージだけを伝えても「わけがわからない」ことが多い。新聞記事ではないけれど、誰が、どこで、いつ、何をやっているか、ということが分からないと、本質が伝わらないことがある。自分のためではなく、他者に見せるものであれば、最低限の情報は何か、ということを考える必要がある。

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