2015年3月31日火曜日

古典

その美術館の講座で古典技法を扱ったことがあった。技法としてはテンペラというもので、油絵以前の絵画技法である。講師は日本の中ではテンペラ技法のオーソリティーだが、いたくざっくばらんな人である。
講座が始まって開口一番、「古典技法ですから、教え方も学び方も古典でいきます」。つまりテキストなし、ノートなし、スマホで写真も当然なし、ひたすら講師の手元を見る、という方法である。現代人は「記録」することで安心してしまい、その先にはなかなか進まないもの、だからだそうだ。

くだんの課題にせよ、「記録する」ことを課題にせずに、「記憶して再生する」という方法をとってくれれば、講座に参加して記録することに熱中することもないだろうと思うのだが。

2015年3月30日月曜日

参加

20年ほど前は、美術館の教育活動が盛んになった時期で、たくさんの「見学者」がやって来た。ある講座では、参加者よりも見学者の方が多かったくらいである。小学校の公開授業ではあるまいし、後ろにずらっと並んだ大人を見ながら活動をするのは、なんだかやりにくいものである。

関わっている美術館の活動は、自分で見て、体験して、発見することがベースになっている。だから「後ろ」から見たところで、参加者の「実際のところ」は見えにくい。最終的な成果物に評価が出るわけでもないので、活動が「有意義」であったかどうかは、参加者の「気持ち」だけでしかない。

結局ある時期から、見学者としてではなく、参加者として中に入ること、記録を取ることを目的に参加しないことを促すようになった。活動中はレポートのためのメモや記録を取らないことが基本である。傍観者としてではなく、当事者として活動を体験することの方が、ずっと有意義だと思われるからだ。

2015年3月29日日曜日

記録

ところで、「ワークショップ」を教育活動として意味付け、その活動そのものを「研究」する学問がある。手法そのものを研究することは、難しいことなのかもしれない。前述したように、「ワークショップ」の語義がさまざまであるように、開催目的や活動手法もまたさまざまである。類型化は出来るかもしれないが、「開催要領」のようなものはつくれない。関わっていた美術館の活動も、常に「暗中模索」で「試行錯誤」している。定義化できない活動、とも言えるだろう。ケースバイケース、同じものはない。

ある学校の授業では、「ワークショップを研究する」科目があり、そのための課題として、「社会教育施設で行われるワークショップに参加して、その記録を提出する」というのがある。
関わっている美術館の活動に、ときどきその受講生がやってくる。主催者あるいはエデュケーターとしては活動に没頭してほしいのに、受講生は写真を撮りメモを取り、活動には熱中しない。
何にために参加するのか、と言えば、「レポート作成のために記録する」である。活動に参加するためではない。

2015年3月28日土曜日

定義

美術館の教育普及活動を手伝っている。年に2−3回ほどの開催である。
活動は「ワークショップ」という名前がついている。開館当時から同じ名称で開催されているので、既に25年ほど続いている。

さて、「ワークショップ」という名前を、最近は良く見かけるようになってきた。小さな講座や講習会にも、ワークショップという名前がついていたりする。英語本来の意味で言えば、工房やスタジオほどのことなのだが、日本で使われると意味が転じたり、複層的な意味が生じたりする。講座や講習会に使われている「ワークショップ」という言葉も、使う人や業界によっていろいろな意味がある。造形物を作成する講座、コミュニケーションをはかるための活動、グループで問題解決のための手法を探る練習。ワークショップって何、と聞かれると、はっきりと定義付けが出来ないのが現状である。

2015年3月27日金曜日

安心

東日本大震災のときに、津波で流されたアルバムや写真の復元作業と言うのが話題になった。写真関係の学生などがボランティアで復元作業をしていたのが、しばしばニュースで取り上げられた。
復元できるのは印画紙、あるいはネガで回収されたものである。泥や砂、汚れを落として、複写、レタッチなどの作業をして、また紙の状態にするのである。
ところが、光ディスクやメモリーカードで回収されたものは、読み込めるか読み込めないかの、二者択一、状況によっては読み出し装置にかけたくないものもあるわけで、どちらかといえば「復元」という段階には至りにくい、という話を聞いた。

実家でも、たくさんある写真をデジタル化しようか、という話をしているようだが、それが10年ほど前なら、フロッピーディスクに入れようとしていたわけだ。その頃に使っていたリムーバブルディスクで生き残っているものはない。フロッピー、MO、ZIP。それより前の人と話をすると、5インチ、8インチ、などという話題になる。ディスクは「生きている」かもしれないが、データを読み出す装置があるかどうか、わからない。装置があったとしても、いまどきのコンピュータがその装置を動かせるかどうか、わからない。

結局安心なのは、紙の上、であるのかもしれない。

2015年3月26日木曜日

便利

機械はもちろん、デジタルデータと言うのも、当面は便利だが、長期的にはいかがなものか、といったものが身の回りに増えてきた。

写真がデジタルデータになった時も、便利だなーと思ったものだ。フィルムの現像処理が不要だし、保管していたネガのカビを心配する必要がない。
ところが数年経ってみると、カメラの技術進歩は目覚ましいものがあり、同じグレードのカメラでもどんどん撮影解像度が上がってくる。たった数年で、同じカメラでも、ハーフサイズがブローニーくらいの解像度になるのである。
えらいことになったなあ、と思った。フィルムで撮影していた頃は、手持ちのカメラボディは父親譲りの20年選手、自分で買ったボディも10年以上使っていて、その間ぼちぼちとレンズを買いそろえた。ところがデジタルになると、数年でボディはもう交換、という羽目になる。減価償却するような耐久財ではなく、もはや消耗品である。デジタルデータで作業するようになって10年ほどだが、既にカメラのボディは4台目である。もちろん代替わりしたものは解像度が低いので、バックアップにはなりにくい。値段がつくうちにセコハンにするか、型落ちでもいいから使いたいと言う人を捜すことになる。

デジタルになって、フィルム代や現像代がかからない、と思っていた。しかし、それ以上に、機材に金がかかる。時代が変わろうと、金がかかるようには、なっている。

2015年3月25日水曜日

クラッシュ

毎年1度のことなのだが、小さな各種学校で、恒例の仕事がある。たいてい年末にご都合伺いの連絡が来て、先方と何度かやり取りをして、作業日の3月末を迎える。
昨年はこの「ご都合伺い」の連絡がなかったので、今年はお役御免かなと思っていたら、3月に入ってから封書が届いた。例年通りですがよろしく、という趣旨である。ご都合など伺わず、問答無用である。
なぜなのかと思っていたら、翌週事務担当者からメールが来た。コンピュータがクラッシュしてデータが全部吹っ飛び、連絡が遅くなった、というのである。「15年分の事務書類のデータで、Liveメールのデータも喪失したため、連絡できなかった」らしい。
同情には値するかもしれないが、個人の作業所ではあるまいし、15年分のデータをふっとぶようなマシンに全部入り、という状況が考えられない。バックアップとか、ミラーリングとか、リムーバブルで保管とか、しなかったのかと思った。しかし、当の事務職員は15年以上前、コンピュータの導入前からいるわけで、そもそもコンピュータを使うことが前提でない時代で、当人ももちろんコンピュータ利用のエキスパートではない。

機械は信用できない、というのが、機械を扱う時の合い言葉である。おかげで紙の書類もなかなか減らせない。

2015年3月23日月曜日

心得

年度末、と同時に、新学期の準備、というのも始まる。国立大学の合格発表が終われば、新入学の学生数はほぼ確定する。名簿の作成や、教室の準備、新入生のガイダンス用の印刷物の作成などが始まる。

勤務校から来るのはシラバス程度、あとは総務から事務手続き書類が若干来る程度である。毎度の話なので、こんなものか、なのであるが、初任者には心もとない書類の数かもしれない。

同居人の勤務校からは、今年はかなりたくさんの書類が届いていた。新入生の心得、ばかりではなく、非常勤講師の心得、という冊子付きである。どこで出勤をチェックするか、出席の取り方はどうするのか、といった細かな指示である。講師控え室にあるコピー機のコピー単価が並んでおり、学生への配布物作成にプレッシャーをかけている。その一方で、電子書類配布用のサーバーを導入したようで、サーバー利用の手引きと言う冊子も同梱である。

いわゆる「ゼロックス」というコピーマシンがなかった時代は、授業時に配布書類などなかった。身近になったおかげで、授業時の配布書類と言うのが飛躍的に増えた。理由の一つは、テキストにする書籍が、帯に短かったりたすきに長かったり、講師の書いた文章や参考資料を集めたものだったりするからだ。もう一つは、書籍を読め、と言っても学生は読まないので、授業時に配布してその場で読ませる、という方法に移行したからだ。書籍を買ってしまうと、大事に本棚に残る可能性もあるのだが、コピーで渡されると授業が終われば散逸してしまう可能性の方が大きい。将来的にどちらの方が「財産」になるか、と言えば「書籍購買」なのだろうが、学生さんの方は目先のお財布の中身の方が大切なので、「書籍購買しない」選択の方が多い。
コピー代金よりも、電子書類配布用のサーバー設置の方が安上がりなのかもしれない。コピーされた配布書類であれば、何かの折りに見直すこともあるかもしれないが、電子書類であれば消去するのは簡単である。もっと記憶に残りにくいのではないかと思ったりする。

微妙に便利、な時代ではある。

2015年3月21日土曜日

セクション

3月の半ばを過ぎると、学校の方は新学期の準備に忙しくなる。たいていは事務書類のやりとり、お知らせや学校の規則など印刷物の送付などである。

大学の場合、授業をやっている「現場」と、事務作業をやっているところとは、セクションが違うことが多い。教えている「現場」は、専攻分野の「学科研究室」である。教える「現場」を統括しているのは、事務方で言えば「教務」とか「学務」とかいうセクションである。しかし金銭関係は「教務」「学務」ではなく、「経理」「財務」とかいうセクションである。
授業内容は「学科研究室」とご相談であり、講師諸届け事務書類の受理、住所録の作成や身分証明書は「総務」が担当する。授業のシラバスの提出や学生名簿の管理は「教務」や「学務」、講師料のお支払いは「経理」「財務」が担当である。

以前に仕事をした学校で、講師料の支払いが遅れていたことがあった。総務部に問い合わせたら、講師のことなら、と学務部に回された。学務部で問い合わせたら、講師料のことなら担当セクションを呼び出せ、という。それはどこか、と聞くと、財務部経理課教務担当プロジェクトチーム第2グループ、というのがそのセクションだそうである。問い合わせたときに、交通費の支給についても聞こうとしたら、担当が違うので問い直すように言われた。それはどこか、と聞くと、財務部経理課教務担当プロジェクトチーム第4グループ、というのがそのセクションだそうである。
ずいぶんと多人数で組織化され、細分化された経理課だなあと思ったのだが、内部の人によると「隣の席」なのだそうだ。人によっては三つくらいの「グループ」を兼務しているようで、単に「セクション名が多い」だけのようである。これは能率的な事務組織なのだろうか。


大人の考えることは謎が多い。

2015年3月20日金曜日

行事

ぼちぼち勤務校も卒業式の季節である。そういえば、街中で袴姿で花束抱えた女の子がうろうろしていたりする。あちこちでそういうセレモニーがある季節である。

非常勤、というのは、単なる授業時だけのパートタイマーな人なので、学校の周年行事には関係がない。ことに勤務校のように、常勤の5倍ほどの非常勤がいる、という状況ではなおさらである。
同居人の勤務校では、卒業式や入学式のご案内が来る。そちらの学校では、非常勤があまり多くはないのだろう。勤務校でそのようなご案内が来て、まかり間違って非常勤全員が来たりしたら、かなりの席数が必要になってしまう。
同居人の勤務する短大からは、謝恩会のご招待も来る。こちらの方は学生数が少ないこともあって、アットホームな雰囲気の学校で、同居人は楽しみに出かけていたりする。勤務校では非常勤へのご案内はない。講師数が多すぎるという判断なのだろう、学生数の2/3ほどの講師数では、割が合わない、という計算なのかもしれない。いまどきの謝恩会とは「謝恩」ではなく、自分たちの「卒業記念パーティー」のようである。

周年行事も、学校それぞれである。

2015年3月17日火曜日

後味

締め切りぎりぎりに提出、というのは、人の性、なのかもしれない。粘り強く、ぎりぎりまで推敲を重ねている、というのがベストなのだろうが、この手合いの提出物は悲しいかな多くはない。

学生は、ほかの学生の動向をよく調べていたりする。傾向と対策を立てるのは、学生の性、である。どうも、提出物が締め切り間際に多い理由は、ぎりぎりで出せば情状酌量してくれる、という「伝説」があるらしい。ときどき、提出物に「お手紙付き」というのがあったりする。
「今年度の卒業に併せて教員試験を受験します。よろしくお願いします」。
つまり、提出課題がクリアできなければ、卒業見込みにならず、教員試験も受けられない、ということである。

提出物は残念ながら及第には満たない。締め切り間際ではなく、1ヶ月前に提出してくれれば、再提出が間に合ったのである。取得単位がぎりぎりではないことを期待して、再提出のはんこを押す。

年度末は、こういったケースがいくつかある。ルール通りに提出され、ルール通りに採点しているとはいえ、多少後味はよろしくない。これを教訓に、ぎりぎりではない人生を送ってもらいたいものである。

2015年3月16日月曜日

駆け込み

学校と言うのは4月始まり3月終わりである。
今年度、と言っても、3月末日までは2014年のうちである。
やっと今年度の提出作品の採点作業が終了した。一段落である。

年度内の提出期限が2月末日、それで合格点なら年度内にクリア、である。
美術系の学生さんだけとは言わないが、締め切り間際にどっと駆け込む、という人が多い。最終日に速達宅急便自分で持ち込むなどして、ぎりぎりの日程で提出される。ギャラリーの展覧会などでは最終日に合計来廊数の半数以上をかせぐことがあるそうだが、そんな様相で提出物が届けられる。

添削をしている学校の部屋には棚があって、授業ごとに提出物を分けて積んである。美術系の学校なので実技作品もやってくる。平面だけではなく、立体、という課題もある。私の担当ではないのだが、そういった課題の作品は段ボール箱に入ってく送られてくる。昨年までは必修の課題で立体物提出というのがあって、締め切り間際に段ボール箱が窓側に積まれていき、あれよあれよと言う間に窓が塞がってしまった。

作業室が薄暗くなってくると、年度末だなあ、という感じがしたものである。

2015年3月11日水曜日

4年

高速道路の途中、帰宅制限区域には、大きな袋に入って大きなシートで覆われたものが、更地に積んであるのが目につく。除染中というピンクや黄色ののぼりが並び、近くで重機が土を掘り起こしている。もうすぐ4年、それでもまだこんな状態であることが歯がゆかったりする。現地に住んでいた人の悔しさはいかばかりかと思う。こんなツケを他人にまわして生活すべきではない、と思う。

そんな避難区域を抜けると、道路の両脇は見渡す限りの田んぼの風景である。通っている道路が防波堤になったらしく、左手側は「普通」の風景だが、右手の海側は重機が入って工事中、あるいはここ数年田植えした様子がない場所が散見される。もともと地面が低いようで、用水路の水位が近い。東京に住んでいると、江東区あたりがそんな感じだろうか。

仙台から取って返して帰路は東北道経由、同居人の友達を白河に訪ねる。インターを降りたら、こちらにも「除染中」ののぼりがちらほら。友達宅も来週は「除染作業」が入るらしい。何をするのかと言えば、屋根を洗い、洗浄した水を回収、家の周囲の土を入れ替えるそうである。4年もたっていまさらだよねー、という話になった。4年間で何回の雨雪が降ったことか。その間にも、庭に草花を植え、ハーブを養っていた。

やっていることは無駄ではないのだろうが、なにかちょっと不思議な感じがした。

2015年3月10日火曜日

開通

同居人につきあって、先週末は仙台方面弾丸ドライブツアーとあいなった。

常磐道が開通した直後である。東北の震災で開通時期が延期になり、原発事故の影響でまたまた延期になっていた。

震災後に現地ツアー、という話もあったのだが、ちょっと辛そうな感じがして、東北方面にはなかなか足が向かなかった。折しも、高速開通、というので走ろうか、ということになった。こういう「開通直後ひとっぱしり」が好きな同居人である。

外環道からつくば経由で、常磐道に入る。放射線の線量の電光表示板があったりする。車の中にいれば、単なるドライブなので、エンコしたり、パンクしたりしなければいいけどなあ、くらいの会話だった。道路は途中から片道1車線。追い越しも出来ない、単なる「有料道路」である。その狭さが、工事の困難さを見せているような気がする。
途中には帰宅困難地域を通過する。それまでは「田植え前の田んぼのある農村風景」だったのに、いつのまにか草ぼうぼうの荒れ放題の田んぼや畑であったろう土地、人の気配のない農村、さびだらけの軽トラック、朽ちた農機具小屋、瓦屋根をおおう白いシート、立ち入り禁止の検問所が見えるようになる。比較的新しい家もあるのに、カーテンや雨戸がぴったり閉めてある。途中の電光掲示板の数字が跳ね上がる。

足尾銅山で廃村になった地域がある。写真集で見た風景が重なって見える。それまで「普通」に生活していたのに、ある日いきなり「ひと」だけがいなくなってしまった「痕跡」を見ているようだ。

こんな状態であるにもかかわらず、原発の再稼働など考えられない、と個人的には思う。

2015年3月3日火曜日

配布

1年生の授業では、コンピュータとソフトの扱い方を教えることから始める。
高校の情報の授業でワープロでレポート書きました、くらいでは、授業内の作業が出来ないからである。

授業の方は「CALL教室」ではないので、コンピュータはスタンドアローン、だから毎度テキストになる資料を配布する。ハウツー本を買ってね、ひとり4000円くらいだからね、と言ってしまえば楽なのだが、その後同じ機材とソフトで作業し続けるとは限らないのと、どのハウツー本も「帯に短したすきに長」いことが多いので、自作している。これがA4サイズで、2−30ページくらいのものになる。
事前に研究室でコピーしてもらっているのだが、ほかの授業ではもっと「豪華」なテキストを自作している人がいた。全面カラーコピー A4サイズ、50ページは優に越えている。すごい。印刷したら、と言ったら、とても駄目、ということだった。使っているソフトが、アップデートされたら、その時点で書き換える、授業進行上改善点を見つけたら即反映させる、というので、常に授業前日にコピーすることになるそうだ。

こういった資料配布には「電子書籍」あるいは「eBook」というスタイルは良いのではないかと感じることがある。即座に改訂版が配布できる、書き換えも出来る、何よりコピーと丁合とホチキス作業の手間と経費はかからなくなる。まあ現実問題としては、紙の書類をそのまま電子書籍に移行する、というわけにはいかないだろう。紙で配布すればいやでも見ることになるが、電子書籍だと見るのが「義務」にはならないような気がする。

電子書籍で、という場合は、配布する書類の形式と、それを閲覧するハードがある程度指定されないと難しいかもしれない。
今や学生さんは「コンピュータをあまり触らない世代」であるので、スマホで配信、というのが現実的かもしれない。そうなると、教科書としての見え方はずいぶんと工夫しなくてはならない。やっぱりそのまま移行するわけにはいかないので、ちょっと気合いを入れなくては、というところだろうか。

2015年3月2日月曜日

自力

学生さんも機材になれ、ソフトの扱い方に慣れてくると、自分でコンピュータを借りたりして作業を始める。バイトなどしてお金を貯めて、自分でコンピュータを買う学生も出てくる。

2年生の授業は、使用するコンピュータやソフトは学生に自由選択にさせている。出来上がった作品だけが勝負である。そうなると、使っている機材やソフトはかなりバラバラになってくるので、一堂に集めてソフトの使い方を実習する、ということはやらない。ある程度慣れてくると、自分の使いたい分野に特化した機材やソフト中心にラインナップが決まってくるからである。まあ本来、実習作業とはこうありたいものではある。

困るのは、私があまり使い慣れないソフトの取り扱いを教えてくれ、と言われることである。授業ではソフトの取り扱いは基本的に教えませんよー、自分でなんとかしなさーい、あるいは一緒にgoogle先生と探しましょう、と叫ぶのである。

2015年3月1日日曜日

提案

私の教えている研究室では、映像中心の授業が多い。いまや映像編集はコンピュータで作業する時代である。

しかし、困ったことに、映像を扱うファイルは一般的に「大きい」し、編集するソフトは「巨大」で「重たい」のである。ワープロでレポート書いたりするのとは、まったく訳が違う。
だからコンピュータも、ソフトも「最新」でなくてはならないし、機材は「メモリはできるだけ積んでおく」「コンピュータ本体も周辺機器のスペックもできるだけ高くする」のが普通である。

当然のように、機材もソフトも高額になるので、学生さんそれぞれ買ってください、などと言える値段ではない。全部ひっくるめると、5万どころか、桁が変わってしまう。もちろん機材を買いたい学生もいる。しかしソフトのセッティングなどは、全くの初心者には難しいことがある。

だから学生には、しばらく学校の機械で取り扱いに慣れておいた方がいい、というのが「ご提案」である。