ときどきは、どうやって日常を過ごしているのか、不思議になることがある。
美術学校なので、ときどきは大工仕事や工作に近いことをやることがある。
私の担当の授業だと、フィクション映像をつくる学生などが、「道具」をつくる。映像美術で言えば、「大道具」「小道具」である。
自分の考えた設定やストーリーに必要な「道具」は、実写の場合被写体として必要、つまり現実にそこになくてはならない。言葉で言えば簡単なことだったりするのだが、実際に撮影するための「現物」が必要だ。
「女は急いでやってきた。持って来た鞄の中から札束を出して、机の上に積み上げた」
ことを、シーンとして想定した学生がいた。
どうしても必要なのかと問えば、「絶対です」と答える。
札束、いくらぐらい必要なの?
「うーん、1億円くらいは」
君たちの映像作品だからね、自分たちで用意しなさいね。
「え?」
もちろんだよ、学校は1億円用意できないよ。
当日の撮影現場を見に行く。
わら半紙でつくった紙で「札束」が用意されていた。
色と言い、厚みと言い、帯封の紙と言い、どうひいき目に見ても、子どもの工作以前である(子どもの皆さんごめんなさい)。
紙の大きさが不揃い、しかも直線で切れていない、札束の厚みも不揃い。100個用意したのだろうか。
なぜなら「札束」は小さなボストンバッグに入っていて、女子学生が片手でぶら下げて、その上、走ってくるのである。
一瞬何かのギャグかと思ったが、本人達は大まじめで、シリアスなドラマのつもりだった。
文章だと「一億円を持って走る」と9文字で済む。これなら、簡単だったんだけどねえ。
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