2016年9月10日土曜日

記憶

トマトを画像検索していた人は、日頃トマトなど「記憶」していないのだろう。赤くて丸いもの、くらいにしか記憶していないので、「トマト」らしく見える「特徴」を把握していないわけだ。
その一方で、「ほんものそっくり」に描くことに、価値がありすぎはしないか、とも思う。多少デッサンが狂っていても、思い入れや情熱は絵に込められてしまうからだ。「ほんものそっくり」なのが「いい絵」なのだろうか。だとすれば、モディリアーニや奈良美智の絵は「よろしくない」のだろうか。
「本物そっくり」なのが「いい」ということが、「一般論」なんだと言われれば、それまでなのかもしれないが。


翻って、「本物そっくり」なのが「いい」ということは、どこで刷り込まれたのだろうか。つい先日新聞で読んだ「デジタル教科書導入」についての識者の文章を思い出す。東京23区内の「教委指導室長」の文章である。彼はタブレット導入賛成派で、その理由をいくつか書いているのだが、そのうちのひとつにこんな文章があった。「例えば、美術の時間に校庭の植物を撮影して、教室で画像を拡大しながらスケッチさせることもできる。」。
スマホでトマト検索と同程度である。校庭の植物を「視る」のではなく、「撮影」である。それは「美術」ではないし、理科の「観察」日記、にもならない。ちょっと悲しかった。

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