さて、くだんのプランである。学生さんは「今まで見たことがない斬新な手法」だと思ったりしているが、実はたいていの場合、先行する作品を探すことは出来る。彼らが「見たことがない」ものであっても、こちとらお馴染み、というものはたくさんある。
私の学生時代は、古いフィルムを見ることはかなり難しく、フィルムセンターやミニシアターに日参、だった。今や、ソフトとして購入できたり、ライブラリーにソフトが揃っていたり、インターネットで探せたり、とありがたい状況である。
さて、一人称の映像だが、「湖中の女」というアメリカ映画がある。全編ひとりの登場人物の視点で撮影され、編集されているフィクションである。これも斬新だと思って製作されたのだろうが、興行的にはよろしくなく、そのおかげでハリウッドでは「一人称撮影」が流行らなくなったというおまけがつく。
同じ時期のアメリカ映画に「潜行者」というのがある。冒頭は主人公の視点で撮影されている。これは主人公の視点と観客の視野を同化させるのではなく、主人公の顔を見せない、という目的がある。まあ、仕掛けとしては納得もいくが、だからフィクションとして面白いか、と言えば、「実験的なんだねえ」としか言えないような気もする。
一人称にこだわったのであれば、「地獄の黙示録」もわりと入手しやすいサンプルだろう。翻案された原作は、とても難解である。だからこういう「翻案」になる、ということもわかるだろう。
撮影や編集の手法は、たいてい誰かが手垢をつけている。しかし、だからといってその方法を試行しないことはもったいない。違う人が作れば、テーマもストーリーもモチーフも全く別のものになる。従前の手法とは違った見え方をするかもしれない。後ろにいる人の「お得」なところは、「短所」や「欠点」を知った上で挑める、ということでもある。
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