前日のことと逆説を言えば、映像を見せたい、映像で語りたいのであれば、音楽はサブに徹するべき、ということだ。
映像制作の授業で、1年生に作品を制作させると、たいていが既存の楽曲をBGMに使いたがる。流行のポップスであったり、お気に入りのポピュラーであったり、というものだ。念頭にあるのはいわゆるPVで、ノリのいい音楽に、ノリのいい映像、というのがもやもやと彼らのアタマの中にある。
映像と音楽が同時進行で制作されているわけではなく、音楽はプロフェッショナルで、映像はアマチュアのものだったりする場合、オーディエンスは「プロ」の仕事に意識を引っ張られる。だから、お父さんの運動会ビデオにプロの音楽、なのである。映像がしょぼければ、音楽で引っ張ればいいのである。
学生さんの制作だと、映像の技術はプロではないので、たいていの場合は音楽の方がクオリティが高くなる。音楽負け、といった様相なのだが、本人たちはいたって満足していたりする。自分の映像のクオリティを客観的に評価できないことが多いからだ。これが映像制作の落とし穴だったりする。
映像で語りたいのであれば、音楽が「プロ」っぽくなく聞こえる選曲を心がけるわけだ。映像と音楽のクオリティの差が認識しづらいとか、音楽が目立たない、ということになる。
映像制作は、何かが突出してはならない。バランスを見ながら、語るべきことを、語るべき手法で伝えるものである。
2012年3月30日金曜日
2012年3月29日木曜日
音入れ
動画記録は特に、そのままでは鑑賞しにくいので、撮りっぱなしになりやすい。
4時間もある運動会の記録ビデオを、4時間もかけて何回も見たりはしない。撮影した当人も、撮影された子どもも、である。だから、おいしいところだけを見るために、誰かがリモコンを持って早回ししたりする役目になる。いちいちそういうことをしていたら面倒なので、自然と撮影された記録は何かの媒体(今だとDVD Videoなど)になって本棚に並んでいたりするだけになる。
こういうものがあるおうちだと、一番最初にアドバイスするのは、動画の編集が出来る環境があれば、まずはピンぼけとか、ピン合わせの最中とか、絶対に必要ないところを「落とす」作業である。
それすらも面倒であれば、ノリのいい音楽を、とりあえず動画にはめこむという作業である。4時間分、好きな音楽をつなぎ合わせていけばいい。撮影の時の音声は、ミュートするか、音量をかなり絞り込んでおく。
プロの作った「音楽」は、それだけで鑑賞に堪えうるものである。だから、画像に集中しなくても、音楽だけを聞き流すことが出来る。最悪、目をつぶっていたっていい。4時間のバックミュージック、運動会の画像付き、になるわけだ。
運動会の記録、というには少し目的がずれてしまうが。
2012年3月28日水曜日
記録鑑賞
新学期、1年生に最初に聞くことは、小学校の運動会や学芸会にご父兄が「カメラマン」だったかどうか、である。数学年でかなり様相が変わる。最近のパターンは、カメラ必須、ビデオカメラ少数だがぼちぼち、という感じである。小学校の頃の話だから、10年前の動向だ。
次に聞くことは、それらの記録を、いつ、どのようにして、見直すか、ということである。
フィルムで撮影された写真は、たいてい「同時プリント」で処理されることが多いので、プリントが家にやってきてみんなで眺めたり、アルバムに貼り込んだり、ファイリングしたりする。
デジタルカメラの場合は、全部を一覧しにくいという構造もあって、気に入ったものをプリントしたり、スライドショーで見せたりする父兄ばかりではない。ときどき「撮りっぱなしで、あまり見たことがない」という学生さんがいる。
ビデオの場合は、もっとそれが顕著になる。私にも写せます、扇千景の8ミリフィルムは、1本のカセットが3分ないし4分程度の撮影しかできないが、デジタルビデオはカセットだと60分から90分、HDDやメモリーカードに記録だと数十時間の連続録画が可能である。どうなるか、と言えば、バッテリーの続く限り録画は続く。運動会の記録4時間ビデオが撮影されていても、被写体としても子どもがそれをすべて見ているとは限らない。一度見せられたが長いので途中でやめた、早回しにした、2度と見ない(見たことがない)のがほとんどで、何十回と見直したり反芻したりするような「鑑賞」はしないようである。
運動会や学芸会を必死に記録していたが、子どもの方は「そういえば、記録されていたなあ」という記憶しかなかったりする。
2012年3月27日火曜日
記録と記憶
運動会にしろ、学芸会にしろ、一生に一度しかないイベントを「記録したい」と思うのは、たぶん一般的なことなのだろう。記録のためのツールがさまざま開発され、入手できる、しかも技術の発達のおかげでブラックボックスのままツールを使っても、そこそこのクオリティで記録される。ありがたい世の中ではある。
しかし、下向いてモニターのなかの虚像を追っているホームカメラマンのご父兄を見ていると、見るべきものは違うのではないか、という気もする。
子どもが手を振りたいのは、レンズではなく、自分を見つめてくれる人、なのではないだろうか。
姪っ子が通っていた幼稚園は、イベント時にカメラの持ち込み禁止だった。プロのカメラマンを数名配置して写真を撮影し、後日希望者に焼き増ししたり、学芸会のビデオを配付したり、ということをしていた。
父兄は心おきなく、肉眼でイベントで活躍する子どもを「記憶できる」わけである。
2012年3月26日月曜日
学芸会
同居人が小学校勤めだったこともあり、そこのイベントには何度か裏方の手伝いがてら、お邪魔したことがある。
小学校のイベントと言えば、学芸会である。学校によっては隔年開催だったりすることもあるし、音楽中心に音楽会になっている学校もある。
体育館や講堂の舞台の上でパフォーマンスする子どもを、客席側から見る、というものだ。
これはたいがい会場内が明るくないので、コンパクトなカメラでは写真は撮りにくい。強制的にフラッシュが発光してしまったりすると、パフォーマンスの妨げになる。フラッシュOKで撮影できたとしても、光の届く範囲が狭いので、せいぜい前列のお客さんの頭の後ろが鮮明に写る程度で、遠い舞台までは無理。
これがデジタルビデオの普及によって様相が変わってくる。ご家庭用のビデオカメラには、こういった用途を見越して「暗いところでも大丈夫」な設定モードがあったりする。だから、学芸会の舞台も撮影できちゃうのである。運動会同様、学芸会も我が子の晴れ舞台を撮影するために、にわかビデオカメラマンが多数出現する。一家に一台、舞台側から見れば、子どもの数だけビデオカメラのレンズが並んでいる。
にわかビデオカメラマンは、ファインダーではなくモニターを見て撮影する。家庭用のビデオカメラにはモニターしかないものもあるのだが、ともあれ数インチの小さな液晶画面を見るのである。
客席の一番後ろから見れば、小さな四角い青白い液晶画面がずらーっと、灯籠のように並んでいる。
舞台側から見れば、客席は真っ暗ではない。蛍の光窓の雪、青白く下からの光で照らされた家族の顔(しかしこちらを凝視しているのではないので、頭部とかおでこが、という感じ)が、並んでいるのである。
2012年3月25日日曜日
運動会
同居人が小学校勤めだったこともあり、そこのイベントには何度か裏方の手伝いがてら、お邪魔した。
小学校のイベントと言えば、運動会である。学校によって、春だったり秋だったりするが、校庭の風景は似たり寄ったりだ。大きなトラック、スタートやゴールのゲート、旗やバナーで飾られた校舎、キャンバス地のテント、父兄用の応援エリア。
父兄の応援席では、電機メーカーの広告のように、子どもを撮影するにわかカメラマンがたくさん出現する。
20年ほど前は、持ってくるカメラはコンパクトカメラ。オートフォーカスのズームレンズが主流だった。
それからほどなく、8ミリのムービーカメラが混ざるようになった。我々の世代だと8ミリフィルムだが、こっちはビデオである。お父さんビデオ、お母さんカメラ、という布陣である。
もう少しすると、カメラはデジタルカメラになる。より小型化するか、焦点距離の長さで競うようになる。その後数年で、コンパクトなデジタル一眼レフに入れ替わる。
その時分には、ビデオはデジタルビデオ、より小型化してバッテリーの持ちも良くなる。お父さんはデジタル一眼、お母さんはビデオという布陣になる。
こちら側から父兄席を見ると、さながらレンズだらけである。報道陣のカメラ席のようだ。
しばらく前までは、ファインダーとレンズの方向はたいがい一致していたので、目玉の代わりにレンズがこっちを見ている、という風情であった。両方デジタルになってから、父兄はファインダーではなくモニターを見ているようになった。レンズはこっちを見ているが、顔は下向きだったりして視線とレンズの方向が一致しない。
子どもが頑張って綱引きしているのに、父兄は下を向いている。子どもは父兄ではなく、レンズに向かって手を振っている。
父兄が見て、応援しているのは、子ども本人ではなく、モニターのなかの虚像である。
2012年3月24日土曜日
麦茶
まあそんなことで、たいていの同級生は自宅に暗室を作って課題をこなしていた。
写真の現像は薬品を溶いた液を使うが、使い捨てではなく、何度か使って廃棄した。保存は遮光瓶という茶色いポリタンクが定番で、冷暗所保存が基本である。
ある日研究室に学生から電話がかかってきた。かなりパニックになっている。すでに最初から訳が分からない。「死んじゃう、死んじゃう」と叫んでいる。叫んでいるなら死ぬのは電話している当人ではないので、落ち着くように、こっちも必死でなだめる。どうも電話の学生のお兄さんが現像液を飲んでしまった、らしい。こちらに電話するより前に、早く病院に行くように、としか言えない。
数日後、当人がやってきた。少量だったので、近所の病院で処置をしてもらい、大事には至らなかったという。不幸中の幸いだが、なぜそんなことになったのか、と聞いてみた。家で暗室作業をした後、現像液をポリタンクではなく、手近な麦茶用のボトルに入れて置いていた、らしい。兄ちゃんは、ずいぶんと濃い色の麦茶だなあと思って飲もうとした、らしい。
教訓その1。ポリタンクに麦茶が入っているとは思わないだろうから、薬品は食品容器らしからぬ所定の容器に入れて、ラベルを貼っておこう。ポリタンクを買うお金はなくても、ラベルは貼っておけるはずだ。
教訓その2。家族が薬液を使った作業をしているなら、ボトルの液体は飲む前に匂いを確認しよう。現像液なら相当刺激臭がするはずだ。
教訓その3。麦茶やアイスコーヒーと見まごうような色になるまで現像液を使わないようにしよう。しかし、そんな色になっていたら、相当処理能力は落ちているはずだ。
デジタルカメラで作業をするようになったら、こんな心配をすることはなくなった。しかし、大学の共用冷蔵庫に入っている麦茶を飲もうとするときは、一瞬匂いをかごうかという体勢になってしまうのが習い性になってしまっている自分に気付くことがある。
2012年3月23日金曜日
たたり
デザインを勉強していた学生だった頃に学ぶのは、「デザインエレメント」というものだった。グラフィックデザインの基本となる技術、印刷や写真なんかを一通りやるのである。当時はまだそれほどレアではなかった活字を組み、活版で印刷をしたり、写真を撮影して現像焼き付けする、などというプロセスを通して、グラフィックデザインを学ぶ。
当然のように、写真はフィルムである。自分でフィルム現像や引き伸ばしをするので、当然モノクロ。自分の部屋に暗室を作ることが授業のノルマだった。当然のようにフィルムは長いのを買ってきて、自分でパトローネに詰め、昼間は撮影、夜は現像という毎日を過ごさないと、課題がこなせない。部屋中薬品の匂いで、何を食べても「酢酸」の香り、冷蔵庫は牛乳ではなく茶色の薬液ボトルが並び、窓は遮光のために目張りしてあって、昼間でも灯りをつける生活になった。
そんなことで、友人は数人で集まって学校の近くの安アパートを借り、共同暗室を作った。これなら自分の家は薬品くさくならずに、心おきなく自炊が出来るし、明るい部屋で他の宿題も出来る。
そんな共同暗室だったが、ときどき伸ばしが上手くいかないトラブルが続発した。ピントが合うものと合わないものがランダムに出た。いくらテストしても、機器や道具のトラブルが見つからない。これぞという伸ばしに限ってピンぼけになる。もしかしたら、古い安アパートでもあり、誰かのたたりかと、お札を貼りまくったりした。課題提出寸前になって、こんな状態では間に合わないかもしれないと研究室の助手に泣きつきに来た。
助手は機械の様子を見てあげようと、ある日の帰りに寄ることにした。
アパートは線路の近くに建っていた。
電車が通るたびに、伸ばし機が揺れて、ぶれていたのだった。焼き付けに熱中していた学生たちは、音は気になっていたが、揺れるとぶれるとは思っていなかったらしい。
以後、時刻表が伸ばし機の横に貼り付けられ、引き延ばしの本番は終電以後始発前の深夜作業になった。
2012年3月22日木曜日
教授すること
ここ数年は、学生さんは携帯電話あるいはスマートフォンを持つようになり、固定電話を持たない傾向がある。当然のように、学生さん同士のコミュニケーションも携帯電話や携帯メールで行うようになる。
私の授業のひとつは、数名のグループを作って、作業を進めている。仲良しグループではないので、お互いの連絡先を交換するのは、授業初日の「儀式」である。その後は、グループの自主運営で作業を進めさせる。出席取って顔を見て講義する授業ではない。数名のグループで制作する授業では、学生同士の連絡と連携が作業のツボになる。
授業が数週間も進んだある日。あるグループで、一人の学生に連絡がつかなくなった、と言う。携帯電話も携帯メールも音信不通で、伝言ダイヤルにも入れているがレスポンスがない。連絡がつかないので、ここ数日の制作が滞っていると言う。
携帯電話以外の連絡方法は何か聞かなかったのか、と言うとそれしか知らない、と言う。連絡がつかなくなって10日近く、電話をかけ続けており、グループ全員がそれで作業がストップ、足踏み、諦めている感じだ。
当人は、地方出身者だったはずなので、アパート住まいしているはずだ。教務課で連絡先を聞いてみなさい、と教授する。しぶしぶ全員で事務局へ出向く。数十分後、全員がしおしおと戻ってくる。個人情報保護法の見地から住所や電話、緊急時の連絡先は教えられない、と言われたらしい。メンバーが揃わなければ、制作は進められない。連帯責任ですでに単位落ち確定必至ムードと感じているらしく、全員がどんよりしている。
学内に友人がいないはずはない。他のクラスメートやサークル加入の有無など調べてきなさい、と教授する。全員が渋々と出向いて聞き込みを始める。
どうも英語の授業には出ているみたい、という情報を誰かが入手した。同じグループのメンバーも同じ授業を受講中である。今の学生は、授業が違うと、同じメンバーでもアウトオブ眼中になってしまうようである。
ともあれ、学校には来ているので元気らしいと確定する。連絡は、したくないのか、出来ないのか、それはまだ分からないが。
違うクラスに仲良しがいるらしい、という情報を誰かが入手した。仲良しらしい彼はいつも工房をうろうろしている。早速つかまえて情報を聞き出しなさい、と教授する。
1-2日の探索と聞き出しの結果、当人は、10日ほど前に携帯電話を紛失したらしい、と判明。その間携帯電話なしの生活をしていたらしい。彼は学校の通用門から徒歩3分のところにアパートを借りていた。仲良しの彼はよく遊びに行くそうである。アパートの場所を教えてもらい、メンバーに早速彼のアパートに向かうよう、教授する。
「留守だったらどうすればいいんですか」
こちとら、既に目が点な状態である。「明日の授業時間には必ず教室に来るように」と張り紙してきなさい、と教授する。
あとで聞いたところ、音信不通の彼も、他のメンバーの電話番号を記録した携帯電話がなくなり、「連絡手段がなかった」ので「連絡が出来なかった」。
今時の学生さんは、携帯電話が唯一無二の連絡手段なのである。連絡手段がなかった、のではなく、携帯電話以外の手段を思いつかないとか、考えつかない、のである。なぜ手をこまねいて、10日間もぼーっとしていたのだろうか。
それにつけても、私はこの間彼らに何を教授していたのだろうか。謎である。
2012年3月21日水曜日
行方不明
私が大学に勤め始めた頃、下宿生活者は固定電話を引くのがポピュラーになった。就職活動でアパートに電話がないと会社から連絡が付かず、「落ちる」ようになったからである。留守番電話はまだあまり普及していなかったので、就職活動をしている学生は電話待ちでアパートにこもりっぱなしである。
もちろん下宿している学生は、親御さんに電話を引いてもらっているはずで、電話番号は周知の事実のはずである。
ある日、研究室に電話がかかってきた。学生のお母さんである。しかも取り乱している。子どもが学校に来ているかどうか、確認したいと言う。
なぜなのか理由を聞いてみると、アパートに電話しても出ない。朝昼晩、電話しても出ない。もしかしたら悪いことが起きているのではないか。アパートで病に倒れている、交通事故で大けがかもしれない。学校に来ていないのであれば行方不明かもしれない。失踪届を出さねばならない。
学生は学校にきちんと出席していた。取り乱していたお母さんには、授業が忙しくて学校の工房や友だちの家で昼夜問わず制作活動にいそしんでいるようなので、連絡するよう伝えておきます、と返事して電話を切った。
学生は学校には来ていた。常にガールフレンドとつるんでいた。だから、単にガールフレンドのところに毎晩しけ込んでいただけである。しけ込むのは勝手だが、親に心配をかけないようにと、後日当人に注意したのは言うまでもない。
2012年3月20日火曜日
伝言板
私が学生時代に下宿生活を始めた頃、固定電話を引くのは、かなり贅沢なことだった。友人に電話をするのに、10円玉をためて、夜中の公園の公衆電話で長電話、というのがよくあるパターンだった。
私の下宿はたまたま先住者が固定電話を引いていたこともあって、その電話を引き続き使っていた。しかしなぜか時々知らない年配の女性から、夜遅くに電話が来る。
「もしもし」
「はいはい」
「●●さんのお宅でしょうか」
「はいはい」
●●は私なのだが、先方の声に聞き覚えがない。
「実は……」
と聞いていると、どうも近所に住む同級生の親御さんのようである。
「電話をするように伝えてもらえないでしょうか」
早く言えば、私は「伝言板」であった。同級生は緊急用に私の電話番号を、実家に伝えていたのである。
暗い夜道を走って、同級生の部屋の扉を叩き、お母さんに電話するようにと伝えに行った。
社宅に住んでいた子どもの頃を思い出す。隣近所に電話を引いている家がなかったので、自宅の電話が「公衆電話」状態であった。玄関先に電話機があり、貯金箱が横に置いてある。うちに近所の住人あての電話が入る。その家に「電話が来ましたよ-」と呼びに行く。すいませーん、とうちに来て、電話局の交換手を通して電話する。通話が終わると、料金を交換手が教えてくれる。通話料金を貯金箱に入れる、という仕組みである。
母の生家は、家の中に電話ボックスがあったという。戦前の話だ。やはり近所の人が電話をよく借りに来るので、その配慮と言うことだったのだろうか。
今は、誰もが携帯電話を持つので、逆に固定電話を引かなくなった。「確実に連絡がつく方法」は時代によって変わるものである。
2012年3月19日月曜日
手で考える
長期休暇中、特に春休みや夏休みは美術館にくる小中学生が多い。たいていは、ノートやスケッチブック持参で、熱心にメモをとっている。熱心な子どもは、床に座りこんで、キャプションやパネルの文章を丁寧に書き写したりしている。大人だったら図録を買って、家に帰ってじっくり読み直したりするのだろうが、子どもは実に丁寧に書いている。観察していると、展示品を見るよりも、書いている時間の方が長いのではないかと思ったりする。中学生などはワークシートのようなものが美術の授業で配付されていたりする。それを字でびっしり埋めねば、と必死に書いているようにも見える。
こんな美術館訪問では、楽しめるわけでもないだろうなあ、とよく眺めていたりもした。
先日見ていた展覧会は、「手で考える」ことが展示のテーマのひとつでもあった。展示品は多く、内容も盛りだくさん。展示会場内では撮影禁止のサインがあるのに、受付の係員に「写真を撮影させて欲しい」と頼んでいる若い人がいた。「自分用の記録メモとして」撮影したかったようである。会場内では、電話やスマホを片手に展示を見ている若い人も多かった。ぽちぽちと「メモ」したり「つぶやいて」いるらしい。
小中学生がノートに鉛筆で書き写したりしている方が「アナログ」ではあるし、キャプションを書き写すことが美術鑑賞とは少し違うような子もするが、まあそれも人生修業かもしれないなと思うようになった。
シャッター1発で簡単に撮影したもの、電子的なテキストは、記録にはなるかもしれないが、あっという間に記憶からなくなってしまいそうな気がする。記憶として残すためなら、手を動かした方がいい。特に美術やデザインを志向するのであれば、手を動かしながら考えた方がいい。
2012年3月18日日曜日
投稿欄
高校時代の友人に、いたく文章上手なのがいる。
身体が弱いこともあって、欠席がちだったので、担任の「お気に入り」というわけではなかった、かもしれない。本好きマンガ好きの私とは、使っている駅がひとつちがい、行き来に一緒になって、よくつるんで遊んでいた。
文章を書くのがとても上手く、いまでもブログで書き続けている。
高校何年の頃だったか、彼女の投稿が朝日新聞の投書欄に掲載されたことがあった。
現国専攻の担任は、朝のHRでおもむろに、彼女の投稿をとりあげた。
「みなさん、新聞で今朝お読みになってきたと思いますが」
私は読んではいなかったので、きっと呆けた顔をしていたのだろう。
「あなたは、朝、新聞を読んできてはいないのね」と言われ、輪を掛けて呆けた顔になってしまった。
先生、朝日新聞だけが新聞ではないと思います。
うちは日経と毎日を購読しているので、彼女の投稿は読めないのです。
小心者の私は、そんな風に言い返せず、「ああ、いや、まあ」とお茶を濁してしまったような返事をしてしまった。
そういう発言をしていた担任は、いちはやく朝日新聞というメディアで「プロパガンダ」されてしまうんだろう。現在ともなると、冷静にそう思い返したりもする。
2012年3月17日土曜日
確認
授業をやっていると、学生さんの反応がとっても新鮮なことがある。
ときどき、意表を突かれるので、自分のことをつい振り返りたくなる。
撮影の後は編集作業である。
コンピュータで動画を編集するようになったので、コンピュータのスキルというのも当然必要になる。
コンピュータが賢くなったおかげで、人間様はあまり何も考えずに作業が出来る。
保存ボタンで、適当なところにデータは保存される。アプリケーションで「最近使ったファイル」を表示させると、先ほどのデータが表示される。そうでなければ、ファイル名を検索してピンポイントにそのファイルだけを表示することが出来る。
ユーザーはデータの保存場所、隣近所にどんなデータがあるのかを全く知らずに作業することが出来るようになった。
時折、授業開始時に悲鳴が上がる。
身に覚えのない大量のデータが自分のフォルダに保存されていたり、上書きされていたり、前回確認せずにリターンキーを押してしまい保存場所を覚えておらず、自分のフォルダに何も入っていなかったりする。
作ったタイムラインのタイミングは、自分の作業したものだが、表示される映像と音声は身に覚えがない他人のデータだったりする妙な映像作品をプレビューしてしまったりする。
「パソコン」は基本的に1人のユーザーを想定している。ユーザーが入れ替わり立ち替わりやってくるような授業では、パソコンがユーザーを識別してくれるわけではない。何の気なしに「保存」ボタンや「OK」ボタンを押すと、直前の学生のフォルダにデータを保存したりする。
授業のモットーは常に指さし確認である。
2012年3月16日金曜日
した
授業をやっていると、学生さんの反応がとっても新鮮なことがある。
ときどき、意表を突かれるので、自分のことをつい振り返りたくなる。
撮影の後は編集作業である。
コンピュータで動画を編集するようになったので、コンピュータのスキルというのも当然必要になる。
授業ではまず最初に、自分のデータ用のフォルダをつくる。
一番上の階層に、自分の名前のフォルダ、その下の階層に課題ナンバーのフォルダをつくる、という説明をする。
どれどれ、できたかな、と見回して確認するようになったのは、ここ2-3年のことだろうか。OSの概念や、フォルダの表示の仕方だったり、それまでの使い方によるのだったりするのだろうが、「階層構造」という概念が抜けてきたようなのである。
リスト表示した同じ階層に名前のフォルダと、課題ナンバーのフォルダが並んでいる。なぜ同じ階層なのかと問えば、目をぱちくりさせて答える。
「名前フォルダの下の行に、課題ナンバーのフォルダを作りました」
まあ、確かに下ではあるが。
教える方は常に頭を使わねばならないのである。
2012年3月15日木曜日
見知らぬもの
授業をやっていると、学生さんの反応がとっても新鮮なことがある。
ときどき、意表を突かれるので、自分のことをつい振り返りたくなる。
撮影の後は編集作業である。
コンピュータで動画を編集するようになったので、コンピュータのスキルというのも当然必要になる。
動画編集で面倒くさいのが、データの管理である。
大量で多様なファイルを扱う。以前は初心者が簡単には作業を管理出来なかった。コンピュータのスペックが上がり、大容量の高速HDDを使えるようになったら、アプリケーションのインターフェースも変化した。アプリケーション側で、適当なところに必要なデータやフォルダをアプリケーションが作成して保存したり、使ったりするようになった。だから、ユーザーの方は動画を「いじっている」気になっていたりするが、実際にはいくつかの、さまざまなデータを、アプリケーションがとっかえひっかえ読み込んだりしている。
当然のように、自分が作業を終わって、自分のフォルダを見たときに、「身に覚えのない」データがいろいろと入っていることになる。アプリケーション設定のデータだったり、音声データだったり、時間軸のデータだったり、いろいろである。
「なんだこれは」とパニックになって叫び、「作った覚えがない」と捨ててしまう学生が当初は続出した。もちろん次の日には作業の続きは出来ない。作った覚えのないデータが、アプリケーションには必須だったのである。
動画編集なら、まあ自分が怪我したりするわけではない。昨日と同じことをもう一度やればいいだけである。たいがいそういった学生は、同じ過ちをしない、と思っているのだが。
2012年3月14日水曜日
スーパーマン
授業をやっていると、学生さんの反応がとっても新鮮なことがある。
ことに撮影作業では、びっくりを通り越して驚愕の事態に陥ることがある。
映像撮影と編集の作業では、メリエスがやったようなトリック撮影をする学生がよくいる。
人がぱっと消えたり、3階から飛び降りたり、ワープしたり、といったことだ。
映像上スーパーマン状態は、ちょっと気を遣うと簡単にできる。
しかし時々それでは飽き足らない学生が出てくる。
「3メートル近くの塀の上から飛び降りる」という設定で、学生が撮影をしていた。
ちょっと高いから、編集で上手くつないで、飛び降りたように見せなさいね、と助言をした。
しかし本人はそれでは「普通」なので、面白くなかったらしい。
実際に何回か飛び降りて、長回しして、「実際に俺様はスーパーマン」な撮影をした。
そういう体力勝負な作戦をする学生が、時々はいるのである。
翌日、本人は授業中に、具合が悪いので保健室に行きたい、という。
昼休みに足首に包帯をぐるぐるまきにして帰ってきた。
「スーパーマンな俺様」は、どうも足首をねんざしてしまったらしい。
普通の学生さんは、もちろんスタントマンではない。美術学校に来るくらいだから、運動神経持久力体力抜群スポーツなら何でもオッケーではないことの方が多い。
テレビでもよく「よいこのみなさんはまねをしないでください」というスーパーが入るが、「おとなのみなさんもまねをしない」方がいいのである。
2012年3月13日火曜日
養生
授業をやっていると、学生さんの反応がとっても新鮮なことがある。
新鮮を通り越して、びっくりもする。
ビデオカメラの撮影機材一式を担いで、学内で撮影する、というのが授業の条件である。
機材は、ハイアマチュア用というか、業務用というか、そのあたりの位置づけの機械である。電気屋さんで売っている、一般ご家庭用のビデオカメラよりも高価だし、扱いがちょいと違う。だから授業の始めに、物理的に機材を壊す方法をいくつか教えておく。
コーヒやビールをかける、砂にまぶす、自転車の荷台にヒモでくくりつけでこぼこの道を走る、お日様を直接長時間撮影する、火にかける、冷凍庫に入れる、一緒に風呂に入る、カメラケースに入れて屋上から落とす、などなど。オーバーだが、これに近いことをやってくれるのである。
現在の一般民生機器、つまり電機の量販店で並んでいるものの方が、駆動部分がなくて小さく軽く、生活防水程度の機能があったりするので、ある程度取り扱いがぞんざいでも、泣きたくなるような故障や修理代にはならない。機材が高価だと修理代も高額になるのである。もちろん貸し出し機材なので、故障してしまうと、他の授業や学生にしわ寄せがいく。
機械あっての表現なので、機械ラブでなくてはこの商売はつとまらない。
しかし、ビデオでなくても「機械」を扱った経験がない学生が多く、こちらがびっくりする行動に出たりする。
雨天の場合、屋外撮影は禁止、を授業の決まりにしている。
しとしとと小糠雨、どうしても屋外で撮影したいんです、と泣きの入ったグループがいた。
しかし、雨だからねえ。
「できるだけ雨のかからないところにいます」
「傘をさして養生します」
うーむ、ほんとうだろうねえ。
「はい、もちろんです」
雨がかかったら、責任は自分たちで持ってくれるだろうね。
返事だけは景気がいい。ほんとうかいなと、撮影現場を偵察に行く。
木立の下で、雨の降り込み方の弱いところに傘を広げて陣取っているグループ発見。
傘をさしているのは、役者をする学生だね。向こう側にいるのはディレクター役の学生で、カメラマン役の学生と傘を差しているようで、しっかりビニールコートまで着込んでいる。あれれ、カメラと照明補助機材は、小糠雨に濡れている。
おーい、傘さして養生するって言ってなかった? と走り寄る。
「もちろんです。僕たちも、傘やビニールで養生して風邪をひかないようにしてます」
いや違う、濡れてはいけないのは機材である。人間なんか、濡れても大丈夫だ。
2012年3月12日月曜日
露出度
授業をやっていると、学生さんの反応がとっても新鮮なことがある。
意外なこともあるし、当然の結末なこともある。
私の授業は撮影作業を含む肉体労働なので、授業初日に学生には注意をしている。
ハイヒール、ミニスカート、ミュール、下駄、突っかけ、生足、タンクトップ、よそいき着用、ネールアートは禁止である。
重い機材を運んで走り、照明ランプを持ち、地べたに這いつくばって撮影するのである。着物や履物で行動範囲が狭くなったり、作業出来ないというのは、授業としては不本意であるし、第一危険でもある。
オシャレしたい年頃なのか、初夏も過ぎ、授業も回数を重ねると、注意の効力が薄れる。ミュール生足ミニスカートタンクトップでやってくる女子学生がいたりする。露出度満点、男子にはセックスアピール度抜群である。
そのグループのその日の作業は、グラウンド脇での撮影だった。
授業終了時にはあちこち虫に刺されまくり、木や草でひっかき傷を作りみみず腫れ、長い爪を折り、日焼けでおでこと肩の上は赤くなり、泣きそうな顔で帰ってきた。
露出度満点のファッションは、ことほどさように、作業には向かないのである。
2012年3月11日日曜日
きりぎりす
授業をやっていると、学生さんの反応がとっても新鮮なことがある。
意外なこともあるし、当然の結末なこともある。
今日の美術学校は、概して女所帯である。クラスの7割は女子、専攻、学年によっては女子率が9割以上だったりする。
私の授業は撮影作業を含む肉体労働である。機材は全部で10キロ近く、これを4人1チームで、移動しながら学内を撮影する。重たいものを運ぶのは男子、というのは昔の話である。
「先生、台車を貸してください」
と男子学生が来た。
「運ぶものがたくさんあるし、エレベーターに積みやすいし」
おお、君のチームは男子2人だねえ。撮影機材以外に何か運ぶの?
「え、撮影機材一式だけですけど」
男子2人が合計10キロを運べないと言うのである。草食男子は肉体もきりぎりすなのかもしれない。
健康体力根性、が私の授業の合い言葉である。
2012年3月10日土曜日
釘
授業をやっていると、学生さんの反応がとっても新鮮なことがある。
やっぱり、どうやって日常を過ごしているのか、不思議になることがある。
まあ時折「大道具」に近いものをつくることもある。
「どこでもドア」が必要、というのである。主人公が振り返ると、そこに扉がある、という設定である。
ドアが必要だよねえ。
「借りられますか」
扉だけじゃ、「開く」ことはできないよねえ。しかも特殊なサイズだし自立式の枠が必要だし。作った方が早いかなあ。
「じゃ、作ってみます」
お、がんばるねえ。
撮影前日、準備作業を見に行った。
ドア枠を組むのに、垂木を使い、大きな釘で、四隅を固定しようとしていた。釘が曲がってしまい、なかなか上手く打てないという。
こんな大きな釘、どうやったら曲がるんだ。どれどれ。様子を見る。
学生は、釘をちょっと垂木の上に刺して立て手を離し、金槌を両手で持ち、大上段に振りかぶる。
おいおい、左手で釘を支えないと。なぐりは、そんなに大きなストロークじゃなくても。
「押さえていて、左手を金槌で打ってしまったら、痛いじゃないですか。だから一発で打ち込もうとしてるんじゃないですか」
打った釘が、ことごとく曲がっている理由が判明した一瞬である。
2012年3月9日金曜日
札束
授業をやっていると、学生さんの反応がとっても新鮮なことがある。
ときどきは、どうやって日常を過ごしているのか、不思議になることがある。
美術学校なので、ときどきは大工仕事や工作に近いことをやることがある。
私の担当の授業だと、フィクション映像をつくる学生などが、「道具」をつくる。映像美術で言えば、「大道具」「小道具」である。
自分の考えた設定やストーリーに必要な「道具」は、実写の場合被写体として必要、つまり現実にそこになくてはならない。言葉で言えば簡単なことだったりするのだが、実際に撮影するための「現物」が必要だ。
「女は急いでやってきた。持って来た鞄の中から札束を出して、机の上に積み上げた」
ことを、シーンとして想定した学生がいた。
どうしても必要なのかと問えば、「絶対です」と答える。
札束、いくらぐらい必要なの?
「うーん、1億円くらいは」
君たちの映像作品だからね、自分たちで用意しなさいね。
「え?」
もちろんだよ、学校は1億円用意できないよ。
当日の撮影現場を見に行く。
わら半紙でつくった紙で「札束」が用意されていた。
色と言い、厚みと言い、帯封の紙と言い、どうひいき目に見ても、子どもの工作以前である(子どもの皆さんごめんなさい)。
紙の大きさが不揃い、しかも直線で切れていない、札束の厚みも不揃い。100個用意したのだろうか。
なぜなら「札束」は小さなボストンバッグに入っていて、女子学生が片手でぶら下げて、その上、走ってくるのである。
一瞬何かのギャグかと思ったが、本人達は大まじめで、シリアスなドラマのつもりだった。
文章だと「一億円を持って走る」と9文字で済む。これなら、簡単だったんだけどねえ。
2012年3月8日木曜日
価格設定
授業をやっていると、学生さんの反応がとっても新鮮なことがある。
しかし、「壊す」ことにかかる場合は、新鮮を通り過ぎてびっくりである。
担当している授業では、ビデオカメラやスチルカメラを使う。三脚やスタンド、「ねじ」でとめたりはずしたり、ケーブルプラグをジャックに突っ込んだりはずしたり、といった作業はごく日常的な作業である。
最近の学生さんは、男子であっても「技術家庭科」といったものになじみがないのか、お父さんの日曜大工の手伝い、といったこともやったことがないのか、「ねじを締めて」と言っているのに一生懸命逆時計回りにまわしていたりする。逆に、「ねじを締めて」と言ったら、時計回りに一生懸命、渾身の力を込めてまわして、ねじ切ってしまうこともよくある。体力で機械を壊すのは、女子の得意分野である。
RCAプラグを機械本体の背面パネルに突っ込んで、押し込んでめり込ませる(当然内部断線)。ロータリースイッチを回してぶち切る(内部断線の上、スイッチボタンやダイヤルを外してしまったり、プラスチックパーツを割ったりする)。ボタンを押し込み陥没させる(これも内部断線)。SDカードをスロットにぎゅうぎゅうと押し込んで内部に陥没(または内部でカードが破損)、データがディスクの時代はぎゅうぎゅうと押し込んでドライブ内部で破損(取り出し不可能)。ビデオテープが絡まったからとカセットを引っ張りだして傷んだテープをセロテープで補修し再度機械にかけてしまい再び絡まり(ローダー破損)、更に当然のようにビデオヘッド破損(修理不可能となり機械は廃棄処分)。規格の違うテープを突っ込む(VHSテープをベータカムのスロットに入れるなど)、規格の違うカードを突っ込む(SDスロットにミニSDカードを入れる、CFスロットにスマートメディアを入れるなど)して、イジェクト不能(メーカー修理、または機械を壊してカードを取り出す)。
こちらとしては、だけではなく、修理を持ち込んだ窓口の係の人がときどきびっくりするような「壊し方」があるので、泣きたいほど新鮮である。学費が高いとお嘆きの保護者の皆さーん、機械を使う授業の授業料や設備費は、こういうところが反映された価格設定なのである。
2012年3月7日水曜日
しっぽ
授業をやっていると、学生さんの反応がとっても新鮮なことがある。
しかし、「壊す」ことにかかる場合は、新鮮を通り過ぎてびっくりである。
授業で使っているコンピュータは、マウスを授業時に貸し出すシステムになっている。授業時には、マウスを配り、終了時にマウスを回収する。
現在全てのマシンにワイヤレスのマウスが設置されている。
ワイヤレスのマウスだと、途中で電池切れがあったり、アンテナとの混信があったりして、ときどき不具合が出る。面倒くさいのだが、ワイヤレスを使用している以上は我慢するしかない。
以前は「しっぽつき」のマウスを貸し出していた。学生が使う都度、マウスを接続し、終了時に回収していた。学生はよく、マウスを持つときに「しっぽ」を持つ。ぷらぷらと本体をぶら下げていると、ぐるぐると振り回したりする。これはどうも本能的なものらしく、誰彼と言わず、やってしまうようである。そのため、初年度のマウスの故障率が非常に高かった。原因は「しっぽ」の断線である。マウス貸し出しの管理をしている研究室スタッフは一計を案じ、貸し出しのためのすべてのマウスの「しっぽ」廃止の作戦をとったのである。
断線による故障は当然皆無となった。テクノロジーありがたしである。
2012年3月6日火曜日
挑戦
授業をやっていると、学生さんの反応がとっても新鮮なことがある。
やはり、毎度毎度、ということもある。
コンピュータのアプリケーションを使って授業をしている。
基本的にアプリケーションの使い方そのものを教えているわけではなく、それを使って自分の作品を仕上げましょう、というスタンスである。どんな機械であれ、アプリケーションであれ、やれることで作品が仕上がるように課題を組む。
「先生」
と作業の途中で手が上がる。はいはい、何でしょう。
「これをああいう風に、こんな感じで仕上げたいんです」
うーむ、それはかなり込み入った注文だねえ。このアプリではちょいと難しいかなあ。
「いや、どうしてもこんな感じにしたいんです」
機械には出来ないことがいっぱいある。
あきらめが良い学生は、「機械の出来ること、出来ないこと」を見極める。
あきらめの悪い学生は、「どうしてもやる」と言って我を張る。
ティーチングアシスタントと一緒に簡単に作業できる方法を伝授してみたり、代替案を出してみたりする。
まあその「ねちっこさ」が、クリエーターには必要であることは否定しない。しかし、担当している授業で四苦八苦して完成した「どうしてもこんな感じ」は、あまり効果的には見えないことの方が多い。謎である。
2012年3月5日月曜日
魔法
授業をやっていると、学生さんの反応がとっても新鮮なことがある。
やっぱり、毎度毎度、ということもある。
同居人もその傾向があるのだが、「やったことはすぐに忘却の彼方」タイプの学生がいる。
これも授業中に悲鳴が上がるのが特徴である。
「ひえーっっっ」
お、どうしました。
「コンピュータが壊れましたっっっ」
どんなふうに壊れたの?
「知らないうちに、表示が変わってしまったんですっっ」
何をやったの?
「なんにもしていません」
何かキーを触ったり、ボタンを押したりしてない?
「えー、たぶんしていません」
たぶん?
「えー、押したかもしれないですが、覚えていません」
そうだろう、君がこのボタンを押さなければ、表示は変わらないはずなのである。
ぽちっとしてみたくなるのは、人情だろうが、どのボタンをぽちっとしたのか覚えておいて欲しいものである。コンピュータは自分の意思では動かないのである。
でもときどき、どうしても「押していない」と言い張る学生もいる。そういう学生は、もしかしたら魔法使い、あるいは念力が使えるのかもしれない。
2012年3月4日日曜日
起動
授業をやっていると、学生さんの反応がとっても新鮮なことがある。
しかし、毎度毎度、ということもある。
機械の使い方を教えている授業である。毎度毎度、何人かは、授業中に悲鳴を上げる。
「あーっ、先生、機械が壊れてます」
え? どうした?
「電源ボタンを押しても、起動しませんっっ」
まずこういった場合、学生の方はパニックになっている。ごくまれに突如機械を叩いたり蹴ったりして、物理的に、本当に、機械を壊すことがある。それは断固阻止させねばならない。
はいはい落ち着いてね-、となだめる。大丈夫ですよ-、起動しなくても、あなたに危害は加わりませんからね-。
たいていの場合、電源コードがささっていない、電源コードが緩んでいる、電源タップのスイッチが入っていない、使っているコンセントのブレーカーが落ちている。どれかである。驚異的だったのは、電源コードそのものがなかった。機械にささっているように見えたのは規格の違うコードであった、というのがあった。物理的にマシンの電源がだめだった、ということは教えてこの方、数回でしかない。
コンピュータは電気で動いているんだから、電源がないと起動しない。しかし、機械が壊れていることを疑う前に、まず自分を疑い、チェックをすることが肝心である。
2012年3月3日土曜日
手際
授業をやっていると、学生さんの反応がとっても新鮮なことがある。
コンピュータを使い慣れているここ数年の学生でも、スキルは個人によってずいぶん違う。
画像ファイルの形式の話をしていたときのことである。
ブログに画像をアップロードするために、フォトショップのオリジナルファイルを「JPG」に変換しておくように、というのが当日最初の作業だった。はいはい、と景気よく返事した学生の作業がやけに早い。ほー、手際が良いんだねえ。
「簡単ですよ」
いやいや、今まで見たことのない速攻だったよ。どうやったの?
「.psdの拡張子を、.jpgにそのまま書き換えれば、いいんですよね」
…やはり手際が良い、というわけではないのであった。
2012年3月2日金曜日
ゴミ箱
授業をやっていると、学生さんの反応がとっても新鮮なことがある。
コンピュータを使い始めた10年以上前は、あまり使い慣れない学生が多かった。
小学生だともっと輪をかけて新鮮なことがある。
当時、小学校でMacを教えていたクラスでの話である。今で言えばClassic OS、たぶん8とか9くらいの頃である。
「本日の作業が終わったら、自分のつくったデスクトップの書類をゴミ箱にドラッグしてください。ドラッグしたらゴミ箱がふくらみます。ゴミ箱は空にしておきましょう。空にすると音がしてゴミ箱が元のように空になります。これで本日の作業は終わりです」
などという作業内容であった。
授業終了後、先生がコンピュータの状況を確認していると、デスクトップにあった書類はもとより、もともとあるべき書類やフォルダ、アプリケーションやシステム設定がなくなっていたコンピュータが続出していた。
現在のMacOSと違って、昔のOSではゴミ箱に入れるとゴミ箱が太って、空にすると効果音と共にゴミ箱が痩せた。それが面白かったのか、子どもは手当たり次第、ファイルだろうがアプリケーションだろうが、何でもゴミ箱に入れて、ピューという音をさせて楽しんでいたというわけだ。「捨てて良いもの」「捨ててはいけないもの」の区別がつかなかっただけなのである。
小学校のことで、1クラス40人、マシン40台、先生は一人で、アシスタントは誰もいない。翌日の授業のために、先生の残業が大変であったことは言うまでもない。
2012年3月1日木曜日
フライング
授業をやっていると、学生さんの反応がとっても新鮮なことがある。
コンピュータを使い始めた10年以上前は、あまり使い慣れない学生が多かった。
20名くらいを相手に、アプリケーションの使い方を教える。
全員に同じ作業を横並びでさせながら教えるので、誰かが作業に行き詰まると、その他全員が待つことになる。
本日の作業は終わり、じゃあコンピュータの電源を切り、
と言ったところで、たいていフライングする学生が数名いる。
「ぶっつん」
説明は最後まで聞かないタイプが必ずいるのである。
アプリケーションを終了せずに電源ボタンをいきなり押してしまった。
はい、こんな風に終えると、本日の作業は水の泡と化しますからねー。皆さーん、やらないように。
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