2016年6月28日火曜日

責任

そういうわけで、ここ数年は授業を地団駄踏みながらやっているので、こちらの健康上よろしくないような気がしている。毎日のように、教える側としては帰宅後傾向と対策を練り、改善策を探り、明日の教材の手直しをする。もちろん授業時間以外のペイはない。ボランティアなのか、習い性となっているのか、というところだろう。たいていの非常勤講師というのはこういった勤務状況ではないだろうか。好きでなければ続かない。
もちろん社会的にこれで良いのか、と言えば疑問が出てくる。明らかに非正規雇用者が大学の授業を支えている。勤務校も専任教員の2倍どころではない人数の非常勤講師がいる。非常勤の立場から言えば、授業実施の時間給をいただく単なる「パートタイマー」なので、大学としての授業を担保するどころの話ではなく、授業時間に出向き、授業をやる、授業時間以外のサービス残業も打ち合わせもなし、にしてほしいところである。そもそも、大学の学生は自発的に「責任」をもって学習することが前提だったから、この手の教え方でもやってこられた。教室に座っているだけの学生が増え、役所が大学教育のクオリティについていろいろとご希望をおっしゃるのだが、大学は設備投資に熱心である。

私などはすでにある程度トシもいっているし、学校以外のお仕事も多少はある。しかし、正直なところ、非常勤だけでは食ってはいくことはできない。組合も共済年金も退職金もない、年度契約だから来年度も雇用されるとは限らない。専業としては、かなり不安定な商売である。若い世代の非常勤だと、本人としては「責任持って学生の面倒を見る」前に、自分や家族の面倒を心配することになる。 

2016年6月27日月曜日

教室

今年度は、こういった「横並び」な学生が多い。
こういう場合は、得てして学生さんの気分は「高校生の延長」である。遅刻は少ないし、欠席も少ない。言ったことは当面きちんと作業をする。
反面、実習中に居眠り、授業中のスマホいじり、最近はTwitterでなくLINEでおしゃべり、授業中にこちらが伝えたことはアタマの中を素通り(こういうのを青函トンネル状態と言う)、授業の予習復習はあまりしない。教室には「いるだけ」になる。
どうなるかと言えば、同じことを何度も注意する、具体的な作業内容を伝えないと作業が出来ない、前日に伝えたことも反復できず健忘症状況になる。欠席が多くなった学生がやってきて心配するのは「単位は取れるのでしょうか」であり、自分の学習状況の進行具合ではない。

学生数に対して学校が多くなると、必然的に競争率が下がる。そのため、学生の質は必然的に落ちてくる。以前のような授業をやっていては学生はついてこられなくなっている。
今日では、学生に授業の参考図書を口頭で伝えてはだめなのである。参考図書を板書しても、参考図書のリストを配っても読まない。参考図書を強制的に買わせても読まない。必要箇所をコピーして配布し、授業中にみんなでつきあわせて声に出して読み合わせなくては読みこむことができない。
担当している授業では教材としてチャップリンの「移民」という映画を見せているのだが、時代背景を分かる学生はほとんどいない。物語が描いているのは「1400年頃」と言ってはばからない。どんどん授業は授業内容以外のことでフォローが増え、脱線する。結局以前よりも伝える内容が減る。

うーむこれで大学の授業内容を担保しろ、などという人の気が知れない。 

2016年6月26日日曜日

多様性

居住地域が首都圏、年齢がほぼ横並び、というクラス編成が多くなる。何がよろしくないか、と言えば、クラスのメンバーに多様性がなくなってしまうことだ。どうしても井の中の蛙、どんぐりの背比べ状態である。とてつもない苦学生と大金持ちは出現率が低いので、家庭環境も経済環境もほぼ横並び、考えていることもほぼ横並びである。中学校や高校のクラス構成とあまり変わらない。
こういったクラスで何が起きるか、と言えば「楽屋落ち」で終始することである。年齢がほぼ同じだと、遊んでいるビデオゲーム、流行している歌手の唄、熱中した漫画などが似通ってくる。彼らにとっての「共通認識」が、世界の全てのように思えているようだ。
一方、学校の外に出れば、同じ年齢、境遇の人間などごくわずかである。自分たちの共通認識が、他の世代や他の国の人に通じないことなどいくらでもある。そういった想像すら出来ないのが新入生、ということなのかもしれない。60を越えた教授に向かって、「ジョジョを知らないなんて」とハナで笑っていた学生がいた。教授から見れば学生は「ゲバゲバを知らない」のである。

海外の学校の講座などを見ていると、人種も年代もいろいろな人が混ざっていることが多い。最近だと萩本欽一が大学入学、ということがニュースになった。こういう多様性が多くなると、大学というのは人生開眼する場所になり得るのになあと思ったりする。

2016年6月25日土曜日

傾向

ここ10年ほどの傾向は、と言えば、ほぼ全員が現役で入学してくる学生になったことだ。
留学生は語学学校へ行ったりするので、1−3歳ほど年上になるが、日本人はほぼ9割が現役である。日本少子化による全入時代である。浪人していたと言っても1年ほどで、私の世代のように2浪3浪がごろごろ、というのはあり得ない。
ほぼ8割が首都圏出身者である。地方にさまざまな大学が新設され、美術をやろうと思ったら居住地域で美術系の学校が探せるようになった。美術や造形学部、でなくても、教育学部の美術系のコースが増えたりすることもある。しばらく前に流行ったのは、女子短期大学の家政学部が、4年制になり、共学になり、美術や造形系の専門コースを増設、というパターンである。そもそも家政学部には、インテリアやクラフトといったコースがあるところが多かったので、こういう流れになっている。
もうひとつは、美術学校の学費が以前より高額になってきたということもある。いまどきの美術学校は、建物も設備も新築でご立派、デザインなどの分野だとコンピュータが必須なので機材費がかかる。学費以外に施設費や機材充当費などもあり、こちらもかなりの金額になる。首都圏に出して下宿をさせると、月に10万近くが下宿代食費など生活費、その他もろもろで必要だ。実家から通うのなら学費は出そう、という家庭内会議があったことは想像に難くない。
もちろんこういう時代でなくとも、美術学校を卒業したので作家としてやっていける、などという保証などどこにもない。下手をすれば就職すら危なっかしい。大学が「就職予備校」だと思っているのであれば、教育学部の美術コースの方が、まだ安全に思えるはずだ。

そんな彼らにとっての「普通」、という認識が、実はクセモノである。

2016年6月24日金曜日

クラス編成

学校では実写による動画制作の基礎実習を担当している。初心者の考えることは常に新鮮である。
その一方で、常識と非常識、人間の認識と認知について考えさせられることも多い。

クラスは24名が基本だが、入学辞退者や中途退学、あるいは留年や休学復帰などがあって、プラスマイナス2名ほどになる。
ここ10年以上は女子学生が多く、基本的には7−8割が女子である。今年は少し男子が多いかな、といった感じでやっと3割である。
景気が悪いと男子学生は実学系で学び、手堅く就職コースをとる。就職状況が良ければ、大学院に残らず就職することが多くなる。修士課程は女子が多くなるが、ここ1−2年はほぼ留学生なクラス編成になっており、院生が集まると中国語と韓国語が飛び交い、日本語は少数派である。一瞬ここはどこのアジアの国かと思ってしまう。
通学課程、つまり通信教育ではないので、朝やってきて授業を受けて帰る、という日常を送る。彼らにとっては、それが「普通」な日々である。

2016年6月20日月曜日

お祭り

10日ほど前、週末は勤務校で「オープンキャンパス」というイベントがあった。いまどきの学生募集の販促活動である。受験志望者、つまりいつもは「学外関係者以外」を学内に入れて、学内を見てもらおう、というものである。

勤務校で始まったのは十数年前だと思うのだが、最初の頃は「普段の様子を見せる」ということで始まった。ところが年を追うごとにだんだんと様相が変わってきた。学生の作品展示、授業公開だけではなく、受験志望者対象のワークショップ、制作体験、入学試験合格者の作品展示、専任教員による受験相談会。学内はそれに向けて大掃除が行われる。植木屋がやたら丁寧に植木の世話をし、刈り込む。いつもは学内にごろごろしている学生の課題作品なども一掃、期限切れの壁に貼ってあるビラも一掃である。教室や廊下は展示会場となり、いつもと違う様相、とても授業どころの話ではない。普段学校にいる側からすれば、一大イベント、お祭り騒ぎである。

受験志望者はお祭り騒ぎを見に来るのだろうか。普段の授業の様子がこれ、と誤解しないと良いのだが。毎日がお祭り騒ぎだと思われたらどうするのだろうか。入学してから「オープンキャンパスな毎日ではない」ことでがっくり、意気消沈したりしないのだろうか。心配である。 

2016年6月12日日曜日

とある美術学校にこんな張り紙があったというのが、ネット上で話題になっていた。
「学長からのお願い 建物の裏で犬の首が発見されました。(中略)このような呪いの行為は学校で行うものではありません。本学では呪いの行為を禁止します」。
文面から見ると公示ではないようなので、学生のやったことなのだろうが。

そこは、同居人が週1回教えに行っている学校である。
同居人曰く、
「イノシシの首じゃないの?」。
裏手に山のある学校だそうなので、「イノシシ出没注意」という看板が学内にあるそうだ。

そういえば、その学校の移転前のキャンパスでは「マムシ出没注意」、保健室に血清常備、という噂もあった。

犬の首くらいじゃ、驚かない学校である。

2016年6月10日金曜日

ごあいさつ

放送業界では昼でも夜でも夜中でも、出会い頭は「おはようございます」という挨拶が定番だ、というのはよく知られた話である。終わりの挨拶はたいていどんな現場でも「お疲れさま」がベースである。

最近メディアで良く見かけるのは、「ご苦労さま」と「お疲れさま」の違いである。我々の世代だと、ハウツー本もなかったし、ネットで情報を集めたり確認したりすることはなかったので、現場で見よう見まねで挨拶を探すことから始まった。若造として現場に入れば、たいていは一番下っ端なので、最後の挨拶は「お疲れさまでした」、あるいは「お先に失礼します」である。上の人から返される挨拶は「お疲れさま」で、「でした」はない。もう少し上の人だと、たいていは「ご苦労さま」、そうではければ「はいはい」「はいよ」などという合いの手である。こんなもんなのだろうと、了見していた。
翻って、メディアで良く取り上げられるのは、現場のいちばん下っ端、私の場合で言えば学生から「ご苦労さま」と言われるようなことである。使い分けをしていた自分としては、確かに妙な気分になる。そんなわけで「使い方の違い」というコンテンツが出来上がる。
なぜなのか、と考えてみると、いまどきの学生さんは「オウム返し」なことが多いと思い当たる。
ずいぶん前からチームティーチングをしている同年代の相方から「先生」と呼ばれることが多くなった。最初は相手に対して教えた覚えもないのに「先生扱い」で面食らった。出来れば止めて欲しい、と言うと、そんなわけにはいかない、そうである。理由を聞くと、「先生」と呼ばないと、学生が同じようには呼ばないからですよ、と言うのである。相方を「ナントカさん」という呼称にしていると、学生が「ナントカさん」と呼ぶのだそうである。学生にとっては「ナントカさん」は同僚でもクラスメートでもなく「先生」なのだが、「先生」という呼称をつけない。オウム返し、というか、TPOがわからない、というか、学生もその相方も、なんとも子どもっぽい対応だなあと思った覚えがある。
「ご苦労さま」「お疲れさま」も同様で、相手から言われたのだからオウム返しにしているだけなのだろう。他の人の挨拶を見て、観察して、TPOを読み取って、自分が使う場合のケースを想定する、というステップを踏まない。違いを知らない、知ろうとしないので、使い分けも出来ない。

大学の授業だからご苦労さまとお疲れさまの違いを教えるのは、ちと守備範囲外ではないかとも思う。大学では「オウム返しでOK」な挨拶をするようにしなくてはならないのかもしれない。やはりここは「ごきげんよう」でシメるべきだろうか。何か違うような気もするが。 

2016年6月9日木曜日

チープ

学生さんの作品でこういった「嘘」が下手なのは、リアルな現象を再現しようとするからである。なまじ現実を知っている人物が見ると、一目瞭然で「嘘」なので、全体が信用できない、ということになる。
逆手に取ると、「チープ」な仕上がり、という作戦がある。メリエスの作品や、メトロポリスなどの古典的なSF映画は、現在見ると子どもっぽい舞台背景、CGもなく、特撮技術も無く、今よりもはるかに安っぽい見え方だ。しかしそれが今日も見ていられるのは、美術や舞台、衣装を見せているわけではないからだ。サイレントだから音声はなく、画像によって、テーマやコンセプト、作者のメッセージがきちんと伝わるつくりになっている。そういった「様式」や「スタイル」というのがある。ファッション業界で言う「チープシック」がいちばん近いかもしれない。
学生さんが見る今日的な映像では、どうしてもリアルさを追求する表現が多い。丹念に考証をして、お金をかけて道具をつくり、特殊撮影をして、CGで仕上げである。一方で古典と言われる作品をほとんど見ていないので、チープだが面白い、といった世界観を知らない。

上手く使えば、血糊のつもりのアクリル絵の具を塗りたくるなどという身体に良くないことをしなくとも、十分に表現出来るものなのに。 

2016年6月8日水曜日

では映像制作にとっての基本とは何か、と言えば、「映像は嘘つきである」。

多くの学生は、カメラを向ければ「真実を捉えることができる」と思っている。映像にとっての真実とは虚像の向こうにあるものだ。だからこそ、フィクションであるドラマに感動し、史実を再現したドラマに共感する。
それゆえに、現代であっても、古代ローマや江戸時代のドラマを制作することが出来る。しかし、丁寧に、しかも周到に嘘をつかなくてはいけない。水戸黄門が印籠を出す懐からスマホの着信音が聞こえたり、シーザーが丘の上に立っているその背景に鉄筋コンクリート、カーテンウォールの高層ビルが建っていてはいけない。

学生がやろうとしているのは「一番手前にある嘘」だけで、その奥に見える「嘘」はそのままほったらかしていることが多い。赤い絵の具を塗りたくって「血のつもり」、それで倒れているだけで「死体のつもり」。でも赤いのはあからさまに絵の具の顔料の気配がするので、血にも見えない、だから、死体にも見えなくなる、ということになる。 

2016年6月7日火曜日

なぞなぞ

映像制作超初心者が作業する授業である。こちらにとって、学生の反応はある意味ではプリミティブで新鮮である。多くの学生にとっては「映像は夢のような表現」であるようだ。たいていの学生は、今までに扱ったどのような表現よりも多くの情報を的確に、瞬時に伝えるもの、という認識がある。なぜか、と言えば、それまでの学校生活の中で、映像に関する基本的な学習をしてこなかったからである。自分がオーディエンスとして受け取っている印象が、その表現の特徴だと思ってしまうようだ。それはカメラと編集ソフトで出来ている、と思っている。だから、大学でその機材を触れば、自分の思うように表現が出来ると思っている。彼らが見てきたものは、プロ中のプロがつくっていたものであるにも関わらず、である。
すでに機材が低価格化し、スマホで動画が撮影できる時代である。中学高校時代に「映画をつくりました」などという学生もちらほらいる。中学高校の美術の教科書を見れば、映像制作の手引き、のような項目すらある。もっとも、基本的だと我々が思っていることとは少し違うアプローチではあるのだが。
ともあれ、学生がやろうとしていることは、日本語のたどたどしい小学校低学年の子どもが、俳句や短歌をつくる、あるいは小説を書こうとしていることと似ているような気がする。それらしいものは出来るのかもしれないが、基本的な文法を踏まえていないので、こちとら理解に苦しむ、という感じだ。だから、1年生の授業は、学生の作品の裏を読む、謎解きの様相である。

絵を描いたり、粘土で立体を作ったりするのとは、表現の方法論が違う。小学生に油絵の具を渡しただけでは、油絵は描けない。絵の具の使い方、表現できることや出来ないことを知らなければ、表現には至らない。 

2016年6月6日月曜日

禁じ手

学生にテーマを決めさせて制作をさせている実習である。撮影場所や機材、スケジュールなど、課題であるからそれなりの制約はある。ずいぶん以前に「一億円」のネタを書いた。まあ、そんな感じで、こちらの想定しない内容というのもそこそこ出ては来る。
今年最初に担当したクラスでは、なぜか「死にオチ」がブームである。痴話げんかの末衝動的に男を殴り殺す女、だとか、学内に悪霊がいてつぎつぎに学生を殺して回る、などという内容である。
私の頃は「死にオチ」「夢オチ」は禁じ手だった。どんな荒唐無稽なお話であっても、最後にチャラになる、あるいは途中がどんなにまずい構成になっていても、ドラマチックに見えてしまう、という卑怯な作戦だからである。
今年はさらに、血糊や絵の具を塗りたくり、床に赤い絵の具をぶちまけ、「死体演技」つきである。

うーむ、君たちはよほど他人を傷つけたいのか、自分で傷つきたいのか、どちらなのだろう。 

2016年6月1日水曜日

定番

映像系の実習授業を担当している。実習、なので、学生がそれぞれ作品制作をする。お題があって、それについてそれぞれが作品を制作するという、美術学校方式である。実習には「正解」はない。それぞれがじたばたしながら作品をつくる、ということになる。基本的には個人制作になる。授業はそれぞれのケースに応じて対応しながら実習指導する、というかたちである。会話をしていると、どうしても「サンプル」になるような事例を挙げることになる。
以前は「誰でも知っているような」テレビ番組やドラマ、映画があり、あんな感じの、という会話が成立した。ところがここ数年は、なかなかそういう会話にならなくなった。
インターネットが生活に入り込むようになり、アパートや下宿住まいの学生には新聞はもとより「テレビ」が必需品ではなくなった。
実家にもテレビがない、あるいは茶の間にあるのはインターネット接続のテレビ型のディスプレイだったりする。見ているのは、配信された映像番組、あるいは数多くあるケーブルテレビのチャンネルだったりする。視聴できるチャンネルや番組の分母が大きくなり、共通の番組を見る機会が減った、ということなのだろう。
我々の世代で言えば、「8時だョ!全員集合」が放送翌日の教室の話題だった。クラスのほぼ全員が見ていて、見ていないのが数名、話題に乗れなかった。今や既にそんなことはない。翌日教室で話題のテレビ番組などない。一方で、たくさんのDVDがレンタルでき、配信される映画もあるのに、見ている映画のバリエーションが少ない。彼らの世代、テレビで宣伝され、シネコンプレックスで配信され、話題になるハリウッド映画は見ているが、時代や制作された国が違えば見たこともない。親などの他の世代や人たちと、一緒に見る機会が無いのかもしれない。

おかげで、サンプルになるような作品を放課後に見ておいて、と言うことが増えた。それを見越して学校には映像のライブラリーをつくってもらい、たくさんの映像ソフトを集めてもらっている。ところが「見ておいて」と言ったものの、あまり見はしないようだ。ライブラリーでもっとも貸し出しの多いソフトは、ジブリ、ディズニーなどのアニメーション、制作年がごく最近の製作費がおそろしくかかったハリウッド映画だそうだ。サンプルとしてあげているのは古典、定番といったところなのだが。