2012年7月30日月曜日

私にも


現在、「学校」というところで教えられている「映像」系の授業では、多かれ少なかれ「機械」による作業が伴うことが多い。機械や技術の上に成立している表現でもあり、その依存度はとても高い。

逆を言えば、「機械を扱うことが出来れば表現が出来る」と誤解されやすい分野でもある。
木彫で言えば、鑿が扱えなければ、彫刻は出来ない。丸太と鑿だけでは、彫刻は出来ない。

映像という分野では、中学高校でリテラシーを教えられていないので、表現としては多くの人にとって未知の分野である。なぜ未知なのか、と当人に問えば、「カメラや編集システムなどが手元にないから」であり、それさえあればテレビや映画館で見ているような表現が手に入ると誤解している傾向が強い。
中学高校の授業やワークショップなどで、簡単な映像制作、アニメーションなどの実習をやっているケースを散見するが、「機械を使った表現」に特化しているものが多く、リテラシーまでは踏み込まない。基礎教育の中では、「表現する」ことと同じくらい、「読むこと」や「解析、分析すること」が大切であるはずなのに、とよく思う。英語や日本語、漢文や古文は、文法から入るのに、こと映像表現という分野で言えば、文法抜きに表現に一足飛びである。絵画や彫刻と言ったプリミティブな表現ではなく、機械を使った表現手段を使うことでコワイのは、そういう作業であってもアラが見えないことが多い、ということでもある。なぜなら、その作業を見る方もリテラシーをあまり考慮しないからである。

丸太からかたちを彫り出すのは、それなりに体力と時間が必要である。
しかし機械を介在させる表現の場合、それは機械が担うことになる。だから、いくら体力や時間を使ってもそれは直接映像上には見えない。10分間の短編映画をつくるのに、17年、25年かかっている、というものがあったりする。しかし、その時間の蓄積はオーディエンスには直接は伝わらない。だから、カメラが手に入れば、すぐに自分にも写せます、という「扇千景状態」である。機械を触っていれば、表現したような気になっている、というのがコワイ。大切なことは、機械を扱えることではなく、それによって何を伝えるか、といったことであるはずだ。

スマホで写真を撮影するのに必要な技術は、シャッターボタンを押すことだけである。露出、感度(電子映像ではゲイン)、ピント、被写界深度、ホワイトバランスは、むしろコントロールできない。だから、機械が表現しているのか、自分が表現しているのかという境界線がどんどん曖昧になりつつある。

中学高校の「映像系」の授業実践を見るたびに、何かむずがゆく感じる今日この頃でもある。

2012年7月29日日曜日

コピー


コンピュータで作業していて、もうひとつ面倒くさいのは、ソフトウェア、というものである。
コンピュータはハード、機械だから、単体では動作しない。ソフトウェアを組み込んで、さまざまな作業をする。

デジタル時代になって、アナログと一番違うのは「コピー」とか「オリジナル」といった概念だろう。デジタルでは、コピーしても劣化しないので、同じものがいくつも出来る。
一方で、ソフトウェアというのは、開発に元手がかかるので、それなりのお値段になる。しかしそのものは、「ファイル」でしかなく、コピーも簡単だ。だから、著作権法に違反していると頭の片隅で考えながら、ソフトウェアをコピーして使うという人が多くいた。
そもそも価格設定が妥当なものか、という判断材料はユーザーにはない。ハードにはお金をかけても、無形のデータであるソフトウェアにお金をかけない、といった傾向があった。
インターネットが普及して、それぞれのコンピュータがネットワークで常時監視されるようになると、高額なソフトウェアの使用状況はどこからか監視されていて、同じライセンスを同時に使えないようなシステムも出来た。

ユーザーとソフトウェアのメーカーとは、常にいたちごっこや知恵比べをしているようだ。
そうは言っても、人間正直なのが一番である。基本的には「ずる」をせずに、きちんと開発の対価を払う、というのが枕を高くして眠れる要因ではある。財布には痛いが。

2012年7月28日土曜日

ローン


動画を扱うメディアが、フィルムからビデオに代わるのに何年かかっただろうか。しかしそれよりも早いのは、コンピュータをとりまくものの開発スピードである。
こちらは、もっと早いので、学校現場などちょいとゆるめに時間が過ぎているようなところにいると、あっという間に取り残されていく。

20年近く前のことになるが、学生が1年生の終わり頃に、一発奮起してパソコンを購入した。周辺機器やソフトも含めて70万円以上になっただろうか。彼としては一生の仕事の元手になったと感じることが出来たのだろう、4年ほど、つまり48回ローンで返済計画を立てた。
届いた大きなパソコンで、意気揚々とコンピュータグラフィックの自主製作を始めた。

一般的に、うちの学生さんはあまり「金持ち」ではないし、その頃はあまり「アカデミックディスカウント」という制度もなく、もちろん「下取り」というマーケットもなかった。
彼が3年になった頃には新型が出て、メモリは半額、4年になった頃にはもっと新型が出て、卒業制作の頃にはずいぶんと「型落ち」になった。同じ性能のマシンが、四半分ほどの値段になり、大きさも半分ほどになったが、ローンはまだまだ残っていた。

以来学生さんには、早いうちに自分のマシンをローンで買わないように、が教訓である。

2012年7月27日金曜日

ランニングコスト


メディアが代わることは、現場で言えば技術的な問題であったりするが、やや「いたしかたない」面がある。好みで言えば、「それはいや」という表現者がいれば、幾多の面倒くさいことが増えていくだけの話である。作業のコストや手間が大幅に増えることになるのだが、それに値するものだと作り手が考えるのであれば、えっちらおっちらと乗り越えるだけの話だ。

一方、学校の現場ではそうはいかない。こちらはどちらかと言えば、「伝統技術保存」ではなく、将来性を見込む技術を取り入れるからである。一気に、というわけではなかったが、そろりそろりと、数年内に、それとなくメディアが代わっていきつつある。今や研究室の20歳代のスタッフは、8ミリや16ミリの映写機を見たことがなかったりする。いわんや操作をも、である。
フィルムがビデオになって何が良いか、と言えば、ランニングコストである。初期設備の投資はかかるが、メディアにかかるコストは格段に安くなる。だから、学生の作品でも40分とか60分のドラマがどーんと出てくる。

作品の出来としてはともかく、それだけ長いものも作れるのは、電子メディアならでは、である。しかし、長いから良いものである、とは限らない。実際には短編をつくる方がはるかに難しかったりするのである。

2012年7月26日木曜日

シャッター音


現在、「学校」というところで教えられている「映像」系の授業では、多かれ少なかれ「機械」による作業が伴うことが多い。機械や技術の上に成立している表現でもあり、その依存度はとても高い。しかも、技術的な開発がとても早い。

私が学生だった頃は、実写で映像系の表現、と言えば、もちろんメディアはフィルムである。16ミリフィルムはネガなので、撮影したら、現像して、焼き付けなければならない。最終的に作品にするには、ネガを編集し、初号焼き付けをとり、その後現像所で焼き付けの指定をする。その後に上がったフィルムが「第1号」である。撮影する(フィルム代+現像代+ラッシュ代)×本数、出来上がる作品の(初号焼き付け代×長さ+指定焼き付け×長さ)合計料金が必要である。その他に、白味黒味素抜けカウントリーダーなどの作業用消耗品にあたるフィルム、作品用のリールやケースも購入する。もちろんこれは画像だけの話で、音声を制作するのであれば、また別途費用がかかる。
短編映画であっても、メディアにかかる費用に百万単位は必要である。当然学生さんを始め、アマチュアでは「長編」など思いもよらない。シャッターを押せば、「じゃー」というシャッター音と共に、1万円札が上からばらばらと落ちていく、という感覚である。
撮影後、最終的にオーディエンスの前に出せるものを実際に見るまでに、いくばくかの時間もかかる。あがりを想定しながらの作業は、素人には五里霧中、玄人には経験がものを言う世界でもある。

現在は、逆にフィルムのメディアでは授業が成立しなくなってきた。需要が減ってきたこともあり、フィルムの生産が減り、従ってフィルムの種類も減って選択肢が狭くなった。現像所が軒並み撤退しつつあり、以前は中1日で出来た作業が中3日くらいかかるようになった。そうなると、もっと授業では電子メディアを多用するようになり、フィルムのマーケットはもっと狭くなる、という循環に陥る。

2012年7月25日水曜日

追う


さて。
現在、「学校」というところで教えられている「映像」系の授業では、多かれ少なかれ「機械」による作業が伴うことが多い。機械や技術の上に成立している表現でもあり、その依存度はとても高い。しかも、技術的な開発がとても早い。

仕事の関係で、中世の古典技法などひもとく機会があった。1400年頃、イタリアの絵画技法書である。テンペラ画とかフレスコ画、といった技術である。この時代だと、絵描きさんは一人でお仕事をするのではなく、「工房」を持っていて、たくさんの職人さんやお弟子さんとの協同作業をしていたのである。
まあ、お弟子さんになるにはいろいろと動機だとか目的だとかがあるだろうが、まず最初にやるべきことは「自分の道具をつくる」ことであり、描画の練習をしながら道具や絵の具をつくることであったりする。画材屋さんというのが出現するまでは、道具や材料などをつくることは「工房」の仕事である。絵画に繋がる技術はすべて「工房」の中に入っている。
一方で、機械を通して表現するものは、表現者が機械を開発する、というわけにはいかない。表現者が機械の開発を促すこともあれば、開発された機械によって表現を試みる、ということもある。

機械の開発には高い専門性が伴うので、使い手の「創意工夫」だけでは追いつかないこともたくさんある。お互いのニーズを埋め合わせようとして作業しているわけでもない。

技術面が分離されて開発されると、そのスピードはとても速くなる。油絵が開発され、ポピュラーになるのに数十年単位でじっくりと浸透していっただろうが、ネガフィルムがデジタルメディアにとって代わるのに数十年はかからなかった。

表現を追及しているのか、技術を追っているのか、分からなくなる時すらある。

2012年7月24日火曜日

GPS


携帯電話のなかったころ、人を捕まえるにはあちこちに電話をしまくらねばならなかった。

研究室のO先生は、顔の広い人で、用事もたくさん抱えている人だった。

朝、研究室に電話がかかってくる。
「あー、おれおれ、今、正門の守衛室から電話してまーす」。
ところが、待てど暮らせど、研究室には来ない。守衛室からここまでものの5分も歩けば十分だが、既に20分を過ぎている。次の授業の打ち合わせなどせねばならないのに、と守衛室へ電話をする。
「あのー、おれおれ先生は、研究室に向かわれたのでしょうか」
守衛のオジサンは冷静にお返事してくれる。
「あー、研究室のある方じゃなくて、事務局の方へ向かわれましたけど」

研究室には先生のご指導を待つ学生さんもやってくる。業者から緊急の問い合わせも入ってくる。
お約束の時間まであと15分、それまでに打ち合わせをせねばならない。
先生の行き先を想定して、あちこちに電話をする。
「教務課でしょうか。おれおれ先生はそちらにおられるでしょうか」
「あー、ちょっと前までおられたんですが」
手遅れである。次に行きそうなのはどこだろう。
「施設課でしょうか。おれおれ先生はそちらにおられるでしょうか」
「あー、今さっき出て行かれましたが」
そば屋の出前である。こうなったら先手を取らねば。
「経理課でしょうか。おれおれ先生はそちらにおられるでしょうか」
「えー、今日は見えてないようですが」
うーむ、今日はお金の話はないのかもしれない。
「図書館でしょうか。おれおれ先生はそちらにおられるでしょうか」
「いいえ、見えてません」
しかし、ここで妥協してはいけない。構内のルートとしては次はあそこの研究室に寄るかもしれない。違う研究室にいくつか電話をかけまくる。いつも同じルートを通るとは限らないので、油断が出来ない。

まあ、たいてい「おっす」と言いながら涼しい顔で、しばらく後にやってくる。まったく予想しなかった研究室でお茶をご馳走になっていたりする。
学生との約束は、ちょっとすっとんでいて、授業の打ち合わせはヒトコトで「あとはよろしく」だったりする。

研究室内に大きな構内地図があり、先生の現在地に赤ランプが点滅している、というのが当時のスタッフの夢だった。今は携帯電話があるので、先生の居場所はすぐに知れているのだろうか。

2012年7月22日日曜日

なまもの


なまもの、というのでよく思い出すネタがある。

田舎のおばあちゃんから、小さなトロ箱(発泡スチロールの箱)がクール宅急便で届いた。ガムテープで封がしてあり、赤いマジックで「生物注意」と書いてある。
受け取ったお嬢ちゃんは
「おばあちゃんから何か届いたヨー」
とお母さんである嫁さんに知らせる。嫁さんは2階でお掃除中である。
「なまものちゅういって書いてあるヨー」。
「なまものだからクール便で届いたのよ、冷蔵庫のチルド室に入れておいてちょうだい」
嫁さんはお嬢ちゃんに言いつける。お嬢ちゃんはトロ箱のまま冷蔵庫に突っ込む。
差出人の息子である旦那がご帰宅。
「今日はおばあちゃんからご馳走が届いたみたいなのよ、見てくれる?」
食事の支度中の嫁さんに言われて、どれどれ、と冷蔵庫を開ける。
「これだヨー」とお嬢ちゃんがトロ箱を指さす。
どれどれ、と旦那とお嬢ちゃんはガムテープを景気よく剥がす。

中に入っていたのは虫かご、もう寒くって瀕死の状態のスズムシだった。

生物注意=なまものちゅうい、ではなく、いきものちゅうい、だったのである。
教訓:トロ箱が届いたら、まず開ける。

2012年7月20日金曜日

いきもの


いきもの、なまもの、天気は、自由にならない、とは学生時代によく言われたことである。
被写体として、人間以外の生きもの、天気に左右される撮影計画は、なるべく避けろ、と言われた。

当時習っていたのは、日活で映画監督をしていた人で、製作の苦労談など時折聞いた。
『豚と軍艦』の助監に入っていて、豚のシーンで苦労したことを聞かされた。

その後、日活という会社がロマンポルノ製作に舵を切った。製作費は当時、1本5より上にはならない数百万。安く仕上げるには、準備も撮影も編集も早く済ませる、キャストもスタッフも人件費を抑えることが肝要である。撮影は1日いくらの勘定だからである。そんな状態で脚本家はシナリオに「部屋を開けたら真っ黒い蝿の群れが」という文を書いてきたらしい。低予算の映画なのに、準備は恐ろしく大変だったのよ、とその後見学に連れて行ってもらったスタジオのスタッフから聞かされた。蝿を集めるのに費用はかけられない、だからみんなで手分けして夜な夜な蝿を捕獲していたらしい。

黒澤明の天気待ち、というのは有名な話である。晴れるまで待とうホトトギス、とは待つことに費用がかからない人が言うことである。スタッフキャストもエキストラも、待つ間にアゴアシマクラの経費はかかる。機材はレンタルだから、もちろん動いていなくても経費はかかる。黒澤監督だからこそ、会社は待っていても1日数百万円の費用を出すのであって、新米監督やポルノなどではそんな悠長なことは言えない。

映画を見ていて、いきものを使うシーンを見る都度、豚と蝿の話を思い出す。

2012年7月19日木曜日

金魚


授業が終わって研究室に戻ると、テーブルの上に小さな金魚鉢があった。直径10センチくらいの小さな丸い金魚鉢、ひとすじの水草と、赤い小さな金魚が入っていて、パッケージに入った「金魚の餌」が並べてある。
学生の課題制作で、ドラマの撮影に使うのだという。明日も使うので、夜はスタジオではなく研究室にお預かり、とあいなったようである。

翌朝、授業のために研究室へ行く。数名のスタッフが、くだんの金魚鉢をのぞいて、うなっている。
「うーむ」。
明らかに金魚は昇天されていた。
確かにこんな小さな金魚鉢だし、大丈夫かなあと思ったのだった。スタッフが夜帰りがけに見ると、ぱくぱくしていたので、餌をまいて帰った、らしい。
うーむ、そのぱくぱくは、空腹を訴えていたわけではなく、酸素不足だったのでは。

その日の撮影がどうなったのか気にはなるのだが、昇天した金魚さんも気になる。
映像制作では、なまもの、いきもの、天気は自由にならないから、とよく言われたものである。
何か舞台裏を見てしまって申し訳ない気になってしまった。

2012年7月18日水曜日


太ももをがっぷり犬に咬まれても、妹に「トラウマ」という言葉は存在しない。犬は好きなのである。

彼女が二つか三つの、ご幼少のみぎり、庭の池で溺れかけたことがある。鯉がいたりするのだが、子どもの膝丈くらいの深さの池があった。茂みに囲まれているので、縁石は苔むしていてよく滑った。案の定、妹は滑って転んで池の中なのだが、なぜかうつぶせに池の中に落ちてばたばた手足を動かしていて、自分の足で立とうとしない。びっくりした私の悲鳴で祖母と母が家から飛び出して、妹をすくいとった。

げぼげぼと咳き込んだりしていたのだが、これもトラウマとなることなく、今やスイミングプールに足繁く通っている妹である。

妹に「トラウマ」という意識は決してないのではないか、と勘繰っている今日この頃の、トラウマだらけの姉である。

2012年7月16日月曜日


友人が、医者への通院途中に犬に咬まれてしまったそうである。
動物に咬まれると、いろいろと狂犬病だの破傷風だの検査が必要で、消毒しておしまい、というわけにはいかない。
大けがではなかったことを祈るばかりで、いろいろと思い出すことがあった。

妹が小学校に上がる前の年齢だったろうか、近所に散歩に来ていた犬に咬まれたことがある。太ももをがっぷり、という感じで、慌てて駆けつけた母親が妹を抱え、私には留守番を言いつけて、どこかへ走っていった。
子供心に、ずいぶんと経ってから帰ってきた妹は、でっかい絆創膏を貼り付けていた。

それからまた年月が過ぎて、私も分別がつくようになった頃、あのときは大変だったねえ、という話になった。
母親は妹を抱えて交番に駆け込んだらしい。様子を聞いたおまわりさんは、獣医さんに連れて行ってくれたらしい。妹は犬猫病院で絆創膏を貼られて帰ってきた、らしい。

もう少し経って、私がもうちょっと分別がつくようになった頃、あのときはどうだったのかねえ、という話になった。
母親は実はパニックになっていて、駆け込んだ交番のおまわりさんもとっさのことで慌てていたらしい。もしかしたら、妹が犬を咬んだと勘違いしたのかも知れないし、狂犬病は獣医さんで治してくれると思ったのかも知れない。でも獣医さんは慌てず騒がず消毒して絆創膏を貼ってくれたのだそうである。

犬に咬まれたことで犬嫌いになったということはよく聞くが、そんなことはなく犬好きな妹である。

2012年7月15日日曜日

不審者


新宿までバス15分というところから、東京と埼玉の県境の郊外へ引っ越して10年ちょっとになる。

引っ越した年の秋、回覧板がやけに頻繁に回ってきた。不審者出現につき注意しましょう、などという文面である。不審者が出現するたびに、状況が回覧されるのである。

不審者は、ものを取ったりしないようだが、庭になっている柿を食べたようである。縁側に柿のへたとタネが残っていた。
不審者は、ものを取ったりしないようだが、庭履き用のサンダルをあちらこちらへと散らかしていたらしい。
不審者は、ものを取ったりしないようだが、花壇に踏み込んだらしい。

うーむ、ホームレスが夜中にうろうろしている、あるいは空き巣が下見している、という図なのだろうか。
警察にパトロール強化のお願いをした、という文書も入るようになった。

その数週間後、毎月恒例の回覧板が回ってきた。中にこんな文書があった。
「不審者のお知らせについて」
まあ結局のところ、ホームレスや空き巣がうろうろしていたわけではなく、どうもタヌキの仕業だったらしい。どこかの家の庭で遊んでいるところを、何度か目撃されたようである。

郊外のニュータウンらしいお騒がせ、ではある。

2012年7月14日土曜日

たぬき


新宿までバス15分というところから、東京と埼玉の県境の郊外へ引っ越して10年ちょっとになる。
生まれは名古屋だが、新宿育ちの同居人にとって「郊外暮らし」は初めてのことだそうなので、生活環境についてのリアクションがいちいち「都会人」らしかった。

近くに大きな寺があり、その周囲には「動物注意」の道路標識がある。描かれているのは狸の絵である。
夕方に、駅まで迎えに行った帰り道、20メートルほど向こうを狸がゆっくり道路横断中であった。のんびりしている郊外では、生きものものんびりしたものである。

そこは「タヌキ通り」と命名された。

2012年7月13日金曜日

きつね


新宿までバス15分というところから、東京と埼玉の県境の郊外へ引っ越して10年ちょっとになる。
生まれは名古屋だが、新宿育ちの同居人にとって「郊外暮らし」は初めてのことだそうなので、生活環境についてのリアクションがいちいち「都会人」らしかった。

早朝、駅まで車で送った時に、100メートルほど向こうの方を黄色い動物が横切っていった。猫にしちゃあ大きいなあ、と同居人は感じ入っていた。
そうだろう、しっぽがふかふかで、胴体ほどの長さである。それはキツネ、と教えてあげた。

帰りがけに横目で見ると、すぐ近くに小さなお稲荷さんの祠があった。

2012年7月12日木曜日

もぐら


新宿までバス15分というところから、東京と埼玉の県境の郊外へ引っ越して10年ちょっとになる。
生まれは名古屋だが、新宿育ちの同居人にとって「郊外暮らし」は初めてのことだそうなので、生活環境についてのリアクションがいちいち「都会人」らしかった。

歩いて5分ほどのところに、米軍の通信基地、というのがある。基地と言っても、軍用トラックやヘリが始終出入りしているわけでも無し、近所に兵隊さんたちがうろうろしているわけでもなし、だだっ広い原っぱに、ヘリポートと簡易型象の檻、といった風情の設備があるだけである。
引っ越したのは春先で、原っぱに土の塊がそこらじゅうに盛り上がっている。同居人はそれがなんだか分からなかったようで、夜中に誰かが土を掘り返しているのかと思っていたそうだ。誰が何のために掘り返しているんだろう、などとぶつぶつと言っているので、あれはもぐらなんだけど、と教えた。
新宿の真ん中には、さすがにもぐらは出ないのだろう。

以来その基地沿いの通りは、同居人と私の間で「モグラ通り」と命名された。

2012年7月9日月曜日


そんなわけで、母親が育った家には、書生さんというのが何人かいたのである。

戦争中、母の家は空襲で焼け出された人を収容することになった。空き部屋に、書生さん以外にも居候を抱えることになった。
当時住んでいた本郷の家はそれなりの大きさだったようなので、それなりのおうちの人が居候にやってきたらしい。中には「じいや付き」の御曹司もいたりして、にわか下宿屋となったそうである。
下宿屋だからと言って、誰もが食費を払ってくれるわけではないし、戦時戦後のこととて食料がふんだんにあるわけではない。「じいや付き」も含めて、若い人は、しじゅうお腹が空いているわけである。

家の庭には大きな木があって、フクロウがよくやってきた。フクロウ、と聞いて絵本や物語を思い出す、といったご時世ではない。雀より大きい=食いでがある=今夜のおかず、である。数日かけて「フクロウ捕獲作戦」をみんなで考えて、捕獲にいそしんでいたのだそうである。

結局、捕獲することは出来なかったらしい。「フクロウ」という鳥が話題に出ると、みんなでフクロウを追いかけ回した昔話を、母から聞く。捕獲していたら、いったいどんな料理になっていたのだろうか。

2012年7月8日日曜日

ソース


そんなわけで、母親が育った家には、曾祖父の教え子、つまり書生さんというのが何人かいたそうである。まあ、地方から出てきた秀才、といった風情だったのだろう。

曾祖父の奥さん、つまり曾祖母というのも東京女子高等師範出身、わりかたしゃきしゃきと、物言いのはっきりしたタイプであったそうだ。
母、つまり曾祖父の孫は難しそうな宿題を持ち帰ると、曾祖母に相談して、書生さんに代筆をお願いした、ということが何度かあったらしい。教員の孫としてあり得ない、と思ったが、曾祖母の持論は違っていて、勉強するのはいつでも出来るし、学校の思うとおりに宿題をやっても本来の「勉強」とは違うのだから、誰がやっても構わない、ということだったらしい。

そんなふうに、宿題をやってくれたかもしれない書生さんのひとりとは、彼が亡くなるまで付かず離れず、親子ぐるみ孫ぐるみで、つきあいがあった。彼は卒業後母校の教員になったのだが、遊びに来ると「単なるオモロイオジサン」でしかない。何を研究しているのオジサンか、と母に聞くと「代用ソース」と答えが返ってきた。

長じて調べると彼は応用化学の教授で、戦時中は専攻を生かして食材を研究開発していたのだそうである。おかげで私の中では「応用化学=代用ソース」が直結してしまった。本当は、それだけが研究対象ではないのだろうが、申し訳ないことである。

2012年7月6日金曜日

価格


大学にはもちろん、講義科目もある。

のだが、美術学校のメインは実技授業であるので、一介の講義科目の非常勤講師には手当もサポートも多すぎる、ということはない。
実技の科目なら、出席や採点の集計、教務とのやりとりは、専攻科目の担当職員がまかなうところなのだろうが、講義科目はそうはいかない。いくら人数が多くても、出席のカウントやら採点の集計も含めて諸々の事務雑務は講師の仕事になってくる。
次回の授業の仕込みに約1日、授業後の採点に半日、その集計に2時間とかかる。講師料は講義90分に対する価格設定なので、準備集計まで含めて時間単価を計算すると、とっても割が合わない。

それでも授業をするのはなぜか、と言うことにはなるのだろうか。
曾祖父が某大学の教員を要請されたときは、「給料は出せないけどよろしく」ということだったと言う。今やマンモス大学だが、戦前はそんなバンカラ、ボランティア精神よろしいところであったらしい。金勘定で、授業をするのも受けるのも義務的な今日とは違うような気がする。

今や金回りのいい大学のようであるが、その昔のボランティア精神はまだ生きているのだろうか。

2012年7月4日水曜日

受講料


大学生にはもちろん、講義科目もある。

しかし美術大学の学生さんにとって「本命」は実技授業である。が、講義科目もある程度の単位を取得しなくてはめでたく卒業、というわけにはいかない。
本命の実技が忙しくなって、講義科目がおろそかになり、そのため卒業制作は優秀、就職も内定だったのに、1年次必修の英語が取れていなくて、卒業も就職もチャラ、というケースが時々あったりする。
だから、実技が忙しくない低学年のうちに、講義科目は取れるだけ取っておくというのが、まあ普通の学生の単位取得作戦であったりする。単位取得は個人の管理なので、実技を見る研究室では「英語の単位が足りない」などと注意はしない。
それでも毎年性懲りもなく英語を落としてしまい、4年になっても英語を1年生と同じ教室で受講、なんていう学生もいたりする。

同居人の通っている大学では、昨年度から再履修に科目受講料が別途課せられるようになった。先の学生さんなんかのケースだと、同じ授業に対して3回エキストラの授業料を払う、ということになる。
こういった経済的な枷で再履修が減るのか、と言えば、完璧には減らない。授業料は保護者が払うもので、懐が痛いのは学生ではないからである。だから、同居人が学校から出席問い合わせを受けるときは、教務経由保護者の問い合わせ、というのもある。再履修の授業料を払ったが、うちの子は真面目にやっているだろうか、といった趣である。

それは、教務経由ではなく、保護者と学生の会話だったりするような気がするのだが。

2012年7月3日火曜日

選択


大学にはもちろん、講義科目もある。
受講生が多ければ、出席やテストなどの管理もそれなりに大変である。

でも出席しなくても単位が取れる、というわけにはいかないので、先生の方もいろいろと知恵を絞る。
アナログ時代の出席簿回し、という方法では、人数が多くて、いつ出席簿が回るか分からない、という授業もあった。あるいは、毎回ではなく、講義期間中ランダムに出席を取る授業もあった。出席はロシアンルーレットに近いものになる。もちろん、真面目に毎回出席しているのなら、なんら問題はないのだが。

昔語りに聞いた話で、よその大学の話だが、かなりのマンモス講義の運営である。
数百人という受講生なので、普段の出席はあまりとらない(というより、とれない)。そのおかげで、普段の講義を聴きに来る学生の数倍の学生がテストを受験しに来る。
テストの試験監督は、講義をしている先生ではなく、教務の人だったりする。テストの準備をして、鐘が鳴ったら私語は厳禁である。
テストの第一問。
「この授業の講師の顔写真を下記から選べ」。
「下記」には似たり寄ったりなオジサンの顔写真がずらりと並んでいる。

第一問が不正解なら問題なく不可である。
まあ、実際には私の通っているような小さな単科大学ではあり得ない問題ではある。

2012年7月2日月曜日

出席


大学にはもちろん、講義科目もある。
当然のように出席をとり、集計する。同居人の講義は150名ほどだが、毎週の作業はそれなりに大変である。
学生数が多い大学だと、もっと大人数の授業もあるだろうが、どうやってこなしているんだろうと時々授業の運営の方が気になったりする。講義の内容とか、単位取得の安易さとか、学生側の情報はよく聞くが、そっち側の情報はなかなか聞くことがない。

私の学生時代はアナログもいいところなので、授業中に出席簿がまわってきた。仲良しのお友だちの分も○をつければ代返である。まあ正確な出席者を割り出せるわけはないというのは、先生側もわかってやっていたはずなので、「完璧に捨てた人」をあぶり出すくらいの効果しかなかったのかもしれない。
他には、「出席カード」を配付し、記名して集める、というスタイルもあった。1枚ずつ、というのに、数枚がめておいて、来週再来週の分は友だちに言付ける、という裏技を見つけた学生がいたせいで、配付するカードは毎週色違いになった。

同居人の大学の最近の学生証はIDカードと言って、電子的な情報も組み込まれるようになったので、講義の入室時にカードリーダーに読み込ませて集計、というハイテク出席管理装置も導入されているそうである。それとて、サボる学生が学生証を出席者に預けておけば代返OKなので、完璧に出席者だけをカウントできるわけではないらしい。

まあ、出席するかどうかは学生の自主性であるし、出席しなければこなせないテストやレポートであれば当然単位は取れないので、ここいらへんが先生の腕の見せどころでもあるのだろう。両者の攻防は永遠の課題でもある。

2012年7月1日日曜日

西


そんな「失踪事件」があったねえ、と昔語りになりかけた、それから5-6年以上経った頃だったろうか。
件の失踪者を見かけた、という元学生が現れた。
社会人になって、夏休みに旅行した波照間島で、どうも見たことのある人がいる。呼び止めて話をすると、失踪した助手だったのだそうである。

元学生は、失踪者が担当していたクラスの学生だった。1年生だったので失踪するまで数ヶ月、しかしあまりにも強烈な「失踪」だったので、学生たちにとってはショックだったのだそうである。前日も普段通りで、何一つ変わったことが見受けられなかったので、その前日のイメージのまま、彼の頭には焼き付いていたらしい。
当の失踪者は、普段通り学校に行こうとして、自転車にまたがって道に出たら、正面に富士山があって、吸い寄せられるように西に走り始めてしまった、らしい。
それで西の果ての波照間島まで、海を越えてたどり着いてしまい、現地で生活し始めてしまった、らしい。

真っ黒に日焼けして、でもちょっと内気そうな笑い顔のままで、その後、家族に会い、学校にあいさつをしに来たそうである。そして、そのまますぐに波照間島に帰っていったのだそうである。

失踪の真相は、あまりにもきれいな富士山、だったらしい。