2012年5月31日木曜日

すりこみ

メディアの伝えていることをそのまま信じることがあぶない、というのがメディア・リテラシー教育の基本である。

まあ、教育の原点としては、国によって様々な側面もあるだろうが、映像を専門分野としてやっているとしみじみ感じるのは、プロパガンダ、である。
授業では、レニー・リーフェンシュタールの「意思の勝利」などの映画をサンプルで見せたりする。ナチスが様々なメディアをプロパガンダに使ったというのは世界史ではよく言われるが、実際に映画を見ると、よくできてるなあと思うのである。撮影のサイズ、アングル、ポジション、編集、音声、どれをあわせても、団結してヒットラーと共に歩むぞーという民意の気合いに充ち満ちている。
レニー・リーフェンシュタールが意図的に構成したことはもちろんだが、それが「芸術のため」だったか「ナチスのため」だったのかは、本人にしか明言できないし、それは作品からは証明できない。

メディアを鵜呑みにすることで危険なのは、政治的なイデオロギーを「すりこまれる」、ということでもある。

2012年5月30日水曜日

ラーメン

平たく言えば、メディアの伝えていることを鵜呑みにするな、というのがメディア・リテラシー教育の基本である。

これが学生さんと話していると、なぜかこんな会話になることがある。
ふとしたはずみに、こんな話が学生さんから出る。
「東京といえば、ラーメン屋さんが多いじゃないですか」。
え?。そうなの?。
「だって、テレビでよく東京のラーメン屋を取り上げているじゃないですか」。

テレビの伝えていることを、鵜呑み丸呑み棒呑み状態である。
自分の生活範囲や、正確な統計情報はさておいて、テレビの情報を受け売りしている。
電話帳で調べると、東京ではラーメン屋とそば屋がどっこい、寿司屋はもっと多い。
人口あたりにすると、東京よりも東北の方が多かったりする。
東京都内では、地域的にもばらつきがあって、基本的に高齢者人口が多ければラーメン屋は少ない傾向がある。

メディアの伝えていることをそのまま信じることがあぶない、というのがメディア・リテラシー教育の基本である。

東京はそんなにラーメン屋さんだらけではないのよ。

2012年5月29日火曜日

納豆

担当している授業の一つは「メディアについて考える」といった趣旨のものである。その中で、学生に「メディア・リテラシーについて考える」という課題を出している。

現在、日本の義務教育では「メディア・リテラシー」というものを、はっきりとは取り上げていない。
まあ、メディア・リテラシーというのも、かなり広範囲なものの考え方であったり、その取り組みはさまざまだったりする。
アメリカやカナダでは、マスメディアの構成の方法を扱う教育事例がよく知られている。つまり、「メディアはすべて構成されたもの」であることを教育する。どんな映像や音声でも、誰か人の手を経て加工される。現実がそのままオーディエンスに届くわけではない、というものである。要するに、メディアの伝えているものを鵜呑みにするな、と言うことでもある。

テレビの情報バラエティー番組では、健康関連の情報がよく扱われる。前日に「健康には納豆」という放映があれば、翌日の小売店の店頭から納豆がなくなる、という現象がおきる。これなど典型的な例で、その類の情報は実はガセだったこともある。テレビの伝えていることが「ホント」とは限らない、というのが教訓である。

まあそれでも人はメディアの伝えていることを信用するから、テレビショッピングというのが流行るようになっているわけである。

2012年5月28日月曜日

補給

同居人と暮らし始めた頃、あちらのご友人がいろいろと「対策」とか「注意点」などを教えてくれた。
いわく、「食う金には困るかもしれないけど、食事の心配は減るよ」。

いや、そんなことはなくて、別の意味で心配は増えた。
今日も今日とて、昼休み頃に携帯にメールが届く。
「体調不良」。
トシなのか、生来の健康状態なのか、すぐに具合が悪くなるのである。やらなくてはならない仕事は後回して、お布団と仲良しな状態になる。こちとら心配して、消化の良いおかゆだの、おじやだの、温奴だのと用意する。食事に呼ぶと、席に着くなりため息をつかれる。まだ具合が悪くて、食欲がないのか?
「ごめん、うなぎかステーキが食べたかったんだけど」。
同居して最初に言われたときは目がテンになった。私とは違う種類の生きものに違いない。

体調不良になったら栄養補給と称して高カロリー高タンパクデザートにケーキ付き、というのが同居人の定番のようであった。肥満高血圧糖尿一歩手前、という自覚はなく、栄養補給の方が優先である。

2012年5月27日日曜日

あっさり

同居人と暮らし始めた頃、あちらのご友人がいろいろと「対策」とか「注意点」などを教えてくれた。
いわく「食うには困らない」。

まあ堅いところにお勤めだから、と思っていたら、「違うよ」と言われた。
「食う金には困るかもしれないけど、食事の心配は減るよ」。

確かにそうであった。

無類の食いしん坊で、食べるのが大好き、ちょっと不機嫌でも、美味しいもので機嫌が直るので、まあこちらとしてはありがたい。
妹の婿さんは、今晩のおかず何にする? と聞いても、何でもいいよー、という返事が多いのだそうである。うちの同居人は必ず「あれとこれ」とご指定がある。なくても好き嫌いなく、たいていは完食してくれる。メニューを思いつかないときや、困ったときはありがたい。
食事の用意はお手の物なので、今日のコックさんはよろしくー、も大丈夫。こちらが仕事で遅くなっても、食事の心配はあまりしないで済むのでとってもありがたい。
風邪で寝込んでも腹痛でうなっていても、自分のご飯は自分で何とかしてくれる。その上、「何か食べたい?」と聞いてくれる。
ううう、ありがたい、あっさりしたものが少し、食べたいな-、と布団の中から手を振る。
買い物から帰ってきて、用意できたよーと持って来た盆の上は、にぎり寿司にもずく。
ううう、確かにあっさりしているかもしれないが、私は胃腸風邪、お腹がこわれて痛いのである。

2012年5月26日土曜日

とりあえず

授業の資料をワープロで作るようになって久しい。
初めて買った機械は、コンピュータではなく、いわゆる「ワープロ」というマシンだった。文書作成と印刷だけ、和文タイプの電子版といった趣だった。
文書の表示は液晶画面、数文字×数行、WYSIWYGなど夢のまた夢だった。日本語変換もたどたどしく、文節など理解しないので、単語+助詞くらいで、まめに変換キーを押す。変換効率もいまひとつなので、ひとつひとつ漢字をJISコードで探した。

それから思うに、現在の環境はすさまじくすばらしく発達したものだと思う。ワープロはマシンではなくアプリケーションになったし、日本語変換ソフトも毎年のようにバージョンアップしている。文脈で判断するので、かなり長い文章を打っても、かなりの精度で正解の漢字を返してくる。流行語や政治家、タレントの名前もバージョンアップごとに新しいのが入ってくる。アプリケーションなのだから、誰かが「ことば」を選んだり、変換できるようにプログラムを組んでいたりするんだろう。ときどきおせっかいな変換もするので、「大きなお世話」だと思うこともある。
何文字かを打ち始めると、その後に続く文章を推測して提案してくる。というのが、この日本語変換ソフトの「売り」である。
「じつは」と打ち始めると、「お願いがあるのですが」が出てくる。別にいつもお願いをするために文書作成をしているわけではないのだが。
「とりあえず」と打ち始めると、「生中」が第一候補である。私がそのように入力、変換したことはないので、きっと誰かのせいだと思う。しかしワープロで飲み屋の注文を考えたりするのは、シナリオ書こうか、というときぐらいだと思うのだが。

こういうのが出てくると、プログラミングしている誰か、が見えてくるようだ。機械であっても、人間の手を経てつくられているんだなあとしみじみと思うのである。

2012年5月25日金曜日

散歩の連れ

住んでいる場所は、ちょいとした郊外である。

一軒家も多く、近くに公園や雑木林もあったりする。
勤務先に出かける時分は、お犬さまの朝のお散歩タイムの最中である。

以前に白い大きな犬だと思ったらヤギだったことがあった。
近所に牛を飼っている農家が数件あるのだが、ヤギだけお散歩が必要なのかと思い出しながら、バス停への道を歩いていた。
向こう側の歩道を歩いていたのは、散歩のおともにロバを連れたオジサンだった。

2012年5月24日木曜日

偵察

一昨年の春のことである。翌日の授業の準備をしていると、書斎の上の方から、こそこそと音がする。

夜はほとんど音が聞こえないので、ネズミじゃないだろうねえ、と言っていたら、数週間後どうもぴーぴーと、ときどき音がする。隣の家の屋根の上に、ムクドリがよくとまっている。どうもそのムクドリが、軒裏の小さなくぼみを見つけて、巣を作ったらしい。定期的に聞こえるぴーぴーは、雛の声のようだった。
数週間後、合唱のボリュームが大きくなり、それからしばらくすると声はぱたっと聞こえなくなった。巣立ったらしい。

家に鳥が間借りするなんて、のどかでいいですねえ、などと呑気に友人が言う。いやいや、鳥を狙ってネズミが来たり、巣の後が腐ってしまったりしたらごめんだよと、外壁塗装の足場がかかったときに、巣を撤去して入り口に金網を張ってもらった。

ムクドリは毎年同じ場所に巣をかけるのだろうか。どうも、こちらの様子をよくうかがっている鳥がいたのだが。

2012年5月23日水曜日

手垢

ビデオカメラで撮影、編集する実習授業を担当している。

さて、くだんのプランである。学生さんは「今まで見たことがない斬新な手法」だと思ったりしているが、実はたいていの場合、先行する作品を探すことは出来る。彼らが「見たことがない」ものであっても、こちとらお馴染み、というものはたくさんある。
私の学生時代は、古いフィルムを見ることはかなり難しく、フィルムセンターやミニシアターに日参、だった。今や、ソフトとして購入できたり、ライブラリーにソフトが揃っていたり、インターネットで探せたり、とありがたい状況である。

さて、一人称の映像だが、「湖中の女」というアメリカ映画がある。全編ひとりの登場人物の視点で撮影され、編集されているフィクションである。これも斬新だと思って製作されたのだろうが、興行的にはよろしくなく、そのおかげでハリウッドでは「一人称撮影」が流行らなくなったというおまけがつく。
同じ時期のアメリカ映画に「潜行者」というのがある。冒頭は主人公の視点で撮影されている。これは主人公の視点と観客の視野を同化させるのではなく、主人公の顔を見せない、という目的がある。まあ、仕掛けとしては納得もいくが、だからフィクションとして面白いか、と言えば、「実験的なんだねえ」としか言えないような気もする。
一人称にこだわったのであれば、「地獄の黙示録」もわりと入手しやすいサンプルだろう。翻案された原作は、とても難解である。だからこういう「翻案」になる、ということもわかるだろう。

撮影や編集の手法は、たいてい誰かが手垢をつけている。しかし、だからといってその方法を試行しないことはもったいない。違う人が作れば、テーマもストーリーもモチーフも全く別のものになる。従前の手法とは違った見え方をするかもしれない。後ろにいる人の「お得」なところは、「短所」や「欠点」を知った上で挑める、ということでもある。

2012年5月22日火曜日

試行錯誤

ビデオカメラで撮影、編集する実習授業を担当している。

さて、くだんのプランである。
授業では「あたって砕ける」、砕けたところで考える、ことがモットーである。
こっちがやってみた方がいい、よくない、と助言したところで、それは彼らにとっては蓄積された経験にはならない。いまどきの学生さんは指示待ち症候群であったり、こちらの意図をかなり正確に読み取ってそれに添って作業しがちだったりする。学校は、さまざまな試行錯誤をする社会に出る前の最後の場でもある。

粗編集が終わった試写では、たいてい他の学生からきついコメントがつく。
「何を撮影しているのかわかりにくい」「どこにピントを合わせたいのかわからない」「手ぶれが大きいので、見やすい画像とは言えない」
ここいらへんで当人が「斬新」かもしれないが、「伝わりにくい」ということを自覚する。
私よりも、同世代の、同級生のコメントの方が、学生にとっては効果的である。

当人が何を伝えたかったのか、ということが、作品の原点であり、「コンセプト」になる。実験映画という表現ジャンルでない限り、「斬新な手法」は、テーマやコンセプトにはなりにくいものなのである。ことにフィクション、ドラマでは難しい。例えば3D映画という新手法が用いられたから優れた映画、ではないのである。

2012年5月21日月曜日

一体化

ビデオカメラで撮影、編集する実習授業を担当している。

さて、くだんのプランである。
「全編手持ちの主人公の主観ショットで撮影して、主人公と観客を一体化させます」。
「見たことがないので斬新、というわけでもない」という学生もいる。「映画やテレビドラマでもよく見るじゃないですか」。

うーむ、同意はしかねる。純粋な「手持ち」は、「みんなのビデオ投稿コーナー」とか動画投稿サイトの素人ビデオくらいしかない。

アメリカのテレビドラマに「ER」というのがあった。救急病棟の撮影で、狭いところや人の間をすりぬけるようなショットが印象的で、話題になった。
このような撮影を「手持ち」だと、学生は見なしているわけである。
しかし、たいていは「ステディカム」という機材を使った撮影である。肉体装着型の撮影補助機材で、現在は様々なタイプのものが開発されている。これらは、カメラを常に水平垂直に保ち、ブレを押さえるためのものである。扱うにはそれなりの技術が必要なことは言うまでもない。

知らないことは、時として無謀なプランを生み出す。
無謀だが、やってみて「うーん、いまいち」といったことがわかる方が授業としては有効なので、たいていはこう答える。
「よーし、君が斬新だというのなら、やってみてよ。頑張ってよね」。

2012年5月20日日曜日

乗り物酔い

ビデオカメラで撮影、編集する実習授業を担当している。

「見たことがない」手法を斬新だと思ってしまうのは、まあ若気の至りとでも言おうか。かわいいものである。
しかし、実際にその手法で撮影されたものは、「かわいい」を通り越してしまうことがある。

数年前になるが、地方の女子高校で文化祭の記録を生徒会がビデオで撮影していた。文化祭の終了後、生徒会は総括を大教室で行い、その際撮影したビデオを上映した。暗幕を引き、スクリーンに大きな画面で投影する。
上映後、数十分のうちに、「気分が悪い」と教室から生徒が這い出てくる。1−2名どころではなく、かなり大勢で、保健室ではまかないきれず、救急車を呼ぶ騒ぎになった、と新聞記事になった。
理由は簡単である。記録は手持ちのフルオートで撮影されていて、編集されていなかった。暗い教室で大きなスクリーンだけを見る状況で、オーディエンスは画面に見入ったおかげで、「乗り物酔い」になっただけである。

撮影している方は「ノリノリ」かもしれないが、見ている方は苦行を強いられるのが、「手持ち撮影」なのである。

2012年5月19日土曜日

勘違い

ビデオカメラで撮影、編集する実習授業を担当している。
学生は1年生、たいていは意欲満々だったりする。

とりあえずカメラを渡して撮影させたり、数名のグループで何かプロジェクトを立てて数日で作品を仕上げるような課題をする。「意欲満々」な学生は、最初のところでよく「勘違い」をしたりするものである。

彼らが日頃見ているのはテレビ、映画であればレンタルビデオかビデオオンデマンド。どちらかといえば「流行」であったり、「話題」のものが多い。それらはある程度のパターンがある。話題になる原作やキャスト、製作費、使われる音楽、派手な演出、といったものだ。見ているものはかなり「偏った」ものなのだが、見ている本人は、そうは思っていない。
だから、授業ではよくこんなプランを出したりする。
「全編手持ちの主人公の主観ショットで撮影して、主人公と観客を一体化させます」。

うーむ。気合いはわかるがねえ。どうしてこんなことを考えついたの、と学生に問うてみる。
「今まで見たことがない斬新な手法じゃないですか」。

うーむ。同意はしかねる。斬新な手法、というわけではない。
君が見たことがないのは、斬新だからではなく、映像の語り口として効果的ではないから、なんだけどね。

2012年5月18日金曜日

うどん

映像をつくる、という作業の中で一番楽しいのは、音の作業だろう。

イメージの音を物理的な音として探すことは、とても大変だ。
例えば、「ずばっ」「ばっさり」と「人を斬る音」も、イメージだったりする。
誰も「人を斬った音」など聞いたことがないからだ。
逆に、これだけ「人を斬った」イメージの音が流布してしまうと、実際にはそんな音がしないことに愕然とすることもある。

私が習っていた効果マンは、人を切るときは「白菜」なのだそうである。
白菜の葉っぱの間に、葉っぱの繊維と同じ方向に、うどんの乾麺をはさんでおく。切られるのが男性なら、葉っぱ少なめ、うどん多め。女性なら、葉っぱは多め、うどんは少し。まな板の上で、大きな菜切り包丁を水平に持ち、ギロチンの要領で、繊維に対して垂直に、一気に上から一発でばっさり。
重ねられた着物の湿気具合が新鮮な白菜の音にマッチ、乾麺が肋骨の細いホネにあたる刀の音を表現してかすかにぽきんと、「いい音」なのである。

答えを聞けば「なーんだ」だったりする。「イメージの音」と物理的な「記録された空気の振動」との違いでもある。
今時の学生はインターネットで「効果音素材」など探しだし、コンピュータで加工したりする。
その昔はアナログで、実際に音を出さなくてはならなかったのである。いろいろと試行錯誤して、キャベツではなく白菜、そばではなくうどん、出刃でなく菜切り包丁、に行き着いたのだそうである。しかしこれも「企業秘密」だったり、「我が社の方針」があったりして、効果マンそれぞれ、すこしずつ手法が違うそうである。

映画というのは、大勢の「よくわからないかもしれない」が、えらーく「地味」な努力で出来上がっているものなのである。

2012年5月17日木曜日

ロース

映像をつくる、という作業の中で一番楽しいのは、音の作業だろう。
オーディエンスをだますのが一番良く「見える」からかもしれない。

殺陣に効果音を入れたのは黒澤映画が始めた、というのが通説である。
特に、人を斬る音を入れたのは、当時としては画期的で、映画音響効果業界が騒然としたそうである。私が音響効果を習ったのは、その当時の効果マンで、技術者らしく非情に勉強熱心な人だった。彼は映画を何回見ても「人を斬る音」が何によって作られているのかわからず、その秘密を知りたかったそうである。当該の音響スタッフにご馳走して、秘密を聞き出す、という古典的な手法で技術を盗みにかかった。
「実はねえ」
だいぶきこしめしてから、スタッフは語り始めた。
「和牛のロースの塊を、スタジオにつるして、居合いの達人に切ってもらったのよ」。

早速、その手法を再現してみたそうである。
答えは、「がせ」だった。
肉は切っても音はしないのである。みんなで自腹を切って、実験用にと購入した高級なロースの塊は、結果を出すことなく、スタジオマンの胃袋に消えたそうである。

2012年5月16日水曜日

カチン

映像をつくる、という作業の中で一番楽しいのは、音の作業だろう。

一昔前の映画は、役者の台詞も含めてすべて「アフレコ」である。現場で録音された音であっても、フィルムに録音できるわけではないので、スタジオでタイミングを合わせることになる。タイミング合わせのために「カチンコ」という道具がある。ビデオの撮影になると同時録音は「普通」なので、「カチン」は不要になってしまった。
もちろん、画像として「見える」音は後からつけなくてはならないし。「聞こえるべき」音もつけなくてはならない。足音はタイミングが合ってなければならない。逆に、現実に聞こえた音とは違う音をはめることや、現場では聞こえなかった音もつけることがある。

実写であれば特に、どんぴしゃな音がはまると、作っている方は気持ちがいい。しかし、いくら「上手」に音をつくって、きっちりとはまっていても、聞いている方はごくごく自然に聞き流してしまう。苦労のしがいがないし、派手な作業ではないので、学生さんにはあまり人気がない。

2012年5月15日火曜日

ノイズ

映像をつくる、という作業の中で一番楽しいのは、音の作業だろう。

映像の音の話に限らず、「音」と言えば、日本人の音の感覚がよく挙げられる。
英語では、soundとnoiseとは違うものだと教わるが、日本人にはあまり違いはなく「音」である。
我々は秋に虫の声を聞いてそれを愛でたり、季節を感じたりする。西洋人にとっては単なるノイズ、という感覚なのだそうである。
生活していて一番違うなあと思うのは「生理的な音」に関する反応だ。そそとしたおばさまが、大きな音で鼻をかんでいたり、見目麗しい若い女性が派手なくしゃみをしていたりする。一方で、トイレの消音装置など、西洋人にはびっくりだそうである。

クラシックのコンサートのレコーディングで、日本人がエンジニアだと観客のクシャミや咳など極力目立たないようにミキシングするのだと言う。演奏中にそういった音が入ってくるのは、あちらの方がミキシングしているケースが多い、と教えてもらった。彼らにとってそれらは虫の声と同じ「ノイズ」、つまり脳みその中で「サウンド」とは認識しない。out of  hearing とでも言うのだろう。

音だけではなく、色や触覚、味覚など、さまざまな感覚は、人種や生活環境などで違うものが培われたりする。一方で気になることは、他方では気にならない、ということはたくさんあるものだ。

2012年5月14日月曜日

アトムの足音

映像をつくる、という作業の中で一番楽しいのは、音の作業だろう。

アニメーションをやりたい、という学生さんはたいてい一生懸命絵を描こうとしている。しかし、絵を描いただけでは最終的に作品としては「いまひとつ」。最後にどんぴしゃな「音」がはまってこそ、本来の意味のanimateになるような気がする。

アトムの足音、ゴジラの叫び声、存在し得ない「ものおと」が、物理的な「音声」として聞こえる。作った効果マンの苦労はいかほどのものだっただろう。

そう思いながら、昔々の時代劇映画など眺めていると、チャンバラのシーンでは無音であったりする。殺陣に音が入ったり、人を斬る音を最初に使ったのは黒澤映画、というのが通説である。芝居用の作り物の刀や役者では、実際に音は出ない。しかし「音源」が見えているので、音が入れば臨場感たっぷりである。他者の効果マンが、黒澤組のスタッフをごちそうぜめにしてネタを聞き出したが、企業秘密でガセをつかまされた、という話もあった。

映像に付けられた「音」は、ごく自然にその音源から発せられた「音」として認識してしまう。日本人は「音」について、西洋人とは違った感性を持っている。だからこそ、アトムの足音が作れたのだろう。

2012年5月13日日曜日

モニター

映像制作には必ず音声の作業が伴う。だから、授業の始めに、ヘッドフォンを持っている人はご用意ください、と伝える。

映像の現場で使うヘッドフォンは「モニター」と呼ばれるタイプ。オーバーヘッドの密閉型のものだ。
かたや、学生がよく持ってくるヘッドフォンは、iPodやMP3 プレーヤーにつなぐもので、オーバーヘッドのイヤーパッドがついていても、開放型。外の音が聞こえる代わりに、シャカシャカと音漏れする、アレである。まあ開放型でも、ないよりマシなので、とりあえずそれで作業をさせていたりする。

町中で使うようなものは、密閉型だと車のクラクションも自転車のベルも電車内のアナウンスも聞こえないので、とても「危険」である。道の真ん中で自転車のベルに気付かずに後ろから激突されたり、電車やバスで乗り過ごして遅刻することになる。
だから、開放型のヘッドフォンを使っていて「音楽だけに浸りたい」人は、音量を大きくして、外部の音をマスキングする、という作戦に出る。自然と漏れる音も大きくなる。シャカシャカしている人は、それである。

学生とミキシングの作業をしていると、学生さんの耳が悪いのでは、と思うことがある。かすかな、小さな音を、拾えない。衣擦れ、木の葉の落ちた音、傘に落ちる雨音、本のページを繰る音、台詞やBGMに比べると音量レベルはかなり低い。そういった音を聞き取れない学生が多い。

人間の耳は、一旦過大入力されて鼓膜が痛むと、回復は出来ない、と音響エンジニアに聞いたことがある。大音量のコンサートをするようなロックのバンドマンやスタッフは耳が悪くなる、と言うのである。同様に、シャカシャカと音漏れするような聴き方を長時間、繰り返すことは、耳にはよろしくない、とよく注意された。

映像制作には健康根性体力、自分の肉体が「道具」である。

2012年5月12日土曜日

逆再生3

映像が見世物だった時代、逆回転は時間をコントロールする手段の一つであった。実写による映像が見られるようになると、それは映像内における「架空のリアリティ」を感じさせるようになった。
興行的な映像制作が行われるようになると、逆回転はトリック撮影の手段として利用され、映像的な効果として使われるようになった。
技術的に逆回転が難しかった時代には、それを使うための動機と熱意、支えるための予算が必要だった。
コマンド一つでそれが行われるようになった今日、逆回転を使う理由は、制作者が伝えるべきメッセージに十分に込められなくては、アプリケーションのサンプルデモにしかならなくなった。

映像制作のカメラとアプリケーションが簡単に手に入るようになった現在、従前の表現やその歴史を知らずにさまざまな手法を「開発」し、表現したかのように見せられることが多くなったような気がする。
「人が表現する」ことと、「機械が表現できる」ことは、少し違うのではないかと考えてしまう今日この頃である。

2012年5月11日金曜日

逆再生2

映像のメディアとしてビデオが使われるようになったのは、1960年代以降のことである。もちろんいまどきの「デジタル」ではなく、アナログである。

アナログビデオでは、逆回転は簡単には作成できない。タイムコードでDMC(Dynamic Motion Control)が出来る放送局並みの編集設備が必要だった。ビデオの再生は、ヘッドに対してある角度でデータを読み込まなくてはならない(ヘリカルスキャン)。そのため、単にテープを逆送させただけでは、鮮明な画像で逆再生は出来ないからだ。テープコントローラーで逆再生をすると、ノイズが必ず入る。放送局並みの設備を使うことが出来ないビデオアーティストの多かった日本では、逆再生を使ったビデオアートは比較的少なかった。
同じアナログでも、音声データはヘッドに対して直角にデータが記録されるので、テープを逆送させれば、逆再生された音声が聞こえる。音響効果ではよく使われる方法で、SF映画の宇宙人の声や、怪獣映画の怪獣の鳴き声などはこの手法を一部取り入れて作成された。

デジタルビデオが、コンピュータアプリケーションで編集が可能になると、コマンド一つでビデオのスピードコントロールが可能になった。そのため、逆再生の画像も見ることが多くなった。
アプリケーションによって、再生速度の幅が違うことがある。画像はレンダリング(画像生成)をするため、マシンスペックが要求される。
ポピュラー音楽のPVでは、逆再生を使ったトリッキーなものがある。
http://www.youtube.com/watch?v=co3qMdkucM0&feature=youtube_gdata_player
http://www.youtube.com/watch?v=pAtXKS9ZxvM&feature=player_embedded#!
http://www.youtube.com/watch?v=EN9auBn6Jys&feature=player_embedded

2012年5月10日木曜日

逆再生1

とあるグループ展で、逆再生のビデオが上映されていた。逆再生するだけで事象は新鮮に見えるもののようで、表現として評価している人がいた。ただ、作品そのものは、逆再生したからと言ってそれが何か、という気がした。単に逆再生を作者が楽しんでいるだけ、という印象があった。
もちろん授業でも逆再生を使う学生はいる。初心者であれば、逆再生するだけで「表現」した気になるものらしい。それだけで手を叩いて自分でウケていたりする。
前にも書いたが、たいていの手法というのは先に人が手垢を付けているものが多い。逆再生の手垢、とはどの辺かと言えば、映像の歴史になってしまう。

シャルル・エミール・レイノーによって開発された動画上映装置テアトルオプティークは、帯状のフィルムに描かれた画像を壁面に投影する。上映は映写技師がハンドルを使って手回しで行うもので、フィルムは一定方向へ定速度で進行するものではなく、ストーリーによって技師がストップや逆回転を使って効果を出していた

1896年にルミエール兄弟によって撮影され、上映されたフィルム。最初の「逆回転の上映」で、崩れた壁が元に戻る。

1907年に制作された。すでにカットで組み立てられ、シーンとシークエンスの区別があり、スラップスティックなストーリーが組まれている。かぼちゃの移動に逆回転とストップモーション、書き割りなどが効果的に使われ、映像内で現実とは違う世界観を描こうとしている。

1900年代初頭から、エジソンが興行を始め、追随してさまざまな上映装置と作家が作品を制作した。フレーゴリも逆回転でストーリーのあるものを制作したという記述があるが、現在は作品をあまり見ることができないようだ。

フィルムでは逆再生は比較的使われた手法である。フィルムという構造のおかげで、扱いやすい「特殊効果」でもあり、時間をパッケージングするメディアの特質をよく表している。特徴的なのは、「逆再生」を効果として扱うことで、通常の再生を再認識するような構成をつくっていることだ。

2012年5月9日水曜日

打たれる

私の学生時代、講評では、先生方は概ね「褒めない」のが普通だった。褒められたりしたら、後がコワイ。
「うーん、きみは大天才だよ」。
これはつまり「天才」=「学校不要」=「来る必要はない」=「来なくて良い」=「来るな」ということなのか。ということは、天才どころではなく学生としての資質もないということなのか。作品についてのコメントではないだけに、一晩中悪夢にうなされる。

まあ、先生たちも「とんがっていた」時代なのかもしれないが、結局、無我夢中でじたばたしながら自分の方法論を自分で探せ、ということだったのだろう。講評でけっこうこきおろされていたので、今ではひどく言われても、それほど応えなくなっていたりもする。
慣れとはコワイものである。
自分を過信することもないが、それほど悲嘆することもなくなった。

今時の学生さんは、子どもの頃から褒められて育てられているので、ちょっと「おこごと」を言ったりすると大変である。
漫画で言えば「がーん」と擬音が入り、血の気が引く擬音が「ざーっ」と、最大の音量で入る。
ちょいときつめに言ったりしたら、もっと大変である。
こっちは「ちょっときつめ」だと思っていても、彼らには「いまだかつてないぼろくそ」だったりするのである。今までの人生、これからの将来をすべて否定され、お先真っ暗である。その後何を言ってもフォローにならない。ヘコみまくって、数日は上目遣いでこちらをうかがっていたりする。ひとことで言えば「打たれ弱い」。
作品の難点を探して指摘するこっちの方が気を遣う。本人を否定しているわけではなく、作品に対してコメントしているんだが。

こちらの講師料には関係ないので、どの学生もベタ褒めして、「優」をやることは出来る。きっと「お客さん」であるところの学生の受けも良くなり、授業評価は「特上」になるに違いない。ただ、こんな学生を作って社会に出したら、新人研修の初日でヘコみまくり、早々に辞表を出すに違いない。社会では「お客さん」ではないので、学校のように、金を払って褒めてもらうわけにはいかないからだ。

講評は、ことほどかように、大変なのである。

2012年5月8日火曜日

箸と棒

私が学生の頃は「箸にも棒にも引っかからない」作品は、コメントすらもらえず、素通りだった。だから、コメントされる作品にする、というのが当座の作業目標である。
先生によっては「こき下ろす」タイプの人がいる。これはこれで分かりやすい。ダメな点は明確に指摘するからである。こき下ろさせず、素通りさせるための作戦を考える。

この類の課題は得てして「結果オーライ」になりがちではある。努力していないのに評価される学生がいるのは不当だとは思ったが、努力しても駄目なことはあるとも知った。いくらやってもダメだと、自分の才能を見限ることもたくさんあった。誰もが、努力によって、どんな才能も開花させることは出来ない、と思った。

しかしそんなことでへこんでいては、人生は始まらない。誰もが同じ方向を向かないし、向かせないのが美術学校の良いところだ。自分だけに出来ることを探せばいい。全てに対して「高得点」ではなく、ピンポイントで「ずば抜けている」方がいい。

2012年5月7日月曜日

ベクトル

努力を評価して欲しい、ということはよく分かる。
それなりに時間を掛けて頑張ったのだから、何らかの見返りが欲しい、ということだろう
学生の間は、努力も評価対象にはなるかもしれない。しかし、社会に出てみると、最終的な作品だけで評価されることは多い。
いくら頑張って作業をしても、クライアントが気に入らなければダメである。この数週間の時間を返せ、と言いたくなることもたくさんある。努力したから、といって、必ず作品の価値が上がる、というわけでもない。デザインの分野であれば特に、クライアントの要求を正確に読むと言うことは大切で、その要求とベクトルが違えば、いくら時間をかけ、努力して、芸術性が高くても、評価されない。

だから講評で「頑張ったんだけどね」というのは、「作品としてはもっと頑張ってね」、あるいは「クライアントの要求をもう少し読んでね」ということなのである。

なぜそのような言い方になるかというと、最近の学生さんは「ほめないとならない」からである。
自分がやった作業について、「正当な評価を得る権利」があると思っている。これは否定しない。だから作品が「よろしくない」「まずい」あるいは「フェーズが違う」という評価もすることになる。これは最近の学生さんとしては「もらいたくはない作品の評価」であったりする。しかしそれには「得る権利」は発生しないらしい。数年前から、そのような評価にふてくされたり、泣き出してしまう学生が増えてきた。どうも彼らが思っている「正当な評価」とは「褒め言葉」らしい。そんなわけで、遠回しに努力だけを評価することにした。
それでも「作品について評価して欲しい」という学生がいたので、「作品についての評価」をした。どちらかと言えば課題の目的を取り違えていたり、途中でベクトルが変わってしまったので、課題としては評価しにくいよねえ、ということを伝えた。そうすると「先生は私のことが嫌いなのか」と逆ギレされたことがあった。作品と作者とは「ベツモノ」である。しかし学生さんにとってはそうではないらしい。何回か話をしたのだが、どうしても学生にとっては「作品と作者はオナジモノ」という考えから抜けられなかった。

講評で褒めるのは簡単だ。豚もおだてりゃ木に登る。人間誰しもそんなものである。
ただ、学校の外に出れば、「努力したこと」が評価されるとは限らないのである。

2012年5月6日日曜日

コメント

美術学校の実技授業では、最終的に作品を仕上げたら、全員の前でプレビューする。
これはごく一般的な風景だ。他人の作品と横並びになった時に見えてくるのは、自分の作品についての「評価」である。
担当している授業では、できるだけ学生に、他者の作品について発言やコメントをしてもらうようにしている。自分の作品と比べてどうか、ということは、学校に来ているからこそ「見える」ことである。

ところが、ここ数年、増えてきたコメントがある。
「A子さんは、がんばって作業をしていました」
うーん、それは作者についてのコメントであって、作品についてじゃないんだけどね。
じゃ、自分の作品はどうでしょうか。
「ここまで一生懸命頑張って作品をつくった自分をほめたいと思います」

作品じゃなくて、努力を評価対象にしたいと言うことなのだろうか。
ここは美術学校なのだから、作品について客観的に見て欲しいのだが。

2012年5月5日土曜日

オーライ

やっている授業の一つは、どちらかと言えば「デザイン寄り」なアプローチを要求している。「表現」そのものを要求しているわけではない。作品の制作過程や、その考え方を学ぶカリキュラムを組んでいる。

美術学校ではときどき「結果オーライ」な課題や最終提出があったりする。しかし、ここではそれは正解でないことが多い。デザイン的な制作過程とは、条件を見極め、作業範囲を絞り込み、出題者(社会ではそれがユーザーやオーディエンスになる)の要求に添っているか、確認しながら作業をする。

すごーく当たり前な作業を要求しているのだが、なぜかときどき「やりたいことをやってみた」な作品が出てくる。

なぜなんだ。

2012年5月4日金曜日

寄り道

さて、ここでよく頭を抱えるのが、出題の意図とちょっと離れた作品が提出されるときである。講評で「どうしてこのような作品になったのか」と聞くと、「自分のやりたかったことをやってみた」というお答えである。

うーむ、禅問答のようだ。

「課題では自分のやりたかったことが出来ない」と言われることもある。

課題とは、本来自分のやりたいことではないことが多い。直接自分の要求するスキルだけを学べるわけではなし、自分が社会に出てすぐには役に立たない、と判断してしまいがちである。「即役に立つ」ことではないことを学ばなくてはならないのは、人生にとって無駄に感じるかもしれない。今は役に立たないかもしれないが、将来役に立つかもしれない。そのための「引き出し」を増やすことが学生生活では存外大切ではないかと思う。

長い人生、いろいろあって、回り道して、若い頃にかじった「あれ」が、メシのタネになった、などという話は、我々の世代ではたくさんある。受験勉強で近道早道ストレートを歩く癖がついているかもしれないが、そんな学生にいろいろと寄り道を教えたりする今日この頃ではある。

2012年5月3日木曜日

課題

美術学校では、実習を中心にした授業が多い。

たいがいは、「課題」と称したお題が出題され、それに対して学生さんは個々のアプローチをして作品として仕上げて提出する、というかたちになっている。
例えば、デッサンの授業なら「裸婦」とか、「馬頭」なんかが「お題」になるわけである。

英語のテストなんかと違って難しいのは、製図の授業のようにある程度の「正解」のあるものと、そうではないのもがある、ということだ。
もうひとつは、設定された授業目標と課題の関係だ。デッサンの授業で裸婦をキュービズムで表現したら「アウト」かもしれないが、「絵画」や「制作」というアプローチの授業であれば「セーフ」であったりする。

最近とみに難しいのは、「アート」と「デザイン」の境目であったり、「表現」に対する世間的な許容範囲の解釈だったりするのかなあ、と思う。
例えば、デザインの方法に近い「課題」であるにもかかわらず、「アート」してしまうケースがあったりする。学生であれば、まあいいか、で済んでしまう(済ませてしまう)ことが多い。なぜなら、そういった作品を提出する学生に対して「アートとは何か」「表現とは何か」などと議論しても始まらないからだ。わかっていないから、そういった作品になってしまうのである。

「課題」であれ、講義の授業の試験やレポートであれ、基本的なことは「出題者の要求を正確に読み取る」こと、それに対して自分の「答え」を提示することだ。
最終日の講評には、さまざまな作品が並ぶ。
出題の意図に添ったものが提出されているのであれば、「間違い」だとは言われない。ちょっとフェーズがずれてしまったり、「思い違い」である可能性はあるだろうが。

2012年5月2日水曜日

説明

ビデオカメラで撮影、編集する実習授業を担当している。

授業で撮影した動画素材をプレビューしてもらうと、ときどき「!」とか「?」な素材を見ることがある。
編集しても「!」だったり「?」だったりすることもある。

ひたすら人物が学内を走りまくっている素材を見せられる。昨日の続きである。
なぜ走っているのかと学生に問うと、遅刻しそうだから、と答える。
「うーん、遅刻しているという表現が欠落しているよねえ。だから、単に走っているだけ、になってしまうのよ」
とたんに、学生は目をきらきら輝かせる。
「遅刻って言うのが分かればいいんですよね」。
まあ、遅刻が分かればいい、という問題ではないのだが、まあ最低限の情報ではあるだろう。

追加撮影したものを加えて、意気揚々と編集を始める学生。ファーストショットは主人公の腕時計の文字盤のアップだ。主人公の台詞がかぶる。「あー、やべえやべえ、遅れちゃうよお」。

うーむ、逆効果であった。それはあまりにもチープすぎる。そういうのは「説明」であって、「表現」ではないのだが。

2012年5月1日火曜日

走る

ビデオカメラで撮影、編集する実習授業を担当している。

授業で撮影した動画素材をプレビューしてもらうと、ときどき「!」とか「?」な素材を見ることがある。
編集しても「!」だったり「?」だったりすることもある。

ひたすら人物が学内を走りまくっている素材を見せられる。編集しても、動線はばらばら、カメラワークはぎこちなく手ぶれもしている。露出もピントもいまひとつ、絵としても「しまり」がない、時折主観ショットも混じる。ひたすら走っておわりである。
本人的には「何をやっているか」は分かっていて、そのイメージを淡々とつないでいたりする、つもりでいたりする。

「つもり」というのは実は「くせもの」で、それは子どもの頃から培ってきた「テレビの見方」に依存するところが大きい。しかし、なぜそのようにテレビを理解しているか、ということはあまり自覚できていない。ブロークンで話せるけれど、英語の文法を理解しないまま、小説を書こうとしたり、詩歌をつくろうとしたりするに近いかもしれない。
「走る」ことだけに集中してしまい、そのイメージを増幅させようとしているのは分かるのだが、「だから何だ」状態である。

「それで、なんで走っているのよ」と学生に問うてみる。
「あー、実は主人公は遅刻しそうなんです。その焦り、焦燥感をですねえ、イメージ表現したいじゃないですか」

「遅刻」などという情報はどこにも出てこない。画像だけ見れば、学校内かどうか、知らない人が見たら分からない。従って、焦燥感も感じられない。ただ、どこかの建物内をひたすら、走っているだけだ。

映像制作は、自分のイメージだけを伝えても「わけがわからない」ことが多い。新聞記事ではないけれど、誰が、どこで、いつ、何をやっているか、ということが分からないと、本質が伝わらないことがある。自分のためではなく、他者に見せるものであれば、最低限の情報は何か、ということを考える必要がある。