反例だなあと思うのだが、授業ではやはりプリントを配布してしまう。大学の授業では、ある意味「アリバイ」になるからだ。一応伝えたもんね、という証拠である。
参考図書をシラバスで挙げてあっても、事前にそれを読んでくる学生はほとんどいない。熟読してくる学生など勤務校では皆無だ。だから、参考図書を読んである、という前提の授業は成立しない。
もちろん、授業時間内で提示した図書も読むべくもない。結局、必要なところを抜き書きしてプリントして、一緒に読む、という羽目になる。
授業で伝えたことも馬耳東風、だから板書するのだが、これもノートを取らない。最近の学生さんは、板書をスマホで撮影しておしまいである。いやいや板書はサマリーとかキーワードしか書かないから、それだけ撮影しても意味が分からないのではないか。それをおうちに帰って復習するのだろうか。撮影したら安心してしまうらしく、たいていは「先週の授業で伝えたんだが」「板書もしておいたんだが」などと言いながら、また再三説明する羽目になる。
結局、あれこれとフォローしない方が、自主的に学習するようになるのではないだろうかと考えたりもする。しかし、そうするようになったのは、学生自身の「学習方法」が変化してしまったからなのではないか、とも思うこの頃である。
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