2012年12月30日日曜日

出世払い


美術学校だから、なのか、ということはさておき、貧乏学生の多かった学校のようなので、その手の思い出話にはことかかない。

美術学校なので、金持ちの裕福なご子弟が、大挙して入学するわけではない。
2代目の理事長は、父親から受け継いだ学校なので、まあ本人の好むと好まざるに関わらず、学校経営をすることになったそうである。2代目は、出身校も専攻分野も美術とは全く関係はなかったのだが、それなりに父親から受け継いだものがあったとみえて、学校も学生もそれなりにお好きだったようである。
貧乏で学費も払えない、と言う学生に、出世払いと称して、卒業制作の作品を「買い取って」いたという話がある。卒業して出世したら、その作品を売却して元を取るよ、といった感じだったそうである。学校経営もあまり「上がり」がいいものではないのに、である。
その後、2代目は、当時としては「早く」に亡くなってしまった。未亡人は、売れもしない学生の絵がいっぱいあるのよ、とよく笑っていた。

2代目の後は、世襲ではなく、理事会から選出された、創立者の家系や親族ではない人だった。未亡人は学校経営からは関係がなくなったわけで、学校の方に出てこられることは少なくなった。元理事長夫人という肩書きで、学校行事に出ることも少なくなり、その後しばらくして亡くなった。ご親族は学校経営の「表」に出てくることはなくなった。

その「売れもしない絵」はどうなっているのかと、卒業制作の時期になるとよく思い出す。

2012年12月29日土曜日

関心事


美術学校だから、なのか、ということはさておき、男子学生の多かった学校のようなので、その手の思い出話にはことかかない。

人間、本質的なことはあまり変わらないもので、爺さんが集まって思い出話、という段になると、結局とどのつまり、こういった方向になってしまうのである。

爺さんたちに学生時代の思い出話、というのを聞くと、授業や校舎や先生の癖や学園祭とかのハナシから始まることが多い。そのうち、誰がモテたとか、誰があのモデルさんを好きだったとか、どのモデルさんに気に入られていたか、という話に盛り上がるグループもいれば、もう少しきわどいハナシで盛り上がってしまうグループもあった。
当時のモデルさんを誘って、スケッチ旅行というのを先生が企画した。モデルさんを含めて、そのクラスの学生が連れ立って1-2泊の小旅行、というものである。
教室から出て、風光明媚、郊外のいい風景の中で、モデルさんをスケッチ、な企画のハズである。
当時の学生が、その話で思い出すのは、風景でも描いた絵画でもなく、モデルさんの和服の裾をじーっと注視していた先生のマナザシであった。和服のモデルさんだけにズロースではないはずだー、というので爺さんたちは大盛り上がりである。

今は昔ではある。

2012年12月27日木曜日

本質


美術学校だから、なのか、ということはさておき、貧乏学生、特に男子が多いと、それなりの話題も多くなる。

モデルさんが妙齢の女子だったりすると、それだけでモデルさんはモテモテである。休憩時間の記念撮影とか(当時のカメラの高額さと、フィルムのコストを考えると、今時のちょいとスマホでワンショット、というのとはワケが違う)、モデルさんにスケッチを贈るとか、いろいろとあったりする。モデルさんにもお気に入りの学生というのがいたりした。
話を聞いている元学生は、私から見ればいいトシの爺さんである。そんな爺さんたちがよってたかって、あいつがモテた、どうしてモテた、なんでモテた、とか、モテ自慢だったりモテやっかみだったりする。あのモデルさんはかわいかった、このモデルさんはぽっちゃりでよかった、とか昔のモデルさんの品定めの会だったりする。当時のモデルさんも、今やいいトシの婆さんになっているだろうが。

ニンゲンの本質というのは、トシをとっても変わりはないものであった。

2012年12月26日水曜日

半分

美術学校だから、なのか、ということはさておき、男子学生の多かった学校のようなので、その手の思い出話にはことかかない。

美術学校なので、人体デッサンとか素描とかというのも、当然課題になる。
もちろん「生」のニンゲンがモデルである。

男子学生が多かったようなので、女性モデルさんとはお互いにそれなりに気を遣ったのだろうが、卒業生に写真を拝借したりすると、モデルさんと校庭で記念撮影、とかツーショット、とかいうのがときどき出てくる。私の頃の「モデルさん」というのは、もう少し近寄りがたい雰囲気だったので、そういった写真が出てくると意外に思うことがある。
当の写真の主は、その頃のモデルさんのエピソードなどご披露してくれたりする。いわく、お茶をした、とか、中庭でお昼を一緒に食べた、とかいったもので、かわいらしいものだ。
時に、モデルさんと郊外にスケッチに行った、という積極的な学生もいたりした。もちろん、スケッチどころではなくデートが目的、貧乏でない「お坊っちゃん」な学生の場合である。

誘ったのは当の本人だと言う。聞いている時点でもうすでにいいトシの爺さんなので、「話半分」で聞いていたりはするのだが。

2012年12月25日火曜日

革靴

美術学校だから、なのか、ということはさておき、貧乏学生の多かった学校のようなので、その手の思い出話にはことかかない。

前述したように、たいていの学生は、貧乏な故に、雨靴を所有していないので、雨の日は高下駄、だったそうである。

その中に、雨の日でも革靴で登校する洒落者の学生がいた、というのが話に良く出てくる。それがK君で、というのがその話の締めなのだが、当のK君は我々世代の講師であった。
そんな話を聞いた後に、その先生に会うと、つい「雨の日の泥にまみれた革靴」を思い出してしまう。

でも、我々世代の講師であったK先生も、とても「おしゃれ」であったので、若い自分からそうだったのかとつい納得してしまった。すでに退職されているのだが、いまでもおしゃれな爺さんであるに違いない。

2012年12月24日月曜日

セコハン

美術学校だから、なのか、ということはさておき、貧乏学生の多かった学校のようなので、その手の思い出話にはことかかない。

創立当時の学校は、東京の郊外にあった。元は、創立を画策した何人かが、借りた地所のようだ。戦前のことなので、当時はまわりは畑だらけ、駅からはぬかるんだ道を通って学校に通ったそうである。
当は、靴というのは高価だったので、学生はたいてい下駄で登校したのだそうである。
校舎というのも払い下げ、つまりセコハンだったので、安普請。だから高下駄で雨の日に登校し、うかつに勢いよく足を踏み出すと床が抜けたそうである。
学生も貧乏なら、学校も貧乏だったのである。
抜けた床、雨漏り、すきま風、はものともせず、当時の学生はお絵かきに励んだのである。
現在学校はもう少し郊外に引っ越したが、環境などを鑑みると、ずいぶんと違うものである。今や通年24時間フルエアコン、ロスナイ換気、トイレは間接照明、ウォシュレット、消毒液設置、トイレットペーパーは常備、手洗いは自動で出水する。今は昔、である。 

2012年12月23日日曜日

思い出話

ひところ、OB会の仕事を手伝っていたので、かなり先輩の話を聞くことが時々あった。現在創立してから80年ほどになるので、最初の頃の卒業生は既に物故者が多くなっている。

まあ、元来が「美術学校」である。歴史的な資料とか文献とかを整理し始めたのはここ2−30年のことになる。データがアナログであったり、担当者でなければ分からない、ということもあったりして、大先輩の思い出話もなかば「話半分」なのかもしれない。年をとると、面白い話は尾ひれがついたりして、デフォルメされがちである。

戦前の「美術学校」ということもあって、もちろん学生は男子が多く、女子学生はあまりいない。昔も今も変わらないのは、卒業後の進路があまり「よろしくない」ように見えることで、だから「美術学校に通う」のはかなり勇気のいることだった、と言う大先輩もいた。隣近所、同年齢の男子は、いわゆる六大学とか、商業学校に通っていたりするのに、うちの息子は「美術」なんて、というわけである。拝み倒して美術学校に通わせてもらっている先輩は、その条件が「美術学校に通っていることを世間に知られないこと」だったそうだ。風呂敷で厳重にくるまれた絵の具箱を抱えて電車に乗り、絵の具が衣類についていないか十二分にチェックしてから下校する。
もちろん、美術学校に通うんだったら勘当だーという家もあったそうで、当然のように勘当され、生活費を稼ぎ学費を稼ぎ絵の具代を稼ぐという、苦学生もいたようだ。

芸術系の学生が貧乏なのは、いずこも、今も昔も、似たり寄ったり、かもしれない。 

2012年12月21日金曜日

寄り道

海外でビジネスをしている友人には、どこのユニバーシティの、カレッジをはあそことここを出て、どこでドクターを取得して、といった「学歴」だったりするのがいる。合間にどこかに就職したり、研修したり、社会活動をしていたりする。カレッジも、同じような領域ではなくて、全く違った学業ジャンルだったりすることがある。
学校を出る、ということが、そもそも日本のように「就職予備校」ではないんだなあという気がした。

同居人も、大学は商科でマーケティングをやって、商社に就職して外為の仕事してから退職、教員養成所に入って免状取り直して小学校教員、その間に通信教育で美術教員の免状取得、勤務校は公立私立国立を渡り歩き、その間に小学校教員免状をバージョンアップ、図工を担当しながら大学院で心理学専攻したのは50代、定年退職前に任意退職、いまは大学の非常勤をいくつか、と今の学生さんには考えられないほど紆余曲折な遍歴である。
退職金と年金を考えると、日本ではこういった「寄り道」な人生はとても採算に合わない。日本では終身雇用で大学新卒で同じ企業(しかも大きな会社である)にべったりとしがみついた方が「お得」なように出来ている。ステップアップするにはそれなりの「ところ」に就職したり、役職に就いたり、ということが必要なように出来ている。
同居人の人生は充実していたかもしれないが、老後の資金はほとんど確保できない。転職が多いと年金の申請もやたらめんどくさいのだが、割に合わないほど額が少ない。働いている年数に違いはないのに、である。

社会構造そのものが変わらなければ、結局「いい終身雇用の就職先を確保するにはそれなりの大学」「それなりの大学に行くにはそれなりの高等学校」「その高等学校に行くにはその中学」という図式になってしまう。学校はそもそも就職予備校でしかなく、勉強するところではないのかもしれない。

2012年12月18日火曜日

女子率

景気が悪くなると、芸術系の学校の入学志望男子が激減する。
筆記試験が入学考査のウェイトとして大きくなると、どうしても高得点を取るのは現役女子になる。男子は「就職しなくてもやりたいことをやりたい」捨て身のタイプだったりするが、女子の場合は「大手企業に就職」というのが進学の第一条件にはならないことが多い。「ゲージュツをやるなら」と応援されるタイプが多かったりする。
かくして、景気が悪くなると、現役女子率がとても高くなる。

男子の方も草食化しているのかもしれないが、女子が多くなると、ガテン系がむしゃら系肉体系バンカラ系男子が激減する。かくして、全体に線の細い感じの男子学生さんが増えてくる。
まあそれも世の流れであるから、こちとらまわってきたクラスで授業をするまでである。

教えていて男女のどっちがいいか、と問われることがある。それは男女ではなく、それまでの育ち方とか経験値で決まってくるような気がする。結局そこから、学習意欲も好奇心も出てくるような気がするからだ。

2012年12月17日月曜日

それなり

景気が悪くなると、芸術系の学校の入学志望男子が激減する。大学の就職先のリストには、東証一部上場の大企業の名前が少ない。世間様一般の「安泰就職先」は、芸術系出身では縁がない。
だから、「大学を卒業して、いい会社に就職」を目指す男子保護者は、「いい会社に就職」できそうな大学に出資、つまり学費を出すのである。

この時期の大学受験ご相談などの様子をきいていると、あの学校のデザイン科の方が就職がよさそう、などという話が出てくる。
確かに、「就職がよさそう」に見える資料であったりする。
たとえば、就職率80パーセント、などと資料に大きく文字が躍っていたりする。それは、就職を希望する学生の8割が就職できると言うことである。しかし、全学生が就職を希望するわけではない。
たとえば、全学生の6割が就職を希望したとして、その8割が就職できた、つまり全体の4割8分が就職する、という図式である。たとえばの例で言えば、あとの半分以上は何か。「進学希望」が最近は多い。私の頃と違って、大学院卒業にも求人は来るし、大学院も募集が増えたので、モラトリアム継続はかなり楽な選択である。次に多いのは「フリーランス」希望で、よく言えば「作家生活」、悪く言えば「ぷう」である。
もうひとつの落とし穴は、就職率は卒業時の数字である、ということである。卒業してからの離職や転職は、大学の資料として数字には出てこない。就職できた4割8分が、2年後3年後に同じ職場にいるとは限らない。4割8分よりも、もう少し分が悪くなってくるケースも考えられる。

こういった学校に、就職するために行くのは少し早計かと思うことがあったりする。父兄の皆様、ごめんなさい。でもだからこそ、美術学校出身の学生は最初から多くを望まないし、それなりに生き抜く術を身につけるのである。

2012年12月16日日曜日

制度

ようよう今年度も通学課程の方の授業は終了した。学生さんの方は期末試験さえ終われば春休みである。

そんな時期になると学内はにわかに慌ただしくなる。
廊下のあちこちに「公募推薦制入試試験会場」だの、「大学院入学検定作品搬入会場」だのという立て看板が、あちこちに出没する。
私が学生の頃には、実技系の大学に推薦などありようもなかったが、少子化のアオリか入学生の確保か、昨今は推薦入試にセンター入試利用、いろいろな制度があったりして、よくわからない。
ついでにわからないのは、学科専攻ごとに入学検定をしているのに、同一大学内の他学科専攻を併願できる、という制度である。さすがに油絵学科と彫刻学科は併願できるスケジュールにはしないようだが、傍目には違いがよく見えない学科専攻ほど併願しやすいスケジュールに組まれていたりする。
もっとわからないのは、そうやって学科専攻ごとに入学したにも関わらず、3年次に転科転入が出来る制度があったりすることだ。もちろん大学院に進学するときも同様で、違う専攻分野から大学院の入学検定を受けたりするのである。3年で他の専攻に移動できるならそれまでの学習成果は何だったのかと不思議に思ったり、そうなら一般的な文学部のように1−2年は教養課程で十把一絡げ、3年次からは専攻授業だけに集中、という制度にした方がわかりやすいような気がする。

いろいろと学校の方も経営には腐心しているんだなあと、この時期になるとよく思う。

2012年12月15日土曜日

単価

ようよう今年度も通学課程の方の授業は終了した。学生さんの方はあと補習と期末試験さえ終われば春休みである。

勘定してみると、大学生というのは休みが多い。勤務校では半期13回くらいが授業のノルマである。試験を入れて合計28週が1年分である。1年が52週なので、半分とは言わないが、かなりが「休み」なのである。
まあ「休み」が欲しいから大学生になるんだと我々の時分は言っていたものだったけれど、社会人になって振り返ってみれば優雅なものである。
ひっくり返して考えてみれば、年間の授業料は12で割ってお月謝いくら、ではなく、28で割って週単位で考えないと割が合わない。1週間のうち、授業を何コマとっているのか勘定すると、90分の授業がいくら、1単位がいくら、というのが割り出せる。

遅刻や無断欠席、アルバイトでくたびれて授業中熟睡、という学生には、授業単価計算をさせてみる。アルバイトに行くよりも、親が払う授業料が「高い」こともある。

今の学生さんは、真面目なのか、幼いのか、「アルバイトが忙しくって」などということを遅刻や欠席の言い訳にするようなことはなくなったが。

2012年12月12日水曜日

パンク

男子学生の「はじけかた」には、いろいろなパターンがある。学校に入って、サークル活動や交友関係で、ずいぶんと「身なり」が変わることがある。

以前受け持っていた学生は、入学時はごく普通の男子学生だった。入ったサークルは音楽系、当然のようにバンド活動に熱が入る。熱が入ると、放課後のコンサートだの、学園祭でのパフォーマンスだのと、いろいろと活動の予定が組まれる。当然のように外見も変わってくる。
彼の場合は、パンクロックだった。
ロングのカーリーヘアー、革ジャン革パン、安全ピン、チェーンが腰からじゃらじゃら、である。
まあそれなりにえらいよねえ、と思ったのは、夏でも同じ革ジャン革パン安全ピン、だったからだ。汗をだらだら流しながら(もちろん冷房もない)、実習である。2年に上がっても、3年になっても同様である。それなりに、身体を賭けて、熱中症も厭わず、パンクロックに傾倒しているのだと思われた。

学生も4年になると就職活動というのがある。その頃は、就職も売り手市場で、結構大きな会社から募集がたくさん出ていた。彼は自分の道を行くのかと思いきや、親に言われたので就職する、と言う。数日後、見慣れない学生が教室に混ざっている。ショートヘア、リクルートスーツ、ビジネスバッグを抱えてきた。普通の「就活」学生である。大手の広告代理店の就職説明会から帰って授業に出たパンクな彼、であった。

パンクななりで説明会に行ったら、それはそれですごいと思っていたし、そういう学生を採用する会社こそすごいよねえ、と研究室では話題にしていたのだった。
彼にとっての「パンク」とか「ロック」は、あっさりと「就職」に負けてしまったのだった。

2012年12月11日火曜日

コスト

以前受け持っていた学生で、ちょっと小柄な男子学生がいた。

地方出身の浪人組である。こういった学生は、浪人時代をどこで過ごすのかによって、ずいぶんと気質が変わることがある。
彼の場合は、都心の予備校で下宿浪人、つまり朝から晩まで予備校漬けである。地方出身の素朴な学生は、都心の水で磨かれ(?)たりなどして、悪いことも少し覚えたり、親元を離れて解放感からかやってみたいことをやってみようとしたりする。ただし、浪人時代はそれなりに目の前に目標がぶらさがっていたりするので、そうそう羽目は外せない。だから入学したらとたんに「はじける」ことがある。

彼の場合の「はじけかた」は、ヘアスタイルだった。
朴訥な典型的地方出身者だったのだが、5月になったら、彼のあたまは「金色」になった。
おお、大胆だなあと思っていたら、6月になったらピンク色になっていた。
ほおお、派手だなあと思っていたら、7月になってオレンジ色になった。
いやあ夏らしく、元気のいい色だなあと思って、9月の新学期にはメタリックなシルバーで登校してきた。
彼は毎月のように髪の色を変えてきた。派手な色は、教室内でもよく目立つ。欠席するととてもよく目立つ。
「おお、今日は紫色が見えないねえ」。

学年末になり、春休み間際に会った彼の頭は、ツートンカラーだった。頭頂部だけ黒くて、毛先側は黄緑色、しかもばさばさに乾燥しているのか枝毛だらけである。おお、新しい作戦だねえ、と声をかけると、彼はもじもじしている。どうも、もう髪を染めるための小遣いが「手元不如意」のようであった。

ヘアファッションには、それなりにコストがかかっていたのである。

2012年12月10日月曜日

研究の成果

勤務校には、私が学生の頃から、なぜか肥満学生とか、どよーんとした雰囲気の男子学生は、あまりいない。特に最近は「きれい」な感じの男子学生さんも多い。

以前受け持っていた男子学生で、いつもそれなりに「ファッションを決めてきた!」という気合いのあるのがいた。
美術系の学校なので、とんがった系とか、アバンギャルド風のファッションな男子学生はそれなりにいた。全身黒ずくめだったり、金髪ロングヘヤーで革パン革ジャンのパンクファッションとか、服は安全ピンだらけ、あるいはやたらカラフルな布を巻き付けていたり、鉄下駄で腰から手拭いを下げていたり、とつぜん和服で授業に現れたり、というのを見受けることはあった。
ところが、彼の場合すこーしフェーズが違う。美術学校っぽくないのが、彼風なのかなあ、と思っていたら、同級生の女子がこっそりと耳打ちしてくれた。彼のアパートの部屋の片隅には、読み古した「メンズノンノ」とか「メンズクラブ」のバックナンバーががどーんと山のように積んであったらしい。彼は彼なりに研究してああなっているので、大きな目で見てください、と言われてしまった。

女子学生の観察眼は鋭かったりするのである。
しかしそれにつけても、学習の方向性が違うような気はするが。

2012年12月9日日曜日

向かう先

勤務校の近所にはいくつかの私立の学校がある。

幼稚園は送迎があるから除外するとして、小学生から大学生まで、同じ駅を利用する。
高校までは始業時間が早いので、あまりニアミスすることはないのだが、大学は始業時間が似たり寄ったりなので同じような時間に学生の利用が集中する。

一昔前、女子学生はそのなりでどこの学生なのかが分かった。
まあ世間的に「普通の女子学生」だと思われるのは、保育系の短大へ向かう。
ときどきブランドもののハンドバッグを持っていたり、ヒールのついた革靴を履いていたりするが、どちらかと言えば本を抱えた素朴なタイプも、女子大学へ向かう。
やたらガテン系か、なりふりかまっていないか、とんがっているのは、こっちの学校へ向かう。

最近はと言えば、あまり違いが見えないかなあ、という気がする。それなりにこぎれいな格好をしていて、特徴がない、というところだろうか。駅を眺めていて、何となく物足りない気がすることがある。

2012年12月7日金曜日

手袋

都心にある美術系の学校は、短大と言うこともあって、学内は女子学生しかいない。

こちらとて、肉体制作系のコースがあるので、学期末に遊びに行くと、つなぎの学女子生がうろうろしている。勤務校と違うのは、髪の毛をバンダナなどで包んでいたり、カラフルなズックを履いていたりすることだ。ちょっとびっくりしたのは、たいていの学生が手袋をしている。ゴム、軍手、ニトリルなど、素材は様々である。勤務校では素手で作業する学生が多いので、ほおお、と思った。

授業が終了した放課後、こちらも訪問先の先生とお茶話などして、帰宅しようかと校舎を出る。すぐ脇を、きれいなお姉さんたちが「さよーならー」と駆けていく。ロングヘア、大きなイヤリング、流行の服、ストッキングにハイヒール、爪はきれいなマニキュア、である。そちらの先生が、すかさず解説してくれた。
その学校では、学生ロッカーには、制作用お着替え一式が常備で、学生は登校後、アタマから足の先まで着替えるのだそうである。

都心の学生は、きれいな格好で登下校、あるいは遊んで帰るのである。昼間の手袋は、マニキュアをした白い手をキープするためのものだった。

2012年12月6日木曜日

つなぎ

勤務校は、東京と言えども郊外にある。
学生のいくばくかは、親元から離れてアパート住まいである。学期末の制作などが立て込んでくると、徒歩や自転車で通学できる圏内の学生は、朝起きてつなぎ、食事もつなぎ、そのままつなぎで帰宅する。寝るときだけつなぎではなかったりする生活が、しばらく続く。
親元から通学している圏内の学生は、帰宅が遅くなると、近所のアパート住まいの友人のトコロへ転がり込んだりする。電車通いなら、学校へ来てつなぎに着替えるのだが、近所の友人宅にいる間は心置きなくつなぎ生活になる。

女子学生であっても例外ではなく、肉体制作系の学生さんはこういう状態になることがある。
社会人になってしまえば、指先が染料で染まったり、爪の間にインクが入って真っ黒になっていたり、ほっぺたにペンキをつけたりすることなど、あまりなくなる。
傍目から見れば、「オンナ捨ててる」ように見えるかもしれないが、こちらから見ればそれなりに一生懸命でほほえましい。
がんばれよーと、ドリンク剤など差し入れたりするのである。

2012年12月5日水曜日

作業着

そろそろ学期末になると、本気モードで作業する学生が増えてくる。つまりなりふりかまわず、作業着で学内をうろうろするようになる。

私が学生の頃は、学内の学生のなりで学科専攻が分かるようになっていた。
カラフルでキタナイつなぎ→油絵系
モノクロでキタナイつなぎ、安全靴→彫刻系
ちょっときれいめなつなぎ、または白衣、エプロン、脱ぎ履きしやすい靴→日本画系
学内の画材店では扱っていないつなぎ、工房ごとに色が違ったりする→インダストリアル、クラフト系
なりふりかまわない→グラフィック系
きれいめファッショナブル系→シニック、ディスプレイ系
とんがったファッショナブル系→ファッションデザイン系
一般女子大生かと見まごう→理論系とか編集系
一時、一般女子大生御用達の流行雑誌からまるまるコピーしたようななりの学生が出現、みんなで見に行ったことがある。ストレートロングヘア、化粧ばっちり、マニキュアばっちり、流行でブランドものの服と持ち物、肌色のストッキング、ハイヒール。ある意味で、彼女はしばらく、全学生の注目の的だった。

翻って現在は、と言えば、あまり顕著な違いが見えなくなってきているかなあ、という気がする。
作業と言っても、コンピュータの前でキーボードを叩くだけでは、作業着は不要である。理論系、編集系、情報系、最近はデザイン系もそういった傾向である。
誰もがそれなりな格好なので、振り返って見たくなるほど「とんがった」格好はいないし、それなりにブランドものの鞄やらアクセサリーやらを持っていたりする。平均化したということなのかもしれない。

2012年12月3日月曜日

中止

しばらく前に、富士フイルムが映画用のフィルム製造を中止、というのが新聞記事になっていた。

一般的な映画と言えばフィルムサイズは35mmである。
最初の映画、と言われているのは、1800年代末にフランスのリュミエール兄弟の発表したものだ。彼らが使ったのも同じ帯状のフィルムである。そもそも、静止画の写真がフィルムの上に定着できたから成立した発明である。こういった技術の開発初期というのは、さまざまな技術や発明が同時期にいくつかの地域で行われたりする。今のように情報がとびかったりしないし、国が違えば技術は開発に対する考え方も違っていて、実のところ誰が「映画の発明者」か、というのは曖昧である。
ともあれ、「帯状のフィルムに静止画が連続的に撮影、定着され」たものを「透過光によって拡大投影する」ものが「映画」と呼ばれている。その時期から、映像の記録はフィルムの上に行われていたわけだ。
テレビ、という電子映像を電波によって配信する技術が出てきた。それまでは、テレビ番組といえど、フィルムを使って記録していた。そのため、「生放送」というのも多く、記録に残っていない名番組、というのが多い。こんどはそれを電気的に記録することを考えるようになる。それが「ビデオ」という電子映像のことである。
当初はアナログ方式で記録されていたビデオだが、デジタル記録になり、テープがファイルとして記録できるようになった。技術の進歩は早く、ついていく方は大変だったりする。
一般ユーザー向けの動画記録が「デジタル」になっても、フィルムを使った映画やCMの撮影はそれなりに続けられていた。撮影や上映の機械特性による表現は、デジタルのそれとは似ているようで違う。フィルムの方は定着された画像を手の中に入れてみることが出来るが、デジタルを含めた電子映像はメディアそのものを眺めても画像は見えない。再生する機器やディスプレイが必要だ。

製造中止は、時の流れと思わなくてはならないが、手の中から何かがこぼれ落ちてしまいそうな気がする。

2012年12月2日日曜日

顔色

10年以上前の話になるが、カラー写真のプリント機材を授業で導入するにあたって、スタッフが何人かでメーカーに研修に行ったことがある。
こういうことは、ごくたまにあったりする。機械の運転とか、維持管理の研修に行ったり、技術者に来てもらったりする。

カラープリントの研修は、フィルムメーカーのラボで行われた。手ぶらでいいですよ、と言われたので、エプロンと手拭いくらいが持参品である。
ラボで研修用にネガが用意され、そのプリントの実習である。引き伸ばし機のコントロールと、現像機の取り扱い、現像液の扱い方、なんかをやりながら、最終的に「きちんとしたプリントを出す」ということだった。
渡されたネガは中判で、「結婚式の記念写真」が数パターン。学校は美術系なのでどちらかというとアートな写真はよく見るが、いわゆる写真館の写真はあまり我々の目には入らない。新鮮である。一方で、手焼きで大きく伸ばすようなカラープリントは、こういった写真が大きなマーケットである、ということなのだろう。
色のコントロールをいろいろつけながらテストプリントを出して、最終的に大きな1枚を出す。もちろん数名で研修に行っているので、出来たプリントはそれぞれに違ってくる。面白かったのは、「結婚式」が研修のネタだった理由だ。白いドレスはあくまでも白く、打ち掛けの赤は鮮やかに赤く、しかも花嫁さんの顔色はすばらしくいい顔色にならなくてはならない。微妙である。ドレスを白くしようとすると、嫁さんの顔色が青みがかってきたりする。打ち掛けを赤くすると、綿帽子が白くなくなる、といった具合である。嫁さんの顔色も、数名いれば、すこしずつ違う。焼いている最中は結果が見えないので、現像機から出てきて一喜一憂である。こういった写真だと「正解」があるので、伸ばしの技術に対するジャッジがしやすい、というのもサンプルネガの選択理由だ。

普段、アートとして写真をやっている先生が、花嫁写真を伸ばしているのも、少し不思議な風景だったりした。

2012年12月1日土曜日

カラー

今や写真と言えばデジタルで、まあ普通に「カラー」なのである。暗室作業の伴うアナログ写真の基本は「モノクロ」で、カラーはその次の作業だった。

モノクロの作業では、単色光のコントロールでプリントをつくる。カラーの場合は、フィルターで光に色をつけながら作業をするので、やることはその4倍くらいある感じだ。
白か黒か、というのは単純な物差しだが、カラーになるとRGBというフィルターで光に色をつける。Rだけを強くしても思い通りの色にならないなら、GとBのフィルターを弱くする、といった具合である。もう一つめんどくさいのは、プリントに出てくる色はCMYで考えると言うことだ。
小学校の頃に、赤青黄色が三原色、と教えられるのだが、実際はそうではなく、光の三原色がRGB、色材の三原色がCMY、というのである。加法混色、減法混色という言い方を色彩学では習う。映像のブラウン管やディスプレーなどはRGBで微調整を行う(本当はもう少し細かい設定があるが割愛)し、印刷物の色のコントロールはCMYというインクの色で決めていく(本当はKとか特色とか、ほかにもいろいろとテクニックがあったりするが割愛)。カラー写真のプリントは、RGBでCMYの色をコントロールしなくてはならないから、二重にめんどくさい。4倍どころではなく20倍くらい面倒な感じだ。

デジタルで写真の作業をしている学生が、よくディスプレイ上の色とプリントアウトした色が合わない、といった愚痴を言っている。それはディスプレイがRGBで、プリンタはCMYKでアウトプットしているからだ。高校以下ではこういった色彩の原理はあまり詳しく教えていないようなので、いきなり厳密なカラー管理をしようとしてパニックになっていたりする。

アナログもデジタルも、カラーはめんどくさいのである。