私の学生時代、講評では、先生方は概ね「褒めない」のが普通だった。褒められたりしたら、後がコワイ。
「うーん、きみは大天才だよ」。
これはつまり「天才」=「学校不要」=「来る必要はない」=「来なくて良い」=「来るな」ということなのか。ということは、天才どころではなく学生としての資質もないということなのか。作品についてのコメントではないだけに、一晩中悪夢にうなされる。
まあ、先生たちも「とんがっていた」時代なのかもしれないが、結局、無我夢中でじたばたしながら自分の方法論を自分で探せ、ということだったのだろう。講評でけっこうこきおろされていたので、今ではひどく言われても、それほど応えなくなっていたりもする。
慣れとはコワイものである。
自分を過信することもないが、それほど悲嘆することもなくなった。
今時の学生さんは、子どもの頃から褒められて育てられているので、ちょっと「おこごと」を言ったりすると大変である。
漫画で言えば「がーん」と擬音が入り、血の気が引く擬音が「ざーっ」と、最大の音量で入る。
ちょいときつめに言ったりしたら、もっと大変である。
こっちは「ちょっときつめ」だと思っていても、彼らには「いまだかつてないぼろくそ」だったりするのである。今までの人生、これからの将来をすべて否定され、お先真っ暗である。その後何を言ってもフォローにならない。ヘコみまくって、数日は上目遣いでこちらをうかがっていたりする。ひとことで言えば「打たれ弱い」。
作品の難点を探して指摘するこっちの方が気を遣う。本人を否定しているわけではなく、作品に対してコメントしているんだが。
こちらの講師料には関係ないので、どの学生もベタ褒めして、「優」をやることは出来る。きっと「お客さん」であるところの学生の受けも良くなり、授業評価は「特上」になるに違いない。ただ、こんな学生を作って社会に出したら、新人研修の初日でヘコみまくり、早々に辞表を出すに違いない。社会では「お客さん」ではないので、学校のように、金を払って褒めてもらうわけにはいかないからだ。
講評は、ことほどかように、大変なのである。
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