2012年5月7日月曜日

ベクトル

努力を評価して欲しい、ということはよく分かる。
それなりに時間を掛けて頑張ったのだから、何らかの見返りが欲しい、ということだろう
学生の間は、努力も評価対象にはなるかもしれない。しかし、社会に出てみると、最終的な作品だけで評価されることは多い。
いくら頑張って作業をしても、クライアントが気に入らなければダメである。この数週間の時間を返せ、と言いたくなることもたくさんある。努力したから、といって、必ず作品の価値が上がる、というわけでもない。デザインの分野であれば特に、クライアントの要求を正確に読むと言うことは大切で、その要求とベクトルが違えば、いくら時間をかけ、努力して、芸術性が高くても、評価されない。

だから講評で「頑張ったんだけどね」というのは、「作品としてはもっと頑張ってね」、あるいは「クライアントの要求をもう少し読んでね」ということなのである。

なぜそのような言い方になるかというと、最近の学生さんは「ほめないとならない」からである。
自分がやった作業について、「正当な評価を得る権利」があると思っている。これは否定しない。だから作品が「よろしくない」「まずい」あるいは「フェーズが違う」という評価もすることになる。これは最近の学生さんとしては「もらいたくはない作品の評価」であったりする。しかしそれには「得る権利」は発生しないらしい。数年前から、そのような評価にふてくされたり、泣き出してしまう学生が増えてきた。どうも彼らが思っている「正当な評価」とは「褒め言葉」らしい。そんなわけで、遠回しに努力だけを評価することにした。
それでも「作品について評価して欲しい」という学生がいたので、「作品についての評価」をした。どちらかと言えば課題の目的を取り違えていたり、途中でベクトルが変わってしまったので、課題としては評価しにくいよねえ、ということを伝えた。そうすると「先生は私のことが嫌いなのか」と逆ギレされたことがあった。作品と作者とは「ベツモノ」である。しかし学生さんにとってはそうではないらしい。何回か話をしたのだが、どうしても学生にとっては「作品と作者はオナジモノ」という考えから抜けられなかった。

講評で褒めるのは簡単だ。豚もおだてりゃ木に登る。人間誰しもそんなものである。
ただ、学校の外に出れば、「努力したこと」が評価されるとは限らないのである。

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