2016年9月9日金曜日

写実的

ここ1−2年で増えてきたのは、実技講座で何かを描くときに、スマホで画像を検索して、それを見ながら描くことだ。
カメラオブスクーラやカメラルシーダの時代から、それは穴の向こうを「描く」ための補助道具、であったわけだ。
しかし、一昔前の美術学生だと、ひたすら「デッサン」という人生修行のような課題をこなすことを要求された。写真があるのに、である。大学に入って、デッサンの授業で言われたことは「ひたすら視る」ことだった。モチーフの裏に回ったり、触ってみたりすることもやった。人体デッサンは、生身のモデルさんである。絵を描く、ということは、そこにあるものを「映す」ことでも「写す」ことでもない。
大学に民俗学の研究室があるのだが、そこの収集資料は写真ではなく、ドローイングで整理されているものがある。写真よりも、ドローイングの方がよく分かるものがあるのだそうだ。

小さな画用紙に「トマト」を描くために、スマホをすりすりしている参加者を見た。写真通りの「トマト」を描きたいのだろうが、記憶の中の「トマト」でもいいのになあ、と思う。それは価値観の違いかもしれないが、「ほんものそっくり」なのが良いことなのかどうか、わからない。 

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