2013年11月12日火曜日

前提

「良いおはなし」に感動するのは、人間の良心の琴線に、どこか触れるものがあるからだろう。
それが、実話かフィクションか、というのは、あまり違いはないかもしれない。
問題があるとすれば、「実話だから感動した」人が、それが「実話ではなかった」と知ったときのことである。感動の「前提」がなくなってしまうからだ。

さて翻って、インターネット上のあれこれ「感動的」なデマである。
実話だかフィクションだか分からない状態で流布をする。問題なのはここで、実話なのかフィクションなのか、ということが事前にきちんと知らされない。たいていの人は「実話」だと思い込みやすいようになっている。フィクションだと「感動」くらいで済むことが、実話だと「感動以上」になってしまうことがある。「一杯のかけそば」は、小説以上のヒットになった。歴史をひもとけば、プロパガンダというのはたいていがこういう手法を使う。「感動以上」は、時として「信仰」になったり「盲信」になったりする。

だから、「感動したからかまわない」というのでは済まないこともある。感動した、ことが重要ではなく、その元ネタのソースをきちんと把握することも、同様に大事である。

それは我々が、ナチスによるプロパガンダで学んだことではなかったのだろうか。

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