さて。
切り身が見えても、魚の顔が分からない、というのは今時のお母さんでも似たり寄ったりかもしれない。
日本の家庭では従前から和食が中心で、とはよく言われることである。
ではさぞやおうちのお母さんは魚のさばき方が上手だったのだろうと思ったのだが、祖母は魚をさばくことはなかったのだそうである。
朝方、魚屋の小僧が経木の束を持って裏口にやってくる。経木にはその魚屋が仕入れた魚が書いてある。一家の主婦は経木を眺めて、刺身にしようか煮付けにしようかと考える。小僧と料理方法を相談の上、「じゃあサワラを煮付けにして、鰹を刺身にして」といって小僧を帰す。夕方には、小僧が煮付け用に下ごしらえしたサワラと、刺身にした鰹を持ってくる、といった段取りだったそうである。
青物屋は、野菜を担いでやってきて、その日のおかずの様子を相談しながら、野菜を置いていく、菓子屋も午前中に経木を持って来て注文された当日のお茶菓子を当該の時間に持ってくる、豆腐屋のラッパが聞こえたら鍋を持って豆腐を買いに行く、といった日常だったらしい。
主婦は買い物に出かけなくて、いつも家にどんといる、というような風景だったそうである。冷蔵庫もない時代であり、その日の食材はその日に買わないとならない。
そんな家の台所はかなり広くて、床の下はすべて収納、味噌や梅干しなどさまざまな物が入った甕、いろいろな色の一升瓶が並んでいた。
出入りの青物屋の小僧さんを祖父がかわいがっていた。知多半島のメロン農家に婿入りして、その後ずっとメロンを送ってくれていた。
もちろん日本の家庭が同じような生活であったわけではなく、もちろんその時分にも「働いているお母さん」というのも実はたくさんいて、そういった家庭ではそれなりの営み方があったはずである。
裸電球の照らしている、光った木の床の台所を横目に見ながら、掘り炬燵で食事の出来るのを祖父と待っているのが、秋冬の楽しみでもあった。
1 件のコメント:
「団地族の場合」
私は生まれたのも暮らしたのも団地、いっときアパートに暮らして、こんだ分譲団地を「終の棲家」にする、という典型的団地族ですが。
子供の頃引っ越したら酒屋と米・灯油屋は、すぐに御用聞きにきました。以降電話での注文でした。青物・水菓子と魚・豆腐は行商でした。この青物屋のおいさんはいい人で、売り物も良くて、平成に手が届くまでやっていたんじゃないかな。
引っ越して人口2万人近いマンモス団地の住人になったのですが、高齢者用に「3千円以上買い上げの時は、生ものを除いて送料無料で玄関口まで届ける、というサービスをやっていて、米なんぞ買った日には重宝しております。高齢者は無料パスでセンターに行き、クリニックに行き買い物をして、自宅へ帰るわけです。ときどき荷物の方が先に玄関口に到着していることがあります。
のどかなもんです。
やぎ1
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