時間を伴う実写動画では、記録を始めてから止めるまでの連続した時間を「shot」と言う。同じような意味で「cut」や「clip」も使われている。こちらの方はどちらかと言えば、フィルムの編集現場から出てきた「ことば」だと思うのだが、ショットの方は撮影現場で使ったのだろう。撮影することを「shooting」と言う。
映画史をやっているとさまざまな機械が開発され、淘汰されていったことがわかる。そのうちのひとつにE.J.Mareyの「Photographic Gun」がある。shotとかshootingの語源と思うにふさわしい「機械」である。
映像は様々な専門用語を使うが、バックボーンが違えば使う言葉も違う。それぞれに「いわく」や由来があったりする。技術が進歩して直接関係はなくなっても、それとは切り離されて使用され続けている。
http://destrier.hubpages.com/hub/cinematography
Photographic Gun, designed in 1882 by the cinematograph pioneer E. J. Marey. This took pictures at a rate of 12 per second.
翻って、現在は携帯電話やスマートフォンで手軽に撮影ができる時代である。街中では、どこにいてもレンズがこちらを向いて「shooting」しているような気がする。映像を教わっていたときに、「カメラは武器である」とよく言われた。写真銃のイメージは現在のカメラではないかもしれない。しかし、確かにレンズに狙われている気配は、「狩られている」印象に近いものがある。だからこそ、カメラを持つものは謙虚にならなくてはならない、と言われた。撮らせていただいている、ということを忘れ、単にshootingしているのは暴力である。それを忘れてはいけない。
そう言っていたのは、浦山桐郎である。亡くなって25年をとうに過ぎ、映像を巡る状況はずいぶんと変わった。しかし、映像を考えるとき、立ち返る基本である。
2013年7月31日水曜日
2013年7月30日火曜日
バリエーション
動画であれ静止画であれ、撮影するときには、まずどうやって撮ろうかということを考える。しょせんレンズと機械である。結局人間の視野や視界と同じように撮影はできない。
最終的に編集されることを考えて撮影しなければならない。前後のことを考えながら作業する必要があるので、三脚を立てやすいとか、ファインダーがのぞきやすい位置、という要因でカメラを設置することはあまりない。下手をすると地面に這いつくばり、壁の間に挟まったりしてカメラの位置を決めたりもする。決してカメラマンの都合で、構図は決まらない。
フィクションの場合は、たいていディレクターがカット割りを決めるので、編集を想定して構図を決める。ノンフィクションや記録映像の場合は、決まったシナリオがないので、もっとざっくばらんな注文になる。編集時に困らないように撮影をするのがカメラマンの仕事になってくるので、もう少し気を回さなくてはならない。ノンフィクションの場合は「捨てカット」「ロング」も一応押さえておかなくてはならない。ある程度余裕があれば、何通りかの構図のバリエーションを押さえておくことになる。シンポジウムなどの会場風景であれば、前後左右斜め4方で三脚の立てる位置は8カ所、ポジションを2-3通りずつ、アングルを2-3通りずつ、サイズを4通りずつ、で128通りくらいの構図のバリエーションはできる。全部押さえておけば、編集時にどれかが使えるはずだ。まあここまで多くなくともいいかもしれないが、少なくとも2-3通りでは編集で困ることがある。
スチルではうろうろと移動して撮影するし、ビデオだと2-3台のカメラで分担してフォローする。イベント撮影のようなものの方が、実は大変なのである。
2013年7月29日月曜日
正対
動画であれ静止画であれ、撮影するときには、まずどうやって撮ろうかということを考える。しょせんレンズと機械である。結局人間の視野や視界と同じように撮影はできない。
動画ではいくつかのショットをつなぐことになるので、「基準」になるショットをまず考えることが多い。例えば人物なら、1ショットで撮影するならいくつもの選択肢がある。同じ方向から見ても、サイズ、アングル、ポジションの組み合わせで、構図はそれぞれ変わってくる。選択肢が数多くあるので、まずは数多くの情報が伝えられる1ショットというのを考える。それが「基準」になるわけだ。それはたいていの場合「正対」の構図である。人物であれば顔を正面から、建物であれば正面ファサードが、「正対」である。必ずしも「かっこ良い」構図ではないかもしれないが、そこからカメラをどちらに振るのか、アングルはどうするのか、というバリエーションで構図を考える。
初心者は得てして「正面」からものを撮らないことが多い。目線が合うような作業は苦手なのだろう。どう撮影しても、斜(はす)から構えた構図になる。人物が斜めで、目線を外されたショットを重ねていくと、歯がゆい感じがすることがある。本人としては「クール」に作業しているつもりなのだろうが、どうしても「腰が引けている」ように見えてしまう。正対は、構図としてはあまりかっこ良くないかもしれないが、インパクトがある。被写体の訴求力がそのまま伝わることが多い。だから、何かを撮影するときには、その「正面」はどこか、ということをまず考えることだ。
動画ではいくつかのショットをつなぐことになるので、「基準」になるショットをまず考えることが多い。例えば人物なら、1ショットで撮影するならいくつもの選択肢がある。同じ方向から見ても、サイズ、アングル、ポジションの組み合わせで、構図はそれぞれ変わってくる。選択肢が数多くあるので、まずは数多くの情報が伝えられる1ショットというのを考える。それが「基準」になるわけだ。それはたいていの場合「正対」の構図である。人物であれば顔を正面から、建物であれば正面ファサードが、「正対」である。必ずしも「かっこ良い」構図ではないかもしれないが、そこからカメラをどちらに振るのか、アングルはどうするのか、というバリエーションで構図を考える。
初心者は得てして「正面」からものを撮らないことが多い。目線が合うような作業は苦手なのだろう。どう撮影しても、斜(はす)から構えた構図になる。人物が斜めで、目線を外されたショットを重ねていくと、歯がゆい感じがすることがある。本人としては「クール」に作業しているつもりなのだろうが、どうしても「腰が引けている」ように見えてしまう。正対は、構図としてはあまりかっこ良くないかもしれないが、インパクトがある。被写体の訴求力がそのまま伝わることが多い。だから、何かを撮影するときには、その「正面」はどこか、ということをまず考えることだ。
2013年7月24日水曜日
ものぐさ
動画であれ静止画であれ、撮影するときには、まずどうやって撮ろうかということを考える。しょせんレンズと機械である。結局人間の視野や視界と同じように撮影はできない。
たいていは編集を考えながら撮影をする。初心者の学生さんは、あまり考えないで撮影を始めてしまうので、まずカット割のルールとか、カットをつなぐ方法などをレクチャーする。それでも、なぜかやみくもに場当たり的に撮影を始めてしまう。
教室で撮影するなら、まず三脚を立ててカメラを設置する。なんでそこに三脚立てるの、と聞きたくなるような場所である。
結局、編集できない素材しか撮影できないので、次は絵コンテをつくるということをノルマにした。
カットのつながり、シーンの分け方などが、実際の構図で検討できる、というのがミソなのだが、たいていはマンガになってしまう。四角い枠があれば、という条件反射なのかもしれない。
コンテの段階で、シーンの分け方を考えないと、とか、エスタブリッシングショットがないよ、とか指摘をしておく。しかし、実際に撮影をすると、絵コンテ通りには撮らないのである。
結局、場当たり的な撮影になってしまう。コンテとは違う構図になっているよねえ、なんでそこに三脚立てるの、と聞くと、「立てやすかったから」という返事が返ってきたりするのである。
2013年7月22日月曜日
てんこ盛り
動画であれ静止画であれ、撮影するときには、まずどうやって撮ろうかということを考える。しょせんレンズと機械である。結局人間の視野や視界と同じように撮影はできない。
動画では前後の関係で選ぶ構図が決まってしまうことがある。撮影者の「好み」とか「感性」とか「センス」だけでは、数多いショットが積み重ねられていかないからだ。
まずカメラを渡して撮影してもらうと、初心者は編集を考えないで撮影することが多い。1カットの中に、すべての要素を詰め込もうとする。たとえば、シーンの状況やキャラクターの設定、これまでの展開など、てんこ盛りである。だから、フレーミングは二の次で、とにかく全部が一望できるような構図を選びがちである。ニーサイズや、ルーズなミディアムサイズで、役者がフレームインして、アクションする。アクションが終わるまで同じサイズで、カットを割らない。しかも役者のアクション以上の「意味」を盛り込む。例えば人物の性格や背景、心持ちや感情の「向かう先」であったりする。「俯き加減で歩く」のは「性格が暗い」けど、「ちょっと上目に前方を見る」のは「未来に希望を望んでいる」といったことだ。うーむ、気持ちは分かるのだが、1カットだけでそこまではちょっと無理。
動きを見せるために撮影したり、ある一連のアクションを見せる場合、それを1カットで納めようとするのは、人の本質的なものかもしれない。ジョルジュ・メリエスのフィルムとの相似点を見ているような気がする。
2013年7月19日金曜日
前後
動画であれ静止画であれ、撮影するときには、まずどうやって撮ろうかということを考える。しょせんレンズと機械である。結局人間の視野や視界と同じように撮影はできない。
構図を決めることを「フレーミング」と言う。主たる被写体を、構図の中にどのように納めるか、ということを考える。たいていの初心者は、ココロの赴くままにフレーミングをする傾向がある。彼らはそれを「感性」とか「センス」と称していたりする。
1枚の静止画であれば、それで済むこともあろうが、動画の場合は最終的に編集をすることになる。前後のカットとの関係が生じてくる。感性だけでは、その関係は解決できないことがある。
動画で撮影するということは、同時にいくつかの条件を考えながら撮影することでもある。
2013年7月14日日曜日
反射
動画であれ静止画であれ、撮影するときにはまずどうやって撮ろうかということを考える。しょせん、レンズと機械である。結局人間の視野や視界と同じようには撮影できない。
今の学生さん達は、生まれた時から親族がレンズを向けていて、運動会でも学芸会でも撮影の対象であった世代である。物心ついたときに手にした携帯電話やスマートフォンにはカメラ機能がもれなくついており、撮影してはSNSに投稿している。さっとスマホを出すのはすでに脊髄反射に近いものがあるのかもしれない。昼ご飯やおやつ、通学路で見たもの、学内の風景などぽちぽちと、タイムリーに情報として発信している。
先日彼らと話していて気になったのは、「記憶」と「記録」の違いだった。
共有機材や工房の使用は「現状復帰」が前提である。最初に、作業にかかる前の様子を良く覚えておくように、と注意すると、誰彼ともなくスマホで写真を撮る。
授業中の注意事項を板書すると、すすーっと寄ってくる学生がいて、スマホで撮影である。
時代が変わったんだなあ、こうすれば絶対現状復帰できるし、注意事項を何度も言ったり書き写しを間違えて失敗したりはしないよねえと感心する。
しかし、違うのである。写真をとっても現状復帰はできないし、板書を撮影した学生に同じ注意を何度もするはめになっている。写真を撮っても、有効活用できないのである。
写真を撮る、つまり、「記録」したことが、ストレートに頭に入っている訳ではない。記録を活用すべきときに、その記録を再利用できない。「記録」したことすらも、覚えていないのかもしれない。
彼らは「記録」はするのだが、「記憶」することはしないのかもしれない。
2013年7月13日土曜日
理由
三脚を使っているにもかかわらず撮影してきた絵が「斜め」になったり、手持ちで撮影している場合は、学生に「なぜこのように撮影してきたのか」と聞くことにしている。
理由がない、というのが存外多い。
フレームをあまり考えていない、ということでもある。
スマホ世代な彼らは、とにかくレンズを向ける、という習慣が身に付いているようだ。フィルム世代だと、ランニングコストも高く、プレイバックをすぐにはできないので、シャッターボタンを押す前にいろいろとあれこれ手順を踏むのである。「シャッターを押す価値」が低くなったなあ、とは思うが、逆にそれなりの「イージーな記録」が役に立つこともあるのだろう。
ただし、こういった撮影方法でつくられた作品は、よく言えば「荒削り」、悪く言えば「素人くさい」印象になることは否めない。
次に多いのは、「不安感を表現してみました」「心理的な恐怖を表してみました」的なお答えである。
確かに、床が斜めなら不安である。テーブルの上には滑り止め、食器は割れないようにプラスチック製を揃えて、室内には手すり、ベッドには転げ落ちるのを防止するための柵が必要になる。なんだ、クルージングボートの内部ではないか。とすると、クルージングボートは彼らにとっては不安だらけ、いや恐怖の乗り物、なのかもしれない。
さらに、手持ちでブレブレ、というのも「不安感を表現した」というのが多い。不安なのはカメラを持っている学生本人なのではないか、と思われるほどの震えようである。見ているこちらはむしろ、こんなに震えたり慌てなくてもいいのに、と同情しちゃったりするのである。
ここで考えなくてはならないことは、床が斜めであったり、ぶれた画像であったりすることに起因する不安と、物語に触発される不安というのは違うものである、ということだ。
2013年7月9日火曜日
枠
ラース・フォン・トリアーという映画監督がいる。全編手持ち、といった撮影の映画をする人である。
テレビドラマでステディカムを効果的に利用したのが「ER」というアメリカのドラマである。
ステディカムの方が機動性がよく、登場人物を人混みを縫うように追いかけることができたり、狭い場所に入り込めたりするような感覚を見せることができる。実際には、撮影現場はそれほど狭いわけではないだろうし、照明さんも音声さんもついていかなくてはならないはずだから、見ているほど自由度は高くないと思うが。
個人的にはまあそういった手法を利用したいという向きもあろうとは思うが、乗り物酔いになりそうで大きな画面で長時間鑑賞したくはない。
学生の作品では、ハンディカメラを使わせているせいもあるだろうが、多かれ少なかれ、かなりの頻度で手持ち撮影をする。目的もなく手持ちで撮影しているのは、単に三脚を使うのが面倒くさいからだ。三脚のセッティングをする暇に撮影できるということなのだろう。まあ、隕石が落ちてきた、とか、竜巻が目の前に、とかいう状況ならともかく、授業中にそのような火急な撮影があるとは考えにくい。こういうケースは単なる「面倒くさがり」なので、撮影された画像もそれなり、である。
人の目だけではなく、動物は動きの大きなものを追いかける性癖がある。犬や猫を飼っている人ならよく分かるだろう。「猫じゃらし」などはその利用例である。
手持ち撮影では、フレームの「枠」が最も大きな動きになってしまうことがある。動きの小さなもの、静止しているものを見せるのであればことさらである。オーディエンスは、動きの大きな「枠」に気を取られてしまいがちになり、フレームの「中」に意識が集中しなくなる。だから、手持ち撮影は、それなりにトレーニングされたカメラマンと計算された被写体の動きが必要になる。
2013年7月3日水曜日
移動
ホームムービーのお父さんが、がっつりとビデオ用の三脚で構えている、なんていうのはあまりお目にかからない。ホームビデオでは機動性がものを言うこともあるし、基本的に短いカットも多いし、我々としては「どうせ素人さんだし」と大目に見ることになっている。動画サイトの素人投稿動画は、中身が勝負なので、撮影の技術はあまり問われないし、問おうにも配信される画像のクオリティがあまり高くないので、そこまで突っ込む気にはならない。
プロの世界で言えば、ステディカムというそれなりなお値段の機材を使って移動撮影するのだが、この技術進歩はかなり凄い。はじめの頃は大リーグ養成ギブスみたい、というような装備だったが、最近はだいぶ軽量になった。ただし、プロとして作業するならそれなりの研修と練習は必要だ。
映像では撮影されたフレームの外は伝わらない。移動撮影でも、トラックレール敷いてるのか、ドリーで工夫しているのか、カメラマンはステディカムの達人なのか、分からなかったりする。だから、初心者の学生さんにとって「移動撮影」はすべからく「手持ち」な撮影になるのである。
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