2015年12月30日水曜日

話題

2015年、12月も終わりに近くなると、今年のニュース振り返り、というのが目につくようになる。美術、デザインの現場に近いところにいると、どうしても新国立競技場と五輪のエンブレム、という話題になった。
同居人は先の東京オリンピック時は小学生。学校総動員で甲州街道に並び聖火ランナーに旗を振り、競技を見に行き旗を振り、終了したら「東京オリンピック」記録映画を講堂で鑑賞したクチである。映画という場所に近いところにいると、「東京オリンピック」という記録映画もよく話題になるのだが、それは置いておく。
当時は10月に開催、だから10月10日は体育の日になった。これも最近はハッピーマンデーになったので、何のための祝日だったのかわかりにくくなった。それも置いておく。
そもそも夏季オリンピックを東京でやるか、などと家人とは話す。二六時中自宅ではエアコンが回り、熱中症注意報で「外出注意、屋外での激しい運動は避けましょう」という時期に、スポーツするのか、と考える。スポーツどころか、屋外の観戦すら、やりたくないところである。まあ、それも置いておく。
開催が決まったとたん、予定していた自宅の補修が延期になった。どうやらオリンピック建設ラッシュを見込んで、建材が急に不足し、人材が不足し、どんどん工事が押していく、という状況になったらしい。結局、春休みにやろうとしていた自宅工事が夏休みにずれ込んだ。まあ、時期はずれたが結局工事はできたので、それも置いておく。

置いておいたことはまた後で考えるとして、オリンピックってこういった不自由をかこつことだったのか、いう気がしてきた。もっとほかにすることがあるのではないか、という気がする2015年の暮れである。 

2015年12月29日火曜日

さて、同居人の履歴書を作っている理由である。
同居人は、カウンセリングを学んだので、資格がとれた。いわゆる「カウンセラー」な資格である。多様な人生経験と資格を生かすべく、第2、どころではなく、職歴の行数から言えば第8とか第9くらいの、さらなる人生を目指そう、というわけである。売り込みに履歴書は必須である。

さてさて、昨今の「学校問題」対策に、スクールカウンセリングを導入、と文科省が旗を振っている。学校教員が増員どころか削減されようとする今日この頃、各校にあまねくカウンセラーを配置、というわけにはいかない。考えられるのは、教育委員会が一括採用して、カウンセラーを派遣する、というスタイルだ。しかも、正規雇用ではなく、非常勤で、年間契約であったりする。
こういう「お役所」なところが人事採用するときには、資格や免許が必要になる。カウンセラー業界で一番ポピュラーなのは「臨床心理士」という資格である。勤務校も相談室には「臨床心理士がいます」というのが売りである。
同居人が持っている資格は「学校心理士」。学校現場に近寄った作業をするための資格である。比較的新しい資格で保有者もまだ少ない。…のだが、資格維持のための研修などけっこうハードルがきつい。臨床心理士は、学校関係専門というわけではないが、ポピュラーではある。カウンセラー=臨床心理士、という認識の壁が、意外に分厚いものだったりする。

まあそんなわけで、お仕事応募のための履歴書作成、に相成る。ただし、ポピュラーではない資格でもあり、当たってみては砕けている。どうもこういう業界はいろいろとややこしい。カウンセラー募集、とうたっていても、実際に応募してみると、どちらかといえば社会福祉士、つまりソーシャルワーカーとしての仕事が要求されていたりするらしい。仕事の細分化や分業化が進んでいる業界のようである。

そもそも資格自体もまたいろいろと変わるようだ。現場よりも制度が先、ということなのかもしれない。 

2015年12月28日月曜日

ご相談

同居人は10年ほど前になるが、社会人で大学院へ行った。専攻はカウンセリングである。

カウンセリング、といえば、アメリカの映画を見ているとやけに「カウンセリング」な場面が多い。映画では、「カウンセラー」が話を聞く、というスタイルである。どちらかと言えば医療行為に近いものが多い。日本ではあまりなじみがないが、アメリカではポピュラーなのかもしれない。

ここ10年ほどになるが、大学でも保健室の横に「学生相談室」というのができた。開設されたときの回覧では、学生生活の悩みをいろいろと聞きます、といった趣旨だった。よろず相談窓口、という感じである。週に数回カウンセラーが来て、あとは専任の先生が何名か「担当教員」として名前が並んでいた。
カウンセラーはわかるが、専任の先生にお悩みを聞いてもらうのはいかがなものかと思った。担当として並んでいるT先生に、「授業が難しくてついていけなくて悩んでいます」などと言おうものなら、笑い飛ばされて「努力が足りない」と檄を飛ばされそうである。かえって落ち込みそうだ。 

2015年12月26日土曜日

行数

必要があって同居人の履歴書をまとめることが何度かある。同居人はあちこちと転職をしている。正規雇用だけではなく、非常勤など含めると両手の指では足りない。文房具屋さんで売っているような規定の履歴書では職歴欄の行数が足りない。人生波瀾万丈な状態である。保有資格欄も行数が足りない。免状好きである。

日本社会というのは、学校を出てからブランクなし、新卒で終身雇用が前提のようなところがある。翻って考えれば、実家の父親など、学歴欄は高校大学で2行、職歴一つ、保有免許も普通車運転免許くらいのものである。あっさりシンプルな仕上がりである。

同居人の方は規定の履歴書用紙では無理な行数なので、結局パソコンで自作になる。
できあがった履歴書を人事採用する側から見ると、こういった「職歴が多い」のを、「汚い」というのだそうである。ステップアップで転職したのか、素行不良で退職せざるを得なかったのか、履歴書だけではわからない。無難な人事採用者は、こういうのを最初に「はねる」そうだ。

だから学生の就職活動は終身雇用目指して必死なのである。学歴欄や職歴欄の行数が多い「多様な人生経験」は、日本社会では必要ないのかもしれない。

2015年12月25日金曜日

選択

そんなわけで、同じ学年の実技授業の担当者はすべからく、学生を落とさないように気を遣うことになる。遅刻するな、欠席するな、提出物は耳をそろえて出せ、などという、とうてい大学とは思えないような警告を常時発することになる。

寝坊して遅刻ばかりで授業に出ない、というのは本人の責任である。それで単位が取れない、というのが人生としての「授業」ではないかと思う。
授業が面白くないから出ない、という選択もあってしかるべきだろうと思う。意図的に単位を落とす、という作戦もありだろう。
逆に現在の勤務校では、そういう選択があまりできないようだ。落とした後のフォローを、学校側が対応しきれない、ということである。実技中心の大学なので、学年ごとのカリキュラムがかなりタイトに組まれている。スケジューリングには使用する教室や工房、機材、担当講師やインストラクターなどさまざまな要因がある。さまざまな意味で「余裕はない」のだろう。入学した学生を、大学のスタッフがよってたかって尻をたたいて、単位を取得させ、卒業させているようだ。

人生半ばになってから、こういった大学生活が裏目に出ないといいけど、と思う師走である。

2015年12月24日木曜日

対策

大学の教務課の方からは、なるべく落第を出さないように、という無言のプレッシャーが漂ってくる。だからこそ、保留ちゃんを出さないように、授業中にもしつこく確認する。

大学では単位が取れないのは、たいてい本人による当然の報いである。大学時代に痛い思いをしておかなければどうする、という気もする。人に尻をたたかれて提出するのではなく、単位を落としてからどう「落とし前をつけるか」は自分で考えるべきだ。我々の時代であれば、先生に交渉して独自に落とし前をつける、というのはよくある話だった。追加課題は別として、授業のお手伝い、事務所で雑用係1ヶ月というのも聞いたことがある。
だから「勤務先で集金した現金を電車に忘れたので100万円都合してくれ」などという「オレオレ詐欺」が横行するのである。電車に忘れたのなら親に泣きつく前に自分で対策を考える、くらいのことは、大学時代に痛い思いをしたのであれば気づきそうなものである。自分の息子にそれができない、と親の方がわかっているから現金を用意してしまうのである。悪循環だなあと思う。

教務課からのプレッシャーは、ある意味では経営的なものなのかもしれない。落第が多くなれば、入学志願者が減るからだ。しかし一方で、単位乱発な大学は信用されないとも思う。これも悪循環である。 

2015年12月23日水曜日

保留

さて、くだんの「保留」ちゃんである。

ことほどさように、授業を落としてしまうと、最終的には卒業に響く。もちろん、卒業など関係ない、という強者もいる。しかしたいていの場合は、卒業して就職、というのが目の前にぶら下がっている「ニンジン」である。落としてから気づいても遅すぎるので、授業時にもしつこく出席日数や提出物の確認をする。

それでも落としてしまった学生がいる場合、前述のように、大学の規定通り「再履修」という状態にはならない。だから、別メニューや別課題、自宅作業などエキストラで考えてやらなくてはならない。実技が伴うので、「参考図書を読んでレポート書いて」などというわけにはいかない。だから、落ちてしまう学生がいると、こっちの方が面倒、という実情もある。
だから、研究室のスタッフに手を変え品を変え、保留中の学生のフォローをお願いする。提出物が不足なら追加提出、出席日数が不足なら追加課題を出して、とにかく年度内に単位を出す、という作戦になる。

今年の「保留」ちゃんにも、目下研究室のスタッフが強力にフォロー中である。 

2015年12月22日火曜日

再履修

さて、くだんの「保留」ちゃんである。

たいてい毎年数名は、なにがしかの「採点要項」が不足する。ノートの提出がなかったり、作品が提出条件を満たしていなかったりする。シラバスにうたっている以上、課題違反や未提出は認められない。冷静に考えると、採点基準に満たないので、「対象外」、つまり点数が入らない。
冷静に落としてしまうと、学生は単位が取れない。そうなると「再履修」ということになる。これは敗者復活戦のようなもので、同じ授業にもう一度チャレンジ、という制度である。ところが勤務校の場合、実技授業でこれはけっこう面倒である。

勤務校では、1,3年の実技授業が午前中、2,4年の実技授業が午後に設定されている。1年生の実技授業を落としたら、再履修するのは3年生の期間になる。ところが3年生の実技授業のスケジュールは1年生の実技授業のスケジュールと同じようには組まれていない。たとえば私の授業は10月の3週間月曜日から土曜日の毎日午前中である。ところが3年生の実技授業で後期に週3日の必須授業が組まれていたりする。当然のように、再履修すべき授業には週3日しか出席できない。出席日数が2/3で課題提出の条件なので、半分なら当然のように課題提出の権利をとることができない。明らかに「対象外」である。4年では授業には参加できないので、一生単位は取得できない。私の授業は選択必修授業なので、この単位がなければ卒業の要件を満たせず、卒業できない、という仕組みである。

勤務校の実技授業は、なぜか基本的に「落とす」ことを前提にしていない。なぜなのか、謎である。 

2015年12月21日月曜日

師走

先生が走る、という年末である。
私の場合は、実家の父が銀行勤めで貸付担当が長く、家訓は「お年玉は即貯金、常日頃から借金なし」である。「いつもにこにこ現金払い」な習性に育てられたので、いわゆる「師走」の語源とは縁がない。

さて、12月になって年度内の残務整理、総勢150名ほどの採点もほぼ終了である。ほぼ、というのは、採点保留にしている学生が毎年数名出現するからである。今年度は1名が「保留中」である。
シラバスと授業開始時のプリントには、必ず採点や評価の基準を明文化することになっている。私の授業の場合は、授業の成果物としての作品、制作経過プロセスを記述したノート、プロジェクトを終了した後の反省を踏まえて今後同様の作業をする場合の改善案の提示、それに出席と授業時の態度くらいがワンセットである。実技授業なので、ペーパーテストはない。だから、授業を進めながら、各自の目標をそれとなく探って、それに対する到達度を考えながら、「総合評価」することになる。やればできるはずなのに、自分に対して甘すぎ、妥協点が低すぎる、などというケースはよろしくないので、辛い点数になる。一方で、スキルはないが努力型、あるいは最初に設定したゴールが身の程知らずの高いもので当たって見事に砕け散るようなケースは、私的には評価を高くしている。見栄がよかったり、かっこのよかったりする成果物としての作品であっても、それだけを評価しているのが授業ではない、ということにしている。

出席不足で授業態度はよろしくないし、他人とも協調性はないが、作品だけはオッケーなケースも、時々ある。ほかの授業では、結果オーライ、ということもあるが、私の授業ではNGである。だからけっこうそれなりに、採点はいろいろと考察する点が多く大変なのである。