2014年11月29日土曜日

矛先

単位取得のクレームを、担当教員と直談判するかどうか、というのは学校あるいは担当研究室の方針によるのかもしれない。
気になるのは、クレームの矛先、ではある。

同居人の授業は、常に「コメントシート」を提出させる。それが出席のカウントと、授業参加の平常点となっているわけだ。
「コメントシート」は、授業についてのコメントを記入させている。人数の多い講義だと、集計するのは私の作業である。
集計しながら気になるのは、授業についての質問が記述されていることだ。
「授業ではこういう話でしたが、このケースではどう考えたらいいでしょうか」。
いやそれは授業終了前に、授業内で質問すべき項目ではないのだろうか。

もうひとつ疑問なのは、「授業内容」とは違うコメントが散見されることである。
「後ろに座っている人のおしゃべりがうるさいです」。
そんなことは、自分で注意すれば良いのではないか。
「空調が効きすぎて、寒いです」。
先生の授業に関する質問なのか疑問である。それは一介の非常勤講師ではなく、学校の施設担当に言わねばならないクレームではないのか。


矛先、は常に難しいものである。

2014年11月28日金曜日

比較

私の方はぼちぼち年度末、ということもあって、成績を出すのが忙しい時期である。
勤務校の成績評価の基準は、2/3以上の出席で課題提出と期末試験受験資格の取得が認められ、課題または試験クリアで及第点がもらえる、というシステムである。

最近は教務課からのご指導が厳しく、留年者を出さないように、という通達が来る。おかげで課題の提出がない学生を追いかけて、提出しろー、と催促することが多くなった。
提出しない、というのは、単位取得を放棄する、という意思表示なのだと思っていたら、最近の学生は「提出しなくても単位くらい取得できたらラッキー」くらいの気持ちでいるらしい。催促を重ねることしばし、やっと提出されたのは進級会議すれすれで、それまでやきもきしているこちらの気持ちくらいおもんぱかってもいいだろう、という気にもなる。


いい意味でいい加減だった時代とは違い、顔さえ出せば単位が取得できる、というのは、何か違うような気がする。だから、日本の大学と、入るのは易く出るのは難い欧米の大学と、比較されてしまうのかもしれない。

2014年11月27日木曜日

個人情報

クレーム君当人が連絡をしない、というのは、ある意味で学内の管理がきちんとしているからかもしれない。

ピンチヒッターで出かけた某国大は、やはり同じ教職科目の必修だった。60人程度のクラスで演習主体である。
この学校も、もちろん真面目な学生ばかりではないようで、やはり出席が芳しくない、というのがちらほらいる。
授業科目が終了、試験も終えて、教務課に成績を提出する。その後、学生に成績がフィードバックされる。

ここでも取得できなかった学生が数名いた。その学生から連絡が来た。
「僕は授業に出ていたのに単位が取得できていません。なぜですか」。

同居人のメールアドレス、大学に届けていた緊急連絡用アカウントである。夜中にメールがくれば、タブレットやスマホの着信音がなるようにセットしてある。あまりに夜中だったので、返事をしないで放っておいたらしい、数時間後また着信音が鳴る。「早く返事をください」。寝ぼけているのでいい加減なことは出来ない、また明日、と返事をすると、ほどなくまた着信音が鳴る。「なぜですか」。
しょうがなく起きだして、出席簿と提出物、試験答案など引っ張りだして、眠気を覚まして、返事を打つ。「授業日は遅刻が多く、真面目にカウントすれば出席日数は不足です。教室に来るだけでは出席にはカウントしません。また、出席が少ないため提出物が不足しています。出席日数に関わらず履修登録をした全学生に試験は受験させていますが、試験答案は及第点に満たないようです。学生必携にもあるように、出席だけでは単位は取得できません。来年度は頑張ってください」。
おかげでこちらもあまり眠れなかった。

不思議なのは、大学に届けた緊急連絡用のアドレスをどこで知ったのか、ということである。翌日教務課に連絡すると、単位取得のクレームは学生と先生との「個人的なお話し合い」で解決するように窓口では対処しており、そのための連絡先を学生には開示しているらしい。先生の個人情報は保護されていない学校である。

2014年11月26日水曜日

クレーム

教務課に返事をした数日後、今度は研究室から同居人に連絡が入る。
先の「クレーム君」についてである。

クレーム君はどうも4年生だったようで、卒業が決まっており、もちろんその後は社会人として華々しい活躍を期待されている、ようである。
同居人の担当科目は教職科目の必修である。つまり、この単位が取れなくては、教員免状が出ないのである。
ところがクレーム君はどうも、教員試験を受験するようである。つまり、同居人の担当科目の単位が出なければ、教員試験は受験できない、ということになる。何とかならんか、と言う話である。

最後列で爆睡しておしゃべりして授業など聞いていなかった学生に単位は出せない、と同居人はしばらく突っぱねていた。食い下がったのは連絡をしてきた研究室の担当教員である。さすがに同世代の紛争世代、無理なごり押しは慣れっこ、お互いに粘って交渉している。

ここで不思議なのは、なぜ当のクレーム君が登場しないのか、ということである。
教務課としては「試験落第」でクリアだが、担当研究室としては卒業生の動向は「成績」に響くからなのかもしれない。

問題は、クレーム君は卒業したいのか、先生としてやっていきたいのか、ということである。先生業をしたいのに、教職科目が落第、とういのは、本人的には問題にはならないのだろうか。

2014年11月25日火曜日

存在

逆を言えば、いまどきの学生さんは「真面目」なのだろう。教室に「存在」することが「出席」だと思っている。
寝ていようが、おしゃべりしようが、スマホでオンラインゲームに熱中していようが、その空間に「存在」しているわけである。
しかし、「出席」とは授業に参加することなので、空間を共有していても気持ちが山の彼方にあるのであれば、「参加」とは言えない。
学期末には、先生のところ、ではなく、教務課におしかけて「クレーム」をつける学生がいる。「僕は2/3以上出席したのに、単位が取得できてない」。

同居人の授業は「講義」なので、ときどきこういった状況が発生する。
ほどなく、教務課のクレームがまわってくる。出席と単位取得状況を確認せよ、という指令である。
速攻で出席と授業の状況を確認する。

小学校の先生、というのは、クラスの生徒の進行状況をものすごーく把握している。顔と名前、授業態度などもよく覚えている。さすがに「昔取った杵柄」である。クレームをつけた学生の名前を見ると同居人は「やっぱり」とういう顔をした。いつも最後列でくちゃくちゃとおしゃべりをしているか爆睡している学生だと言う。


確かに出席はしている。しかし、出席だけが単位クリアの条件ではない。2/3以上の出席は、単位取得のための試験を受験できる資格が出来る、というだけだ。当該学生の試験答案はとても及第点に満たなくて、これでは単位にならない、と判断した、と教務課に返事をした。

2014年11月24日月曜日

落とし前

さて、同居人は大学紛争時の大学生、であるので、大学生活は「あってないようなもの」だったらしい。良い意味で鷹揚、悪い意味でいい加減、というやつである。
サークル活動に熱が入ってしまい、授業に出られず、出席日数が足りなくなった。もちろんそのままでは試験は受けられない。どうするか、と言えば、教授室へ出向いて理由を説明して謝罪して「オトシマエ」をつけて、試験を受けさせてもらうと言う作戦だ。教授室のお掃除、1週間の使いっ走り、雑用全般などいろいろである。
まあそれで無事卒業できたのだから、まあ優雅な時代ではある。

翻って、現在の大学生のクラスを見ていると、もっと管理がきつい感じはする。泣いても叫んでも、出席が足りなければ試験は受けられない。先生の方が情状酌量しようとすれば、教務課から「待った」がかかる。「オトシマエ」はつけてあげにくくなったが、一方的に押し掛けて理由を並べて謝罪しながら「雑用でも何でもやります、試験受けさせてください」という学生はほとんどいなくなった。


学生は黙って教室にいる、というのが基本だというのは分かってはいるのだが、学生生活の間に「オトシマエ」のつけかたくらいは、実習しておいた方が良いのではないかと思う。

2014年11月23日日曜日

忘れ物

まあ、修学旅行や林間学校の風呂場でパンツを忘れる、というのは分からないでもない。
自宅で汚れ物はオカアサンが集めて洗濯をするのだろう。たいがいの子どもは「脱ぎ散らしっぱなし」なのかもしれない。
しかし、ときどき理解不可能なパンツの忘れ物もあるんだよねー、と小学校教員だった同居人はのたまう。

小学校では夏になると体育の時間に「プール」というのがある。体操服の代わりに水着を着て泳ぎを習うのである。男女共学だと、男子は奇数クラスで、女子は偶数クラスの教室で着替えなさーい、などと言われて、着替えのために教室を移動する。
もちろん、プールが終われば、普段着(同居人の勤務していた小学校では制服があった)になって、授業を続行する。
1年生を受け持っていた頃は、お昼を食べたら、子どもは帰宅である。

子どもが退校した後で、先生は教室を見回って、忘れ物や落とし物をチェックする。プールの後はたいてい忘れ物が多い。使用済みウェットな水着とかタオルの類いである。名前があれば、確認してビニール袋に入れておいて、翌日子どもに渡す。
しかしある日、「パンツ」「無記名」が忘れ物になっていた。風呂屋へ行くわけではないのだから、新しいパンツに着替えて帰るわけでもなかろうし、プール前に脱いだものを使用することが想定されるので「無記名」だったのだろうから、持ち主が特定できない。


翌日の朝に回収した「連絡帳」には、オカアサンの伝言があった。「子どもが昨日ノーパンで帰ってきました。なぜでしょう」。

2014年11月21日金曜日

お持ち帰り

同居人は小学校で教員をしていたので、もちろんいろいろな催事の「引率」というのも仕事のうちである。遠足や林間学校、修学旅行なども「お仕事」である。

林間学校や修学旅行などは「お泊まり」つきである。大浴場に子どもを入れて面倒を見るのも「お仕事」である。
いまどきの子どもは、銭湯に行く機会がないので、公衆浴場の入りかたを知らない。マナーはもちろん知らない。他人の前で裸に慣れず、結局入らずにいる子どもがいたり、海水パンツで入ろうとする子どもがいるらしい。そういう子どもの面倒も見るわけだ。

全員の子どもが風呂と脱衣所を使い終わると、今度は忘れ物確認である。たいていの場合、かなりの確率で「下着パンツ数枚」が残っていたそうである。風呂に入って、新しい下着に着替えて、帰るときに「汚れもの」は持ち帰らない、というわけだ。
こういうときに備えて、事前のオリエンテーションでは「持ち物にすべて名前を入れるように」と口を酸っぱくして伝えている。しかし風呂場の脱衣所で忘れられたパンツは、たいてい名前がないそうである。
子どもも親も「パンツを落としたり忘れたりするなんて、あり得なーい」と思っているらしく、パンツにまでは名前を入れないのである。しかし、こういう子どもほど、パンツを忘れちゃったりするのである。

忘れられた「汚れ物」「無記名」のパンツは、先生が一応、学校まで持ち帰らなくてはならないのである。

2014年11月19日水曜日

下足番

たまの展覧会で「靴の履き間違い」というのが発生するわけで、同居人だけが間違えるとは限らず、この手の会場ではたいてい「私の靴はどこだー」と叫ぶ人がときどきいる。

同居人は公開授業をよくやる小学校に勤務していた。こういうイベントの時は、ものすごーくたくさんの来客がある。もちろんその人数分の「下足」が発生する。履き間違いとか取り違いとかが予測されるので、人手があれば「クローク」というのが設置される。靴を預かって下足札を渡す、という古風なシステムである。
人手がなければ、ポリ袋を渡されて、「自分の靴は自分で袋に入れて携行する」システム、というのもよく見かける。
要は、たくさんの靴が一辺に並んでいる状況だったり、靴箱の中にランダムに入れるシステムだったりすると、間違える確率が高くなる、というわけだ。

飲み屋で傘を取り間違えられる、という経験がある。しかし、自分自身が他人のものを持ち帰った経験がない。常に「私のものはどこだー」と叫ぶ側である。

2014年11月18日火曜日

記名

よーく話を聞いてみると、同居人が靴を間違えてしまったのはこれが初めて、というわけではないらしい。

以前もこの季節だったそうだ。
小学校の展覧会を2カ所はしごした。2カ所目で帰ろうと思ったが、自分の靴がない。誰か間違って履いて帰ったのではないかと大騒ぎをしたそうだ。携帯電話のなかった時代である。学内の客と先生に確認したが、全員間違えてはいない。結局最後の客が帰るまで待つことになった。間違えて帰った客が、あわてて返しにくるかもしれないからだ。しかしぽつねんと玄関に残っていたのは他人の靴、結局それを履いてきたのではないか、とようやく思い当たり、最初に出向いた学校に電話をした。最初の学校では「誰かが自分の靴を履いて帰った」という先生がいたらしかった。先生は予備の靴でお帰りになったので、「誰のものか分からない靴が1足残っている」という状態だったらしい。電話でやり取りすると、どうも自分の靴らしい。

結局、1校目を出て、2校目で靴を脱いでも、他人の靴だとはわからなかったわけだ。

教訓:自分の靴には名前を付ける。

2014年11月17日月曜日

展覧会

同居人は小学校で教えていたので、知り合いの小学校の展覧会ご案内、というのが来る。
展覧会は、小学校の体育館を利用して行われていたりすることが多い。私の小学校時代と比べると、作品も内容もはるかにグレードアップしている。
体育館だけに、やはり「靴はお履き替え」にならなくてはならない。その日、同居人は展覧会を見てから、約束の待ち合わせ場所に来る、ということになっていた。

やってくるなり、開口一番「小学校にすぐ戻らねば」。
何かと思えば、靴を履きき違えたらしい。しかもそれに気づいたのが、約束の場所に来る少し前である。
慌てて携帯電話で小学校に電話し、靴の履き違えを弁明し、自分の靴と間違えた靴の照合をして、自分の靴がまだ小学校に「残って」いることを確認し、とんぼ返りで小学校に向かうことになったようだ。

履き間違えた靴は、色もデザインもサイズも全く違う。共通しているのは「有名ブランドのスニーカー」ということだけだ。

靴を出し入れするときに、自分の靴でないことに気づきそうなものだし、履いているときに「行きの歩き具合と違う」と気づきそうなものだ。待ち合わせ場所に近くなって、階段を上るときに、自分の足下を見て、靴ひもの色が違うので「何だろう」「いつ靴ひもの色を変えたんだろう」と思い、ようやく間違いに気づいたらしい。

これも「ボケ」の兆候かもしれない。

2014年11月16日日曜日

スリッパ

この季節になると、小学校はイベントを開催する。

昔は「秋の大運動会」だったが、最近の運動会は春の開催が多い。
秋は、展覧会や学芸会など、文系のイベントが多い。学校によっては、展覧会と学芸会は隔年開催だったりすることもある。抱き合わせで授業参観や公開授業などがあったりする。校門前に看板など立てて、イベント気分は盛り上がる。

小学校は、昔も今も、靴を脱いであがる校舎がほとんどである。ここらへんが「和風」なのかもしれないが、日頃行きつけない小学校に行くと、入り口で靴を脱ぐことになる。
ひも靴をはいていると、こういう時はとても面倒である。いちいちかがみこんで、靴ひもをほどくわけである。
入り口にはスリッパが並んでいて、これを履け、という状態のセッティングである。

実家の習慣が「スリッパ共用絶対不可」だったので、私は今でも他人の使ったスリッパを使うのは抵抗がある。分かっていれば、マイスリッパを持ってきたのになーと、後悔しながら靴ひもをほどく。
ビニールの、底の薄いスリッパは、展覧会場の体育館の床の「冷たさ」を、ダイレクトに伝える。こんなことが何回か続くと、しもやけが発生する。

秋の展覧会のご案内、は嬉しくもあり、辛くもある。

2014年11月15日土曜日

あこがれ

母親の「いとこ」が引っ越した、という連絡があった。

郊外の一軒家に住んでいたのだが、子どもたちも独立し、それぞれ家族が増えたり、勤務先の都合で少し遠方に住むようになって、夫婦二人で一軒家は大きいと、住み替えたらしい。
駅前から徒歩5分程度のマンションである。鍵1本で出かけられる、というのが、一軒家住まいとしてはうらやましい。
しかも流行のバリアフリーマンションである。2階建て築40年近い実家は、階段や段差だらけである。
「いいなーうらやましいなー」と母親はマンション見学に出かけて行った。

「いとこ」は大学、医学部の先生をしていたので、テクノロジーやら技術やらというのは苦手な方ではないらしい。マンションで母親を出迎えたのは「ルンバ」さんであった。
バリアフリーならこれでしょう、と「いとこ」は自慢したらしい。ほっといても、ひとりで、掃除をしてくれる。しかし、階段や段差の多い実家では「使えない」家電である。
母親は帰ってきたら、マンションよりも「ルンバ」が「いいなーうらやましいなー」になったらしい。「ルンバ」のためにバリアフリーマンションを買うのではないかと思ったくらいだ。

実際に「ルンバ」さんと暮らしている人に聞いてみると、ずーっとお掃除してくれる、とは限らないのよね、という感想が多かった。玄関の段差や靴につまづいて掃除をあきらめていたり、ベッドの下に入って出られなくなっていたり、同じ壁に向かってずーっと頭をぶつけていたり、するのだそうである。


万能な機械、というのは、ない、らしい。

2014年11月14日金曜日

お知らせ

一斉同報、というシステムがある。大学で言えば、「明日は台風が来る予定なので朝6時の天気予報で暴風警報が出ていたら休校」などという連絡に使うものである。勤務校では、ほかにも「課外講座のお知らせ」などがこれを使ってメールで配信される。

学生の方は、大学からメールアドレスが配布されていて、このメールアドレス宛に一斉同報のお知らせがやってくる、という仕組みになっている。いろいろなグレードがあるようで、講義の受講者向けに休講のお知らせ、専攻科目ごとに提出物の確認、などができるようになっている。一介のパートタイマーの非常勤のところへは、あまりめったな内容のお知らせはやってこない、仕組みになっている、と思われたのだが。

本日の「一斉お知らせ」の件名は「忘れ物」である。

学生の氏名:タナカヨーコさん(仮名)
チェック柄の手提げ鞄が学生生活課に忘れ物として届いています。USBと鍵が入っています。心当たりがあったら取りにきてください。

いや、一介の非常勤にまで送る内容なのかというのも疑問だし、もしこれがタナカさんのものでなかったらどうするのか、というのも心配だし、「スマホも入っています」だったらメールを受け取れないかもしれないし、「手提げ鞄、財布、200万円札束」だったらタナカさん大量発生だろうし、「手提げ鞄、大麻入り」だったらタナカさんは来ないだろうが警察がタナカさんのところに急行だろうし、「手提げ鞄、本マグロ中トロ刺身のさく、保冷剤付き」だったら明日じゃ間に合わないだろうし、「手提げ鞄、宿題入り、しかし間違い多し落第必須」だったらタナカさんのその後が心配である。


どうして学生生活課は「タナカヨーコ」本人だけに連絡しないのか、とても謎なメールである。

2014年11月13日木曜日

失ったもの

先日撮影の仕事で入っていた講座は、音楽と美術のクロスオーバーなワークショップだ。
音楽の方の講師は、音楽史が専門である。美術畑からすると、ちょっと違う畑の人である。だからだろうが、お話は易しく、ツボをつかんでいて、面白い。

美術は「有形」だが、音楽は「無形」なので、視点が違う。今回のテーマは楽譜なのだが、音を記録するためにいかに西洋人が苦労したか、などという話になる。楽譜、というのは、便利なもので、音楽を聴いたことがなくても、楽譜を見れば音楽にすることができる。一方で、失われたものがたくさんある、という。無理矢理記録することで、記録できないことを捨て去る、というわけだ。
ここいらへんは、美術というよりも、写真や映像、日頃の生活を思うと「そうだよなあ」と思うことが多い。
しかしだからといって、「昔」に戻ることは出来ない。便利さに慣れてしまえば、「捨て去るもの」にも眼をつぶることになるのかもしれない。

そんなことを考えながら、本棚の片隅にまだ少し残っているLPレコードをどうしようかと悩んでいる。

2014年11月12日水曜日

義務化

便利な世の中になったもので、誰もが、ある程度のお金を出せば、同じような結果を得ることができる。

中世のヨーロッパの絵画工房では、徒弟制度が一般的だ。子どもの頃に丁稚奉公から入って、雑用などしながら、道具や絵具のつくり方から習う。画材は買うもの、ではなく、工房でつくるもの、である。絵画を描くことは、だから「一般的」な趣味ではない。お仕事である。
仕事が増えると作業は細分化され、集中され、技術が上がる。そうして、道具や絵具をつくることが、絵画工房から分離して行く。

しかし、誰もが同じ色を出せる絵具を手に出来る今、描くことに対する情熱はどうなったのだろうか、と思うことがある。小学校で「お絵描き」が、成績として評価される今、それは「情熱」でなく、「義務」になってしまったり、子どもによっては「苦行」になったりしていないだろうか、と思う。

2014年11月11日火曜日

道具

実家では母親が音楽をやっていたり、学校関係の人間が出入りしていたこともあって、本や道具を「けちる」ことがあまりなかったと思う。音楽ばかりではなく、ほかの授業の道具も、同級生よりはいいものを持たせてもらった。結局、将来的に選択したのは美術方面だった。

同じように育てられた妹は、しかし自分の子どもに関しては道具を「けちる」方のタイプである。いまどきのご父兄もそういうタイプが多い。子どもに画材を買うのに、まず100円ショップへ行ってみたりするのである。

100円ショップで画材を買って使ってみるとよく分かるのだが、とりあえずの用はなすものの、「楽しみ」にはならない。絵具の発色、紙と筆の接触を「楽しむ」のには、ちょいと「悲しい」クオリティである。最高級の画材、とは言わなくても、ちょっと背伸びした画材だと、ものすごーく上手に見えるのである。100円ショップの画材は、下手に見える、とは言わないが、これで上手に見せようとすると、それなりのスキルが必要になる。

2014年11月10日月曜日

年齢

大人になって、水彩画をたしなむと、パレットを洗うということがあまり頻繁ではなくなった。
固形絵具だったり、透明水彩だったり、あまりパレットの上で混食しなくなったこともある。
平たいところをあとでウェスで拭き取っておしまいである。筆の方は獣毛を使うのであれば丁寧に洗う。

出入りしている美術館のワークショップ準備室では、描画用に刷毛を用意している。使い捨てではなく、高価ではないが、ナイロンではなく獣毛である。
講座終了後、後片付けをする。絵具を出したパレットや皿と、刷毛や筆は別に集めて、それぞれの洗い方を教える。刷毛や筆は、洗うための「たわし」ではない。皿を洗うのはスポンジの方が効率的である。
子どもたちが帰った後で、スタッフはもう一度、石けんで刷毛や筆を洗い直す。子どもの洗い方では足りないところがあるからだ。水気を切って、新聞紙の上に平置きして、陰干し、乾いたら収納である。

1987年の開館当時に購入した刷毛は、欠けることなく、全部今でも「現役」である。参加する子どもたちよりも、はるかに「年上」である。

2014年11月9日日曜日

水圧

小学校の美術の教室に行くと、部屋の片側とか、近くの廊下に水場がある。
小学校の図工では水彩絵具を使うので、そこでパレットやら絵筆を洗う。水場の近くはたいていカラフルな色がはねていたりする。

たいていの子どもは、教えてやらないと、パレットを洗うのに「水圧」を使う。蛇口から勢いよく水を出してその下にパレットを置く。それでも片隅の絵具が落ちなければ絵筆をたわし代わりにこそげ落とそうとする。日頃からお皿洗いのお手伝いをしたことがなかったりするんだなあと、眺めたりする。
もっともたいていの小学校では水道しかないので、寒い冬の日に冷たい水で作業するのがいや、というのも理由になっているかもしれない。お湯の方が水彩絵具のオチが良いとは限らないが。

そんなことを考えていたら、大人の造形講座でも同じようにパレットを水圧で洗っていたり、筆で絵具皿を洗おうとしているのを目撃してしまった。お湯も出るのに、である。人間考えることは同じなのかもしれない。

2014年11月8日土曜日

ミンク

同居人は小学校の図工教師をしていたので、いわゆる学校向けの画材メーカーなどと出入りがある。サクラとかぺんてるなんかが、その代表格だ。
小学生向けの絵具というのは、考えてみれば「すごい発明」なのかもしれない。安価であるが、誰が使っても同じような色に発色し、当たり外れがない。小学校の近くには御用達の文具屋さんというのがあって、そこで絵具を補充できる。日本全国津々浦々、どこでも同じ絵具である。多少古くなっても、チューブによって密封されていて、変質することもあまりない。

これがぼちぼち絵が好きになって、ということになると、まずはじめに凝り始めるのは「画材」である。小学校向けの水彩絵具は「不透明絵具」というものなので、それをもう少し大人向けの画材メーカーの「ガッシュ」にする。小学校で配布される「画用紙」ではなく、ちょっと高い「水彩紙」、たとえばアルシュ、ワトソン、ハーネミューレ、などというのを使ってみる。筆も、アクリルやナイロン繊維のものではなくて、天然獣毛、例えばリスやコリンスキーなどにしてみると、もう断然「違う世界」である。ミンクのコートは着ないが、ミンクの筆は最高である。

一方で、取り扱いには注意が必要になってくる。絵具の保存方法や変質が気になるようになるし、紙の保存方法、筆の手入れも気を使うようになる。絵具のパレットを筆で洗うような「こども」には使わせられない。たわし代わりにわしわし洗って、穂先が広がってしまって、こわれちゃったねー、というには、コリンスキーの筆はあまりにも高価だ。ナイロン筆が10本や20本が大人買いできるくらいである。

2014年11月7日金曜日

お土産

同居人は「お土産好き」である。

実家でも、父が「お土産」をよく買ってくる人である。小さかった頃は、小さなガラスの動物をひとつづつ買ってきてくれた。しばらくすると、小さなガラスの動物園が出来た。

一方同居人の方は、どちらかと言えば「消えもの」が多い。
「お土産」と称しているが、どちらかといえば自分の食べたいものを買って来ているのではないかと思われる。ちょっとしたお菓子、が多い。ちょっと旅行に出ると、ご実家用にと称してお菓子を購入してくださる。実家も食いしん坊が多いので、ありがたいことである。

バースデーケーキはもちろん「お約束」であった。ある年は、けっこう大きめの「ロールケーキ」がやってきた。友達に聞いたおいしいと評判のケーキ屋さんだそうだが、切り売りをしないので、大きかった。夫婦二人、いちどにに食べられないので、半分以上を翌日用に、と残しておいた。
翌日、仕事から帰って、おやつにケーキの残りでも、と冷蔵庫を開けたら、ない。どこか別のところに隠しでもしたのだろうか、同居人の帰宅後に聞いてみた。生ケーキなので傷むといけないと思ったらしい。私が仕事に出かけた後で、朝ご飯代わりにと全部お召し上がりになったようだ。「量が多くて食べるのは大変だった、来年は小さなケーキにしよう」。

こうしてお土産好き同居人はメタボになるのである。

追記:最近は奥様のお誕生日をお忘れになっていることが多くなり、ここ数年ケーキも来なくなった。嘆かわしいことである。

2014年11月5日水曜日

古典

美術畑で仕事をしていると、ときどき「古典技法」というのにぶつかることがある。
絵画で言えば、フレスコとかテンペラとかいう技法がそうだ。中世の絵画技法がそのまま伝承されている。日本で言えば、「日本画」の伝統的な技法にあたるのかもしれない。
もちろん今でも、その技法を使って絵画をつくる人はいる。マーケットとしてはさほど大きくはない。だからマスプロダクトにはならない。テンペラをしている人は、顔料という絵具の材料を買いにイタリアまで、という世界である。

絵画で言えば、古典技法と言うのはプリミティブな材料を使っていることが多い。日本では入手不可能だったり、マーケットが狭いのでやたら高価だったり、ということはあるかもしれない。
中世ヨーロッパの絵画、というのは、どちらかと言えば今では「写真屋さん」とか「イラストレーター」に近いもので、基本的には徒弟制度である。工房ごとに「企業秘密」な、絵具の調合があったりする。現在の状況と比べると面白かったりする。

そんな時代から500年近くたっても、同じような材料で同じように描くことができる、というのがびっくりでもあり、面白くもある。中学校の英語の教科書でワイエスが取り上げられていたが、古典技法でいまどきのテーマ、ということが面白いところだろうか。

機械を通して表現することを常としていると、ときどきそういった作業の作法というのがうらやましくなることがある。

2014年11月4日火曜日

費用

機材が多くなった倉庫や教室を見ていると、気になるのは授業料、である。

今や、美術学校と言うのは、授業料がお高め、な学校のようだ。以前は、「工房」という名のスペースと、いくばくかの年代物の機械があったりするだけだった。美術系の学科は「アトリエ」というスペースである。
勤務学科では、先日書いたように、たくさんの機材があって、これだけで「ひと財産」だ。1台30万のビデオカメラが7台、1台20万のコンピュータが30台4教室、という具合だ。もちろん、学生さんの授業料(施設使用料とか設備費などという名称で徴収することもある)から捻出される。

美術系の学生は、自分で使う絵具は自前でまかなうので、機材も同様にしてはどうか、という話が20年以上昔にあった。今となっては時代を感じる発言だ。画材で数百万使うのは学生さんではちょいと大変だが、消耗品とはいえ「作品」として定着する。機材だと、あっという間だ。カメラ、コンピュータ、入出力装置、アプリケーションで、かなりの値段になる。それより高額な機材はレンタルだ。時間貸しスタジオ1時間数万円などは「ざら」である。
ともあれ、学内にはたくさんの「学習に使うコンピュータ」がぞろぞろと並ぶ部屋がいくつかある。こういう教室は、大学広報では効果的らしく、きれいに写真を撮影されてパンフレットに載ったりする。

機材使い放題! と勢い込んで入学した新入生の「授業料」から、それらは賄われる。私立の学校なので、きちんと元はとっているわけだ。

2014年11月3日月曜日

世話

機材貸し出しが「普通」になると、研究室で抱える機材は膨大になってくる。

勤務しているセクションでは、1学年90名の学部生と、1学年10名程度の大学院院生がいる。
コンピュータが2-30台がぞろぞろと並んでいる教室が4部屋くらいあって、機材管理は研究室の業務である。授業で使う訳だから、機材はすべて同じように整備され、同じように使えなくてはならない。パーソナルユーズが基本的なものが多いので、ばらばらなセッティングでは作業は出来ない。

もちろん、使っているソフトウェアのアップデートやアップグレードは毎年数回になる。アップグレードに伴ってマシンスペックが高くなるので、ハードウェアの入れ替えは4-5年ごとになる。昔と違って、最近は「購入」ではなく、「リース」で導入できるようになったので、入れ替えはスムーズになった。


こうなると研究室の業務は、学生さんの世話をするよりも、機材の世話をしている方が多くなる。
教育の現場としては、「対人」な業務と、「対機械」な業務と、人員を分けた方が効率的ではないかと思うのだが、教育現場と言うのは会社風な組織と違って、なかなか組織を変更するのが難しい。
そうこうしているうちに、社会状況の方が早く変わるような気もする。

毎年学年末になると、来年はどうなるんだろうねえ、などと話しながら採点業務をするわけだ。

2014年11月2日日曜日

消耗品

何を学習するにせよ、「道具」とか「材料」が、手近にあることは大切である。それによってインスパイアされることもたくさんあるからだ。

機材がデジタルになっていく、という過渡期にいた身としては、機材がどんどん「道具」ではなく、「消耗品」になっていくことが気になったりする。

ひところ、映像を学ぶ学生さんにビデオカメラ購入をノルマにしたことがあった。今よりも、まだまだモデルチェンジのサイクルが長いとはいえ、1年のときに購入したカメラで卒業制作が出来るようなクオリティが高い機材は、得てして1年のときにかなり奮発して買った高額なカメラだった。中の中、くらいのアベレージ程度の機材は、3年生くらいでもう少しクオリティの高いカメラに買い替えたくなる。結局、上級学年の貸し出し用にハイクオリティなカメラを購入するようになり、次第に下の学年にも貸し出すようになってきた。デジタル機材は「自前で購入」するものではなくなってきた。

現在の研究室の貸し出し機材の倉庫は、そんな感じで、そこそこ高額な機材が並ぶ。学生さんは基本的に機材を借りて作業をするようになった。

2014年11月1日土曜日

セコハン

最近の大学では、入学と同時にノートパソコン支給、というのも聞くようになってきた。

以前に見学しに行ったことのあるカナダの美術系のカレッジでは、10年以上前からその作戦をとっていて、コンピュータを使った作業は自分のパソコンでやる方針だった。
勤務校でもいくつかの専攻では、入学と同時にパソコン、デジタル一眼レフカメラなどが「お約束」として購入するようになっている。学生の間では、macbookと一眼レフを持っているのは○○学科専攻学生、というように、「目印」になっているようだ。

以前にも書いたが、私が学生の頃は、一眼レフカメラと暗室用具一式が購入必須だった。午後8時半全学消灯のロックアウト制度の残る大学内の工房では、徹夜の写真暗室作業が出来ないからだ。作業は基本的に自宅でやれるようにということだった。
カメラを自前にするのは、「自分の目玉」になるからだ。始終手に持っていれば、使い方も慣れてくるし、シャッターを切る機会も多くなる。
もちろん、写真専門に学習を続ける学生さんばかりではないので、ひととおりの授業が終われば、さっさと機材を処分する学生もいる。そういう学生と、下の学年の学生さんとで、「セコハンマーケット」が成立していた。新品一式が20万円前後だが、セコハンだと半額くらいになる。中には、2代目3代目と継続して使われる機材もあって、セコハンどころではなくサードハンドやフォースハンドになっていたりする。


フィルムの業界と言うのは、技術革新が早いと言うわけではない。新しくなっても、ケミカルとか光学とかの部分的なものなので、大枠の作業自体はあまり変わらなかった。だから、「代々の学生さんに渡って行った機材」というのがあったりした。もちろん、実家の親父さんやオジさんの趣味が「写真」という学生もいて、分不相応に高価なカメラだったり、えらくクラシックな引き延ばし機を使っていたりするのもいた。