現在、「学校」というところで教えられている「映像」系の授業では、多かれ少なかれ「機械」による作業が伴うことが多い。機械や技術の上に成立している表現でもあり、その依存度はとても高い。
逆を言えば、「機械を扱うことが出来れば表現が出来る」と誤解されやすい分野でもある。
木彫で言えば、鑿が扱えなければ、彫刻は出来ない。丸太と鑿だけでは、彫刻は出来ない。
映像という分野では、中学高校でリテラシーを教えられていないので、表現としては多くの人にとって未知の分野である。なぜ未知なのか、と当人に問えば、「カメラや編集システムなどが手元にないから」であり、それさえあればテレビや映画館で見ているような表現が手に入ると誤解している傾向が強い。
中学高校の授業やワークショップなどで、簡単な映像制作、アニメーションなどの実習をやっているケースを散見するが、「機械を使った表現」に特化しているものが多く、リテラシーまでは踏み込まない。基礎教育の中では、「表現する」ことと同じくらい、「読むこと」や「解析、分析すること」が大切であるはずなのに、とよく思う。英語や日本語、漢文や古文は、文法から入るのに、こと映像表現という分野で言えば、文法抜きに表現に一足飛びである。絵画や彫刻と言ったプリミティブな表現ではなく、機械を使った表現手段を使うことでコワイのは、そういう作業であってもアラが見えないことが多い、ということでもある。なぜなら、その作業を見る方もリテラシーをあまり考慮しないからである。
丸太からかたちを彫り出すのは、それなりに体力と時間が必要である。
しかし機械を介在させる表現の場合、それは機械が担うことになる。だから、いくら体力や時間を使ってもそれは直接映像上には見えない。10分間の短編映画をつくるのに、17年、25年かかっている、というものがあったりする。しかし、その時間の蓄積はオーディエンスには直接は伝わらない。だから、カメラが手に入れば、すぐに自分にも写せます、という「扇千景状態」である。機械を触っていれば、表現したような気になっている、というのがコワイ。大切なことは、機械を扱えることではなく、それによって何を伝えるか、といったことであるはずだ。
スマホで写真を撮影するのに必要な技術は、シャッターボタンを押すことだけである。露出、感度(電子映像ではゲイン)、ピント、被写界深度、ホワイトバランスは、むしろコントロールできない。だから、機械が表現しているのか、自分が表現しているのかという境界線がどんどん曖昧になりつつある。
中学高校の「映像系」の授業実践を見るたびに、何かむずがゆく感じる今日この頃でもある。