2017年10月11日水曜日

多数

小学校なんかの学級会で、何か決めごとをするときは、たいてい「多数決」だった。これに賛成の人は手を挙げてください、というやつだ。ことによると、それが「民主主義」だと教え込まれたような気がする。学級委員長、遠足で持参するおやつの金額の上限、中学校に入ると更にあれやこれやとクラスで決めることが多くなる。クラス委員、当番、部活、朝の自習の科目、普段の服装やら持ち物やら、挙手をしてください、である。
長じて美術という畑に片足を突っ込んで感じるようになったのは、多数決で決めるのはいかがなものか、ということだった。
確かに多数決、というルールがあれば、決められる「議案」というのはある。しかしそれは「正しいこと」とは限らないことがある。
授業の課題でグループ制作をやるときに、「多数決」によって、制作作品について決めるチームが、必ず出現する。4人編成のチームだと、やりたい人が3人いれば、そちらに「即決」してしまう場面を、よく目撃する。たいてい反対に回った学生が「だんまり」を決め込んでしまう。大人から見ると、それは他の人にはないユニークな視点だったり、ものの見方だったりする。「大多数の意見」はたいてい、無難で、ベタ、ステレオタイプで面白くなかったりすることが多い。
学級会の「賛成の人は手を挙げて」作戦だと、決をとっておしまいである。反対者がいたとしても「黙殺」されてしまう。しかし、「反対」者にも意見はある。「多数」な側は、それをきちんと理解しなくてはならない。ことによると、少ない「反対」側の意見が、「正しい」こともあるからだ。
「12人の怒れる男」という映画がある。主演はヘンリー・フォンダで、もとは舞台の戯曲である。舞台劇らしく、陪審員室のやりとりが、映画では大きな部分を占める。被告に対して大多数が有罪と言っているのに対し、無罪を主張している人がいる。判決は全員一致でなくてはならない。「大多数」派は、面倒くさいと言いながら、「無罪」の根拠を聞いていく。根拠を知るにつれ、陪審員の意見が、ひとり、ふたりと、無罪に転じていく。
「映像の作り方」を教えるときに、これをサンプルにするのは、陪審員室の動線の扱い方だったりするのだが、久し振りに見直しながら、今日の政治情勢を考えてしまった。「数が正義」とでも言わんばかりの解散、所属政党の旗色が悪くなると「数」を頼りに離党したり政党替えしたりする政治家。なんか、ひたすら多数決をとっているだけで、政治を回そうとしているかのようだ。それは「正しい」ことなのだろうか。

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